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  3. 岡谷公二さんのレビュー一覧

岡谷公二さんのレビュー一覧

投稿者:岡谷公二

30 件中 1 件~ 15 件を表示

笹森儀助の軌跡 辺界からの告発

2002/07/05 18:15

明治中期の沖縄を半年かけて旅し、名著『南島探験』を著して、柳田国男に大きな影響を与えた人物の評伝

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 笹森儀助は、『南島探験』(明治二七年)の著者として、一部の人々には知られている。この本は一旦忘れ去られたあと、柳田国男によって発見され、沖縄研究の古典となった。柳田自身、この本の感銘から沖縄に関心を抱くようになったと語っており、「島の三大旅行家」という一文では、白野夏雲、田代安定とともに笹森儀助をとりあげ、「三人の中では笹森氏の旅が最も豪快であった。独り旅程の遠く艱苦の多かったというのみで無い。何等官府の使命を帯びず、……単に一国の志士として、同胞生活の特に省みられざりしものを省みようとしたことは、其当時に在っても既に異常なる風格を以て目すべきであった」と激賞した。
 現在『南島探験』は、東洋文庫に入っていて、誰でも手軽に読むことができる。本書は、その校註者東喜望氏による儀助の本格的な伝記である。
 儀助は、学者でも、文学者でも、単なる旅行家でもなかった。彼を評するには、柳田の一文の中にある「志士」という言葉が一番ふさわしい。儀助が単身で半年にわたる沖縄旅行を敢行したのは、伊達や酔狂ではなく、南辺の国防の事情をさぐって、人々に実状を知らしめようとする愛国心からのことであった。その前年に軍艦に便乗して千島に趣き、『千島探験』(明治二六年)を刊行したのも、同じ目的からである。 儀助は、津軽藩の武士の子として現在の弘前市で生まれ、廃藩置県は県庁の役人となったが、事情あって役人生活を捨て、士族授産を目的として農牧社を設立、岩木山山麓に洋式の牧場をひらき、十年間その仕事に没頭した。しかしやがて農牧社の社長の地位を他人にゆずり、以後半年を旅で暮すことになる。
『南島探験』の旅は、真に死を賭しての大旅行だった。当時沖縄、とくに先島ではマラリヤが猛威をふるっており、その上ハブと舟旅の危険があった。マラリヤのため廃村寸前にまで追いこまれた石垣島の村々を訪ねてまわるあたりの『南島探験』の記述には、鬼気迫るものがある。
 彼は、『南島探験』の功により、明治二七年奄美大島々司に任命され、五年間その職にあった。その間、今でさえゆきにくい薩南三島やトカラ列島の島々を歩き、これまた現在においてもこれらの島々の研究の基本的文献となっている『拾島状況録』を書いた。そのあと彼は、東亜同文会の嘱託として朝鮮半島を歩き、晩年には第二代の青森市長となった。
 東氏は、青森図書館や笹森家に残る厖大な未刊の資料を精査して、この特異な人物の正確な伝記を書いている。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2002.07.06)

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ゴッホ オリジナルとは何か? 19世紀末のある挑戦

2002/04/09 22:15

ゴッホがサン・レミの精神病院時代に残した多数の模写作品の意味を問う、野心的なゴッホ論

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 ゴッホが生涯に、過去の巨匠たちの模写作品を多く残したことはよく知られている。とくにサン・レミの精神病院に入院していた間は、以前のように自然を描くために勝手に外出することもならず、肖像画のモデルもなかなか得られなかったので、模写をよく行った。これらの模写は、副次的なものとみなされ、美術史の上では無視されてきた。
 本書は、ゴッホにとって模写がどのような意味をもっていたのかを問い、彼の模写作品を、模写の歴史の中に位置付けようとした試みである。
 全体が三部にわかれ、著者は第一部において、模写の歴史的考察を行う。従来模写は、アカデミーにおける重要な教育手段であった。美術学校の学生たちは、美術館へ行って過去の名画を模写することをすすめられた。その際求められるのは、出来るかぎり原画に近づくことだった。このような模写を通じて学生たちは、巨匠たちの技術を学びとった。しかしこの場合、模写はあくまで真似であって、オリジナルではなかった。
 こうしたアカデミズムの規範に反抗し、模写を以て、過去の作品に対する画家たちの解釈であるとする考えが、ドラクロワ、クールベらを通して生まれ、後期印象派、とくにゴーギャン、ゴッホに至って定着した。
 第二部では、メインテーマであるサン・レミ時代のゴッホの模写作品が扱われている。彼にとって模写は、まず第一に、模写する作品、或いはその画家へのオマージュだった。彼はとくにレンブラント、ドラクロワ、ミレーを敬愛し、その強い影響を受けたが、模写の主たる対象も彼ら、中でもミレーだった。
 ゴッホの模写はほとんどが油彩だが、直接油彩の原画から模写したのではなく、白黒の版画・複製画を使った点が注目される。それは、精神病院に隔離されていて、美術館にゆけなかったからではなく、「制約されることなく、独自の模写の様式を創造しようという企て」に取り組むためだった。ゴッホは色彩こそ自己独自の表現手段とみなしていたので、過去の作品は、この色彩によって新たによみがえり、彼のオリジナル作品となったのである。
 第三部は「より広い文脈からの分析」と題され、ゴッホ以外の当時の前衛画家たち、セザンヌ、ルドン、ゴーギャンらの模写が論じられている。こうした模写の極点として、ピカソの「ラス・メニナス」その他の作品がとり上げられる。ここに至って模写は、模写というより、原画を利用した全く別の作品、すなわち換骨奪胎の域に達している。
 著者は、アメリカのセントルイス美術館の主任学芸員をつとめる女性。よくゆきとどいた、読みやすい本である。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2002.04.10)

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吐【カ】喇へ 都会の夢、島の夢

2002/03/12 22:15

日本に残された唯一の秘境トカラ列島をめぐった旅の記録

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 鹿児島と奄美群島の間に点々と浮かぶトカラ列島は、現在の日本の中で、たぶんもっともゆきにくい場所であろう。空路は全く開けておらず、交通は村営の「としま」丸──トカラ列島は、行政上は鹿児島県十島村に属している──に頼るほかはなく、その定期船も週三便しかない。私が二十年近く前に訪れた時には、島々に船の接岸できる港がないため、鹿児島港から最南端の島宝島まで実に丸一昼夜かかった。今は大分スピード・アップされているが、それでも十五時間はかかる。しかも海は名にしおう七島灘であり、冬場や台風シーズンには欠航することも珍らしくなく、一旦欠航となれば、三日四日と島に足止めされてしまう。実際私はそうした憂き目にあった。

 本書は、日本に残されたこの唯一の秘境を二週間かけて旅した紀行である。
 トカラ列島は十四の島々から成るが、有人島は七つだけだ。旧盆にアフリカかメラネシアのものを思わせる奇抜な仮面が現われる悪石島、かってヒッピーたちが共同体を作り、また或る大企業がリゾート地にしようとして撤退した、今なお噴煙を吐く活火山のある諏訪之瀬島、周囲わずか四キロ、人口四十八人、海岸に温泉が湧き、小楽園を思わせる小宝島、平家伝説の色濃く残る宝島………どの島もそれぞれに個性的だ。

 不便なだけに、大都会ではとうの昔に失われたものがまだ豊かに残っているこれらの島での人々とのふれあいを、著者はのびやかな筆で描いている。最近のトカラ列島を知るための好適なガイドブックと言っていいだろう。巻末には、冒険家野元尚巳氏と著者との「途上にて──旅、冒険、そして自由」と題する対談がのっている。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2002.03.13)

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バリ島芸術をつくった男 ヴァルター・シュピースの魔術的人生

2002/03/06 22:15

ヨーロッパを捨て、バリ島に住み、ケチャ・ダンスの考案をはじめバリ島芸術に大きな影響を与えた男の物語

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 バリ島に行ったことのある人なら、ヴァルター・シュピース(一八九五〜一九四二)という名前を必ずやどこかできいたはずである。バリ島を今日のように、世界中から観光客の訪れる「最後の楽園」に仕立てあげたのは、極言すれば、シュピースのせいだとさえ言うことができる。

 このロシア生れのドイツ人は、ゴーギャン、スティーヴンソン、ハーンらと同様ヨーロッパの生活に馴染むことができず、一九二三年単身ジャワ島に赴き、ついで一九二五年はじめてバリ島を訪れ、この地の幻想的なまでに美しい自然、ヒンズー教を信じる島民たちの心豊かな生活、彼らの伝える踊りや音楽──ガムラン──をはじめとするさまざまな芸術に熱狂し、ついにここを永住の地と定めて、絵師たちの村であるウブドに住んだ。
 彼は画家が本業だが、ドイツにいた時はサイレント映画の巨匠フリードリッヒ・ムルナウの美術アドバイザーとして映画にも関係し、また音楽家としてもすぐれた才能を持っていて、ジャワ島時代にはピアニストとして生計を立てていた。

 彼はバリ島芸術を愛して、そのすばらしさを欧米に向けて発信しただけでなく、自らもそこに参加して、バリの踊りや絵画に大きな影響を与えた。たとえば現在島の観光の名物になっているケチャ・ダンスは、ヨーロッパで大成功した。バリ島を舞台とするヴィクター・フォン・プレッセン監督の映画「悪魔の島」にシュピースが協力した際、伝統的なダンスをもとにして彼が考案したものであった。彼はまた、伝統的な様式で絵を描いていた島の絵師たちに、ヨーロッパの遠近法や画材を教え、島の絵画に新風を吹きこんでもいる。
 さらに『バリ島物語』を書いたアメリカの女流小説家ヴィキィ・バウム、バリ島に関する古典的名著の著者、メキシコ人のミゲル・コバルビアス、文化人類学におけるバリ研究の先駆『バリ島人の性格』その他で知られるグレゴリイ・ベイトソンとその妻マーガレット・ミード。これらの人々の仕事は、シュピースの存在なしには生れえなかっただろう。
 島民たちに慕われていた彼は、しかし第二次世界大戦中、同性愛者であることを理由にオランダ政府によって逮捕され、移送される途中船が日本軍の爆撃にあって沈没、非業の死をとげる。
 本書は、まとまったものとしては、この特異な芸術家に捧げられた日本で最初の本である。ただ伝記ではなく、バリ島芸術とシュピースの関係を論じたエッセイとして読むべきであろう。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2002.03.07)

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遠野物語の周辺

2002/02/04 18:15

柳田国男に佐々木喜善を紹介し、『遠野物語』の産婆役を果した明治の作家水野葉舟のこの物語をめぐる文集

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 柳田国男の『遠野物語』が、遠野出身の佐々木喜善からの聞書をもとに生れたことはよく知られているが、その佐々木を柳田に紹介し、佐々木の語るさまざまな遠野の怪異譚を同席して柳田とともにきき、自身でもそれを記録してあちこちに発表し、柳田より一足さきに遠野を訪れて「遠野へ」をはじめとする数篇の紀行文を残した水野葉舟という作家のことは、まだあまり知られていない。
 佐々木より三才年上、柳田より八才年下の水野葉舟は、最初は与謝野鉄幹の「新詩社」に属する歌人、詩人であり、明治四十年代には、男女の機微を描く洗練された都会的な作風の小説によって、流行作家と言っていい存在になった。早くから柳田の知遇を得、柳田が主宰者の一人である文学者の会合「竜土会」のメンバーでもあった。一方彼は、十代の終わりに一時キリスト教に帰依し、その経験から、「吾人の眼が見、耳が聞きする——五感の触接する世界以外に実に広く、且つ計りがたき大なる世界があると言う事」を思うようになり、超自然的な事象に強い関心をもって、怪談や幽霊話を蒐集するようにもなっていた。
 同じ下宿にいた佐々木と意気投合したのは、こうした怪談や幽霊話に対する共通の好みからのことで、水野はもう一人の同好の士である柳田の家へ佐々木を連れていったのである。

 本書は、水野の、『遠野物語』および佐々木喜善をめぐる文章、水野がその「心霊研究」のために集めた怪談を一冊にまとめたものである。『遠野物語』の成立を知る上での貴重な資料集であると同時に、佐々木との初対面の有様をいきいきと描く小説「北国の人」など、さすがに作家だけあって、文章自体もなかなか面白い。

 もう一つの読みものは、「怪談の位相」と題する編者横山茂雄氏の長文のあとがきである。その中で氏は、柳田、水野、佐々木の怪談や幽霊話への関心は、単なる個人的な好みではなく、当時の時代風潮であって、あちこちで怪談会が催されただけでなく、泉鏡花、長谷川時雨、小山内薫らに水野葉舟も加わって明治四十二年に『怪談会』なる一書が刊行されたり、心霊研究の書物が次々と世に出ている事実を指摘し、さらにこの風潮が、十九世紀末から二十世紀初頭にかけての「欧米での神秘世界探求の衝迫」と軌を一にし、その強い影響を受けていることを明らかにしている。とりわけ西欧におけるこうした風潮を代表するイギリスの歴史家、民俗学者アンドリュー・ラングの著作から柳田と水野が大きな示唆を受けていることへの言及は、これまでほとんどなされていないだけに興味深い。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2002.02.02)

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日本の巨樹・巨木 森のシンボルを守る

2001/12/28 22:15

日本の巨樹、巨木の現状を知ることのできるコンパクトな一冊

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 巨樹ブームだそうである。巨樹のなにがそれほど私たちを惹きつけるのであろうか? 幹まわりが幾抱えもある、あちこちに瘤のつき出た、どこかけものじみている楠や杉の巨木を眼の前にする時、私たちは、その逞しい生命力に圧倒されると同時に、それらの木々が立ちあってきた時間にも心をうばわれる。樹齢千年、時には二千年、三千年に達する彼らは、弥生時代や古代の人々の生活を見守ったのと同じ眼で、私たちを見ているのだ。長い時間の凝縮しているかのようなその姿には言い知れない魅力、いや、魔力さえある。

 本書の著者は、十四年にわたって巨樹を追い続けてきた写真家である。環境庁の調査を鵜のみにせず、自ら現地に赴いて幹周、樹高を計測し、そのデータにもとづいて日本全国の巨木ランキング、ベスト30の写真集を作った。基準は樹高や樹齢よりも幹周で、環境庁は、「地上1.3mの高さで幹周が3m以上のもの」を巨樹としているようだが、著者は幹周を5m以上のものとする。

 巨樹というと、誰しも屋久島の縄文杉を思いうかべるであろう。発見当時樹齢七千二百年とされ、それゆえ縄文杉という名前がつけられたのだが、今ではこの樹齢推定を否定する向きが多く、二千五百年が定説になっているらしい。この縄文杉は、ランキングの一位どころか、なんと十三位なのだ。一位は、鹿児島県姶良郡蒲生町にある蒲生の大クスで、幹周二十三米、樹高二十七米、樹齢千五百年で、ちなみに縄文杉の幹周は十六米である。二位は青森県北金ヶ沢のイチョウ、三位は熊本城のクスノキ群である。
 蒲生の大クスは、実際には痛みがかなり激しいようだが、写真からはそんな衰えは少しも感じられない。一樹を以て森を成す、という趣きで、その偉容は、まさに自然の奇蹟である。

 この写真集を見ると、ベスト30の大半が楠で占められているのがわかる。また著者は、巨樹が深山より人里近いところに多いという指摘もしている。それも寺社、とりわけ神社の境内が圧倒的に多く、三分の二近くがそうだ。巨樹は、日本人の信仰が守り育ててきた宝だと言ってもいい。
 「巨樹・巨木ランキング(ベスト30)」のほかに、データにかかわらず、著者のすすめる全国の巨樹「おすすめの樹」二十四本の写真も付け加えられている。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.12.29)

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波郷の肖像

2001/12/17 22:16

息子の眼から見た伝説の俳人石田波郷の心あたたまる日常の姿

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 石田波郷というと、数々の絶唱を残し、若くして貧窮のうちに結核で死んだ俳人、という印象を持っている人々が多いのではなかろうか? 彼については、伝記はもちろん、小説も辻井喬氏の『命あまさず/小説石田波郷』を含め二冊まで出版されていて、まさに伝説に包まれた悲劇の俳人、という趣きがある。
 本書は、風貌が父波郷に瓜二つと言われた長男で、かつて日本経済新聞の論説委員であった著者が、いくらか距離を置いて描いてみせた、日常の波郷の「肖像」である。著者はすでに『わが父波郷』を上梓していて、これはその続編だ。

 家族の前に英雄なしと言われるけれども、ここに見られるのは、平凡とは言えないにしても、亭主関白で、わがままな、ごく当り前の父親の姿である。それぞれ波郷の俳句から題名を採った十二の章から成り、一章一章がテーマに従って書かれ、そのテーマに沿う波郷の句が多数引用されていて、おのずから彼の俳句を鑑賞できる仕組みになっている。たとえば、ザボンの異名である「うちむらさき」の章では彼の食生活が、「懐手」の章では、彼独特のポーズであった懐手が、「木葉髪」の章では、やはり彼のトレード・マークであった長髪がとりあげられ、それらをめぐるさまざまな挿話が語られる、という風に。

 「病める身は時間金持萩に読み」にちなんだ「時間金持」の章では、彼の多くの名作の舞台となった江東区砂町を去って、練馬に移ったころの彼の日常生活が語られる。ついでに書き添えると、彼が若くして死んだというのはこちらの思い違いで、何度も胸の成形手術を受けながらも、彼は五十六才まで生きたのであり、貧窮の時期はあったにしても、このころになると、練馬に土地を買って家を新築するだけの財力を持ち、晩年は物質的には比較的めぐまれていたのを知ることができる。病む身ながら体力も回復し、庭にさまざまな木を植えてたのしみ、終日書きものや選句のために書斎ですごしたあと、夕方ステッキをついて散歩に出かけ、時には駅近くの飲み屋でひっかかって帰ってくる、というような落着いた、静かな生活を何年かは送っている。家庭の食卓では無口で不気嫌なことの多い波郷も、少し酒がまわると口が滑らかになり、テレビの歌謡曲にあわせ、「箸で茶碗を叩いて調子を取りながら、お世辞にもうまいとはいえぬ歌を歌うこともあった」という。
 そんなふだん着姿を知って、急に波郷が身近に思われてくる本である。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.12.18)

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物語「京都学派」

2001/11/26 22:16

西田幾多郎、田辺元を中心に集った「京都学派」の哲学者たちの群像を、第一級の資料を使っていきいきと描く

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 京都学派とは、広い意味では京大を中心にしたすぐれた学者たちのことであろうが、本書が対象とするのは、西田幾多郎、田辺元のまわりに集った哲学者たちである。下村寅太郎、戸坂潤、三木清、天野貞祐、高坂正顕、木村素衛、西谷啓治、高山岩男、和辻哲郎、九鬼周造、林達夫、唐木順三、波多野精一、山内得立……。つまり一時期日本の知性を代表していた人たちだ。

 西田幾多郎と田辺元の特色は、柳田国男の言う「翻訳学問」になりがちな哲学という分野において、西欧の哲学と対峙しつつ、自分の哲学を生み出した点であろう。それが伝統となって、二人の周囲にこれだけの人材が輩出したのである。
 人材輩出のもう一つの理由は、とりわけ西田の、京大の哲学科に、門下生だけでなく、外部からすぐれた学者をすすんで迎え入れたその度量の広さであろう。京都学派の二本柱の一人で、のちに学問上西田と鋭く対立するに至る田辺元自身、東大哲学科の出身であり、波多野精一も九鬼周造も、和辻哲郎もそうだ。彼らの多くは、西田に乞われて、京大へ移ったのである。
 京大にくらべ、東大の哲学科が振わなかったのは、哲学者としては二流の井上哲次郎が長く主任教授の地位を占め、学者としての実績よりも彼に対する貢献度を基準にして人事を行ってきたからだ、と著者は断言する。三木清も、戸坂潤も、西谷啓治も、みな一高出身なのに、東大哲学科、とりわけ「井の哲」こと井上哲次郎を嫌って、西田の教えを乞うため京大に入ったという。

 本書は別に京都学派の人たちの学問を紹介する本ではない。著者自身言うように、「肝心の〈学〉についてはほとんど語られていない」のであり、もっぱら語られているのは人間関係だ。京都学派が成立してゆく経緯が、さまざまな挿話を引きながら、面白く描き出されており、三木清の女癖だの、網野菊の小説にほれこんで、一面識もないのに手紙で結婚を申し込んで夫婦になった相原信作の話だの、あの謹厳で知られた田辺元あての某女性のラブレターだのが紹介されたりする。

 京都学派の裏話にはちがいない。しかし決して興味本位の本ではない。哲学がいかに抽象を旨としていても、その根本にあるのは人間だ、という認識が著者にあるからだ。
 著者は下村寅太郎の弟子であり、下村の死後発見されたその日記、西田、田辺らの下村宛ての多数の手紙といった、未発表の第一級の資料をもとにして書いていて、そのことが本書に精彩を与えている。

 もっとも印象的なのは、戦争中北軽井沢の学者村に疎開し、妻の死後も、弟子たちの切なる願いにもかかわらず、戦時中「思想者として果すべき責務を果さなかった罪に対する自責の念」から寒冷の地に一人ふみとどまって、死の哲学の構築に没頭する田辺元の姿であり、そのような田辺に惹かれてゆく、近くに住む作家野上彌生子との、七十才を越えての「恋愛」である。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.11.27)

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私の一宮巡詣記

2001/11/13 18:16

全国の一宮をめぐり歩いて、その原像を明かにしようとした著者の遺著

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 本書は先ごろ急逝した著名な民族学者大林太良氏の遺著で、雑誌『現代思想』に連載されていたものである。
 武蔵一宮は大宮の氷川神社、信濃一宮は諏訪大社、山城一宮は上下の賀茂神社というように、日本全国にわたって一宮と呼ばれる神社が存在する。現在でもそのほとんどが、その地方の崇敬を集める代表的な神社だ。このような制度、乃至取り決めがいつのころに定まったものか、著者の言うようによく分っていないが、平安時代初期にはその実を備えるようになっていたようである。ただし今でも一宮のはっきりしない地方、二つ、或いは三つの神社が本家争いのごときものをしている地方もある。北海道はもちろん、東北の青森、岩手、秋田の三県に一宮がないのは、当時、いわば皇威のおよばぬ蝦夷の地だったからであろう。

 一宮巡詣記としては、元禄時代の著である橘三喜の『一宮巡詣記』が有名だが、近年では文芸評論家川村二郎氏の『日本廻国記 一宮巡歴』(一九八七)がある。この二冊は実際に全国の一宮をめぐり歩いた記録だけれども、本書はやや趣きを異にする。もちろん著者は、その死のために果せなかった九州の一宮参拝をのぞいて、全国の一宮を実際に歩いてはいる。しかし本書の面目は、なんといっても文献の面にある。著者は、各神社に関する古今の文献をできるかぎり広く渉猟していて、そのため本書は一宮についての百科辞典といった体裁を帯びている。もう一つの特色は、そうした文献を通じて、それぞれの神社の原初の姿に迫ろうとしているところだ。
 一千年余の歴史を持つこれらの神社は、長い間に祭神がさまざまに変化した。元来はその土他の神や、その土地の豪族の祖霊を祀っていたものが、中古以来神道家と呼ばれる連中が介入して、どこの神社も記紀に登場する神々を祭神とするようになってしまった。著者は、積み重なった時代のヴェールを一枚一枚はぎとって、もとの信仰を復元しようとしているのである。たとえば、諏訪神社の祭神は公式には建御名方(たけみなかた)命だが、のちに上社の大祝につぐ神官となった、土着の豪族守矢家の祀っていた神が最初であろう、という風に。


 ただ、巡詣記と称しながら、著者が現地で、自分の目で見、耳できいた部分の記述が乏しいのが、読者としてはやや物足りない。もっともこれが、著者の学風なのであろう。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.11.14)

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交流する弥生人 金印国家群の時代の生活誌

2001/10/10 18:15

早くから漢字を習得し、東アジア世界の国々と密接にかかわりあっていた弥生人の生活を浮き彫りにする

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 金印国家群の時代とは、奴(なの)国王が後漢の光武帝から、「漢倭奴国王(かんのわのなのこくおう)」と刻まれた金印を下賜された時代、つまり弥生時代のことである。この一事からも分る通り、弥生の人々は、中国や朝鮮半島と密接に交流しながら生きていた。本書は、このような交流を視野に収めつつ、彼らがどのような生活をしていたか、どのような家に住み、どのような仕事をし、どのような着物や装身具を身につけ、どのようなものを食べ、どのような祭を行っていたかを詳細に跡づけたものである。主たる手がかりは、最近続々と発掘されつつある当時の遺物だ。日本のものだけでなく、中国や朝鮮半島の発掘品にまで目配りが利いており、その上『魏志(ぎし)』「倭人伝(わじんでん)」をはじめとする乏しい文献も、各地に今も残る民俗事象も、十二分に活用されている。

 以前『縄文時代の商人たち』という本が出て、ちょっと話題になったが、縄文人がすでに海をわたっての交易を行っていたことが最近明かになりつつある。弥生人は、縄文人が開拓したネットワークを受けつぎ、それをさらに拡大した。たとえば富山県の糸魚川に産するヒスイ製の玉類が日本全国、沖縄にまでゆきわたっており、一方日本では沖縄の海にしか生息しないゴウホラ、イモガイといった貝を素材とする腕輪が、北海道の弥生遺跡から発見される、といった具合だ。このようなネットワークがあればこそ、稲作とそれに伴う信仰や慣習が、あっという間に日本中にゆきわたったのである。

 著者は「あとがき」の中で、「書き終えて弥生時代における日本列島の同時性と斉一性についていっそう感を深めている」と書いているが、弥生人は、私たちの想像以上に、あまり地域差のない、共通な暮しをしていたらしい。
 弥生人の衣食住は、本書を見るかぎり、これまで考えられてきたより豊かだ。しかし彼らはただむつみ合って暮していただけでなく、時には激しく戦い合った。首を斬られたり、大腿骨を鉄刀でえぐられたり、頭に銅剣を突き立てられたりした、凄惨な戦いを思わせる遺体も見出されている。そしてこうした戦いも、東アジア全体とかかわりがあったのである。

 ともかく、日本側に文献が全く残っていないにもかかわらず、弥生人の少くとも一部が早くから漢字を習得し、漢字世界の国々と交渉を持っていたことを、私たちは本書を通じて知ることができる。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.10.11)

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奄美 神々とともに暮らす島

2001/08/14 15:15

奄美在住の写真家による、奄美の人々の暮しを内側がみごとにとらえた写真集。

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 奄美大島に生れ、しばらく東京で暮したあとUターンし、故郷の島々の暮しや風景を撮り続けている写真家による写真集。

 奄美諸島は、もともとは琉球文化圏に属しながら、早くから沖縄とは切り離されて、薩摩藩の直接支配下に置かれてきた土地である。しかし人々の生活の基層を濃く染めているのは、今なお沖縄の色彩だ。山が深く、平野がほとんどなく、それぞれの村が隔絶されていたために、観光地化されることも少く、それだけ昔がよく残っていて、沖縄よりも沖縄らしい、というところさえある。ずいぶん人数は減ってしまったとはいえ、かつては琉球王朝から任命された神女ノロが、まだあちこちにいて、島民の信仰の中心となっている。人々は神々を敬い、村をあげてさまざまな祭をとり行う。本書のかなめをなすのは、こうした信仰や、祭に関する写真だ。浜辺にひざまずき、白波のあがる珊瑚礁の彼方の濃青の海に向い、手を合わせて祈る白衣のノロたち、豊年祭で踊り狂う人々、加計呂麻島に古くから伝わる諸鈍芝居という村芝居──国の無形重要文化財──で、ユーモラスな仮面をつけて演技する人たち、洗骨のため、死者の髑髏を両手でかかえる男、トゥール墓と呼ばれる風葬の墓、巨木の、爬虫類のような気根が石の蓋にからみついている。苔むした古いノロの墓………どれも島に住む人でなければ撮れない、島の人々の内面と深く結びついた写真ばかりだ。しかもアングルは鋭く、一枚一枚が素材から離れて独立している。

 風景の写真もふんだんにある。奄美の手つかずの海のなんという美しさ、ここには小瀬戸内海と言える場所があり、太古そのままの海に島々が影を映し、深く入りくんだ湾の奥には、村がひっそりと緑にうもれている。そしてそうした湾の入口には、きまって、と言いたくなるほど、立神と言われる岩が屹立している。海の彼方から村を訪れる神が、足がかりにする岩なのだ。奄美では、自然そのものが神のためにできているのである。

 村の生活のスナップも楽しい、一人の白髪の老人が、土間で別の白髪の老人の頭を刈っている。店屋のない村では、人々は床屋をはじめすべてを自分の手でやらなければならないのだ。酷暑の昼さがり、日かげの縁台で談笑する人たち、巨木の下へ椅子に坐わった、堂々たる百才の男、老人、とりわけ老婆の顔がいい。東京や大阪のような大都会では決して見ることのできない、自然と一体となって生きてきた人々の、皺までが神からの授かり物であるかのような顔。

 少いけれども、名瀬の町の写真もある。豚足の並ぶ市場、深夜のバー、本土へ帰ってゆく先生たちを送る埠頭の風景。本書に一文を寄せているノンフィクション作家の小林照幸氏の言うように、奄美はもちろん一方で現代の島なのであり、携帯電話もパソコンも当然普及し、一家に自動車が二台は当たり前、といった面も持ち合わせているのだ。

 居ながらにして、南の潮風の匂いを胸一杯に吸うことができるような写真集である。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.08.15)

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朝鮮語を考える

2001/07/11 15:15

朝鮮語の普及につとめ、日本最初の朝鮮語大辞典を中心となって編集した著者の苦渋にみちた、感動的な軌跡

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 本書は、表題から、朝鮮語そのものについての本、つまり朝鮮語の起源、成り立ち、その歴史、世界の諸言語の中でのその系統、文法や語彙についての本、と受けとられるかもしれない。しかしそうではなく、テーマとなっているのは、終戦後から現在に至るまでの、日本における朝鮮語教育の問題である。

 著者は、早くから朝鮮語の普及につとめ、日本最初の朝鮮語の大辞典を中心となって編集した学者として知られている。朝鮮語の教育・研究は、英語、仏語、独語などの教育・研究とはまったく異なる局面を持つ。二分された半島の政治抗争が否応なしにそこにかかわってくるからである。そうした中で生きてきた苦渋の体験を著者は、本書でできる限り率直に書こうとしている。

 著者がこの本の出版を思い立ったのは、「まえがき」によると、同年輩の友人が立て続けに死んだことがきっかけであり、「四十年もの昔から発言できず、胸にたまって渦巻いているもの」を、今のうちに書いておこうと考えたからである。その点では、著者が最初につけた「朝鮮語四五年」という題の方が、内容に即している。
 といって、本書は書き下しではなく、七篇の旧稿を集めていて、中には四十年近い前のものもある。そしてそれぞれの文章のあとに「今読んで」という長い文章が加筆されており、両方を読むと、ここ数十年の変化が分る仕組みになっている。

 本書を読んでまず驚くのは、日本における朝鮮語教育のおどろくべき貧しさである。戦後すぐ、日本の大学で朝鮮語科をおいていた大学は天理大ただ一校のみであった。戦前東京外国語大学にあった朝鮮語科は、日韓合併の際、外国語ではないという理由で廃止されたという。終戦から十六年たった一九六一年の段階でも、朝鮮語を科目に置いている大学はわずか五校にすぎず、それも一コマか、せいぜい二コマにすぎなかった。
 四十数年前、京大の言語学科の学生であった著者は、「アフリカの言葉を学ぶようにして」、つまり、「辞書なし、参考書なし、教師なし」という状態の中で朝鮮語を学びはじめたのであった。著者は仕方なく朝鮮高校を訪ねて最初は聴講させてもらい、次には日本語の教師として教壇に立って、在日朝鮮人の中で、じかに、書物に頼らずに言葉を身に付けるのである。
 国立の東洋研究所にしばらく前まで朝鮮語の読める人間が誰もいなかったというのも、信じ難い事実だ。隣国であり、数千年にわたる深い交渉を持ち、少くとも古代において、文化の上で圧倒的とも言える影響を受けた朝鮮半島の言語──もちろん言語だけではない──のこれほどの無視は、批判されるべきであると同時に、日本人を考える上でのきわめて大きな問題である。

 付け加えておくと、日韓条約の締結、ソウル・オリンピック、NHKテレビの「ハングル語講座」の開設により、現在朝鮮語教育は飛躍的に普及してはいる。それでも全国津々浦々の大学・短大に設けられている英文科の数に比べると朝鮮語科の数はまだあまりに少い。
 著者は、南北どちらにも立場を持たず、朝鮮半島全体との友好に努めようとしている人である。そのため南北双方の支持者たち──日本人、在日朝鮮人──から「スパイ」「いぬ」「売国奴」などの悪罵を浴びせられた。政治に翻弄され、在日朝鮮人に対する、自分自身気づかぬ差別心、ことごとに突き当る在日朝鮮人の側からの「差別反作用」に悩みながら、著者は大学や市民講座を通し、身銭を切り、身心を痛めながら朝鮮語の普及につとめ、数多くの人々に支えられつつ、三十余年をかけて大辞典を編纂する、その足どりには、人の心を熱くするものがある。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.07.12)

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奄美の森に生きた人 柳田国男が訪ねた峠の主人・畠中三太郎

2001/07/06 18:15

奄美の峠に茶屋をひらき、周囲の森をきりひらいて理想の農園を作り、島民に慕われた隠れた偉人の生涯を発掘

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 柳田国男の有名な奄美・沖縄紀行『海南小記』(大正十四年)の中に「三太郎坂」という章があり、大正になってバスの通る新道ができたため、すっかりすたれてしまった旧道の峠の茶屋に老夫婦を訪ねる話が記されている。かつてこの旧道は、奄美大島の北と南を結ぶ唯一の道であり、人々の往来も多く、茶屋も繁昌した。夫婦は、薩摩藩の過去の圧制のため島では嫌われがちの鹿児島県人だったが、島中の人々から慕われ、彼らの住む峠は、主人畠中三太郎の名をとって三太郎峠、そこへ登る坂道は三太郎坂と言われた。この名前は今なお残っており、平成元年、峠の真下を貫通するトンネルが完成した時、一部の人々の反対はあったものの、三太郎トンネルと命名された。著者によると、三太郎峠の名は、すでに三太郎の生前から、国土地理院の地図にのっていた由である。

 彼がこれほど島民に敬愛されたのは、その人柄もさることながら、ハブの棲む森を切りひらき、島にはこれまで見られなかった茶や蜜柑の木を植え、椎茸を栽培し、超人的な努力を払って、峠の周辺に理想の農園を作りあげたからでもあった。峠のある住用村は、今では蜜柑の産地として知られ、一年に一度三太郎祭を盛大に行うという。それほど「世に聞こえた三太郎」(柳田国男)であるにもかかわらず、その正確な出生地も、前半生の履歴も、なぜ大島にやってきたかもほとんど分っておらず、尾ひれのついた伝説だけがいたずらに流布するだけであった。
 鹿児島県人の両親を持ちながら、父の仕事の関係のため奄美大島で生まれ育ち、終戦の年鹿児島へ引きあげ、成人してから南日本新聞社に入社し、一時は大島支社長を勤めた著者は、幼いころ父から三太郎の話をきき、のちに『海南小記』を読んで彼の運命に強くひかれ、その生涯をあきらかにしたいものと支社長時代からつとめてきたが、なかなか手がかりがつかめなかった。
 そんな或る日、父母の年忌のために久し振りに戻った川辺町の実家で、著者はなんと仏壇の中に三太郎夫婦の位牌が置かれているのを発見する。そして一人で実家を守る姉から、父母が、三太郎夫婦と親子に近い交わりを結び、その老後の世話をし、相つぐ二人の死後その位牌をあずかっているという事情をきく。こうしたふしぎな縁が三太郎と自分との間にあると知るや、停年退職した著者は、以後全力をあげて三太郎の研究に取り組む。そして本書は、その成果というわけである。
 著者は、ほんのわずかな手がかりをもとにして、まるで推理小説の謎を解くように、三太郎の謎に迫ってゆく。この過程が本書の読みどころ、とさえ言えるほどだ。こうして明かになった三太郎の実像はこうだ。
 三太郎は、著者の出身地と同じ川辺の旧家の次男として生れ、農業指導員として奄美にやってきたが、その指導の腕を買われ、住用の役場に雇われた。そして或る日、後に自分の名が付けられる峠に立ってその絶景に感動し、ここに農園を作り、かたわら茶屋を開くことを決意する。そして鹿児島から迎えた妻をを説得して峠に移り住み、何人かの人々の後援を受け、十年の歳月をかけて農園を完成した。深夜、寝ている彼の裸の胸の上をハブが通ってゆくような恐怖、イノシシたちの害、台風の猛威に打ちかってのことであった。
 新道ができてからも二人は峠に住み続け、そこで死ぬ。体を悪くした二人の老後を支えたのは、麓に住む村の人々や、著者の両親であった。実は父の兄が、新道建設の主任技師であり、新道開通による同郷人の困苦を見るに忍びず世話をし、島を去るに当って後事を弟に託したのであった。
 最終章は、柳田の奄美の旅の追跡に当てられていて、これはこれで、柳田研究のための貴重な資料となっている。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.07.07)

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神樹 東アジアの柱立て

2001/05/25 18:17

諏訪大社の御柱をはじめ、柱を立てて神を祀る民俗を、東アジア全体の民俗の中でとらえ直した好著

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 柳田国男は、一国民俗学をとなえ、わが国の民俗を表面の相似だけから、他の国々の民俗と安易に比較することを嫌った。そうした比較は、日本の民俗についての知識を正確なものにしてからの話だと彼は考えていたのである。
 日本の民俗学界は、柳田の一国民俗学説にいまだに忠実で、或いは災いされているか呪縛されていて、一地方乃至一地域、場合によっては一つの村の民俗だけを掘り下げてゆく人が多い。萩原秀三郎氏は、その点では異色で、フィールドが広く、とくにミャオ族その他、東アジアの少数民族の調査を通して日本の民俗をかえりみる、という立場をとっている。一方氏は、民俗写真家としてもよく知られた人である。本書は、そうした氏の近年の成果の集約と言っていい。

 日本人は、高くそびえる神樹を依代(よりしろ)として神が祭りの場に下りてくる、と信じてきた。神樹の代りに柱を立てることもある。ともかく神樹や柱は祭りには不可欠だ。「柱を立てることが、カミゴトの始まりで、祭りの中心」だ、と氏は言う。本書は、このような民俗学におけるもっとも根本的なテーマをめぐって展開する。

 最初にとりあげられるのは、諏訪大社の御柱だ。上社、下社のそれぞれ二つの社殿の四隅にそびえ、六年毎に勇壮な、時には死人さえ出る危険な祭りとともに建て替えられる十六本の巨木については、これまでさまざまなことが言われてきた。ほとんどの説が四本という数にとらわれているのに対し、萩原氏は、柱は元来中心の一本だけであり、四本は中心の柱と守護するものにすぎない、と言う。中心の柱は、今は社殿には見られないが、現在でも上社で行われている御頭祭の祭場の中央に立てられる御杖柱がそれに相当する。
 氏はさらに諏訪地方を含め信州に多い、小正月の道祖神祭に立てられる柱と御柱の親近性について論じる。道祖神は、境を守る神であると同時に性神でもある。諏訪大社は国譲りに際して建御雷神(たけみかずちのかみ)と戦って破れ、諏訪に逃れてきた建御名方神(たけみなかたのかみ)を祀るとされるが、こうした親近性からして、御柱に下りる神は、縄文時代以来この地方で祀られてきたミシャグジの神であろう、とする。
 このような視点が導き出されてくるのは、中国の南西部から北部タイにかけてのミャオ族をはじめとする少数民族の間にも同じ民俗があるからだ。彼らは正月に柱を立て、これをめぐって男女が恋の歌をかけ合い、ミャオ族の場合、祖先神があらわれて、子授けに若い女の尻を叩くのである。

 つづいて、こうした少数民族や中国東北部からシベリアにかけてのシャーマニズムを信じる人々の習俗をふまえ、このような柱は、天と地を結ぶ宇宙樹であろうという説が提出される。これは、日本民俗学ではあまりみられなかった目新しい見方だ。そしてこの宇宙樹を中心にして、太陽信仰、鳥と竜蛇の信仰が多くの例を引いて説きすすめられてゆく。

 この宇宙樹の出発点に茅があり、茅の輪をはじめとする、わが国の神事において、この植物がかってはきわめて重要な役割を果してきた、という指摘は興味深い。たとえば九州南部から沖縄にかけて、海の彼方から神々が訪れるという、いわゆる来訪神の信仰があるが、この神々は、今でこそワラを身にまとって現われるものの、かっては茅であったろうと著者は言う。実際ミャオ族の来訪神も茅をまとっているのであり、鹿児島の村々にもいまだに茅で草装する民俗が残っているのだ。

 最後に銅鐸の問題がとりあげられ、祭の時に宇宙樹の杖にかけられていたとされる。
 多数の写真が挿入されていて、本書は、読む本であると同時に見る本でもある。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.05.26)

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韓国古寺紀行 日本仏教の源流を訪ねて

2001/03/21 12:15

韓国全土の名刹をくまなくまわって歩いた一人旅の紀行。韓国の人々の心の優しさが印象的。

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 著者は、東南アジアを中心に海外を広く歩きまわってきた旅行作家であり、仏教信者でも仏教の研究家でもない。ただ飛鳥を愛し、その寺々の源流が朝鮮半島、とりわけ百済にあると知って、韓国全土の古寺を一夏かけて一人で歩きまわってきた。これはその紀行文である。
 本書を読むと、韓国の仏教の現状がよくわかる。韓国は儒教の国として知られているが、それ以前はもちろん仏教が中心であった。李朝の興儒廃仏政策により仏教は弾圧され、都会から追放され、山へと追いやられた。今でも町中の寺というものはほとんどなく、寺は山、それも人里を遠く離れた深山に立地している。だから寺めぐりは山めぐりであり、寺へゆくとは、韓国の人々にとって山登りと同意であるらしい。といっても、名刹の門前までは必ずと言っていいほどバスが通っているので、不便はない。
 韓国の仏教の、日本の仏教とのもう一つの大きな相違は、寺が葬式にかかわらないことである。葬式は儒教の慣習に従って行われ、僧侶が立ちまじることはない。だから寺は、世外の清浄な地にあって、ひたすら信仰と修行の場所となっており、しかも人々に対して開かれている。本書を読むかぎり、韓国の仏教の方が日本の仏教よりも、宗教としてずっと生きているように感じられる。
 韓国仏教の大方が曹渓宗と呼ばれる禅宗であり、他の宗派の寺や僧侶はきわめて少ない、ということも、私は本書ではじめて知った。
 著者はソウルでまず曹渓宗の総本山曹渓寺をたずねたあと、本島の西部を南下して、公州、扶余などかつての百済の地をめぐり、さらに南下して嶺南の地に至り、慶州その他新羅の古都を見て、今度は東海岸を北上、そして再びソウルへ戻っている。その間訪れた寺は三十ヶ寺にのぼる。韓国の寺は、どこも美しい環境の中にあるが、壬辰倭乱(文禄・慶長の役)をはじめ度重なる戦乱や例の興儒廃仏政策のため何度も火災や破壊にあっているので、木造ものは、建物も仏像も、古いものはほとんど残っていないという。最古の木造建造物が十四世紀初頭の建立にかかる修徳寺の大雄殿なのだから、推して知るべしである。その上仏像は、金ぴかに塗りたくるのをよしとするので、古色を尊ぶ日本人の眼にはいささか異様に映るようだ。
 日本では、禅宗の寺というとつきものに近い庭園が全くないというのも、人々が仏像に向って坐禅を組むというのも面白い。同じ大乗仏教ながら、韓国と日本では、あり方が場合によっては随分と違っていて、それぞれの国柄を考える参考になる。
 著者は、英語は達者ながら、ハングルの方は辛うじて読むことができる程度だというのに、一人で旅していて、あまり困ったり、不便を感じたりしている様子はない。日本人に対する敵意や反感に出会う個所も皆無である。日本人とみると、人々は寄ってきて話しかけ、案内してくれたり、時にはお茶までも振舞ってくれる。こうした親切に助けられて、著者はのびのびと旅をしている。本書の中で一番印象に残るのは、韓国の人々─とりわけ地方の─の心のこまやかさと優しさである。
 文章は読みやすく、韓国の寺だけでなく、仏教全般についても恰好の入門書になっている。 (bk1ブックナビゲーター:岡谷公二/評論家 2001.03.21)

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