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  3. 越川芳明さんのレビュー一覧

越川芳明さんのレビュー一覧

投稿者:越川芳明

24 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本

前編:ポスト国民国家時代の「イミン」のすすめ

4人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

名訳の誉れたかい池内紀訳のカフカ、その短編の中の一つに「ある学会報告」と題された面白い寓話がある(岩波文庫『カフカ寓話集』)。この作品は、「未開」の地とされるアフリカで捕えられたサル(「私」)が、「文明」の地で唾の吐き方や罵倒の仕方を覚えたりして、いかに人間として「進化」を遂げたかを、ヨーロッパ的「知」の結集の場ともいうべき学会で語るというかたちを取っている。まさにヨーロッパ文明(キリスト教)中心主義、人間中心主義を皮肉る痛快な諷刺小説といえるのだ。

しかし、キューバ出身のパーフォーマンス・アーティスト、ココ・フスコは、あるエッセイ(「間文化的パフォーマンスのもう一つの歴史」)の中で、この短編が単なる寓話ではなく、コロンブスの新大陸「発見」以降500年にわたって実際にヨーロッパで行なわれてきた民族学的な「人類展覧会」への引喩としても読めると指摘している。このエッセイには、1493年、コロンブスによってカリブ海から連れ去られたアラワク族の者が2年間スペインの宮廷で展示されたという一文から始まり1992年までの、ヨーロッパを中心にした「先進国」での展覧会のリストが載っている。もちろん、「野蛮人」としての先住民を見世物にした「人類展覧会」の意図は、興味本位の覗き趣味とか、異民族のキリスト教への改宗を正当化するためとか、ヨーロッパ人による人類進化のプロセスを確認するためとか、といろいろだ。

「異民族とは、西洋人の各発達段階を暗示するモデルだったのだ」という荒俣宏の言を俟つまでもなく、たとえ学問的な興味からであっても、人類展覧会の裏には、オリエントやアフリカに対するヨーロッパの優越思想が隠されている。カフカは、そうしたヨーロッパ人の「他者」への無意識の優越感と、その裏返しとしての恐怖心をこの小説で突いたのだ。

このことがよそ事でないのは、わが国においても、ヨーロッパの博覧会や展覧会にならった大阪での「人類館」開設(1903年、明治36年)のという、沖縄・アイヌ・朝鮮・台湾に対する似たような試みがあったし、いまでもエキゾチズムというかたちで、ひそかに周縁文化に対するステレオタイプな偏見がまかりとおっている。

「歴史を知っただけで人種的偏見は無くなりはしない。朝鮮人に対して強い偏見を抱いているのは、何も知らない若い世代であるよりは、むしろ歴史的事実をある程度知っており、また加害者として朝鮮人に接した世代の人びとに多いと思われるからである。アメリカのベトナム映画などをみてもよく思うことであるが、加害者であるという意識が相手に対する反感や蔑視をいっそう強化するという現実がある」

『国境の越え方』の著者、西川長夫は、そう述べる。加害者側から見た人種差別の一面をついた卓見だ。なるほどKKKのような白人至上主義者や、天皇を信奉する国粋主義者や、ナオナチでないかぎり、大方の人は声高に人種差別を叫んだりしない。しかし、叫んだりしないからといって、そうした差別意識を免れているかどうかは怪しい。というより、われわれは皆(加害者側も被害者側も)、社会の中で差別意識を刷り込まれてしまっていると考えた方がいいのはないか。なぜなら、西川もいうように、「社会は差別を必要とし、国家は仮想敵を必要とする。……国家と国境が存在するかぎり、隣国問題が存在する」からだ。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2001.06.29)

  〜 書評後編へ続く 〜

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紙の本

紙の本第四の手

2002/08/21 18:15

米国のテレビ業界の内幕をあばく

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 この小説は、一種のテレビ業界(とりわけニュース報道部門)の内幕モノであり、訳者の日本語も、見事にテレビ業界特有の軽いノリを達成していている。さすがアメリカ作家の中でも有数のストーリー・テラーだけあって、この小説も明るいユーモアにみちたほのぼのとした作品として仕上がっている。
 テレビは本質的にものごとの複雑さを追求できないメディアだ。アーヴィングはいう。「テレビは事件に追い立てられるように動き、ものごとの根本を見ようとはしない」と。そうでありながら、米国社会は(そして、多かれ少なかれ日本社会も)、そうした「ものごとの根本を見ようとはしない」テレビニュースを見ることによって、世界の動きを知った気になっている。その結果、米国のどの僻地にいても、いながらにして世界がわかるという傲慢がまかりとおる。
 そんなテレビ報道の世界に生きるアンカーマンがこの小説の主人公。パトリック・ウォーリングフォードは、どんな事件もNYのオフィスにいる幹部連中が自分たちのステレオタイプの鋳型(たとえば、夫を失ったばかりの女性は冷静ではいられない、とか)にはめて編集し直す、そんな「やらせ」に疑問を抱きながらも、現状を打破できない。そんな安全志向の男が、かれ自身にふりかかった事故をきっかけに大きく変身を遂げてゆく。ニューヨークのマスコミの体現するクールで都会的な価値観を捨てて、中西部ウィスコンシンの素朴でストレートな人間的魅力を獲得してゆくのだ。その人間的魅力の象徴として、「第四の手」がある。それは、直接的には主人公が事故で失った左手の代用品であるが、実際には主人公と未亡人ドリスしか感じることができない想像上の手なのである。そうした着想自体はとても面白いが、テレビ業界の冷血人間たちの裏切り(ニューヨーク)と、ドリスという名の未亡人が大切にする田舎の大家族の絆(中西部)という対比が、深みを追求するメディアの小説としては、少々単純で陳腐すぎないだろうか。テレビ番組はものごとの本質をつかめないといいながら、その本質を地でゆく単純化したストーリーがちょっと気になった。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/ノマド翻訳家)

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紙の本

紙の本ガラテイア2.2

2002/02/13 18:15

前編:コンピュータが人間に恋することは可能か?

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 かつてジョン・バースは『山羊少年ジャイルズ』と題した、コンピュータが創造したという設定の学園小説(キャンパス・ノベル)を書いたことがあったが、あれから35年後に、こんどはリチャード・パワーズが大学キャンパスで特殊なコンピュータ開発にかかわる小説家を主人公(語り手)にした、半伝記的な小説を書いた。
 小説の舞台は、米国の中西部にある大学キャンパスの先端科学センター。そこでの注目の的は「複雑系」と称される領域で、「人工知能、認知科学、視覚化と信号処理、神経科学」などの、さまざまな研究分野がクロスオーヴァーした共同研究をおこなっている。莫大な利益をもたらすかもしれない「商品」や「技術」の実用化と直結しているので、政府からも民間企業からも莫大な資金がながれこみ、ある意味でうさん臭い山師的な研究もいっぱいある。
 この小説の語り手である「僕」こと、リチャード・パワーズがかかわる研究課題も、いささかウソ臭い。最先端のコンピュータに、英文学の修士号を取りうる知識を身につけさせ、大学院生と同じように、最終試験にパスさせるというものだ。同僚のレンツ博士に助けられて、「僕」はコンピュータに英文学の必読リストを読んできかせる。
 物語の後半に、マッドサイエンティスト然としているレンツ博士の「秘密」が絶妙のタイミングで明らかにされる。すなわち、博士には妻オードリーがいて、痴呆症のためにキャンパス内の療養所で暮らしていることが判明するのだ。言語認識や感情表現の点で限りなく人間にちかづいていく「人工頭脳」と、「脳」の一部が壊れてスープの入ったカップの中にスプーンを入れることすらできなくなってしまった生身の人間との対比が絶妙である。このオ—ドリーの痴呆症のエピソードは、「老化」してもそれを抱えて生きていかねばならない人間の宿命を浮かびあがらせるいっぽう、なぜレンツ博士が研究室に閉じこもって、「老化」を知らぬマシーンの開発に熱中しているのか、を暗示する。さらに、このエピソードは、同僚のダイアナの障害を持つ息子のエピソードと同様、科学万能主義に陥りやすい、傲慢な「先端科学」のエリート主義に水をさすサブプロットとしても効いている。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2002.02.14)

  〜 書評後編へ続く 〜

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紙の本

紙の本最後の国境への旅

2000/11/13 18:15

書評後編:日本文学が産んだ最初の試験管ベービー

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〜書評前編より〜

 「いや、欠陥というか、この人、先生の4つのタイプからはみ出してしまうんですよ。日本文学をたんに研究や批評の対象とするんじゃなくて、みずから日本文学に参画しているわけですから。ある意味で、リービ英雄は日本文学が産んだ最初の試験管ベービーなのかもしれません。いわば、『新宿』なる場での『ガイジン』体験という『スパーム』と、万葉集から中上健次までの日本語のDNAを有する『卵子』が人工的にドッキングした作家ですから。こんどの本『最後の国境への旅』でも、これまでの『西洋の文人や知識人』だったらいわないようなことをリービ英雄はいっています。たとえば、『一つのことばは一つの民族の中から生まれる。しかしことばそのものには民族へのこだわりはない』と」
 「つまり、かれがとり憑かれたのは、日本民族ではなく、日本語であるということだね」
 「かれの立場って、日本語の使い手=日本文化の担い手=日本人という、多くの日本人が信じて疑わない文化純血主義を否定するものです。日本の国籍を有しない、というか日本語を母国語としない「ガイジン」もまた日本語の立派な表現者になりうるという。そこには、「ガイジン」の日本語が、たんに上手い下手というレベルの話でなく、日本語そのものを多様にし、豊かにするはずだ、という自負が見られます。そのことをこの本を含めて、小説やエッセイで実践でしめしているところがスゴイ。ただ、母国語でない言語で書くリービ英雄のような作家は、「移民の国」USAではめずらしくもなく、一例を挙げるだけでも、ウォルター・アビッシュ、マリアンヌ・ハウザー、レイモンド・フェーダマン、キャサリン・テキシア、アイザック・B・シンガー、イエルジー・コジンスキー、最近では中国出身のハ・ジンといますが」
 「それをいうなら、ある意味で、ガートルード・スタインも、外国人のように英語を『自意識的に』使ったといえるかもしれない」
 「まさに、『自意識的な』言語使用者たちですね。リービ英雄が日本語について面白いことを面白い比喩を使って論じています。クレオール性を有する日本語という指摘です。ちょっと長いけど引用します。『フランス・ワインはある種の「漢語」である。それに対して、カリフォルニアの、特にカベルネ・ソービニヨンは、「仮名混じり」の味がする。じぶみの中から、何とも言えない甘さが滲み、これを飲んでいる人に常に感覚的な驚きを覚えさせるのだ。……「原型」にこだわり、ヨーロッパの「権威」に弱い人には、その味が分からないだろう。しかし、そういう人には漢語から遊離してしまった日本語の「新しさ」にも気づくはずはない』と。いかがです?」 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/明治大学教授 2000.11.14)

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紙の本

紙の本沖縄を知る事典

2000/07/22 12:15

「沖縄病」にかかった人のために——女性的視点に立つ有益な事典

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 沖縄出身でない日本人や外国人が、いろいろな理由で沖縄特有の文化や自然などに憑りつかれ状態を「沖縄病」というらしい(本書、第13章参照)。ぼくは沖縄や西表島にたった一度しか旅行したことがないのだが、しかしどうせ飲むのなら、ただのありふれた居酒屋に行くよりは沖縄料理がでる店のほうがいいし、カラオケに行けば画面の歌詞(これが外国語みたいにカタカナ書きなので読みにくい)を懸命に目でおいかけながら、喜納昌吉の「ハイサおじさん」を熱唱したり、文学関係の業界人(編集者、批評家、研究者)に会えば、目取真俊の話に無理やり持っていこうとするのだがら、ぼくもちょっとした「沖縄病」患者なのかもしれない。
 とはいえ、ぼくは浮気ぽくって、一方でメキシコにも憑りつかれているから「メキシコ病」患者でもある。いうなれば、重度の合併症患者だ。沖縄もメキシコも、濃密な土着文化に侵略者の文化が融合して、独特のハイブリッドな風俗・文化を創り出している。前者は「チャンプルー文化」を誇りにし、後者は「メスティーソ(混血)」文化——たとえば、本来インディオの発明品であるトウモロコシで作ったトルティーヤを利用した料理とか、メキシコ独特の褐色の聖母マリア(グラダルーペの聖母という)崇拝とか——をいまも大切にしている。現在、世界中でそうした文化のクレオール現象は進行しているが、沖縄もメキシコも、本来歴史の負の財産でしかなかったそうした文化の混交を、自己のアイデンティティとして積極的に打ち出しているところが好きだ。
 さて、こんどぼくのような「沖縄病」患者にとって有り難い本が出たので紹介したい。その名もシンプルに『沖縄を知る事典』である。全体は、20章から成っていて、第1章「琉球史」から始まり、第20章「サンゴ礁と島々」までに200項目の小見出しがつく。もちろん、「近代沖縄の抵抗運動」や「沖縄戦の特質」や「米軍占領」や「反基地運動・住民運動(復帰後)」といった比較的硬質な政治問題を扱った項目も多いが、「沖縄の民族・文化」や「沖縄の芸能文化」や「沖縄の女性」を扱ったソフトな章もある。ソフトといっても軟弱、軽薄な記述というわけではちっともなく、たとえば「トートーメーと女性」といった項目では、家父長制を頂点にした明治民法の家督相続のしくみが、まだ根つよく残っていて、多くの弊害をもたらしているとの指摘がある。このように女性的(フェミニスト的)視点を導入することで、米軍対沖縄、ヤマト対沖縄(=加害者対被害者)といった図式的解釈に陥りがちな従来の批評的言説が見逃してきた沖縄内部の差別・階層的差異を積極的に取りあげようとしているところに本書の特徴がある。沖縄をロマンティックに美化しすぎていないという意味で、学術的にも信頼のおけるバランスのとれた事典である。
 それだけではない。巻末には「沖縄の行事・祭り」や「沖縄の方言・ことわざ」からはじまって18ジャンルにわたる用語解説がついているし、さらに3種類の付属資料までついていて、至れり尽くせりである。後者の、とりわけ「戦後・米兵による沖縄女性への犯罪」(9ページにわたる力作!)という歴史資料を読むだけでも、いま沖縄に求められているのは、本土からの経済援助でも米軍基地からのおこぼれでもなく、上記の毅然とした女性的視点であることがわかるはず。
 最後に、各項目のコンパクトな解説を読んで、もっと勉強したい、関連書物を読みたいという人のために、各項目ごとに親切な「参考文献」とその短評がついていて参考になる。とはいえ、いくつかのセクションの筆者は「参考文献」のコーナーで、こういう推薦の仕方もしている。「参考文献としては、沖縄の風俗を体験してもらうこと」と。頭で情報を得るのもいいが、体と心で「沖縄を知る」こともまた大切だと、改めて教えられる言葉だ。 (越川芳明/明治大学教授)

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紙の本

紙の本ざぶん 文士温泉放蕩録

2002/07/09 15:15

明治の文豪は、みな不良だった?

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 文庫本のカヴァーには、「異色温泉小説」とある。温泉小説だって? さて、そんなジャンル、あったっけ。まあ、小説の肩書きなんて、どうでもいいや。要は、読者をあきさせないだけの仕掛けと内容をそなえているかどうかだから。
 ひなびた温泉地をひとり渡り歩くのを得意とする著者のことだ、夏目漱石、正岡子規、尾崎紅葉などの明治の文学者たちをダシにして、日本全国の温泉と旅館を巧みに紹介することぐらい朝飯前、いや、嵐山風にいえば、朝風呂前だ。
 商業雑誌には、タイアップ記事というのがあって、それはいっけん特集記事のようにみせかけながら、実は宣伝記事であるというトンデモない代物だ。もし旅行雑誌が老舗の旅館のタイアップ記事を載せるとして、この小説のように手のこんだ仕掛けをほどこしていれば、それはそれで楽しいものになるだろうが、そんな楽しいタイアップ記事など読んだことがない。
 それでも、嵐山のこの本には、到底タイアップ記事にならない温泉というか風呂がふたつでてくる。ひとつは、詩人の北原白秋が人妻との不倫で(明治時代にあった姦通罪で)つかまり、監獄ではいる汗と体臭にまみれた最悪の風呂のくだりであり、もうひとつは、有島武郎が軽井沢の別荘で愛人と心中をこころみる前に、一緒に入る水風呂のくだりである。
「温泉小説」と銘打っていながら(どうせ担当の編集者がそうしたキャッチをつくったのだろうけど)、こういう楽しくない風呂のエピソードをちゃっかり挿入するあたりが小説家・嵐山光三郎のこわいところだ。さらに、この本でも、嵐山のブラックなユーモアは健在であり、ウソかまことか、国木田独歩と田山花袋が一緒に奥日光の温泉にはいるエピソードのなかで、国木田に勃起したペニスをにぎられた田山が自分のペンネームを「汲古(きゅうこ)」から「カタイ」としたという話、うそっぽいけど、おもわず吹き出してしまった。
 いまでは高校の教科書で偉い文豪として奉られている明治の作家・詩人連中、嵐山にいわせれば、当時はみな不良だったのだ。ただの女たらしの与謝野鉄幹にしろ、足指フェチの谷崎潤一郎にしろ……。もちろん、この本の著者も、超一流の女たらしの不良であることはいうまでもない(たぶん)。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/ノマド文筆家 2002.07.10)

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紙の本

紙の本官能小説家

2002/07/05 18:15

後編:<官能小説>の枠をはずれた<官能小説>

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<書評後編>
 もちろん、「滑稽」と感じるのは、第三者である読者の感性である。こういう場面に遭遇した当事者の男性は、ただただシラけるだけだろう。
 では、なぜ高橋源一郎は、そうした男性がシラける<官能小説>を書くのだろうか? それは、高橋が自虐的な性格だからだろうか。それとも、これまで大勢の女性によっていたい目に遭わされてきたからだろうか。ぼくは心理学者ではないから、そういう著者の無意識の領域はわからないし、興味もない。
 ぼくにわかるのは、高橋源一郎が、<官能小説>というすでにある枠組みを利用しながら、人びとが<官能小説>という言葉から連想するものからかぎりなく遠ざかった作品(俗っぽくいえば、「オカズ」にならない<官能小説>)を書いてしまったということだ。と同時に、高橋は、女性はこういうものだという、男性のこしらえた枠組みからもかぎりなく遠ざかった作品を書いてしまったのだ。

 これほどまでに近くにいても、結局、距離が無になることはないのである。だが、それこそが希望の証だった。人は自分自身を愛することはできないが、他人を愛することはできる。それは、そこに埋めることができない距離が存在しているからなのだ。(378)

 女性はこういうものだ、という男性がつくる枠組みに男性だけでなく、女性自身も縛られている。しかし、生きた人間は、枠組みどおりではない。自分の向こうに、ひとつの人格という他人が存在し、他人とのあいだに「埋めることができない距離」が存在し、高橋源一郎によれば、その距離ゆえに、「愛」が生まれる。
 そんなわけだから、世間の良識を標榜する女性たちが、高橋源一郎の<官能小説>を非難するというのは、まったく皮肉なことである。年長の男性を相手に10代の少女が堂々と自己主張をするという一点をもってしても、これはすぐれた<教養小説>ではないのか。非難する女性たちこそが、みずからの狭い道徳観に縛られて、男性の「道具」としての女性という、従来の<官能小説>の見方しかできなくなっている、ということを知るべきではないのか。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/ノマド翻訳家 2002.07.06)

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紙の本

紙の本幻の漂泊民・サンカ

2002/05/14 22:15

前編:日本のノマドを知る。日本の歴史を、ウラ側から見てみると……

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<書評前編>
 サンカは、どこからやってきたのか?
 沖浦和光は、この本の中でなんども、その答えとなる自説をくりかえす。
 とりわけ「起源論についての三つの仮説」という項で、はっきりと述べている。それによれば、これまでのサンカ起源説は、あやまりということになるらしい。すなわち、柳田国男による説(サンカの祖先は日本列島の先住民ともいうべき、先史時代の<山人>にまでさかのぼるというもの)や、喜田貞吉による説(サンカの源流は、中世あたりの「賎民系集団」ではないかというもの)は、否定されるのだ。そのうえで、沖浦はもうひとつの説、「近世後期起源説」をとなえるのだが、主眼となるのは、次のふたつの点である。(1)サンカは幕末の経済的危機の時代に生れたこと(2)サンカは、明治中期から第二次大戦後までの半世紀において、戸籍のある所を根拠地にして、回帰性の回遊をくりかえす「半漂泊」の生活をしていたということ。
 なんとも明快でわかりやすい結論だが、それを裏づける論証のプロセスは、丁寧そのものだ。先学の諸説を謙虚なまなざしで緻密に分析しつつ、民俗学者として自分の足で歩くことをいとわず、新しいおのれの学説をうちだす。時の権力者であれば、後世の学者に役に立つような史料を残しもしようが、そうでない周縁の人民はそうしたものを残す可能性は少ない。とりわけサンカは、沖浦によれば、自分たち自身の生活の記録をまったく残さなかったという。そういうわけだから、長い時間をかけて信念をもって日本社会の周縁におかれた人々やその文化を調査してきた著者によって、上記のような結論がこの本の中で導き出されていくプロセスは、感動的ですらある。すべての学問に通じる、真の学者のアプローチがここにみられる。
 サンカは、「山家」(山に住む者)とも「山窩」(山中の盗賊)とも書かれる。後者は、明治中期以降警察から流された情報をもとに使われるようになった当て字だそうだ。どの社会でも、少数民族や周縁民への命名はおこなわれる。たとえば、アメリカ合衆国でも、同性愛者は「クイア」、メキシコ系は「チカノ」、ユダヤ系は「カイト」、日系は「ジャップ」などと呼ばれ、差別・迫害された歴史がある。そう呼ばれる人だけが痛みを感じ、それ以外の人には、そうした名称が自然で透明なことばとして流通してしまうところにそうした名称の怖さがある。だから、痛みを感じない人たちに、その言葉をつきつける意味で、あえて自分たちのことをそうした「差別用語」で呼ぶラディカルな人も、いまではいる。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/ノマド文筆家 2002.05.15)

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紙の本

「不良少年」の素朴な問いかけ

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中上健次のエッセイを読んでいると、たんなる「昔はよかったな」式の、おめでたい自己回顧ではなくて、自分の内側に眠っている野蛮でどうしようもない「少年」(もっと正確にいうならば、「不良少年」)が揺りおこされるような、そんな気がしてくる。
中上健次は若者たちを煽る。「私が欲しいのは、不良性だ。反抗とも言える……つまり、若衆が鋭くとがる事であり、世の中を疑う事、否定する事である」(「不良性のない時代」)。
中上健次がそう語ったのは、大学生がヘルメットをかぶって警察や大学の教職員に向かって石を投げるのがもはや「流行」ではなくなった70年代の後半、週刊誌「プレイボーイ」での連載コラムのなかである。
若者の「流行」やポーズとしての反抗じゃなくて、真の意味での「否定」、それを中上は訴えたのではないか。中上のいう「否定」とは、いまの世の中のありようを、あるいはその世の中の掟や規則を当たり前じゃないか、当然じゃないか、と悟ったりしないで、素朴に「なぜ…」と疑うことにほかならない。
「なぜ勉強しなきゃいけないの?」
「なぜ結婚しなきゃいけないの?」
「なぜ人を殺しちゃいけないの?」
はげしく世の中の規律とぶつかり合うことは、若者にありがちなこととはいえ、「なぜ…」で始まる素朴な疑問を発することは、ただ若者だけに与えられる特権ではないだろう。ぼくが片足を突っ込んでいる学問の世界だって、そうした素朴ながらも根源的な問いを発することから始まるのではないだろうか。というより、そうした問いを発せずに、学者本人の内なる動機を忘れた研究のなんと無意味なことか。
内なる「不良少年」の素朴な問いかけから出発し、それを紋切り型に陥らないみずからの率直な言葉と論理で展開することの大切さを思い出させてくれた中上の若々しい文章。世代や時代に関係なく、内なる「不良少年」や「不良少女」を忘れないひとは、ほんとうにカッコいい。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/ノマド翻訳家 2002.01.24)

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紙の本

紙の本美妙、消えた。

2001/10/05 22:15

前編:明治を書きながら平成を書き、平成を書きながら明治を書く

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 ぼくは、この本の、小説でもないし評伝でもない独特なスタイルに興味をひかれた。嵐山光三郎は、高橋源一郎の『日本文学盛衰史』のように明治の文人たちを主人公にした「現代小説」を書いているのでもないし、またただ単に時間的距離を置いて明治の文壇を回想しているわけでもない。
 嵐山光三郎は、丹念な資料読みに支えられた明治物のノンフィクションの面白さ——たとえば、豊富で的確な引用に見られる——と、小説家のフィクショナルな想像力によって引きだされる人情の機微——たとえば文学者同士の嫉妬や確執、嫁姑の争い、その両方をこの本の中に取り込もうとしている。だから、読者は、ジャンル混交のボーダー文学の醍醐味が味わえるのだ。

 たとえば、著者は明治の文人たちを「文豪」や「偉人」としてではなくて、ウソもつけば喧嘩もする等身大の人間として捉え、その生態にペンを走らせる。と同時に、嵐山光三郎自身も登場人物として顔をのぞかせ、ところどころで書き手の「現在」に読者の目を引きもどす。

「神保町交差点近くの古書店に博文館刊『紅葉全集』全六巻が並んでいた。……ほほう、紅葉が私を呼んだのだと一人合点して買うことにした。つんとすえた匂いの全集をかかえこんでタクシーに乗せ、家に持ち帰った。十二畳の書斎には、もう本をしまう書棚がない。神田を廻るたびに買いこんだ古本が畳に山と積まれ、古本の山に囲まれて、そのすきまに蒲団を敷いて眠るため、ひどい喘息になった」

 この文章を見てもわかるように、この本には、研究対象の「明治」のパースペクティヴから、「平成」の自己をアイロニカルに見る視座がある。「明治の亡霊たちから喘息じゃなくて肺結核もらって、編集者をビビらせたかったぜ」とでもいいたいかのような嵐山光三郎の声が聞こえてくる。一流のコメディアンに似て、自分自身すら茶化すことができる、その能力ゆえに、明治の文壇にも美妙にもそれほど入れ込んでいない読者を、その世界に引き込むことができるのだ。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2001.10.06)

書評後編へ続く

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紙の本

紙の本シドニー!

2001/08/03 22:16

前編:オリンピック自体はつまらないが、その前後が面白いということを身をもって実証した本

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オリンピックはまるでデパートみたいだ。デパートは、一箇所の建物にあれこれといろいろな品物が揃っていて便利だけど、わたしたちはすべての品物、すべての階に興味があるわけではない。オリンピックだってそうだ。興味のない種目に付き合っていたら、いくら体があってもたまらない。しかも、最近はどんどん肥大化して、野球とかコテンドーとかボーリングとか、デパートというより、巨大なショッピングモールと化しているから、なおさらである。

村上春樹は、オリンピックの開会式が「退屈」だという。そりゃそうだ。50すぎのいいオッサンがそんなモノに浮かれているほうがおかしい。オリンピックの開会式にかぎらず、高校野球の開会式だって、入学式だって、卒業式だって、儀式というものは別に個人の楽しみのためにあるわけじゃない。だから、ぼくには興味がない。

「なんといっても選手たちがかわいそうだ。なにしろ二時間くらい、競技場で立ちっぱなしのままなわけだから、身体が冷えるし、疲れる。主催者側にはそういう競技者に対する思いやりがほとんどない。自分たちのかっこいい演出のことしか頭にない。こうなると、「スポーツマンの祭典」ではない。国家と大型企業の目的が融合し結びついたところに成立したイヴェントなのだ。……見ているうちにだんだん不快感が増してくる」

村上春樹は、そうした開会式に「飽き飽きして」、出版社が(というより担当編集者が必死の思いで)手にいれたプラチナチケットなのに、選手の入場行進の途中でスタジアムを去ってしまう。

この本の欠陥は、ここから生じてくると思う。現代のショッピングモール化したオリンピックを最後まで批評するのではなく、初めから逃げを打ってしまっているからだ。この本を、玉木正之(『スポーツとは何か』)のような優れたスポーツ批評の本にしそこねているのは、この作家のそのような徹底性のなさだろう。看板のオリンピック観戦記がただのオーストラリア滞在記に堕しているのが惜しい。というより、はっきりいって看板倒れだ。

もちろん、ぼくはこの本がオリンピック関連本を装っていながら旅行記でお茶を濁している、といいたいのではない。どうせオリンピックなんか、口実なのだから、せいぜいブッ飛んだオーストラリア旅行記を読んでみたいではないか、といいたいのである。ブッ飛んだ旅行記というのは、別に次から次へと事件がおこる波瀾万丈の物語ではない。むしろ、事件など、何も起こらなくてもいい。風物など何もなくてもいい。

「旅」とは、どこか未知の土地へ行った者が自分の中の何かを棄てざるを得なくなるような体験をいうのだ。そもそも「旅」にでるということは、人間関係であれ、モノであれ、いま自分が持っている何かを棄てる行為であり、「旅行記」とは、「旅」によって変わっただろうもうひとりの自分を書くことではないのか。

ブッ飛んだ「旅行記」とは、たとえば、村上春樹がこの本を書きながらシドニーで読んでいる作家のひとり、ブルース・チャトウィンの文章(『パタゴニア』とか『ここで私は何をしているのか』)をいうのであって、テレビ番組「不思議大発見」のような、世界にはこんなに変てこりんな場所もありますよ、驚いたでしょう、皆さん日本に住んでてよかったですね、みたいな自閉的な自己確認の物語とはちがう。チャトウィンの文章には、くだんのテレビ番組にあるような、対象を意味なく見下す(ときには意味なく美化する)視線はない。それに対して、村上春樹の次の文章はどうだろう。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2001.08.04)

  〜 書評後編へ続く 〜

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紙の本真夜中に海がやってきた

2001/08/01 11:06

翻訳こぼれ話女性アーティストたちへの思い

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 この小説の冒頭で、主要登場人物のひとり、十七歳のアメリカ人少女クリスティンが旅行雑誌の記事と一緒に、文芸誌や美術誌の切り抜きを日本のホテルや旅館の壁にピンで留めるという描写がでてくる。記事の切り抜きには、多方面にわたる女性アーティストの名前がリストアップされている。Flannery O'Connor, Uumm Kulthum, Ida Lupino, Sujata Bhatt, Hannah Hoch, Big Mama Thornton, Hedy Lamarr, Kathy Acker, Asia Carreaだ。このうち、皆さんは、何人知っていますか?

 翻訳で面倒臭いのは、固有名詞をカタカナで表記することだ(もちろん、ほかにもいろいろと面倒臭いことはあるけどね)。読者であれば、ほんの数秒で読み飛ばしていくところでも、実在の人物の名前がどう発音されているのか、わからないとカタカナにできないので、調べなければならない。いい加減にやってバレなきゃいいんだけど、バレたらカッコ悪いので、あれこれ調べる。それがほんの数秒じゃ終わらないから大変だ。大変だけど、ちょっぴり面白い発見もある。知って得した気分になることも、たまにある。

 上記のリストで、正直なところ、最初にぼくが知っていたのは、ふたりしかいない。最初のフラナリー・オコナーと最後から二番目のキャッシー・アッカーだ。活躍した時代は異なるけど、共にアメリカ人作家で、エキセントリックでグロテスクな人間を書かせたら右に出るものはいない。前者が「キリストのいないキリスト教」を説く説教師のことを書いたり、後者が、父親との近親相姦を書いたりしてね。

 問題は、その他の女性アーティストだ。知り合いに訊きまくり、インターネットで調べて、二番目のオム・カルスーム(ウムともいうらしい)、六番目のビッグ・ママ・ソーントンが有名な歌手であることを知った。前者はアラブの「美空ひばり」らしい、いやそれよりずっと偉大かもしれない、ということが薄々ながらわかった。カイロ出身だけど、イスラーム文化圏で知らない者がいないといわれるほどだから。あるウェブサイトには、彼女の歌いぶりについて、「聴衆は一節終わるごとに感極まって「アッラー」と感嘆の声を発した」と書いてあった。どんな声してるのかよ、と聞いてみたくなった。そんなとき、文芸誌の編集者Hさんに中野のカルタゴというアラブ系の料理屋に連れていってもらった。俄仕込みのくせして、店の主人にオム・カルスームはあるか、と尋ねたら、十年くらい生き別れになっていた弟に会ったみたいに嬉しそうな顔をして、店に一個だけあったCDを掛けてくれた。ずっと昔の録音らしく、ラジオで大正時代の歌を聞くような趣だった。でも、うれしかったな。

 そのほかにも、三番目のアイダ・ルピーノと、最後から三番目のヘディ・ラマーは、イギリスとオーストリアと出身は異なるが、ともにチョー美人のハリウッド女優であり、映画監督(暗黒映画やポルノ映画)でもあり、四番目のスジャタ・バートはインド出身の詩人で、五番目のハナ・ホックはドイツのワイマール共和国時代の前衛画家であることなどがわかった。

 最後のエイジア・カレラのことは、最後までわからなかった。思い余って、著者に直接尋ねてみた。すると、「英語圏のアダルトサイトでカリスマ的な人気を誇るポルノスター」という答えが返ってきた。
 ぼくは、またそのアダルトサイトにアクセスしていない。

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紙の本テクスチュアル・ハラスメント

2001/07/02 18:17

前編広く知的活動をする男女のために書かれた「撃退マニュアル」

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本書は、ふたつのテクストから成り立っている。第一パートは、ジョアナ・ラスによるおもに英語圏における「テクスチュアル・ハラスメント」の実例集ともいうべきもの。そこに、訳者小谷真理による原著者と原著に関する丁寧な解説(イントロダクション「ジョアナ・ラスとは何者か」)がつく。第二パートは、「この批評(テクスト)に女性はいますか」と題された、53ページに及ぶ訳者自身の「テクスチュアル・ハラスメント」をめぐる評論である。もちろん、第一パートと第二パートとは相補的な関係にあるが、タイトルにふさわしい内容や読み応えといった点を考えると、本書の真骨頂は、第二パートにこそあるように思える。だから、単なる翻訳書と思っていると、はぐらかされるぞ。ある意味で、主と従が逆転した「倒錯的な」本なのだ。

そんなわけで、本の体裁としては、第二パートを先にもってきたほうが看板(タイトル)に惹かれて本書を手に取った日本の読者には、ストレートに入っていけそうな気がするが、でも、そうすると、男女の「性の非対称性」の打破を狙うこの本の変態的な試みの意味が薄れる。やっぱりクィアな主張は、用意周到なクィアな体裁をとらねばならない。ヘテロ・セクシュアルな(メインストリームにいる)男にとっては、中身と体裁で二重のワナが仕掛けられているのだ。そんなわけで、男でも女でも、「ストレート」な読者は第二パートから読まれることをオススメします。

まず、「テクスチュアル・ハラスメント」という語の定義だが、小谷によれば、フェミニズム批評の大御所エレイン・ショウォルターの編纂した本(1985年)のなかに、その語が登場するのだという。男の書いた古典文学(文学史を含む)および大衆文学のなかの女性蔑視・女性差別、すなわち「文学上の虐待」を「セクシュアル・ハラスメント(性的いやがらせ)」をもじって、そう名づけたらしい。その目的は、「従来の男性中心の文化的な価値観のなかでゆがめられてステレオタイプ化した女性像を再構築しようとする」ためだった。しかし、小谷はさらに突き進んで、女性の書いたものを評価する男の批評も怪しいとして、批評を批評するメタ批評の立場を取る。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2001.06.03)

  〜 書評中編へ続く 〜

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紙の本

紙の本群蝶の木

2001/05/14 15:16

グロテスク・ユーモアとリリシズムが奇妙に融合した短編集(書評前編)

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次の文を読んで、下線部について下の質問に答えよ。

目取真俊は、まだ四十代初めのニューカマー(これまで単行本がたった2作しかなかったという意味で)にすぎないが、短編小説という日本の伝統工芸において、すでに名人(マエストロ)の域に達しているといってもいい作家である。

これまでに活字になったものは、どれも完成度の高い作品ばかりで、技術的な破綻がまったくない。誉れ高き先達(せんだつ)の名を冠した文学賞をみごとゲットした『水滴』(1997)や『魂込め』(1999)だけでなく、未収録作品の「平和通りと名付けられた街を歩いて」(本土だって沖縄だって時の権力におもねる連中がいるが、そういった連中が目を剥くような「不敬小説」の傑作!『沖縄文学全集』第9巻を、チェケドアウト!)や、「魚群記」(カフカ的なグロテスク・ユーモアが効いている。同じく『沖縄文学全集』第9巻を、チェケドアウト!)にしても、読者がジェラシーを感じるほど、瑕(きず)ひとつない完成品です。

こんどで三作目になる『群蝶の木』は、完成度からしたら、これまでで最高かもしれない。ぼくは表題作「群蝶の木」が、一番好きだ。理由は、いろいろある。ひとつは、グロテスクなユーモアとリリシズムが奇妙に融合した短編で、目取真俊の特性があますところなくうかがわれるからだ。さらには、沖縄を多様に捉える形式的な特徴が見られ、たとえば、ふたつの対照的な視点から語られている点がいい。

本土(ヤマト)の人間は、沖縄をロマンチックに、あるいはエキゾチックに見がちだ。つまり、沖縄を本土の「外部」の存在として、一般化したがる。いわく、沖縄の人は気候のせいでのんびりしてる、海がきれいだから人の心もきれい、沖縄の人は誰でも音楽と踊りが得意、沖縄は貧乏だから米軍基地を必要としている……まあ、つづけていけばキリがないが、どれも本土の人間が沖縄に対してもつ「オリエンタリズム」だ。困るのは、そんな本土の人間が抱く固定的(ステレオタイプ)なイメージを沖縄の人も共有してしまうこと。それに対して、目取真の小説を読むことは、沖縄の多様性を読むことなのだ。沖縄の内部にも、「差異」が存在することを知ることなのだ。

「群蝶の木」の視点は、さきほども触れたように、対照的なふたりの人物である。三十代半ばの男性(義明)と、ゴゼイという名の九十近くになる身寄りのない老女。前者(義明)は、沖縄本島の北部の田舎の村の生まれだが、いまは県庁に勤めているので、沖縄ではエリートといえるだろう。また、義明の家は故郷の部落(シマ)でも由緒のある家で、御嶽(うたき)の近くにあるので、その家族は沖縄の典型的な内部人(インサイダー)といえるのではないか。先祖の位牌(トートーメー)は、長男である父が継いでいる。義明も長男なので、いずれ継ぐことになるだろう。先祖の位牌の継承をめぐっては四つのタブーがあり、フェミニストから女性差別的であることが指摘されているが、たぶんそんなことがこのインサイダーの家庭で問題にされることはないだろう。ただ、義明の高校の同級生Tの自殺や、友人兼城の家庭の悩み(ふたりめの女の子の出産を後ろめたく感じる妻)や、家長である義明の父の村一番の豊年祭への無関心にも暗示されるように、トートーメーや門中(同じ先祖をもつ父系の血縁集団)といった制度が人々の中に「病」のように巣食っていることがわかる。いくら形骸化していても、人々の心をがんじがらめに縛りつける力はあるのだ。 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2001.05.13)


  〜 書評中編に続く 〜

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紙の本ザ・ライフルズ

2001/05/05 06:16

歴史的現実と対峙する「シャーマン」としての小説家ヴォルマン。(前編)

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ビル、きみは小説の半ばを過ぎた頃に、ミルチャ・エリアーデの『シャーマニズム』の一節を引用しているね。むろん、この小説は、十九世紀の北西航路発見史をベースにしているから、それにかかわる膨大な参考文献からの引用が見られ、エリアーデからの引用は、単にその中のひとつにすぎないのだけども……。
「エスキモーたちは手足を切断した後に諸器官が再生するという恍惚的な体験を信じている。彼らが語るところによると、動物(クマ、セイウチなど)が候補者を傷つけ、ばらばらにするか、貪り喰う。すると候補者の骨のまわりからは新たな肉が育ってゆくという」

エスキモーたちは、なぜそんな「非科学的な」ことを信じたのだろうか。なぜ動物を植物と同じように見なして、切断した部分が「再生」するなどと信じたのだろうか。キーワードはエリアーデの「恍惚」という言葉のように思える。きみが本書の巻頭のほうに引用した言葉にもあるように、エスキモーたちは、「食糧や衣料に用いない動物を殺さない」という掟をもっていた。これは、かつての日本人の、獲った鯨は肉も骨もすべて無駄にしない、という姿勢に似ている。それに対し、北極圏にやってきたヨーロッパ人たちは、動物の数の多いことをいいことに、無駄に殺しまくった。「いや、あれほど高い緯度でもアザラシやセイウチが相当に多く、私たちはその扱いに困るほどだった。何千頭ものアザラシやセイウチが寝そべっているのだ。私たちはその中を歩きまわりながら、気の向くままにそれらの頭を叩き割って、神が作りしもののふんだんさに心から笑った」(ヤン・ウェルツル、1933年)エスキモーたちは、アザラシやセイウチと共存すべきであることを知っていたから、動物を無駄に殺さなかった。だからこそ、動物が再生するという「非科学的な」恍惚にひたることができた。十九世紀半ば、ジョン・フランクリン卿の率いられたイギリスの二隻の艦隊が氷の北極圏に閉じ込められる。肉の缶詰が腐っていることが判明し、やがて探検隊は棄船を余儀なくされ、人肉を食べて窮地を凌ごうとしたが、全員消息を絶つ。そもそもの過ちは、ビル、きみが指摘するように、「ミスター・フランクリンは知る者たちから学ぼうとしなかった」ことにある。フランクリン配下の者がライフル銃でエスキモーを殺したことがあった。運命の仕返しというべきか、フランクリンが亡くなったあとに、隊員たちは奇跡の脱出を試みたが、エスキモーに見捨てられ助けてもらえない。だけど、誰がフランクリンとかれの探検隊を責められるだろうか。現代に生きる者だって、同じ過ちを犯しつづけているのだから。むしろ、そちらのほうが重大な問題ではないだろうか。「冬のキャンプではダウンはほとんど役に立たない。それはイヌイットの間では常識で、そのことをサブゼロ(この人物は、きみの分身だね)も聞いたことがあった。彼はイヌイットの声を真摯に受けとめるべきだったのだ」 (bk1ブックナビゲーター:越川芳明/翻訳家 2001.05.06)

  〜 書評後編へ続く 〜

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