高橋洋一さんのレビュー一覧
投稿者:高橋洋一
猛虎伝説 阪神タイガースの栄光と苦悩
2001/11/20 22:16
わが国のプロ野球を巨人と共に主導し、数々のスターを生んだ熱血球団タイガースの再奮起を願う応援の書
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阪神タイガースというのは不思議なプロ野球チームである。若林忠志、別当薫、藤村富美男、吉田義男、小山正明、村山実、江夏豊、掛布雅之、ランディー・バースら綺羅星のごときスター選手を輩出し、日本のプロ野球を巨人と共に主導してきたにもかかわらず、どこかしらその存在は劇画的な雰囲気で、今ひとつ現実から遊離して、「阪神」的な現実を形作っているという印象があるのだ。それは、つい昨年まで、チームの四番であった新庄選手がいとも気安くアメリカ大リーグへの移籍を果たし、しかも大方の予想を裏切って、かなりの活躍をしているという「新庄現象」などからも実感できるのではないか。
熱血、一匹狼的雰囲気、独特のダンディズム、負けん気、一種の超人主義のようなものが、これら往年のスター選手たちの存在から感じ取れるのである。一見、お調子者のような新庄からも、のせると怖いぞと思わせるような、ある種のオーラが発散しているように思える。新庄の場合、阪神球団から提示された高額の契約金を蹴って、新人選手のような契約金で、メッツに入団を決めている。それに、確か新庄本人が言っていたと記憶するが、大リーグで成功したら、いずれ阪神に戻りたいというのである。阪神ファンが聞いたら大感激しそうな言葉であるが、新庄をしてそう言わせるような計り知れない魅力のようなものがやはり阪神タイガースにはまだあるのだろう。
上田賢一著『猛虎伝説』は、阪神ファンでない、いわば部外者からすると何か理解しがたい魔的な吸引力を持ち続け、ファンからしても理屈抜きでいとおしいであろう老舗球団・阪神タイガースの歴史を、その拠点である甲子園球場が誕生した1924年の前後から21年ぶりのリーグ優勝で初の日本一に輝いた85年、そして10年間のうち実に6年が「最下位」という成績で終わった90年代まで、一ファンの立場から振り返っている。
36年、名古屋軍、東京セネタース、阪急などを含む7チームで「日本職業野球連盟」が結成され、プロ野球初の公式戦が始まり、巨人・タイガースの二強時代に入る。巨人の伝説的投手、沢村栄治と、タイガースの伝説の強打者、景浦将らを中心としてプロ野球創世記のドラマチックな物語が構成されていく。
37年には日中戦争が始まり、43年には、甲子園球場の大鉄傘も海軍の軍艦建造のために取り外された。敗戦後の46年からプロ野球の再建が始まり、47年には甲子園の米軍接収解除が決まり、サード藤村富美男、キャッチャー土井垣武らを中核としたタイガースのダイナマイト打線の活躍が始まる。悲運のエース、村山実、巧投・小山の時代を経て、豪腕・江夏、田淵、掛布、バースらが活躍、数々の奇跡を生んだ熱血タイガースの時代となる。本書は、こうした奇跡の再現を願う虎ファンの応援歌である。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.11.21)
板谷波山の神々しき陶磁世界
2001/11/09 18:16
波山の陶芸が開示するモダンな感性と、禅にも通じる深い内面性が一体化した美の世界を展望できる作品集
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陶芸の魅力は、一般的には、アートとして、生活の実用品としての双方の要素が渾然一体となったところから生まれてくるのではあるまいか。だが、とりわけ優れた陶磁器においては、その芸術性の独自さによって魅力の内実が目に見えるものとなる場合が多い。来年没後40年を迎える孤高の陶芸家・板谷波山(いたや・はざん=1872−1963)の遺した仕事がまさにそうしたケースに当たるだろう。
荒川正明著『板谷波山の神々しき陶磁世界』は波山の陶芸作品が開示するモダンな感性と、禅の精神にも通じる深い内面性とが一体化した美の世界を存分に堪能させてくれる。 波山は、明治5年、茨城県下館市に生まれた。父は、雑貨商を営む商人だったが、文人趣味の粋人で、茶道にも造詣が深く、そのため幼児から陶器類に親しむ機会が多かったという。父親所蔵の茶器を眺めて「尊く美しいやきもの」への憧れを深めたとも言われ、波山の陶磁器への思いには、茶の湯の価値観がその根底にあったといってよいであろう。
礼儀作法の形や、そうした形を律する人々の精神性の深み、伝統文化への敬意などが波山には自然に会得されていたのだろう。
東京美術学校での恩師・岡倉天心が志向した芸術の近代的創造と日本の伝統との止揚という理念の影響もあったはずだ。波山は、彫刻科の出身ということもあり高村光雲からの直接指導で、本格的な木彫りの技法をマスターしていたことが、木彫りの薄肉彫りの陶器作りへの応用となって生き、立体性に優れた文様描写を可能にし、彼の独自な作風の重要な構成要素となっている。
また明治30年代に日本国内でも大流行した西欧のアール・ヌーヴォー様式からも、枝や蔓が絡まり合い、葉が重なり合うといったデザインを彫刻の技法によって陶磁器に取り入れるなど、進取の気性に富み、同時代のフランスの有名なガラス作家エミール・ガレの作風を陶芸で独自に表現したようなモタニズムも、波山の現代的な一面であった。このほか、釉下彩(ゆうかさい)といって、釉薬の下の素地に、液体状の絵の具を直接染み込ませて彩色する、西欧の絵画に使われる技法を取り入れ、陶磁器の肌の微妙な色の変化を表現することを可能としたことで、日本の陶磁器の伝統である筆によって描かれた文様の平面性を克服し、文様の立体性と色彩の幅を獲得した。
生き生きとした質感のある優雅な形態を示す「八手葉(やつでは)花瓶」(明治40年)、本物の熊笹を貼り付けたかのような立体感を薄肉彫りで表現した「彩磁笹文花瓶」(大正5年)、優雅なS字型曲線で草花のモチーフを表現した「彩磁草花文水指」(昭和28年)など、いずれも波山の陶磁作品の魅力をよく示している。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.11.10)
光さす故郷へ
2001/11/06 22:16
戦争に翻弄された一日本女性の生きた個人史が見事に再現され、戦争の横暴さ、理不尽さを浮き彫りにしている
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それは、朝比奈あすかさんが19歳の時に、父親の実家である静岡で執り行われた祖父の通夜の席の時であった。儀式が終わり、簡単な酒盛りが始まったその席で、朝比奈さんは祖母の菊枝から、彼女の80歳にもなろうとしている姉を紹介された。
大伯母にあたるその小柄な老女は、人の良さそうな笑みを浮かべ、しわくちゃな顔の中の丸い目を優しげに細めている「可愛らしい」人であった。あすかさんが通う大学生活のこと、祖父母についての共通の話題などを話しているうちに、やがてお開きの時間となったが、お互いになんとなく去りがたい気持ちになった。いよいよ東京に家族で帰るという日、あすかさんは一人で大伯母の家を訪れる。耳鼻科医の妻だったという彼女には子供が4人、孫が9人もいるという。話をするにつれて、大伯母は40歳になってからの再婚で、初婚は22歳の時だと分かる。
好奇心のままに質問を重ねるうちに、彼女の繰り広げる想像を絶した話の虜になり、あすかさんは、その晩彼女の部屋に泊まり、朝まで話し込んだ。
大正9年生まれの大伯母、西村よしの話とは、満州国歩兵中尉の妻となって満州に渡り、そこで敗戦を迎えた一日本人女性の、激動の時代に巻き込まれた凄絶な体験記であった。あすかさんは、この大伯母の話に圧倒され、激しく心を揺さぶられ、何らかの形で本にしたいと思った。
朝比奈あすか著『光さす故郷(ふるさと)へ』は、このようにして世に出た。よしは、昭和18年、22歳で同郷出身の軍人の大石寅雄と結婚し、夫の赴任先の熱河省の大富豪の邸宅中に新居を構える。豊かな自然に囲まれ、すべての面で恵まれた生活を送る。長女の初代も生まれた。
平穏な日々は、昭和20年の8月9日夜に崩壊する。家主の張文壇が、ソ連軍の奇襲を告げ、彼の娘に成りすまして留まることを勧めてくれたが、よしは乳飲み子の初代を連れて、内地に戻ることを決意し、張のもとを去る。夫は軍務のため不在で、生死も不明だ。
朝鮮の手前の安東市の満鉄病院で終戦の玉音放送を聞く。病院は八路軍に接収され、国民党と共産党との内戦に巻き込まれていく。豚の餌のような食事しか与えられない最悪の環境下、病院の付き添い婦として働き、21年7月25日深夜、他の日本人たちと脱出する。険しい山道を赤ちゃんを背負いながらの凄絶な5日間の逃避行の末に、ようやく日本への引き上げ船に乗るが、上陸直前に初代は2歳半の幼い命を終えた。
ここには、戦争に翻弄された一日本女性の生きた個人史が鮮やかに再現され、戦争の横暴さ、理不尽さを浮き彫りにしている。戦争について一人一人が考えるに何よりも適した教材である。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.11.07)
東京少年昆虫図鑑
2001/11/01 22:15
東京やその周辺の自然で親しんだ数多くの昆虫についての周到で愛情のこもった記述と細密な挿絵が楽しい。
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東京都内にトンボ、蝶などの昆虫が少なくなったのは、都市化につれて、用水路が整理されたのと、空き地という子供にとっての身近な遊び場、昆虫にとっての立ち寄り場所が極端に少なくなったことと関係しているのではないだろうか。
団塊の世代の真ん中に身を置く者として振り返ってみると、少年時代には、まことに数え切れないほどの昆虫が身の回りにいて、彼らの幾つかとは遊び友達に近い付き合いをした思い出もある。
泉麻人・文、安永一正・絵による『東京少年昆虫図鑑』は、かつて東京や、その周辺地の自然で親しんだ数多くの昆虫たちについての周到で、愛情のこもった記述と、細密で生き生きとした挿絵で、少年時代の昆虫遊びにまつわる記憶を蘇らせてくれた。
この昆虫図鑑に収録されていない昆虫で、懐かしいのはオケラ、ゲンゴロウなどだ。
オケラは、よく床下の日当たりの悪いあたりにのろのろと姿を現した虫で、大きさは大人の小指の半分程の丈で身体の割には大きなグローブ状の両腕を持っていて、それで土を掘ってよく地中にもぐっていたと思う。地上に出たときに捕まえ、「お前の大きさどーのぐらい」と聞くと、まさに「こーのぐらい」といっているような雰囲気で両腕を左右に広げる愛嬌のある虫であった。
ゲンゴロウは、外見が似ていて小柄な種類があり、名前は忘れたが、川などで捕まえて、ガラス瓶に水を入れて泳がせ、小さく切った紙切れを水に入れると、紙が底に沈みそうになったころに捕まえて上に持ってくる“技”が巧みで見ているだけで楽しかった。
この「昆虫図鑑」にも登場するオニヤンマには痛い思い出がある。まさに著者がいうように「男の子にとって、昆虫界の王様というと、やはりカブトムシ、クワガタといった昆虫類になるのだろうが、彼らと比肩するような位置に、トンボ界の王者・オニヤンマ」がいた。湘南地方の藤沢で夏を過ごした少年の日、友人と川に近い広い空き地でオニヤンマを見つけ、捕獲したが、その頑丈な口で人差し指の先端を咬まれ、思いがけない痛さに驚き、捕まえた手を離してしまった。
大人たちが「蚊トンボスミス」と呼んでいた、吹けば飛ぶようなイトトンボは、川のほとりの細い水草などによく留まっていた。精緻に作られた虫のロボットのような独特の印象が残っているのが、コンピューターグラフィックスで描いたように奇麗な色彩の身体と大きな複眼を持つ斑猫(ハンミョウ)という甲虫。鎌倉の小道をハイキングしているときに初めて見た記憶がある。
今回この「昆虫図鑑」を見て幾らかほっとした。東京都とその周辺にもまだこれだけの虫たちがまだ棲息しているのだ、と。身近な昆虫を探して元気になる。そのための素敵な本である。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.11.02)
東京残影
2001/10/24 22:16
東京に関わった誰もが持つ記憶・残像を作家たちの東京についての文章や自らの街歩きを通じて浮き彫りに
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川本三郎の『東京残影』を読みながら、無線好きの少年だったころ、秋葉原までいつも都電で通っていたことを唐突に思い出した。当時は、まだトランジスター・ラジオもどんどん新製品が出る時代で、秋葉原の電器街にも“旧世代”代表の真空管と、“新世代”代表のトランジスターが無秩序なまま混在していた。60年安保世代の柴田翔が書いた印象深い小品「ロクタル管の話」に登場するロクタル管も、確かにその電器街で売られていた。
その2、3年前まで住んでいた、東京・大田区御園町(現在は違う町名になっている)の目蒲線沿いの小さな我が家の前にある広場には、江戸火消しの名物、纏(まとい)をしまう倉庫があり、確か年に1回ほど初夏のころに、昔ながらの火消しの装束をまとった威勢のいい若衆がその広場に集まり、火消しに使う長い梯子に昇って、景気づけの軽業を披露してくれた。
周囲には、敗戦の戦災で焼き出された痕跡をとどめたようなブリキ葺きの屋根の寄せ集めた木材で作った粗末な住宅が多く、戦後の世相の名残を留めていた。蒲田の駅前広場には、高い台に乗った扉が観音開きになる大きな白黒テレビが設置されていて、当時はやりのプロレスや大相撲の中継に見入る人々でごったがえしていた。
『東京残影』は、このように東京に生まれ、あるいは関わってきた人であれば、誰でもが「東京」に対して持っている「記憶」「思い入れ」「残像」を、「東京について語った物語について語る」ことが好きな過去追慕主義者(パセイスト)としての立場から、現在に蘇生させる試みの集成である。
「東京について語った物語」が二重化されることで、一種の韜晦(とうかい)作用を経た「東京」は、幻影の街に変容する。
東京オリンピックのころまで工場地帯であった江東区など下町を描いた山田洋次監督の『下町の太陽』や、北千住にあった東電火力発電所の通称“お化け煙突”を描いた五所平之助監督の『煙突の見える場所』に原初的な下町のイメージを見いだし、東京・葛飾区生まれの漫画作家・つげ義春の生き方に「下町ですらない、場末的な魅力」を発見する。
さらには、つげの世界に「隠者願望」を見、「彼は路地裏の散歩者」と断じ、その隠者的生き方の中に、明治以来の性急な西洋化、近代化を嫌い、古い江戸文化や江戸情緒を愛した「日和下駄」「すみだ川」の作者である永井荷風と通じるものを認める。
一方で、川本は、「都市の新しい風俗を愛する者の目で書かれた小説」の創造者として1930年代のわが国モダニズム文学の寵児だった龍膽寺雄(りゅうたんじ・ゆう)への親近感を明らかにする。東京の下町の街並みを語りながら、荷風、龍膽寺、佐藤春夫、谷崎潤一郎、久世光彦といった作家たちの作品に内在する「都市のイメージ」を抽出していく手際は魅力的である。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.10.25)
ホラー・コネクション
2001/10/23 22:16
ホラー小説の第一人者が、敬愛するミステリーの大御所、都筑道夫や若手の岩井志麻子らとホラーを縦横に語る
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「恐怖」とは、古来より人の内面を構成する根源的な感情であり、「喜び」「愛」「悲しみ」とともに幼時から人に絶えず内在する重要な心の状態ということがいえるだろう。現代において、こうした「恐怖」は複雑化した社会のあらゆる断面に、そのような社会に巻き込まれている個人個人の内面に潜んでいる。その具体化された表象のひとつとしてホラー小説が盛んに読まれるのであろう。
『高橋克彦ホラー・コネクション』は、現代ホラー小説界の第一人者である高橋克彦と、ホラー界を主導してきた大御所・都筑道夫をはじめ、荒俣宏、岩井志麻子、小池真理子、宮部みゆきら作家7人が、「恐怖」をテーマに、心霊現象や、現実の恐怖体験、ホラー界に足を踏み入れたきっかけなどを縦横に語り尽くす、スリリングで興味深い対談集。
神秘学、博物学関係の著作が多い荒俣宏が「いまは、『たたるよ』といっても実際に何かが起きなければ、みんな納得しない。・・・なぜかというと、祟りが起きたときに、祓ったり、鎮めたりする人がいないからです。だから認められない」と指摘すると、高橋は「怖さというのは、解決しようという発想からは生まれませんからね」とあいづちを打ち、二人ともに、座敷わらしに会えることを願って対談を終える。
第二作「岡山女」が直木賞候補にもなったホラー界の新星、岩井には、なぜホラー作家になったのかを聞き出そうとする。
「小説というものを私は畏怖していますから・・・ホラーと限定してしまうと、そこでぬくぬくと書けるんじゃないか・・・でも、もっと簡単なことを言えば、私の中では単純にホラーってカッコいいものだからなんです。人の心を一番ゆさぶるもの、強く支配するものって恐怖だと思うんですね」という岩井の言葉に、高橋は「日本で『ホラーしか書きません』って明確に表明したのは、おそらく志麻子君が最初なんじゃないかな。・・・そこをきちんと語っていかないといけないのよ」と熱いアドバイスを送る。
わが国のミステリー紹介の草分けで、『南部殺し唄』など数々の人気ミステリーを生んだ都筑に対し、高橋は都筑の小説が一番好きと告白し、「怪奇小説が好きになったのも、たぶん、先生の影響」と都筑作品への熱烈な思い入れを隠さない。
「怪奇小説というもののいちばんのよさは、ふつうの人が口にしない夢の話とか、そういう裏側だけを書いて、その表側、つまり、社会と接している人間の生活を、読者に全部想像させることができるところじゃないか・・・という気がするんです」と都筑が方法論の一端を吐露すると、高橋はそこに改めて怪奇小説を書く難しさを確認する。
全編、ホラーに入れあげている作家同士のホラーへの熱き思いがにじみ、引き込まれてしまう。まさに好きこそものの上手なれ、の世界である。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.10.24)
青いバラ
2001/10/18 22:15
世界の花愛好家たちが長らく夢見てきた青いバラは果して生まれるのか。その壮大な夢探りへの試みの書
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菊、バラ、カーネーションは世界の三大切り花とされ、切り花マーケットの半分以上を占めているという。バラだけに限定しても、世界の切り花市場は約2600億円に上る。これら三大切り花のいずれにも青い花がない。青い花そのものが世界でも少ないが、とりわけ熱狂的な愛好者がいるバラの世界で、青いバラが出来る可能性はあるのだろうか。
最相葉月著『青いバラ』は、古来「不可能の花」と言われてきた“青いバラ”の誕生は可能なのか、可能とすればそれは具体的にどのような方法でアプローチがなされてきたのかを、最新の遺伝子工学の成果なども視野に入れながら探っている。
わが国には独自の伝統園芸の文化があり、それを背景に、多くの育種家たちが、さまざまの優れた、美しいバラを世に出してきた。これら日本の育種家だけでなく、世界中の育種家たちが、なんとかして青いバラを作り出そうと育種上の多様な試み、努力を重ねてきたが、結局のところは、藤色かラベンダーの系列のバラしか生まれていないのである。
例えば、1957年には、ラベンダー色のバラ、「スターリング・シルバー」が、アメリカの女性育種家グラディス・フィッシャーによって発表され、世界のバラ愛好家を驚喜させた。これは、1870年ごろにバラ栽培を始めたアイルランドの名家、マグレディ家のマグレディ四世が、それまでマグレディ家が作ってきたバラを交配親として1944年に作り、大戦後に発表された「グレイパール」という“青いバラの元祖”の遺伝要素を受け継ぐ方向の中で生まれた品種であり、世界の育種家の多くは、こうした流れの中で、それぞれに自分の“青いバラ”を作りだそうとしていたといえるだろう。
だが、世界中のバラ育種家の努力にもかかわらず純正な「青いバラ」は作り出せなかった。バラには青い色素デルフィニジンを作る遺伝子が存在しないために、従来の育種方法では、青いバラは作れなかったのである。
そうした中で1991年、オーストラリアのバイオ企業が、ある花から青い色の遺伝子を取り出すのに成功したという報道がなされた。「今後、デルフィニウムから青い色の遺伝子を取り出してバラに入れ、97年までには青いバラを完成する予定だ」と同社の社長は宣言した。
このニュースは、世界中の育種家に衝撃を与えた。一方で、イギリス、フランス、ドイツなどキリスト教を文化的背景とするヨーロッパの家系は王室との関係も深く、こうした遺伝子組み換えによる方法には極めて慎重だ。こうして、現在、「青いバラ」誕生に向けて、最も積極的なのは科学者であり、わが国でも、サントリーがバイオテクノロジーの立場から研究を進めているが、夢の「青い花」はまだ生まれていない。本書は、「青い花」をめぐる壮大な夢探りの試みでもある。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.10.19)
鬼平クイズ 『鬼平犯科帳』に真剣勝負!
2001/10/17 22:15
『鬼平犯科帳』の愛すべき登場人物、なじみの土地、食など8分野のクイズに挑みながら鬼平の世界を楽しめる
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池波正太郎の『鬼平犯科帳』シリーズは、主人公の鬼平こと長谷川平藏と、その家族、友人たち、与力、同心など彼を取り巻く人々が江戸を舞台に繰り広げる小粋なスペクタクルのさまざまが集成されている時代小説エンターテインメントの最高峰だ。
筋立ての楽しさを増幅しているのが、他の捕物帳にはない、密偵たちの活躍である。盗賊たちからは「狗」と呼ばれさげすまれるが、このシリーズのヒロインでもある、おまさ、五郎蔵、粂八、伊三次など密偵たちのキャラクターは、「鬼平」のストーリーを明らかに生き生きとさせている。五郎蔵も粂八ももともとは盗賊出身という来歴も、密偵たちの存在にリアリティーをもたらしている。
おまさの淡い初恋の相手は鬼平で、鬼平が天明八年に火盗改メ・本役に就任した直後、役に立とうと密偵に志願したのである。
西尾忠久著『鬼平クイズ』には、「密偵たち」の項目で、「平藏が二十年ぶりでおまさに会った場所は?」という設問があり、1.軍鶏鍋屋2.相模の彦十の長屋3.役宅の三つから選ぶ。答えは、3.役宅で、「おまさに、平藏が二十年ぶりで再会したのは、去年の十月初旬のことだ。おまさのほうから、役宅へ名のり出て来たのである」という「鬼平」の一文が紹介される。
おまさの登場は、「鬼平」が始まって丸二年と遅いことから、テレビ化したプロデューサーの市川久夫氏に西尾氏が確認したところ、「女性にも共感される魅力あるヒロインを」という市川氏の要請に池波氏が応えての造形だったことが分かる。ちなみにテレビでは鬼平に中村吉右衛門が、おまさ役には小粋な美人・梶芽衣子が扮して人気を博した。
『鬼平クイズ』は、鬼平ファンの基礎知識をチェックする「ウォーミング・アップ・クイズ」から始まり、「腕試しクイズ」、さらには、「長谷川平藏と火盗改メ」「与力・同心たち」「密偵たち」「盗賊たち」「うまい食べもの」「寺社、船宿などの場所」など8分野からなるクイズを楽しみながら、シリーズを読むときとは別の視点から「鬼平」のあれこれを改めて発見することが出来る。
池波氏のエッセイや小説には、いかにも美味しそうな食べ物が頻繁に登場する。実生活でもグルメだった、池波氏の嗜好が、文章にも反映しているわけで、「鬼平」の美味あれこれをクイズに見てみよう。
中でも多く登場するのが蕎麦屋だ。出題分野6.うまい食べ物の「問題3」では、本所・源兵衛北詰「さなだや」の名代は?という質問。答えは、貝柱のかき揚げを浮かせた蕎麦、である。亀戸天神裏の「玉屋」がだした名代の鯉料理は、細切りの鯉の皮と素麺の酢の物といった具合で、食い意地の張った読者は、物語を楽しむどころではなくなるかもしれない。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.10.18)
漢字で食育 心とからだの元気語録
2001/10/12 18:15
食をめぐる困難な現状の中、子供が自分の判断で食を選び、自立した食生活を身につけるための「食育」を紹介
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太古から、食が命の源であったということは自明の理であり、とりわけ食を楽しむ余裕ができた近代以後は、人間にとって人生最大の楽しみのひとつといえよう。だが、高度経済成長を成し遂げたわが国では、さまざまな分野で暮らしが豊かに便利になった反面で、栄養の偏り、過食、拒食、過度のダイエットなどにより、理にかなった食習慣に混乱が生じ、糖尿病などの生活習慣病にかかる人が増加するといった、食をめぐる新たな問題が浮上している。
砂田登志子著・高橋徹子絵『漢字で食育 心とからだの元気語録』は、こうした「食」をめぐる困難な現状の中で、一番悪影響を被り易い子供たちの「食」に注意を向け、食と心身との深い関わりに着目しながら、子供が自分の判断で「食」を選び、自立した食生活を身につけ、自分の健康を自分自身で守れるように学習する活動である「食育」への理解を深め、実践へと踏み出すことが出来るようにアドバイスする導きの書である。
「食」に関わる漢字で、理想的な食べ方を表現しているのは「養」という字だ。この字を構成しているのは、羊、人、良であり、「羊」は牛、豚、鶏、魚など肉類、魚介類を含んだ動物食の総称。「良」は白にさじを表すことから、米、稗、粟、麦、豆などの植物食を脱穀精白しておいしくいただくこと。「人」は、動物食と植物食をバランスよく組み合わせて食べることが出来る。羊が上で、良が下なのは、動物食は少なめに、土台となる植物食、つまり主食はしっかり食べようというメッセージである、と砂田さんは書いている。
地中海食は、世界の健康食の中でも人気が高く、とりわけ5000年の歴史と伝統を持つギリシャのクレタ島の食文化は、医食同源の理想的なものとされ、クレタの住民は現代でも、生活習慣病による死亡率の低さは世界一の水準を保っている。食材はオリーブ油、新鮮な野菜、果物、魚介類が中心。伝統食が健康と長寿の秘訣となっている実例である。
砂田さんが特に提唱するのが、五感を良く働かせて食べること。指先、手、目、耳、鼻で食べ物を愛し、舌で味わうのが大事。視覚では、食べ物の色、艶、姿、形、盛りつけを目で味わい、楽しむこと。甘い、辛い、酸っぱいなど多種多様な旨味を味わうことはむろんだが、嗅覚を働かせて、野菜、果物、魚介類などの美味しそうな匂いを感じるのも、食欲を増進させるし、大事なことだ。
今、世界中の大都市で日本の回転ずしが大人気。すし屋で見る魚偏の字は沢山あるし、読めないときは字面を見ながら、どんな魚か想像を巡らすのも楽しいし、食欲を増進させてくれるものだ。「食」に関する漢字を子供たちが見て、よだれが出てくるようになればしめたものかもしれない。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.10.13)
食の変遷から日本の歴史を読む方法 戦乱が食を変え、食文化が時代を動かした…
2001/10/09 18:15
古来からの日本の食文化の推移に着目し、日本人の食の歴史を検証することで意外な日本史を発見する試み
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世界各国には、それぞれの歴史から醸成された「食文化」があり、ひとつの食文化を知り、理解することは、ひとつの民族とその国の歴史を知ることになる。ひとつの国の中にも地域によって「食文化」には微妙な違いがあり、わが国のように四方を海に囲まれ、国土も広くない国でも、南と北、東と西など「食文化」は、その細部において相違があることは確かである。
明治学院大学教授・武光誠著『食の変遷から日本の歴史を読む方法』は、古来からの日本の食文化の移り変わりに着目し、現在に至るまでの日本人の「食」の歴史を検証することで、意外な日本史を発見する試みである。
日本史では、源平の戦いはとりわけ有名だ。武光氏は、源平の勝敗は、動物性たくぱく質の摂取量の差が影響したのではという樋口清之氏の意見を紹介している。それによると、関東の田舎侍だった源頼朝は、さかんに狩りを行い、肉を食べ、体位を維持していたのに対し、貴族化した平氏は、仏教の殺生戒を守り、肉食をせず、そのため動物性たんぱく質が不足して、体位が減少し、指揮官らの気迫の差を作りだしたのだろう、としている。
著者は、頼朝が幕府を鎌倉に開いたのは、幾種類もの食べ物を少しずつ出す食習慣など、さまざまな習慣がまったく違う公家と交わることを避けたからではないかという仮説も示しているが、興味深く、説得力もある。
室町時代に醤油が発明されたことは、日本の料理を大きく変える契機となった。塩味やさまざまなだしを中心としたそれまでの味付けは、醤油に取って代わられたが、近畿、中国、九州地方の人々はあまり醤油を好まなかった。東日本の人々には大いに好まれ、江戸時代までに、関東では醤油味のせんべいの原型もできた。家康は、天正18年(1590年)に江戸城入りし、江戸湾を埋め立て、江戸の浅い海で多くの小魚を漁民に取らせた。それらは塩、味噌、たまり醤油で煮込まれ、保存食品とされた。この醤油煮が東京の佃煮の起源である。
また、現在、関西では昆布だし、関東ではカツオだしが日本料理の主流だが、これもカツオだしが醤油とよく合ったためで、江戸の料理は、カツオだしによって大きく発展し、江戸時代半ば以降、上方の「食」の優位を崩し始める。
江戸の町で発達した関東の料理の根底には、「醤油」「カツオだし」があり、「食」の場として、関東では「屋台」が発展した。寿司、刺身、天ぷら、蕎麦を中心とした関東風のごちそうの多くは、江戸の町の屋台を舞台に、町民たちの手によって生まれ、今日まで、関東の「食文化」を担っている
このように、「食」を手がかりに日本の歴史を見直している本書は、貴重で生きた発見に満ちていて、多くの示唆を与えてくれる。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.10.09)
美の魔力 レーニ・リーフェンシュタールの真実
2001/10/05 22:15
「リーフェンシュタール再発見」への情熱にあふれた意欲的な論考。彼女の稀有な映像作品理解への足がかりに
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ドイツの舞踊家・女優・映画監督・写真家として20世紀芸術に前人未踏の足跡を残したレーニ・リーフェンシュタールの全貌はいまだに解明されていない。
ユダヤ人へのホロコーストを実行したナチ政権のヒットラーの要請でナチズム宣揚の映画『意志の勝利』(1935年)を監督し、ベルリンオリンピックの記録映画『民族の祭典』『美の祭典』(1938年)を撮ったことなどからナチのドイツ第二帝国崩壊後は、本人の抗弁にもかかわらず、ヒットラーの協力者という烙印を押された。
戦犯容疑者として4年にわたる収容所生活も余儀なくされ、占領軍から無罪の宣告を得て出所するが、戦後、彼女が“復権”していくまでの道は険しかった。
瀬川裕司著『美の魔力 レーニ・リーフェンシュタールの真実』は、こうしたリーフェンシュタールの映画芸術を、ヨーロッパの諸機関で、彼女のすべての出演作品を視聴し、これまでほとんどの研究者が対象にしていなかった『信念の勝利』『自由の日』についても詳細な考察を加え、代表作の映画『青い光』『オリンピア』『低地』については、ショットのひとつひとつへの分析研究を行うことで、そのほとんどすべてを解明しえたとしているが、著者の自負は空回りしていない。
また、著者は、数時間にわたって直接リーフェンシュタールにインタビューする機会を得て、主として、技術上の問題点や、撮影の細部に関しての質問を行うことができた。その結果判明した事実に関しても、文中に織り込むことで、考察を充実させている。
ナチの「血と土」の世界観に繋がる要素が少なくない『青の光』によって「リーフェンシュタールはヒトラーの注目する対象となり、ナチの文化政策の一部として取り込まれた。すなわち、ナチ時代の支配体制における強力な家父長社会への入場許可を与えられた、ほとんどただひとりの女性となった。そのきっかけとなったこの映画が、戦後には、監督が自分はナチとは無関係であったと主張するための身分証明書として機能してきたのは、ここに〈みずからが犠牲者であると同時に、犠牲を肯定する者〉というリーフェンシュタールの二重の立場が反映されている」という著者の指摘は、ナチへの彼女の微妙な立場を的確に表現している。
オイゲン・ダルベールのオペラ『低地』に基づき映画化された『低地』はリーフェンシュタールが得意とした“山岳映画”の最後となるものだ。著者によれば「『低地』はモノクロ映像の限界に挑戦する高度な実験場」で、「少なくとも映像の面ではモノクロ映画の最高峰に位置づけられ」、「再発見されるべき映画」である。評者は、コクトーの評価で『低地』の存在を知った者だが、いまだに見る機会を得ない。「リーフェンシュタール再発見」への情熱にあふれたこの見事な論考をきっかけに『低地』をはじめとするリーフェンシュタール作品が紹介されることを願う。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.10.06)
New History街の物語
2001/10/04 22:16
四人の作家が、それぞれの“記憶の情景”を紡ぎ出し、どこかノスタルジックな世界へと誘ってくれる短篇集
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誰にでも記憶に残っているノスタルジックな街の情景があるだろう。それは、少年・少女時代の二度と戻らない出来事の思い出や、身を焦がすような恋の追憶に関わっているかもしれない。そうした情景の中に自分を再び置いたとき、人は心のときめきや、高まり、あるいは、悲哀を感じるときでさえも、日常の中にいる自分を超越した何かを実感するのではないだろうか。
小川洋子・柴門ふみ・原田宗典・盛田隆二の短篇からなる『街の物語』は、四人の作家がそれぞれ独自に“記憶の情景”を紡ぎだし、未知の、それでいて何処かで見たことのあるような親近性をにじませるデジャ・ビュ(既視感)の世界へと誘ってくれる。
「サウダージ」で三島由紀夫賞の候補にもなった盛田隆二の「アジール」は、画家として立つ夢を失わずに絵筆を取りながらも、締め切り仕事に追われる30歳近いイラストレーターの稲本と、10年来の恋人・美紀、銀座の映画館で偶然に知り合った子持ちの祥子をめぐる物語。
美紀とは同棲したこともあるし、堕胎させたこともある深い付き合いだが、美紀は職場の上司に結婚を申し込まれ、煮え切らない稲本に未練を残しながらも、上司のプロポーズを受け入れる決心をした。
稲本は、茅ヶ崎のビーチで彼女と過ごした青春の日々を思いながらも、仕事に忙殺されている。そこに、祥子が絡んでくる。祥子の何気ない一言に動かされた稲本は、商業ベースの仕事であることを無視して、クライアントから発注されたポスターの原画描きの仕事に自分の芸術的感性を投入する。担当者は難色を示すが、思いがけないことにクライアント側から絶賛され、テレビCMのビジュアルとして検討されることになる。
絵のグループ展の搬入日も間近だが、稲本は祥子と息子のとも君と三人で茅ヶ崎の海を見に行くことにする。閑散とした冬の海を前にして、稲本と祥子は互いの気持ちを探り合う。稲本が祥子との生活に心が傾いていくのを暗示して物語は終わる。
挫折しそうだった夢が蘇生していく過程と祥子との関わりの深化が、自然な瑞々しさと余韻を込めて描かれ、しっとりとした読後感をもたらしている。
柴門ふみ「動物園跡地」は、東京での生活と女にだらしない恋人に疲れ、帰郷して新たな生活に踏み出した千咲が、かつて淡い恋心を抱いた、遠縁の年下のシンゴと再会し、かつての二人の思い出のある動物園跡地のマンションに入り、シンゴが司法試験に合格するまで、そこで待ち続けると、夢のような愛の告白をするファンタジックな物語。女性の恋心の在り方がよく実感できる点でも興味深い作品だ。
この他、小川洋子「ガイド」、原田宗典「中途半端な街」を収録。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.10.05)
時を飛ぶUFO Part2 大統領誘拐の怪事件
2001/10/03 22:16
夢のある科学的想像力が作品の造形に生かされ、心躍らせながら楽しく読める。子供には未来への夢を示す。
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山奥のさらに奥の高原にある「ペンションUFO」に住む中学一年生の昴と、小学校五年生の織音(おりね)はとても仲の良い兄と妹だ。家族は、母親と、愛犬のお茶夢。父親はすでに病死。父の身体には巨大脳のエイリアンが侵入し、その正体を突き止める物語が前作『ペンションUFOの怪事件』だった。
高橋克雄「時を飛ぶUFO Part2」の新作続編『大統領誘拐の怪事件』は、昴が亡くなった父の形見の天体望遠鏡で、夏休みの満月を見ているところから始まる。時は、21世紀の今だ。父は死んだが、その遺志により父の死体は未来人の環境保安官に贈られ、26世紀の未来でその保安官はUFOに乗り込んで地球の環境を守るために活躍している。
昴は、望遠鏡を覗きながら、父親そっくりになった「未来人のパパ」であるミラパパ環境保安官が乗るUFOを夢見ている。
一方、小型のUFOに乗って地球のまわりの近宇宙をパトロールしていたミラパパ保安官は、200年過去時に宇宙汚染事故を発見する。旧式の海洋型宇宙貨物船が、危険な放射性廃棄物を宇宙に捨てていたのだ。警告にもかかわらず犯人たちは鋼鉄のタンクをUFOにぶつけて逃走し、残った廃棄物を月の裏側の月面に埋める。ミラパパは大けがを負い、緊急脱出し26世紀にタイムスリップした。
上空をUFOが飛び回っているという話を耳にした昴と織音は、双眼鏡で空を見まわしていた。藪の中から外人の紳士が姿を現し、ペンションに招かれると、自分をムーン大統領だと紹介した。
夏休みの登校日のある日、怪しい“大統領”は、自室に昴の母を招き、ラジコンのようなUFOを取り出すと、母に光線を当て、母は身体が縮み、そのUFOに乗せられた。帰宅してUFOをやっつけようとした織音も光線を浴びせられて身体が縮み、UFOに乗せられ、汚染された地球から逃れた人々によって月の裏側に建国されたカプセル作りのムーン共和国に連れていかれる。怪しい老外人は、その国の大統領だった。住民が身体を縮小しているのは、少なく貴重な水資源などを浪費しないための苦肉の方法だった。
母たちが誘拐されたと思い途方に暮れている昴は、ミラパパたちの助けを借りて、捜索に乗り出す。そんなところに母たちがUFOに乗って大統領と戻ってくる。昴は事情を知り、大統領を手助けする。月の裏側で見つかったと思われた水源は、例の悪者たちが捨てた放射性廃棄物で、そのためにムーン共和国は壊滅するが、昴は時間を遡り、悪者たちが廃棄物を投棄する前に止めさせ、ムーン共和国の未来を救う。
前作同様に、夢のある科学的想像力が作品の造形に生かされ、心躍らせながら楽しく読める。子供には未来への夢をかき立て、大人には、幼い時の夢を蘇らせてくれる。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.10.04)
つげ義春の魅力
2001/10/02 22:16
漫画作家つげの作品の抗しがたい魅力を、初期から現在に至るまでさまざまな角度から探って全体像を提示する
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漫画が文化の一翼を担うものとして評価されたのは、戦後の手塚治虫の「鉄腕アトム」など一連の作品以後と言えるだろう。手塚に続く漫画“作家”の名を挙げれば、白土三平、そして、つげ義春ということになるだろう。つげが漫画作家として立っていく初期に、キャラクターの造形、内面の描写手法などで大きな影響を与えたのが、手塚、白土であり、造形の表面的な部分では、水木しげるの影響も指摘できよう。
手塚漫画の創造性のスケールの壮大さにおいては、かなわないものの、人間存在の実存の超現実的、哲学的な不条理の表現において、つげ義春は、手塚を凌いだということが首肯しうるだろう。ここに、つげという存在の独創性、単独性が生じるのである。
日本に漫画ビジネスが誕生したのは300年前の大阪で、「鳥羽絵」本という大衆向け漫画本が売り出されて人気を得て以来という。漫画という、視覚に訴えて大衆に浸透していくメディアは、300年後のつげ義春の登場によって、文学や映画、演劇などと対等な表現芸術の地位を獲得するに至ったわけだ。
つげが登場する以前の漫画の多くは、読み捨ての娯楽という性格が濃厚だったが、つげ漫画の出現によって、読者は、自らの内面と、つげが描写する、不条理で、不可思議で、非合理的、実存的な世界との対立を否が応でも強いられる。彼が表現する摩訶不思議な、それでいて、強固な現実感のある世界を目の前にして、それを回避するか、そこに入っていき、その迷路の中で新たな体験を試みるかの二者択一を迫られるのである。
「ねじ式」「紅い花」「李さん一家」「ゲンセンカン主人」「沼」「夢の散歩」「無能の人」など一連のつげ作品は、その世界に彷徨い入った者の視線と感覚を異化してしまう魔力にあふれている。読者は、つげが展開する、非日常の、非合理の白日夢の世界へと引き込まれ、自分の中の未開の、未知の潜在意識を挑発され、それらに対峙することを余儀なくされる。
歴史と文学の会編『つげ義春の魅力』は、こうした“漫画作家”としてのつげ作品の抗しがたい魅力を、その初期の作品、デビュー時代から現在に至るまでの足跡を含めて、つげ作品の支持者、研究家たちがさまざまな角度から探った。つげの全体像を確認するにうってつけの内容を収めている。
「自我の孤独感や不安感を見つめ続けてきた作家」つげ義春をテーマとした呉智英の論功、夢の世界を探求した点で多くの共通項を持つ作家・島尾敏雄との関わりを論じた志村有弘の試論、つげ作品における「旅と宿」の主題をとりあげた児玉喜恵子の小論、つげ作品への浮世絵師・溪斎英泉の影響の可能性を取り上げた岸睦子の試論など力作揃いで、つげの世界を浮き彫りにしている。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.10.03)
こんなにも素敵なパリ
2001/09/28 03:15
日仏文化研究家としての著者が体験した20年間のパリ生活の生き生きとした記憶は、生きたアドバイス集である
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永井荷風、岡本かの子、金子光晴、与謝野晶子、遠藤周作・・・。過去に、多くの文人たちがパリに暮らし、素晴らしいパリでの生活を書きとどめた作品を残している。彼らの時代、パリへ行くには南回りの遠洋航路でマルセイユ港に上陸し、鉄道にリヨンを経由してパリに入った。現在、パリへは11時間半で直行でき、比較にならないほどパリ行きは便利になった。
『こんなにも素敵なパリ』の著者で、現在、日仏文化研究家としても活躍している吉村葉子さんが、パリでの生活をスタートさせたのは、今から20年前、20代の後半のことだが、当時は、アンカレッジ経由で24時間かかってのパリ行きが普通であった。今、吉村さんは、20年間にわたるパリ生活にひとまず区切りをつけ、これからは、東京での生活を満喫しようと意気込んでいる。
パリから東京に生活と仕事の場を移して2年が過ぎたが、その間にも7回もパリに仕事で出かけた。だが、いったん東京に戻ってから訪れたフランスはすでに、住んでいた時のフランスとは異なる表情を見せたと吉村さんは言う。
本書は、そうした吉村さんが親しみ、体験したパリでの20年間の数限りない出来事の“記憶”が、生き生きと綴られ、これからパリに行きたい、行って生活してみたいと考えている人たちにとっては格好の“生きたアドバイス集”となるであろう。
フランス人(とりわけパリの人々)の生活に入り込んだ一日本人、女性、母親、仕事人としての立場から、率直に親しみを込め、フランス文化への共感も交え、パリと、その街に生きるフランスの人々をしなやかな視線で捉え、見事な“パリ文化論”としている。
パリで最初に住んだアパルトマンは、エレベーターなしの5階。そこでの生活で実感したのが、いかにも軽い足取りで階段を上がってくるフランス人と、途中でスローダウンする日本人との体力差。それは、初めての出産で入院した病院での体験でも追認させられた。楽に娘さんを出産した後、食事に出てきた「草履のように大きなステーキと、半切りのグレープフルーツ」に唖然とし、産んだばかりの赤ちゃんを片手に抱き、ボストンバッグを持って、ハイヒールでつかつかと病院の廊下を闊歩してきた19歳の「旺盛な、美しいパリジェンヌの体力」にも驚かされる。
老舗宝石店Cの職人だったときに、アトリエ主任だった既婚のステファンと、14年間も息がつまるような真剣な不倫をして、ようやく彼の妻から別れるOKを貰った友人ナタリー。二人は、南仏ヴィオット村の素晴らしい景観の鷹の巣村に移住して新生活に入る。
専門バカには見向きもせず、博識なジェネラリストを評価するなど、伝統ある文化に裏打ちされたフランスのさまざまな面が、具体例と共に紹介される。 (bk1ブックナビゲーター:高橋洋一/評論家 2001.09.28)