サイト内検索

詳細検索

ヘルプ

セーフサーチについて

性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示を調整できる機能です。
ご利用当初は「セーフサーチ」が「ON」に設定されており、性的・暴力的に過激な表現が含まれる作品の表示が制限されています。
全ての作品を表示するためには「OFF」にしてご覧ください。
※セーフサーチを「OFF」にすると、アダルト認証ページで「はい」を選択した状態になります。
※セーフサーチを「OFF」から「ON」に戻すと、次ページの表示もしくはページ更新後に認証が入ります。

  1. hontoトップ
  2. レビュー
  3. 挾本佳代さんのレビュー一覧

挾本佳代さんのレビュー一覧

投稿者:挾本佳代

127 件中 31 件~ 45 件を表示

紙の本

未開社会における犯罪と慣習 新版

紙の本未開社会における犯罪と慣習 新版

2002/07/09 15:15

マリノフスキーによる未開社会に対する深い洞察

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 現代社会は人間の作り出した無数の制度やシステムの集大成であるということができる。つまり、現代人という人間集団は、主に法によってとりまとめられているといえる。もちろん、自分たち自身は愛情や友愛などで結ばれているのだ、と主張する人もいるかもしれないが、自分たちの生活やその生活を根底で支える行政組織や立法組織などを考えてみるや、それらが決して愛情や友愛だけから成り立つものではないことに愕然とする。この状況は20世紀や21世紀に始まったことではない。
 近代社会以降、近代人が人間集団としてとりまとめられる時に用いられる制度や法やさまざまなシステムには、特に人類学者から強い批判が加えられている。表面上は批判という形をとってはいないが、よくよく未開社会に対する言説を読み込むと、近代社会批判になっていることがわかる。
 B・マリノフスキー(翻訳ではマリノウスキー)の未開社会における犯罪と慣習に関する研究もそうだった。未開人の法と秩序を形づくっているものは何なのか。この問題提起をした瞬間に、近代社会に共通する、つぎからつぎへと新たな制度やシステムを作り続けなければ秩序が保たれないとばかりに行われている鼬ごっこに対するマリノフスキーの批判が透かし見えてくる。本書に先立つ『西太平洋の遠洋航海者』によってマリノフスキーはトロブリアンド諸島に伝わる「クラ」を調査している。首飾りと腕輪を反対方向に順々に送っていくものである。この慣習は、トロブリアンド諸島の住民は、自然と対峙して生きている自分たちの生活と、そうした環境の中で生き延びてきたことに対する感謝の念を確認する作業なのである。マリノフスキーは「クラ」を踏まえ、それ以外にもトロブリアンド諸島に伝わる「互恵主義」、呪術、儀礼などを観察することによって、未開人が近代人とは異なる法と秩序を維持していると主張する。メラネシア人は近代法とは異なる「集団感情」や「集団責任」に裏付けられた慣習によって、強く取りまとめられていると説く。マリノフスキーの強い近代批判を読みとることができる。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.07.10)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

未開社会における構造と機能 新版

紙の本未開社会における構造と機能 新版

2002/07/08 18:15

社会科学における機能主義を追求したラドクリフ=ブラウンの論文集

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 一九二二年は人類学史上、奇遇な年とされている。ラドクリフ=ブラウンの『アンダマン島民』とマリノフスキーの『西太平洋の遠洋航海者』が同時に公刊された年だからである。本書の解説にもあるように、文化人類学における機能主義の誕生がこの年であると衆目一致する年であるとされる。
 しかし、それはほんの偶然だったのではないだろうか。むしろ注目すべきは彼らがともにエミール・デュルケムの『社会学的方法の規準』で提示した「機能概念」や、『宗教生活の原初形態』における宗教儀礼の機能や、デュルケムが終始一貫して提示した「集合表象」の影響を多大に受け、展開しようとしたということである。影響の受け方は私見に寄れば、マリノフスキーよりもラドクリフ=ブラウンの方が大きい。本書にも収録されている「宗教と社会」や「社会科学における機能の概念について」を読むと、それは明確になる。
 ラドクリフ=ブラウンは、オーストラリアに見られるトーテム信仰を「宇宙における人間の地位についてある概念を含んでいる」と述べ、人間が「季節の規則正しい運行、あるべき時に雨が降ること、植物の成育、動物の生命の継続」に見られるような、「自然」そのものに依存していることがわかるとしている。これはマリノフスキーの「クラ」から導き出した人間と自然のあり方と同様である。しかし、ラドクリフ=ブラウンはそのように述べながらも、「私は人間を社会的動物とし、またそのようにさせ続けるものは、何か群居本能といったものではなくて、数え切れないほどの多くの形態をとっている依存感であると提言する」と主張している。つまり、マリノフスキーには強く見られない、人間と動物のはっきりとした区別が、ラドクリフ=ブラウンには明確にみられる。マリノフスキーにおいては、自然の中に生きる以上、区別化される強い必要性を感じていない、自然の中における人間と動物のあり方にみる区別が、ラドクリフ=ブラウンにはある。ここがラドクリフ=ブラウンがデュルケムから受けた最大の影響ではないかと思われる。人間を動物から区別し、その社会的機能を追求したからである。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.07.09)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

南アジアを知る事典 インド+スリランカ+ネパール+パキスタン+バングラデシュ+ブータン+モルディヴ 新訂増補

紙の本南アジアを知る事典 インド+スリランカ+ネパール+パキスタン+バングラデシュ+ブータン+モルディヴ 新訂増補

2002/07/02 22:15

南アジア大陸の文化、社会、経済などを知る

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私たち日本人はアジア社会の一員である。EUに対抗するアジア経済圏構想も以前から発案されている。しかし、日本は、西欧諸国よりも文化的にも歴史的にも身体特徴的にもアジア近隣諸国に近いはずなのに、どこか遠い気がしてしまうのは否めない。私たちはどれだけアジアを知っているのだろうか。
 この平凡社の「〜を知る」と銘打たれた「エリア事典シリーズ」はどの一冊も身近においておきたい事典であると思いながらも、なかなか手に入れることができずにいた。しかし増補版が公刊され、真っ先に手に入れたいと思ったのがこの『南アジアを知る事典』だった。なにしろ、南アジアである。宗教的にも文化的にも奥深いインドがある。インドのほかに、スリランカ民主社会主義共和国、ネパール王国、パキスタン・イスラーム共和国、バングラディシュ人民共和国、ブータン王国、モルディヴ共和国——がある。南アジアは7つの国から成っている。情けないことに、私はこの7つの国さえ全部挙げることができなかったが。
 宗教、慣習、文化、舞踊、音楽、料理、経済……いまだ実際に降りたっていないインドに想いを果てながら、思うがままに開けるページでさまざまに楽しむことが可能である。世の中にはまだまだ知らないことが多いのだ、とも思わずにいられない。
 初版が出た1992年以降の社会情勢を踏まえた増補項目には、たとえば「IT産業」「環境問題」「ターリバーン」なども入っている。特に「IT産業」は、私も大学でITにまつわる講義をする時には、必ずインドが世界有数のIT産業国家になりつつあることも一事例として話すので参考になる。しかし少し残念だったのは、この項目の説明の中にインドとアメリカの時差の関係が、インドにとってアメリカの情報産業の下請けをするのに好都合であることが盛り込まれていなかったことだ。「なんでインドがIT産業国家?」という顔をする学生も、時差の話をすると多少納得顔になるものなのだが、どうだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.07.03)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

Lullaby supermarket

紙の本Lullaby supermarket

2002/07/01 22:15

無垢な子どもの顔の中に映し出された、現代社会に対する反抗。奈良美智の世界を満喫することができる

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いつからだったかははっきり記憶していない。けれど、ギュッと下から見据えてくる顔つきをした子どものイラストをよく見かけるようになった。一度見たら、ちょっと忘れることができない子どもの顔。愛想笑いをしなければならないことが多くなってしまった大人たちには、絶対にできない顔。かなり前に自分がしていたであろう顔……。

 そんな強烈な顔を描き続けているのが奈良美智さんであると知ったのは、それからずいぶんと経ってからのことだ。ちょっと大きな書店に行けば、奈良さんのイラスト集は手に入るようになったし、吉本ばななさんがエッセイで奈良さんとの交遊をつづっている。いまや奈良さんのイラストに接近し、彼自身を知る方法はたくさんあるようになった。

 このイラスト集には、奈良美智さんのこれまで描いてきた作品が凝縮されているので、彼の描き出す世界を存分に楽しむことができる。私は美術評論家ではないから、奈良作品の海外での評判や美術界での評価を詳しくは知らない。けれど、そんなことも、このイラスト集には収録されているから、かなりのマニアでも楽しめるようになっている。何より、奈良さん自身の、作品を着想した瞬間にメモった走り書きがあるのがいい。

 それにしても、どうしてこんなに奈良さんが描く子どもの顔や、オブジェにひかれるのだろうか。この子どもたちは、素朴だとかかわいらしいとか、そんな言葉で形容することのできる「物体」ではないからだ。かなり憎たらしい顔をしている。大人をバカにしているというよりは、大人のやることに文句をつけそうな顔をしている。だから大人である私たちは、一瞬ギョッとして、ちょっといやな気持ちになる。なぜって、そんな大人に平気で「ガンをつける」顔を、いまは皆しなくなってしまったから。奈良さんの描く子どもの顔を深読みするならば、いまの現代社会への反抗とも受け取ることができる。みんなが同じ顔をして、同じことをしている大人たちへの反抗。みんなで悪事を丸め込んで、なかったことにしてしまう社会への反抗。あなたは、奈良美智の世界にふれて、平気でいられますか? (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.07.02)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

マルサス北欧旅行日記

紙の本マルサス北欧旅行日記

2002/06/03 22:15

『人口の原理』の著者マルサスがみた北欧社会

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 18世紀末に活躍したマルサスの重要性は、いまの私たちには身にしみるようにわかるはずだ。いまから200年以上前に人口増加と食糧生産のバランスを主張し、工業国へと邁進しつつあったイギリスに自給経済を訴えたマルサスの真意は、国を根底で支える食糧を自国ではなく他国に依存することの恐ろしさを説くことにもあった。現在、日本はその食糧の大部分を他国に依存している。もしこの状態のまま世界大戦が開始されたらどうなるのか。50年後100億人を突破すると予測されている世界人口を支える食糧は、どこで生産されるのか。現在農業製品の輸出国である国が工業化を進展させたらどうなるのか。いずれの問題も、まったくその可能性がないとは言い切れないにもかかわらず、私たちは毎日を平然と暮らしている。
 『地球白書』でおなじみのレスター・ブラウンも注目したマルサスを、いま読み直すことはとても興味深い。主著である6版重ねられた『人口の原理』がまず重要であるが、最近若かりし頃のマルサスが北欧を旅した時の日記が公刊された。時期的には『人口の原理』第1版が公刊されて、第2版に取りかかるまでの間である。北欧を楽しむというよりも、第2版を執筆するにあたって頭の中をクリアにし、構想を練る旅であったのではないか、と思われる。
 その証拠に、マルサスが北欧という土地の風景や美観を記述している箇所がきわめて少ないのである。ひとたび北欧の山や農地を目にするや、彼はすべて食糧生産に結びつける。穀物の輸入量はどれくらいか、工業製品の輸出量はどれくらいか。その土地で食糧生産に従事する人間の生活も考える。土地財産をもたない農家の息子はどうしているのか、庶民はどんなパンを食べているのか、どれほどの大きさの家に住んでいるのか。マルサスの北欧での興味は『人口の原理』第2版に直結するものばかりだったことがわかる。
 普通、旅日記というと、どこで何を食べたのかという記述が多くなるものであるが、マルサスの日記を読むと、彼が食事に関してはきわめて淡泊であったこともわかる。当時の北欧諸国の食事内容がとりたてて書き連ねるほどのものではなかったこともあるようだが、マルサスにとって食事とは、人間の生命を生き延びさせるために必要な栄養源としての食糧なのであって、美食とはかけ離れた対象なのであった。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.06.04)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

自然界の非対称性 生命から宇宙まで

紙の本自然界の非対称性 生命から宇宙まで

2002/05/14 22:15

自然界は非対称性が貫かれていて、当たり前

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 右と左が完全に対称性をもっているものは何か。これを一口でいうならば、人工物であろう。何よりまず、人間が左右対称になるように設計をする。そして、人間が機械を使用するなどして、数ミリの狂いもなく作り上げていく。だから、ほぼ完全に近い対称性をもつものが完成するのだ。
 しかし、こと人工物を除いてみると、私たちの周りにはどれほど左右対称のものが存在しているだろうか。自分の顔を鏡でジーッと見てみる。たとえ鼻が真ん中にあって、二つの目が左右についていて、口があったとしても、顔の造作が左右対称ではないことを知っている。とくに毎日鏡とにらめっこをしている女性ならば、「右目みたいに左目がパッチリしていたらいいのに」とか「あともう少し鼻がこっち側に向いていればいいのに」と、悩みはつきないはずだ。
 本書は、胚から始まる生命にしろ、地球を包摂する宇宙にしろ、自然界が作り出すあらゆるものが非対称性であることを追求したものである。宇宙創成の壮大なデザインにおいて、物質が反物質を消滅させて生き残るときに何か生じたのか。人間はあらかた左右対称であるが、なぜ上下対称ではないのか。構造上、右脳が左半身を制御し、左脳が右半身を制御する非対称な脳があるのはなぜか。なぜ、左利きが遺伝されることが多いのか——。宇宙まで射程に入れなければならない問題を、著者は身近な問題と引き合わせながら、平易に解説してくれている。
 本書では明示されていないが、最近、特に生物進化学と絡め合わせて、なぜ「美人」や「シンメトリーな男」がもてるのかという問題が「ハンディキャップ原理」の観点から取り上げられることが多い。確かに、どんな生物種であれ、種の存続を大きな目的としている限りは、シンメトリーな造作を備えて目立つ「美しいもの」が生殖の機会を多くもつことができたのには相違ない。「美人」や「シンメトリーな男」がもてるとする主張も、そうした基本原理を踏まえてのことであろう。しかし、本書を読み終えると、そうした限りなくシンメトリーに近い形態は、あくまで非対称世界の中に溶かし込まれている状態にすぎないのだ、ということがわかる。自然界の中における、人工物の突出具合と「美人」や「シンメトリーな男」のそれとを混同してはならないのである。というのも、「美人」も「シンメトリーな男」もみな自然が作り出したものだからである。著者はこうした点も示唆するために、自然界の非対称性を延々と書き連ねている。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.05.15)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

柳田民俗学のフィロソフィー

紙の本柳田民俗学のフィロソフィー

2002/05/13 22:15

柳田民俗学のメタ理論を探る

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いま、「共同体」という概念を検討し直している。経済学領域には、マルクス経済学をはじめとして、多くの共同体論がある。もちろん社会学領域にもある。その黎明期にまで遡れば、先人たちが共同体に関して多くの知識を蓄積していることがわかる。しかし、今日ところどころで語られる「共同体」観は、先人たちが蓄積してきたものとは異質のものである。インターネット網を縦横無尽に張りめぐらせれば、ある地方都市の中に新たな共同体ができあがるのか。同じくインターネットと医療現場や福祉現場を直結させれば、老後に快適な新たな共同体が作られるのか——。「共同体」の再検討には、こういう問題も含まれてくる。
 日本の共同体研究として、絶対に欠かすことができないのが、柳田国男の民俗学である。共同体の中に生きる人間を記述する際、なぜ柳田は、庶民という言葉を用いないで「常民」を用いたのか。同じく共同体研究において注目すべき農村研究に、有賀喜左衛門の一連の著作があるが、その有賀と柳田の研究観点はどこが違うのか。こうしたこちらの疑問に本書は答えてくれている。
 本書の一番の特徴は、著者が現在大きな関心をもっている「環境論」の観点から、柳田民俗学を分析していることである。最近のいわゆる環境ブームに乗じた、上っ面だけの環境論に辟易していた私としては、著者が柳田に依拠しながら、現在非常に難しい環境状態におかれている私たちが摂取するべき観点を柳田に探っているのは、とても興味深かった。
 ただ一点だけ、私としては「自然を二つに分けられる」とする著者の主張は全面的に肯定しがたいところがある。それは、柳田国男が民俗学として追求し記述してきた人間と共同体のありかたにおいて、自然は二つに分かれるのであろうか、ということである。分ける必要を、たとえば「美しき村」や「雪国の春」で描かれた共同体の一員である人間は感じていたのであろうか。著者は人間が自然をどのように捉えていたのかという問題を柳田民俗学から追求し、いわゆる自然界と(自然界に影響される人間)「小なる自然」を峻別して、大なる自然の運行を小なる自然である人間が受けながら生を営んでいると考察している。この柳田の自然観については、あとはもう一度柳田の声にじっくり耳を澄ませなければならないだろう。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.05.14)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

DNAでたどるオサムシの系統と進化

紙の本DNAでたどるオサムシの系統と進化

2002/05/10 22:15

DNAでたどるオサムシの世界

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 私がオサムシに興味を持ち始めたのは、進化論に深く分け入るようになってからである。まだ六年ほどしか経っていない。一個の生物種が絶滅することなく、進化し続ける。その進化の過程で、生物種のDNAは少しずつ変化をしていく。しかし、中立説が証明しているように、そのDNAレベルの変化が即座に形態変化に結びつくわけではない。たとえば、日本に棲息するオサムシは、その祖先型から五千万年かけて、ようやく四〇種類ほどの種を生み出している。五千万年である。もちろん、その途中で生き延び続けることができずに淘汰されてしまった種もあったことだろう。それは膨大な数に達するにちがいない。
 生物種が気の遠くなる時間をかけて進化してきた事実を、オサムシを例に教えてくれたのは、中村桂子さんの著書だった。オサムシがヨーロッパでは「歩く宝石」といわれていること、日本には黒っぽいオサムシしかいないこと、なども教えてもらった。以来、昆虫図鑑などを調べるなどして、確かに黒っぽくないオサムシを発見(写真で)することはできたのだが、「オサムシだけの、素人にもわかりやすいDNAの特徴的な配列も書いてある本があればいいのに」と思う気持ちが募っていた。
 そんな思いを持ち始めて、六年目にしてようやくめぐり会えたのが本書である。本当に嬉しかった。大別してユーラシア大陸北東部、中国中南部、日本の三か所に棲息するオサムシの系統と進化過程がDNAレベルでたどることができるようになっている。もちろん写真入りでだ。確かに、ユーラシア大陸に棲息するオサムシには、ライトグリーン色のペリドットのような輝きをもつものや、トパーズのようなオレンジがかったものもある。実にきれいな色をしている。しかし、日本に棲息する代表的なオサムシの中にも、ペリドットやトパーズまではいかないが、やはり同じ種であるのか、部分的にその色が入っているオサムシがいる。同じ生物種であるにもかかわらず、各棲息地で生き延びるためにさまざまに形態変化を遂げてきたことを考えると、生命の偉大さを感じざるを得ない。
 本書にはオサムシを長年観察してきた研究者の苦労話もある。自分だけの都合では貫徹することができない、コツコツと研究する真摯な姿勢には敬意を払いたい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.05.11)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

海のモンゴロイド ポリネシア人の祖先をもとめて

紙の本海のモンゴロイド ポリネシア人の祖先をもとめて

2002/05/08 22:15

ポリネシア人はどこからやってきたのか。アジア世界とのかかわりを探る。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 およそ三〇年ほどまえに、日本人の祖先である縄文人が「海を渡ったかどうか」ということがマスコミを中心にして取り上げられて以来、いまだにその衝撃がぬぐえずにいる人たちも多い。たしかに、縄文人が高度な文化をもっており、おまけに海を越えて南太平洋に渡り、縄文土器を伝えた……という話は、研究者以外の一般人には壮大なロマンさえ感じられてしまうものである。
 しかし、現段階では、マスコミ煽動型で作られたロマンにまじめに耳を傾ける考古学者や人類学者はいないということがわかる。本書の冒頭でも書かれているように、専門知識のない新聞記者などが、いいかげんな根拠にもとづいておもしろおかしく推論をするや、その推論だけが一人歩きをすることになる。だから、縄文人が海を渡った、と断言されてしまったのである。けれど、ここできちんと私たちが理解しておかなければならないのは、著者も述べるように、現時点の常識では「もっともらしくないこと」を相手にして、コツコツと調査研究をして、その可能性を探っている研究者がいるということである。彼らの真摯な態度で行われている研究を、一般人の勝手な推測で踏みにじることは絶対にしてはならない。本書を読み終えて真っ先に考えたことはこのことであった。
 著者は人類学者。なぜポリネシア人の身体が特大で、骨太、筋肉質であり、肥満に傾きやすいのか、という形態的な問題を実態とともに歴史的に明らかにすることを研究目的としている。ポリネシア人に対する私たちのイメージは、相撲の武蔵丸に近いだろう。一見、どちらかというと巨漢にならずに(多くは)細身のまま老年期を迎える日本人と彼らはまったく異なる人種なのではないか、とさえ疑いたくなってしまう。けれど、遺伝子レベルでの特徴や身体構造などを踏まえて比較すると、ともに同じアジア人であることがわかる。
 南太平洋の島嶼世界に縄文人の仲間が存在しているのか。いまから四千〜二千年ほど前には確実に南太平洋で生活をしていた、先史ポリネシア人であるラピタ人の移動をたどりながら、著者はモンゴロイドの謎に迫っている。独特の土器文化を有し、バイキングさながらに南太平洋を舞台に交易をしていた彼らに思いをはせてみるのも楽しい。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.05.09)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

熊を殺すと雨が降る FIELD NOTE山の民俗学

紙の本熊を殺すと雨が降る FIELD NOTE山の民俗学

2002/04/19 22:15

山という自然の中で暮らすマタギたちの民俗学。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 マタギという自然の中に生きる人間たちのことをよく知りたいと思っていた。マタギとは、決して人間にはやさしくない山に生きる人たちのことである。どこまで人間が自然に踏み込んでいいのか、踏み込むことができるのかを、体で知っている人たちのはずである。
 本書には、山の仕事、猟法、漁法、食事、禁忌などがどのようなものであるのかがつぶさに書かれている。なかでも、実際にマタギの人たちと生活をともにしたことのある著者が聞き取った、マタギの言い伝えが興味深かった。いくつか挙げてみたい。「木と話して、木が倒れたがっている方へ倒してやる」。木が倒れる瞬間がもっとも危険だというそんなときにも、山師は木と話をする。木と話ができなければ、ますます危険度が上がるのだろう。「熊を殺すと雨が降る」。熊を殺すと、山の神が泣く。だから猟師は、熊の頭を北に向けて仰向けにし、使った道具は南側に立てるといった儀式にのっとって、山の神のたたりを鎮める。解体された熊の心臓3切れ、背肉3切れ、肝臓3切れは、クロモジの木で作った串に刺し、焚き火で焼いて山の神に供える。熊はそれを打ち倒した猟師だけのご褒美ではない。猟師を含む山に住む人間全員への、山の神からの贈り物なのだ。だから、人間は自分の自然の中で生きる能力の小ささと、熊があって生き延びさせてもらっている事実を確認しながら、山の神と熊に敬意を払わなければならないのだ。
 私たちは、マタギの精神を学ばなければならない。しかしだからといって、私たちみんなが山で暮らし始めればいいというわけではない。それほど簡単な話ではないことは誰もが直感しているはずだ。私たちは、マタギの人たちの山の中に生きる知恵の範囲を超えて、自然に踏み込んでしまったことをまず深く知らなければならない。踏み込まなければ生きられないような人間になってしまったこと、そういう人間だけが集まる社会になってしまったことを知らなければならない。マタギの人たちの知恵は、私たち日本人がもともともっていた生活の知恵でもあるのだから。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.04.20)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

三つの文化 仏・英・独の比較文化学

紙の本三つの文化 仏・英・独の比較文化学

2002/04/18 22:15

社会学、自然科学、文学相互の関係性を、フランス、イギリス、ドイツそれぞれの立場からみる。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 たとえば人間や社会といった対象の本質を追究し表現する方法として、どの学問が秀でているということは一概にはいえない。どの学問でも、ものの本質をきわめるには、あるひとつの学問だけでは足りないことがすぐわかるからだ。もともとどの学問も古来哲学を起点にしてさまざまに分岐してきたことを考えると、社会学も経済学も政治学も皆いとこ同士のようなものである。自然科学もそうである。「どうして、こういう現象が起こるのだろう」という疑問は、「人間を知りたい」という延長上にあるものにほかならない。最終的に人間を知りたいから、人間の環境で発生する現象も気になるのである。そう考えると、いわゆる社会科学と自然科学が、異なる対象を追求するまったく別次元・別領域の学問だとする私たちの中にある暗黙の認識は、じつは私たちのものの見方そのものを最初から狭めてしまう大きな原因にさえなってくる。
 本書で著者が追求しようとしたのは、そうした暗黙の認識が非常に根強く社会にあるということであり、それと関連して、文学も社会学や自然科学に少なからぬ影響を及ぼしてきたということである。というより、こう言い換えた方がいいかもしれない。後世名を残した社会学者はみな、自然科学や文学もひとつの教養として摂取し、自らの思想を作り上げてきた。だから後世社会学者とみなされる人であろうと、その著作の中に文学論があったり、自然科学者や文学者との綿密な交流があったりするのだ。著者はそうした様相を、いままであまり周到に語られてこなかった社会学の重要な背景として、綿密に論じている。
 著者自身がドイツの社会学者であることから、フランス、イギリス、ドイツそれぞれの社会学の状況を語っているものの、やはりドイツに最も紙幅が割かれている。そのため、コントの実証主義が、非常に密な関係をもっていた作家クロチルド・ド・ヴォーに多大な影響を受けたために変遷していった、という文脈はややもの足りない気がする。また博識だったJ・S・ミルが、ワーズワースやコールリッジを高く評価していたそのことが、彼の功利主義思想そのものに直接影響を与えた重要な証拠になるのかどうかは、いささか疑問が残るが。
 本書を読み終えて、少し暗澹たる気持ちになりながらも、その一方で「ああ、やっぱり」と納得してしまったのは、私が少なからず社会学に携わる人間だからなのかもしれない。タイトルに「三つの文化」とあり、一見するとフランス、イギリス、ドイツにおける三者三様の「文化」の在り方が比較的に論じられた著書であると受け取られるかもしれないが、読めば読むほど、本書は社会学の現状に対する著者の不満と不安がはき出されたものであることがわかるからだ。社会学がいわゆる蛸壺化し、調査・研究対象として過不足ない程度の狭量な領域を専門とすることを良しとする学問状態が進行しつつある。こうした現状を打開し、社会学が必要とされるその理由を、哲学すなわち学問全体、文化全体から考えてみようというのが著者の主張に相違ない。考えさせられる一冊であった。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.04.19)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

DOGS

紙の本DOGS

2002/04/16 22:15

犬のあどけない表情に心が癒される。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 キース・へリングというアーティストの名前を知らなくても、きっと彼の描く犬のイラストやそれをモチーフにしたピンバッチなどを目にしたことのある人は多いはずだ。犬ではないけれど、エイズキャンペーンの人間をかたどったマークも、彼のイラストによるものだ。彼自身エイズで他界している。展覧会に足を運んだり、彼のイラスト集などを見るにつけ、「いま彼が生きていたら、何を書いていただろうか」と思う。人間同士が傷つけ合い、ウソをつき、自分だけが生き残ろうとする世界。どんな人間の姿を描くだろうか。
 そんなことを考えながら、へリングが書く犬ばかりのイラスト集をながめた。小さなかわいらしい本である。彼がイラストとともに書いたメッセージも添えられている。原色ばかりを使っているイラストを、どれもこれも見ているだけでホッと癒される。しかし、「なんで人間はこうならないんだろう」とも考えさせられる。
 たとえば、本のカバーにもなっている犬。それは好奇心丸出しのぐりぐりした目で見つめ、おすわりし、そしてシッポを振っている。そこでへリングはいう。「初めて会った人にこんなふうにできるって、ほんとうはすごーくすばらしいと思う」。ムムム。初めて会った人はどんな人か、まったくわからない。どんなに好意的な表情で寄ってきたとしても、それは仮面かもしれないし、心の中では何を考えているかわからない。とてもシッポを振って喜びの表情を作ることはできない、と思ってしまう。こういう時、「だから犬の世界はいいよなあ」と割り切ってしまうのを、おそらくへリングは好まなかっただろう。犬も育てられ方が悪ければ、初めて会った人間や仲間にうなることしかしないのだから。品種改良をして、小さな家で飼える愛玩犬を作り出してしまったり、自分勝手なしつけをしたり、狭い環境で育てたりして、そういう犬にしてしまったのは、人間なのだから。
 犬も人間も、もともと初めて会った人にもシッポを振ることができるはずなのだ。へリングのイラストはいろいろなことを、軽やかに教えてくれる。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.04.17)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

全アジアを喰らう

紙の本全アジアを喰らう

2002/04/15 22:15

アジアの食を食べまくる。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 イタリアンもフレンチも食べるけれど、やっぱりアジアの食がぴったりくる、と思っている人は私1人ではないだろう。台湾料理、中華料理、タイ料理、インド料理など、まず、体中を刺激するピリッとした辛さがイタリアンやフレンチにはない。その辛さは、どこか懐かしいような感じがする。体の隅に記憶されているようにさえ受け止められる。そういう味覚のデジャヴをアジアの食では味わうことができるのだ。
 著者はアフガニスタンから中国までという、非常に広大な地域の食をともかく食べまくった。ともかく、まず、その食に対する好奇心が読んでいるだけでも心地いい。発酵食、鍋料理、ハーブ、米食、魚醤、納豆、ギョウザ、カレー、饅頭、精進料理、メン、長寿食……。12にカテゴライズされたアジアの食を堪能することができる。
 中でも短い「カレーにしましょ」という章が印象的だった。いまやカレーは日本の国民食とも言われる。本場インドでのカレーとは違うかもしれないが、レトルトを利用すれば手軽にできて、いつでもどこでも食べることができる。食欲がないときでも、なぜかカレーの匂いをかいでしまうと、おなかがすいてくる。そんな不思議なカレーの魅力の出所を、著者は書いている。
 インドは基本的に精進料理が食べられている。肉食はお祭りや客人が来た時など、いわゆるハレの日に限られるという。著者がインドに行ったときもそうだった。着いた翌日に、中庭で飛び跳ねていた鶏が、客人である著者のために儀式とともに潰された。著者は殺生をためらうヒンドゥー教徒である彼らが、鶏の首をはねるという血の儀式を平然と行うことに奇妙な感じを受ける。しかし、即座に思い直す。肉を食べることは、元来動物のエネルギーをわけてもらうことなのであり、動物を犠牲にすることで人間の精神が高められることなのだ、と。だからインドの人たちも肉の入ったカレーはたまにしか食べられないのだ。あまりにおいしくて、思わず「日本はいつもカレーだ」と言ってしまった著者の言葉をインドの人たちはどのように受け止めたのだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.04.16)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

肉食タブーの世界史

紙の本肉食タブーの世界史

2002/03/18 22:15

人類がたどってきた、肉食をタブーとしてきた歴史。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ワールドカップの開催時期だけでも、韓国で犬肉(狗肉)が食べられている習慣を止めてもらおうとする動きがある。犬肉が調理されている店や、犬が檻に入れられて売買される店を閉店させろと、ヨーロッパやアメリカ側の動物愛護団体を中心とした人々は主張している。レポーターに向かって、韓国の犬肉店の経営者はこう言っていた。「美味しいですよ、一度食べてみればわかります。わたしたちの文化なんですよ」。ある特定地域で食べられている肉が、別の地域では禁忌すべき対象となる。この韓国の食文化とワールドカップ観戦のために韓国を訪れる欧米人の主張する文化の軋轢は、まさに、肉食タブーの現状を直視するいい機会となる。
 本書は、犬肉も含め、豚肉、牛肉、鶏肉、卵、馬肉、ラクダの肉、魚肉といった肉食が、タブーとされてきたのはどうしてなのかを、実に幅広い資料や各説を検討し、概観したものである。イスラム教では豚が、ヒンドゥー教では牛が忌避されているのは、よく知られたところであるが、私自身は、鶏肉や卵を忌避の対象とする事例をあまり知らなかった。ニワトリはタマゴは、東南アジア、太平洋諸島、インド、チベット、モンゴルに点在する地域で、実際に忌避されてきた歴史があるという。理由はさまざまだ。不潔なニワトリから生まれてくるタマゴは「汚い」と考えているからだとか、辺りを歩き回るニワトリの餌の食べ方にいらだちを感じるからだとか、ニワトリやタマゴを食べると生殖機能を損なわれるからだとか、いろいろある。しかし、各共同体が維持し続けてきた、ある対象の忌避は、少なからず共同体内部の結束力を強め、自分たち以外の共同体との区別をつけるという目的もあったはずである。ヒンドゥー教徒がニワトリやタマゴを忌避してきたのは、それらを自由に食べるイスラム教徒や、ニワトリを儀式に使用する部族集団から自分たちを区別したいと考えていたからだという説が、本書でも紹介されている。
 美味しいか、そうでないか、という感情的な関心から、本書の中心テーマである「肉食タブー」は、正確に捉えることはできない。だから、ワールドカップ開催で議論の的になっている韓国の食文化も、幅広い肉食タブーの歴史から見つめ直すと、また違った観点を見出すことができるはずだ。ワールドカップを観戦する方は、一読されてはいかがだろうか。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.03.19)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

紙の本

ロバート・キャパ ちょっとピンぼけ文豪にもなったキャパ

紙の本ロバート・キャパ ちょっとピンぼけ文豪にもなったキャパ

2002/03/14 18:15

偉大な写真家ロバート・キャパを身近に感じる一冊。

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ロバート・キャパを説明するのはヤボというものに違いない。キャパは、写真家集団マグナムの中心的人物であり、第二次世界大戦中に、各国を精力的に走り回って、劇的な瞬間を撮り続けた報道カメラマンだ。スペイン政府軍の銃弾に倒れる兵士を撮った「崩れ落ちる兵士」はあまりに有名な1枚である。近年、この1枚が実戦の場ではなかったのではないか、という疑いがかけられたり、兵士の親族を語る人間が出てきたりとかする背景には、キャパにかけられた有名税のようなものである。死んでもなお問題が浮上してくるカメラマンもそういないに違いない。
 私は大学生の頃に、緊迫したノルマンディー上陸作戦の状況も、狩りの最中で誇らしげなヘミングウェイの顔も、キャパの写真で教えられた。その場に居合わせない限り、絶対に撮ることのできない瞬間をキャパは身体を張って撮り続けた。本来ならば「美しい」と感じることは不謹慎な状況の写真でも、「それでも美しい」と見た人に言わせてしまうのは、ひとえにカメラマンの力なのだと、大学生の私はほとほと関心させられた。キャパの対象に対する情熱と、彼の真摯な姿勢と、そしてできあがった写真の図られたかのような美しさに、私たちは魅せられてしまうのだ。彼の実弟が、日本ほどキャパを愛してくれている国はない、というのも、キャパのそういう情熱的な部分に日本人が多く惹かれるからなのだと思う。
 本書は、そんなキャパのエッセイ『ちょっとピンぼけ』の一部分を挿入しながら、著名な写真を収録したものである。キャパに関わった人々の話もある。何より、キャパが定宿としていたホテルの便箋につづった直筆原稿のコピーを見ることができるのが嬉しい。キャパの文字は、走り書きされて何を書いているのか皆目見当もつかないというものではなく、非常に几帳面なものである。一言一言考えながら鉛筆で書かれていったような文字である。それを見るだけでも価値がある。キャパをより身近に感じることができるからだ。 (bk1ブックナビゲーター:挾本佳代/法政大学兼任講師 2002.03.15)

このレビューは役に立ちましたか? はい いいえ

報告する

127 件中 31 件~ 45 件を表示
×

hontoからおトクな情報をお届けします!

割引きクーポンや人気の特集ページ、ほしい本の値下げ情報などをプッシュ通知でいち早くお届けします。