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  3. カワイルカさんのレビュー一覧

カワイルカさんのレビュー一覧

投稿者:カワイルカ

44 件中 16 件~ 30 件を表示

紙の本

紙の本運命の日 上

2008/09/28 10:41

娯楽性と文学性を兼ね備えた歴史小説の傑作

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 五年ぶりとなるデニス・ルイヘンの新作は、ボストン市警のストライキを扱った歴史小説である。暗くて地味な素材を面白い読み物に仕上げただけでなく、文学性の高さにも驚かされる。スタインベックの『怒りの葡萄』や『エデンの東』のようなスケールの大きさを感させじる傑作である。ルイヘンはエンターテインメントと純文学という垣根を軽軽と越えている。
 
 物語の舞台は、第一次世界大戦末期の1918年から終戦直後の1919年までのボストン。その頃、アメリカではロシア革命の影響を受けて、社会主義者、共産主義者、アナーキストなどがさかんに活動し、テロも頻発していた。その一方で、それを取り締まる側の警官も、低賃金と過酷な労働条件に苦しんでいた。
 主人公は、有能な警部を父に持つボストン市警の巡査ダニー・コグリン。ダニーは急進派グループに潜入してその動きを探るよう命じられるが、その一方で、警官の会合の様子を探る内に彼らに共感し、組合活動に参加するようになる。組合はストには消極的だったが、警察当局との交渉が難航しストに追い込まれていく。

 ストライキに至る過程がスリリングで面白いだけでなく、生き生きと描かれた登場人物も魅力的である。ダニーは警部の息子なのに出世に興味がない変わり者で、周囲の目を気にすることもなく黒人とも対等につき合う。組合の活動や結婚相手をめぐり父親とは対立するが、お互いに深いところでは理解している。父のトマスはダニーが自分の思い通りにならないことを理解しているが、息子たちの中で最も彼を愛している。この父子に共感する人は多いだろう。
 もう一人の主人公は黒人の元野球選手、ルーサー・ローレンス。物語の冒頭のベーブ・ルースたち大リーガーとの野球の試合で、ルーサーたち黒人チームは白人の不正な判定によって負けてしまう。このエピソードは、当時の黒人たちの置かれた状況をよくあらわしている。ベーブ・ルースはこの後も物語の要所で印象的な役割を果たす。
 この後ボストンにたどり着いたルーサーは、ダニーとノラ(ダニーの恋人)の親友になるが、ダニーやノラのような白人は例外的である。黒人と白人が一緒に歩いているだけで周囲からは白い目で見られるのだ。ルーサーはノラと一緒に歩くとき、彼女の使用人に見られるように一歩下がって歩いたりする。当時は、ルーサーの過去を執拗に探り出すマッケンナ警部補のような、黒人嫌いの白人が多数派だったのだろう。

 この作品に描かれた警官は労働運動を取り締まる権力の側の人間であり、同時に労働者でもある。ダニーはその間で悩むが、やがて労働運動に身を投じることになる。ダニーの父は過酷な労働条件に置かれた警官を理解しながらも権力の側に身を置かざるをえない。また、マッケンナ警部補は権力を使って黒人を差別しようとする。しかもダニーの父とマッケンナは、元はといえば貧しいアイルランド移民なのだ。この作品に描かれたことは、単純に善悪で分けられる話でない。
 作者はこれらの物語にダニーと父の対立、ルーサーとの友情、ダニーとノラの恋愛を描くことによって普遍性を持たせている。これだけいろいろな読み方のできる小説もめずらしい。これはルヘインのベストの作品であるだけでなく、ハードボイルド作家という枠を越えた作品でもある。ハードボイルド・ファンだけでなく、もっと幅広い読者に受け入れられる作品だと思う。

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紙の本

紙の本追伸

2007/10/03 21:38

手紙でしか伝えられないこと……真保裕一著『追伸』

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

全編が手紙という古風な構成だが、むしろそれが新鮮に感じられた。四人の手紙からはそれぞれの思いがストレートに伝わってくる。

 物語はギリシャへ赴任した夫・悟への妻・奈美子からの手紙ではじまる。奈美子は一方的に離婚を切り出すが、納得できない悟は同封されていた離婚届を送り返す。当惑する悟に対して、奈美子から祖父母の間で交わされた手紙のコピーが送られてくる。それは約50年前、祖母が殺人の容疑で逮捕されたときに交わされた手紙だった。祖父は無実の罪で逮捕された祖母を救おうとするが、祖母は真実を語ろうとはしない。事件には男女関係がからんでいたからだ。祖父母の関係は悟と奈美子の関係と重なる。

 奈美子と悟の手紙からは、離婚を決意した奈美子とまだ未練がある悟の気持ちが文体からも読みとれる。ふたりの距離感が感じられるが、手紙だからこそ伝えられたこともある。電話やメールではこれほど真摯に語り合えなかっただろう。
 祖母と祖父の場合はもっと切迫している。祖母が面会を拒否しているために祖父は手紙をを書くしかない。愚直なまでの祖父の誠実さと、それに応えられない祖母の苦しみが、読む者の心を打つ。
 祖父母の手紙はこれだけで一編の小説になると思うが、孫夫婦の手紙と組み合わされたことで作品に奥行きが出ている。二組の夫婦の話は不思議なほど違和感ない。
 この作品を一言で言うのは難しい。ひとつのジャンルに納まりきらないのだ。離婚を扱っているのに恋愛小説のようにも読める。テーマや表現力からいえば、ミステリというより文芸作品に近い感じがする。夫婦の感情のすれ違いというテーマを手紙だけで描ききった作者の筆力は相当なものである。この作品の魅力ががジャンルを越えたところにあるのは間違いない。

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紙の本

紙の本カブールの燕たち

2007/05/07 10:06

カブールに希望はあるか?

7人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書はイスラム原理主義を描いた三部作の一作目(二作目の『テロル』も同じ出版社から邦訳が出ている)である。日本人には馴染みの薄いタリバン支配下のカブールを舞台にしているが、二組の夫婦を中心に物語が展開するので抵抗なく物語に入れた。
 カブールではサッカー、テレビ、音楽などいっさいの娯楽が禁止されており、男は顎髭を生やすこと、女性は外出する際には全身を覆うチャドリを着用することが義務づけられている。女性は教育を受けたり外で働くことも禁止されている。
 主人公のアティクは死刑囚を収容する拘置所の臨時雇いの看守で、妻のムラサトは不治の病に冒されている。友人からは離縁を勧められるが、妻を見捨てることができないでいる。彼女には戦争で重傷を負ったときに救ってもらった借りがあるのだ。ムラサトは夫が自分を愛していないことを知っており、彼に負担をかけていることを心苦しく思っている。
 もう一組のモフセンとズナイラの夫婦は、ふたりとも上流階級出身で教養もあるが、財産と仕事、それに家族や友人も失ってしまった。モフセンは美しい妻を愛し、ズナイラも夫を信頼していた。だが、公開処刑を見て、興奮した群衆と一緒になって死刑囚に石を投げたことを妻に告白してから二人の関係がぎくしゃくしてくる。そんなある日、二人が口論となり、ズナイラはふとした弾みでモフセンを殺してしまう。死刑囚として拘置所に入ってきたズナイラを見たアティクは彼女に一目惚れする。アティクは彼女を逃がそうとするがうまくいかない。悩んでいる彼に、妻が驚くべき提案をするのだが……。
 カブールという極限状況の下で夫婦の愛が壊れ、同じ状況の下で恋が生まれる。ズナイラは彼女を救おうとするアティクに「わたしたちはみんな殺されたのよ。もう思い出せないほどずっと昔に」と言う。タリバンに支配されてから、彼女の神経は麻痺し、夫の価値がわからなくなっていたのだ。一方、いつもしかめ面をしていたアティクは、ズナイラに会ってからは別人のように感情が豊かになる。彼の中に残っていた「人間性の光」がズナイラによって呼び覚まされたのだ。
 作品に描かれたカブールはリアルで臨場感がある。作者はカブールには行ったことがないということだが、アルジェリアでイスラム原理主義者のテロを見てきた経験が生きているのだろう。それだけに切実さが感じられた。人間の生と死について考えさせられる作品だった。これだけの内容をこの短い小説で表現したのは大変な力量だと思う。二作目の『テロル』も、極限状況の下での夫婦愛がテーマになっている点は共通している。どちらを先に読んでもかまわないが、一冊読めばもう一冊も読みたくなるのは確かだ。

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紙の本

紙の本トマシーナ

2005/06/20 11:37

父親はつらいよ

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

ポール・ギャリコの猫物といえば『ジェニィ』が思い浮かぶが、こちらは同じ猫物といっても父子の危機をテーマにした現実に起こりうる話である。これを生真面目なリアリズムではなくて、ファンタジーにしてしまうところがすごい。三人称の語りとトマシーナを語り手にした一人称の語りを使い分けているのは効果的だし、人物描写や終盤のハラハラドキドキさせる展開なども、さすがにポール・ギャリコと思わせる上手さだ。
スコットランドの片田舎で獣医師をしているマクデューイは妻を病気で亡くし、生き甲斐は幼い娘メアリ・ルーだけ。そんな彼は、メアリー・ルーが可愛がっていた牝猫のトマシーナが病気になったとき、あっさりと安楽死を選択してしまう。それ以来父親とに心を閉ざし病んでいく娘にマクデューイは心を痛めるが、手のうちようがない。ひょんなことから魔女と呼ばれているローリという娘に出会ったことから、頑なな父親の心が変化していく。
マクデューイ氏は「誠実で、率直で、公正な人間」だということは誰もが認めるところだが、決して町の人々から良く思われているわけではない。もともと医者になりたかったので獣医の仕事に満足しているわけではないし、動物に愛情も持っていない。その上無神論者で頑固者ときている。たった一人の友人であるペディ牧師は優しくてマクデューイ氏とは対照的な性格だ。ふたりは仲がいいはずなのに、話し始めるといつも口論になるところがおかしい。
トマシーナを安楽死させメアリ・ルーが口をきかなくなってから、マクデューイ氏はトマシーナに嫉妬していたのではないかと自問するが、すでに遅すぎる。親が子供を気がつかないで傷つけてしまうのは良くあることだが、マクデューイ氏は娘を決定的に傷つけてしまったのだ。親友のペディ牧師はマクデューイ氏に頼まれて、メアリ・ルーと会うことになるが、彼女があまりにも深く傷ついているのに衝撃を受ける。この場面は小さなメアリ・ルーが傷ついている様子が目に見えるようで、読んでいてもかわいそうでならない。やがてうわさが広まり、診療所に動物を連れてくる人々も少なくなる。自業自得といってしまえばそれまでだが、マクデューイ氏の苦悩する姿を見ていると、かわいそうになってくる。
そんな彼がローリと出会い、彼女を愛するようになる。頑なな中年男性が、若い女性に感化されてやさしさを取り戻すところは『ジェーン・エア』のロチェスター氏を思わせる。これは父と娘の物語であると同時に恋愛小説としても読める。面白くて心に残る作品は少ないが、これはそういう数少ない作品のひとつだ。
Dolphin Kick 2005

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紙の本

紙の本サラの鍵

2010/11/23 11:06

ホロコーストは単なる過去の出来事ではない。それは現代に生きる我々の生き方にも関わってくる

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ホロコーストを扱った作品ということで内容が重すぎるのでは、と読むのをためらったが、読みはじめるととまらない。この内容で面白いといったら不謹慎かもしれないが、とにかくストーリーテリングが上手いし、深いところで読者の心を捕らえてはなさない。この本を見逃したら後悔するところだった。 

 この作品はヴィシー政権下の1942年と現代のパリを主な舞台にし、前半は過去と現代の物語が交互に語られる。
 1942年は、パリでフランス警察によるユダヤ人の一斉検挙が行われた年である。このとき検挙された13,000人を越えるユダヤ人は、いったん自転車競技場に集められ、やがて強制収容所に送られることになる。主人公のサラとその両親もこのとき検挙されるのだが、その直前に彼女は幼い弟を納戸に隠し鍵をかける。サラはあとで戻って来て弟を助けられると思っていたのだ。
 十歳のサラは、はじめはなぜ検挙されたということが理解できない。だが、競技場で人間としての尊厳を奪われた大人達を見ているうちに、徐々に自分のおかれた状況を理解するようになる。この過酷な状況の中の子供たちの描写がリアルで恐ろしい。
 もう一人の主人公、ジュリアは四十五歳のアメリカ人で、パリでアメリカ人向けの雑誌の編集者をしている。雑誌の特集記事を書くために六十年前のユダヤ人の一斉検挙について取材することになった彼女は、ひょんなことから、フランス人の夫の家族(テザック家)とサラの関係を知る。
 フランス警察によるユダヤ人の一斉検挙は、フランス人の間でもあまり知られていない。戦勝国のフランス人にとって、ナチスドイツに加担したという事実は耐えがたいのだろう。アメリカ人のジュリアにはサラの秘密を探ることにためらいはないが、それにたいするテザック家の人々の反応は真っ二つに分かれる。さらにもうひとつの偶然が重なり、夫との関係にひびが入ってしまう。

 この作品をよんでふたつのことが強く印象に残った。一つは、サラにとって彼女の秘密がいかに重かったかということ。もうひとつは、ジュリアがサラの秘密を知ることで、彼女の人生が変わったということ。
 我々は、時が経てば心の傷は癒される、と考えがちである。だが、少なくともホロコーストのような極限状況を経験した人たちにとって、それは正しくない。サラと彼女の秘密に関わった人たちの苦しみというものは、何十年経っても軽減されるわけではないのだ。また、ホロコーストは単なる過去の出来事ではない。それはジュリアの人生を変えたように、現代に生きる我々の生き方にも関わってくる。ジュリアの夫のベルトランのようにそれを無視する人もいるわけだが。作者は読者に「あなたはどちら?」と問いかけているように思う。

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紙の本

紙の本食べたいほど愛しいイタリア

2010/02/06 18:59

イタリアはヘンだ

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 タイトルから連想するとおり『イギリスはおいしい』や『イギリスは愉快だ』のイタリア版といった内容のエッセイ集である。ただし、著者は日本人ではなくて日本文学を専攻するイタリア人である。
 よしもとばなな、松浦理英子のイタリア語版の翻訳家として活躍する著者が日本文学を専攻するきっかけとなったのが谷崎潤一郎の『細雪』というのが面白い。個人的には大好きな作品だが、イタリア人の、しかも十代の少年が、この作品に惹かれたというのは驚きだ。激しく日本に魅せられたアレッサンドロ少年は、十九歳のときに初来日して以来毎年のように日本を訪れ、現在は日本に定住している。
 著者が日本で再会したイタリアは、料理、ファッション、サッカーなど、何もかもが美化されすぎている「虚構の世界」であり、「イタリアの日常感覚そのもの」が欠けていたという。この本は著者が、友人や生徒にに向かって語りかけてきた「素顔のイタリア」についての対話から生まれたものである(単行本のタイトルは「ボクが教えるほんとうのイタリア」)。

 日本人がイメージするイタリアとは違い、ほんとうのイタリアはかっこいいとは限らない。例えば、イタリア人がワインを飲むのは食事のときに限られ、それ以外のときに飲むのはあまりおしゃれなことではないとされる。イタリアの男性が甘いものを好むのも意外だった。著者もヌテッラというヘゼルナッツ入りチョコレートクリームの依存症になった過去を告白している。また、イタリアでは夏でも冬でも老若男女がジェラートなるアイスクリームを食べまくるらしい。
 日本人のイメージとずれているのは食べ物の好みだけではない。イタリアでは男子も女子もマザコンが普通らしい。しかも、イタリアではそれは恥ずかしいことではなく、望ましい親子関係とされているのだ。結婚するまで一人暮らしをする必要がなく、実家から出ないというのがそいなった理由だ。ところ変われば親子関係も変わるのである。
 イタリア人のオシャレはさすがにすごいが、日本人の「オシャレ感覚」とは少し違う。日本人のオシャレがおもにフォーマルな場での装いなのに対して、イタリア人のオシャレはどちらかというとオフ・タイム着るカジュアルな装いにあらわれる。リゾート地のホテルで二週間程度過ごす場合は、日数に二を掛けた枚数の服を持っていくのが理想とだいうから、普通の日本人の感覚からはかけ離れている。

 イタリアは日本人が考えるほどかっこよくないばかりか、かなりヘンな国である。しかし、それを知らないことにはほんとうのイタリアを理解したことにはならない。イタリアに限らず日本にも外国人から見てヘンなところはたくさんあるはずだ。著者が『細雪』に夢中になったのも、そこに描かれた日本がかなりヘンだったからではないだろうか。異文化を知る面白さは、そのヘンなところを知ることにあるのかもしてない。

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紙の本望みは何と訊かれたら

2008/01/20 10:47

ノスタルジーも感傷もなく

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この作品の舞台となった時代は『無伴奏』や『恋』を連想させる。とくに前者のヒロインとは重なる部分があり、続編のようにも読める。ヒロインが高校時代を仙台で過ごしたことや、平穏な生活に満足せず、とんがっているところが似ているのだ。そういうわけで、『無伴奏』を再読したのだが、これはじつに楽しい小説だった。女子高生の日常と恋愛をノスタルジー豊かに生き生きと描いた青春小説の傑作である。一方、本書の印象はまったく異なる。この作品にはノスタルジーや感傷はなく、『無伴奏』のような楽さはない。しかし、それでいて先を読まずにはいられない不思議な魅力がある。小池真理子の最高傑作といっていいだろう。

 53歳になる沙織は音楽プロダクションを経営する夫と平穏な毎日を送っているが、大学時代に過激派の活動家をしていたことがある。そんな彼女が偶然パリで秋津吾郎という男に再会する。じつに33年ぶりの再会だったが、彼女とどんな関係だったかはわからない。彼女は彼を恐れていたが、深い絆で結ばれていたことが暗示される。そこから沙織の回想がはじまる。
 沙織が過激派のメンバーになったのは、友達に誘われて革命インター解放戦線というセクトの学習会に参加したのがきっかけだった。深い考えがあったわけではない。革命という言葉とリーダーの大場修造の性的魅力に惹きつけられたにすぎなかった。沙織は大場に愛されていると思いこむが、やがてそれが勘違いだったことを知る。女性兵士として利用されていただけなのだ。そして仲間の女性メンバーが集団リンチで殺されたあと、身の危険を感じて奥多摩のアジトから脱走する。
 都心までの電車賃しか持たずに逃げてきた沙織は、公園で動けずにところを秋津吾郎に助けられる。吾郎は沙織より二歳年下の大学生だが、週に三日叔父のスーパーを手伝うだけで大学には行っていない。沙織は吾郎の住んでいる借家に匿われ、六ヶ月過ごすことになる。吾郎は大場とは対極にある寡黙な男である。衰弱した沙織の世話をするが、憐れみや愛情があるわけではない。ふたりの生活は奇妙というよりは異常なものだが、沙織はそこで癒される。吾郎が登場するのは半分をすぎてからだが、前半が長すぎるという印象はない。むしろこの前半があるからこそ後半が生きてくる。

 読んでいる間も読み終わった後もかなり怖い作品だった。それは沙織が過激派とはいえ、ごく普通の女子大生なので容易に感情移入できる(読者が男か女かということは関係ない)からだろう。組織の活動費を稼ぐために本を万引きしようとして入った書店で、偶然別れた恋人と出会い万引きできなくなるところがある。このとき沙織は普通の生活から遠くに隔たってしまったかを知るが、もう後戻りはできない。沙織が筋金入りの活動家なら、共感もしないし怖さも感じないだろう。
 後半に登場した吾郎もまた怖い存在である。暴力的ではないが、何を考えているのかよくわからない不気味さがある。沙織はその不気味さを感じながらも、吾郎との生活に心地よさを感じているところが怖い。しかも、ふたりの関係が回想の中で終わっていないところがまた怖い。
 小池真理子はインタビューで「人が真に求めるものとは何か、男女の根源的な結びつきとは何か……そういったものを書きたかった」(新潮社HPより)と語っている。ここで描かれる情念というものは(それは誰にでもあると思うが)、普通は抑圧され意識の奥深いところに眠っていて決して表に現れないものだと思う。この作品の怖さ(すごさ)はそれを描いてしまったことだ。

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紙の本

紙の本グレート・ギャツビー

2006/11/27 09:56

村上春樹と『グレート・ギャツビー』

6人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

個人的な話をすると、フィッツジェラルド作品を読んだのは村上春樹訳の『マイ・ロスト・シティー』が最初で、それ以来フィッツジェラルドの入手可能な作品はすべて読んできた。いろんな人の訳を読んだけれども村上春樹訳はやはり特別である。『グレート・ギャツビー』もすでに野崎孝訳を二回読んでいるが、いつか村上春樹訳を読むのを心待ちにしていた。
 『グレート・ギャツビー』は村上春樹にとって最も重要な作品であり、その影響は村上春樹の小説の中に色濃くあらわれている。中でもその影響が直接的に表れている『ノルウェーの森』は『グレート・ギャツビー』のオマージュとしても読める。
 主人公の「僕」は「グレート・ギャツビー」に夢中になっており、何度も繰り返して読んでいる。そしてその素晴らしさを人に話したくてしかたがないのだが、「僕」のまわりには『グレート・ギャツビー』を読んでいる人は誰もいない。これはおそらく村上春樹自身の気持ちでもあったに違いない。
 村上春樹訳が他の訳と違うのはおそらく作品への愛情の深さが違うからだろう。もちろん、理解の深さと表現力も違うのだが。野崎孝訳の『グレート・ギャツビー』も決して悪い訳ではないが、村上春樹訳と比べるとだいぶ見劣りがする。村上春樹訳は表現が新しいだけではない。原文に忠実で的確な表現といい、文章のリズムといい、他の訳を大きく引き離している。というわけで、翻訳には大満足だが、ファンというのは欲張りなもので、つぎは絶版になっている『夜はやさし』を訳してほしいと思っている。

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紙の本

紙の本栄光なき凱旋 上

2006/08/14 10:46

とりあえずの感想

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読み終わって一週間以上たつけれどもいまだに余韻が残っている。二冊で1250頁という分量もすごいが、いろいろ考えさせられる本だった。第二次世界大戦中の日系米国人の苦労はあまりにも深く複雑である。
 主人公となる三人の日系二世は軍隊に志願する。それは日系人を見捨てた日本への憎しみのためであり、また自分たちを米国人と認めてもらうためでもある。だが、ふたつの祖国に対する思いはそう簡単に割り切れるものではない。物語りが長くなるのも当然である。
 ロサンゼルス生まれのヘンリー・カワバタは名門大学の秀才として期待されながら、戦争のために就職先と婚約者を失ってしまう。戦場では臆病な自分と、優等生の自分の間で悩むことになる。
 ヘンリーの幼なじみのジロー・モリタは帰米組だが、日本にはよい思い出がない。ちょっとした弾みで人を殺してしまい、その直後に陸軍情報部にスカウトされ語学兵となる。戦場では英雄となるが、殺人者としての過去がついてまわる。
 ハワイ生まれのマット・フジワラには白人の恋人があり、父親は薬局を経営している。しかし、戦争が始まると恋人には会うのが困難になり、父親はスパイ容疑で逮捕されてしまう。マットは日本には悪い感情は持っていなかったが、恋人と父親のために軍隊に志願する。
 この三人をはじめ登場人物はみな血の通った人間として描かれているが、なかでもジロー・モリタは忘れられない人物である。表裏のないストレートな性格で、英雄であると同時に殺人者でもある人物。小説の主人公としてこれほど魅力的な人物もめずらしい。また、殺人者としての過去がサスペンスを盛り上げている。殺人についての考察がこの物語りのもうひとつのテーマであり、そのために作品がより奥行きのあるものになっている。
 この本を読んでいる間は主人公と共に悩むことになるが、決して不快な体験ではなく読後はむしろ爽やかである。最後の100頁は感動的で、その前の部分はこれを書くためにあったのだとわかる。読み終わって思わず最後の数頁を読み直してしまった。すべての日本人に読んでほしいと思う。

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紙の本

紙の本平成大家族

2008/05/04 09:34

平成の大家族にはわけがある

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 物語の舞台となる緋田家は、当主の龍太郎と妻・春子、長男の克郎、そして92歳になる妻の母の四人家族である。72歳になる龍太郎は、共同経営の歯科クリニックを二年前に「定年退職」して以来、趣味的に義歯の製作を請け負う以外は悠々自適の隠居生活を送っていた。悩みといえば、30歳になってもひきこもったままの長男だけ。ところが、静かな生活は家に戻ってきた娘たちによってかき乱されることになる。
 最初に同居したいと言い出したのは長女の逸子だった。夫の事業が失敗し、自己破産に追い込まれたというのだ。逸子は夫と中学生の息子と共に緋田家の離れに住むことになる。そしてさらに妊娠した次女の友恵が転がり込んでくる。友恵は新聞記者の夫と離婚したらしい。それだけならいいが、子供の父親は元夫ではなく、14歳年下の駆け出しのお笑い芸人なのだ。
 こうして緋田家は四世代八人の大家族となるが、それぞれが悩みを抱えている。逸子の息子のさとるは、父親の破産によって中高一貫校をやめてこの春から公立の中学校の二年に編入になったばかり。学校でいじめられないように「公立中サバイバル・マニュアル」を作成するが、母親の逸子はさとるの悩みを理解できない。今時の中学生の人間関係は大人の想像を超えている。
 ここまではシリアスな内容だが、コミカルな文体なので決して重くはならない。『FUTON』で20代から90代までの登場人物の話し言葉を書き分けた作者の観察眼と表現力は健在である。今回は年代の幅はさらに広がっただけでなく、大阪弁の会話もある。ユーモラスな文章と生き生きとした会話を読むだけでも楽しい。
 後半にはいると緋田家にも明るいきざしが見えてくる。ひきこもりの克郎には恋人ができるし、逸子の夫は思いもよらない仕事を探し出す。意外な展開だが、決して不自然さはない。そして最後には家族がひとりふたりと抜けていく。結局のところ、平成の東京ではそれが正常なことなのだろう。かくして平成大家族は終わりを告げる。すべてが解決するわけではないが、後味の良い結末である。気楽に楽しめる作品だが、説得力のある内容だった。

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紙の本

紙の本40翼ふたたび

2006/05/30 11:19

新シリーズ誕生?

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

タイトルからは『4TEEN』を連想するが、読後の印象としては『池袋ウエストゲートパーク』に近い。ただし、主人公は20歳の若者ではなくて40歳の中年なのだが……。
 主人公の吉松喜一は大手の広告代理店を辞めてフリーのプロデューサーになったものの、仕事にありつけずに残り少ない貯金で食いつなぐ日々を送っている。毎日やるとこといったら自分のプロデュース業のPRのために開設したホームページの更新ぐらい。ところがこのホームページをきっかけにして仕事が舞い込むようになる。児童買春の容疑をかけられ転落したIT企業の元社長の相手をしてほしいという依頼や大学時代の友達の離婚をめぐる相談などおよそプロデュースとは無関係な仕事ばかり。だが、喜一は彼らと接触するうちに徐々に昔の輝きを取り戻してゆく。
 登場人物は中年といってもまだ若さを失っていないし、人生を諦めているわけでもない。23年間ひきこもっていた男が社会に出ようと必死に頑張り、40歳までフリーターで生きてきた男が会社を設立する。彼らは決してかっこよくはないし滑稽だが、そのひたむきな姿に感動させられる。40歳は二回目の青春なのかもしれない。
 フリーのプロデューサーというのは要するに何でも屋である。このあたりはIWGPシリーズのマコトと同じ設定である。マコトが池袋の街で発生する難事件を次々に解決してゆくように、喜一は同世代の悩みや困った依頼をこなしてゆく。これはIWGPの中年版なのだ。しかも著者の知り尽くした広告業界を扱っているので面白くないわけがない。この設定であと数冊は書けるのではないだろうか。とにかくこれ一冊で終わらせるのはもったいない。石田さんにはぜひ続編をお願いしたい。

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紙の本

紙の本荆の城 上

2004/06/17 10:26

独創的な歴史ミステリ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

すでに『半身』を読んでいる人は先入観を捨ててもらったほうがいい。前作と同じ19世紀の英国を舞台にしているが、まったく趣の異なる作品なのだ。魅力的な登場人物に二転三転するプロット、これだけでも十分楽しめるが、この作品の面白さはそれだけではない。
 ロンドンの下町の故買屋の一家に育てられた孤児のスウは、詐欺師のリヴァーズからある計画を持ちかけられた。とある令嬢をたぶらかして結婚し、その財産を奪い取ろうというのだ。スウの役割は令嬢の侍女になりすまし、リヴァーズを助けること。令嬢は彼に惹かれており、計画はうまくいくと思われたが……。
 読み始めてすぐ気がつくのは、この作品の背景やプロットがディケンズの『オリヴァー・トゥイスト』とウィルキー・コリンズの『白衣の女』をもとにしていることである。スウの育ったロンドンの故買屋の一家は『オリヴァー・トゥイスト』のオリヴァーが捕まる泥棒一家を連想させるし、令嬢と結婚して財産をだまし取るという設定は、『白衣の女』から借用している。そして後半はまた『オリヴァー・トゥイスト』の世界である。しかし、似ているのは背景や設定だけで、もとの作品とはまったく別の物語なのだ。
 19世紀のイギリス小説はディケンズに代表されるように、登場人物のキャラクターは明確な輪郭を持っているものだが、この作品の場合はそれがあいまいである。『オリヴァー・トゥイスト』や『白衣の女』のように、騙す人と騙される人、そしてそれを助ける人というように、善人と悪人がはっきり分かれていないのだ。たとえば、スウは意外にも純粋な一面を持っていたりする。
 語り手がふたりというのも効果的に機能している。はじめはスウの語りではじまるのだが、もう一人の語り手に変わると、同じ物語がまったく別の様相を呈してくる。
 本書はヴィクトリア朝の小説を読んでいなくても十分楽しめるが、この機会に『オリヴァー・トゥイスト』や『白衣の女』を読んでみるのもいいかもしれない。読み比べてみると、二つの作品を基にしながら、本書がいかに独創的な作品に仕上がっているかがわかると思う。

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紙の本

紙の本ハイスクール1968

2004/05/21 11:08

敗北の季節

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本書は東京教育大附属駒場高校(現在の筑波大附属)に通っていた頃の著者の体験をまとめたものである。この中に描かれる友人たちはみな個性的で、エリート校の優等生というイメージにはほど遠い。教師も詰め込み式の授業をしていたわけではない。犬彦少年は友人から借りたレコードでビートルズを知り、国語教師の作ったガリ版刷りの教材ではじめて現代詩に出会う。しかし、著者は自慢話をしているわけではないし、郷愁に浸っているわけでもない。

 この本の中心になるのは1969年のバリケード封鎖を描いた部分である。当時は全国の高校に学園紛争の嵐が吹き荒れていた時期で、教育大駒場も例外ではなかった。バリケード封鎖はあっけなく終わるのだが、犬彦少年はそのとき人生最初の敗北を経験し、深く傷ついてしまう。そして、「その傷から回復するのに、長い試行錯誤を重ねなければならなかった」のである。

 犬彦少年の感情や行動はこの世代を代表していると思うが、高校紛争を知らない者が読んでも共感することが出来る。両者の内面が変化したわけではないからだ。後者の場合は、「すべての不条理と抑圧を内面に抱えこんで」しまっただけなのだ。著者は「十八歳と五十歳の四方田犬彦の対話」と題されたエピローグの中で、本書を書いた理由のひとつを、「ぼくたちにとって自明であるような事柄でも、この際、文章でキチンと記しておくべきではないだろうかと考えた」からと書いている。今読んでも圧倒されたが、もっと若いときに、とくに高校生のときに読みたかった本である。

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紙の本

紙の本皇帝ナポレオン 上

2004/02/10 11:16

ナポレオンの真実

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二冊で千二百ページを越える大作である。しかし、情報量からいえばそれでも短いくらいである。資料を読んで、それを小説に仕上げるだけでも並大抵の作業ではないと思うが、藤本ひとみは要領よく物語を語るだけでなく様々な仕掛けをしている。本書は圧倒的な情報量と小説の面白さを兼ね備えた驚くべき作品である。
 物語はナポレオンがエルバ島を脱出したところから始まる。それを知ったオハラ氏という新聞社の社主が、モンデールという若い記者にナポレオンの記事を書かせようとする。モンデールはオハラ氏の紹介で、皇后ジョゼフィーヌの親友だったタリアン夫人に紹介される。
 モンデールは彼女の話と彼女が紹介した人物から聞いた話を元にして記事を書くわけである。このアイデアが素晴らしい。
 彼らの話すナポレオンはおよそ英雄とはほど遠いものである。コルシカ訛りの強い田舎者で、ジョゼフィーヌの浮気に悩まされながら、彼女をあきらめることもできない。軍事的天才であることは間違いないが、味方にどれだけの被害が出ようと戦いをやめようとしない。引き際を知らない。
 しかし、やがてタリアン夫人や彼女の紹介した人物はみなナポレオンに恨みを持っているということがわかる。これが味噌である。
 モンデールは彼女から離れて真実のナポレオンを書こうとするが、批判的な書き方は変わらない。ナポレオンは自分の力を示すために、戦争に勝ち続けなければならなかったのだと彼は書いている。
 しかし、当然のことながらいつかは負けるときが来る。帝国崩壊の原因となったロシア遠征では、当初六十七万人だった兵士のうち、フランスに帰ってこれたのはたったの十万人弱。あくまでも力でヨーロッパを支配しようというナポレオンのやり方には限界があったのだ。
 モンデールはナポレオンを「革命を含有する独裁者」と言っている。ところが、これで終わらないのだ。最終章の前のワーテルローの戦いを描いた章では、モンデールに従軍記者としてナポレオンに同行させている。
 彼の見たナポレオンは今までの印象とは違っている。彼は独裁者というより家長的であり、偉大な家長となってフランスを治めようとしたのではないかと考えるようになる。いったんナポレオン神話を壊しながら、新しいナポレオン像を創りあげているのには感心させられた。
 この後の戦いの場面は圧巻である。ナポレオンが大敗するのはわかっているのに、実況中継のような臨場感溢れる描写で最後まではらはらさせられた。ナポレオンを素材にしたというだけで拍手を送りたいが、これだけ面白く書けるというのは大変な才能である。

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紙の本

紙の本アンジェラの祈り

2003/12/27 09:15

マコートのアメリカ

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『アンジェラの灰』はよくできた長編小説のような作品だったが、今回はいくつかの長短編小説を合わせたような、様々な要素が盛り込まれた作品だった。
 マコートの経歴をみれば、サクセスストーリーなのかと思ってしまうがじつはそうではない。これはたんなる苦労話ではないのだ。この本を読む限り、フランクはいつも悩んでばかりいて意志が強いようには見えない。彼を成功者といっていいかどうかも怪しいくらいだ。
 一言で言えば、これは夢と現実のギャップの物語である。フランクの見たアメリカは、リムリック想像したような国ではなかったのだ。この作品は、前作のラストで投げかけられた「アメリカは夢の国か?」という疑問に対する答えとして読むことができる。
 当時のアメリカでは、アイルランド人は貧しくて酒飲みというイメージしかない。アイルランドなまりがあるだけで損をしてしまうのだが、その上フランクはただれ目で、歯はぼろぼろ。彼はコンプレックスの塊となり、何度もアイルランドにいればよかったと思うことになる。
 それでも教師になれたのは、ひとつには運が良かったこともあるだろう。朝鮮戦争が始って軍隊に招集されたために、除隊後、復員兵援護法によって大学に入ることができたのだから。もうひとつは、アイルランド人としか付き合わない友人たちを後目に、どんな民族の人とも付き合い親しくなったことがあげられる。その人たちから励まされたことが彼の心の支えとなるのである。
 しかし、それは彼にとってよいことばかりではなかった。プロテスタントの女性と結婚し経済的にも豊かになってゆくのだが、なぜか幸せな家庭を築くことができない。妻とは育った環境が違いすぎるのだ。
 フランクはアメリカ人になりきろうとしたけれども、結局はアイルランド人としての自分を捨てきれないことに気づくのである。彼にとって、アメリカはあまりにも複雑すぎたのだ。プロテスタントの白人がいて、ユダヤ人がいて黒人もいる。その中でアメリカ人として生きることに疑問を持ち、アイルランド人としての自分を見つめ直すことになる。
 彼が家族と母親を連れてアイルランドに里帰りしたときに、母親から「おまえ帰りたくないんだろう」ときかれ、「なんでわかるの?」という場面がある。リムリックでの子供時代は貧しかったけれども、シンプルで幸福な時代だったのかもしれない。
 この本を読むと、『アンジェラの灰』の印象も少し違ってくる。子供時代についての作者の複雑な思いがわかるからだ。貧しかった子供時代を嫌悪しながらそれを忘れることはできないし、どうしても書かずにはいられなかったのだろう。
 マコートが成功者か失敗者かということは意味がないように思う。読者にできるのは、彼の生き方に共感し感動することだけである。二冊の『アンジェラ』ほど正直に語られた人生はそうざらにあるものではない。

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