寺島靖国さんのレビュー一覧
投稿者:寺島靖国
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紙の本「いい顔」のつくり方 容貌と表情を変えると人生が一変する
2000/07/30 06:15
ハウツウ本もわるくない・・・
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この間、20年来の友人から「口をへの字に結ぶようになったね」と言われた。
ショックを受けた。ついに来たか。
人間、歳をとると楽しいことがない。恋愛が出来ない。老人とは恋愛の出来ない人のことを言うのである。
恋愛が出来ないと男であることを放棄する。女性にもてようとせい一杯、りりしい顔を作ったり背すじを延ばして歩いたり、そういう女性を意識した部分を失くしてしまう。
そうすると男はどうなるか。口をへの字に結ぶのである。口がへの字になるとどうなるか。顔全体が硬直し、無表情の老人そのものになってしまう。
私はあわてて自分の顔を鏡でみた。なるほど、なにが気に入らないのか口をきっちり結んでいる。薄い薄情そうなくちびるが余計薄く見える。シワが生じてなんだか実にじじむさい。おまけに目がとがめるような目だ。
これでは人は寄ってこない。
私は今、PCM放送という特別の受信料がないと聞けない放送で「道場やぶり」というインタビュー番組をやっている。ジャズの関係者とかレコード会社、オーディオの人などを訪問して話しを聞く。こんな顔で行ったのでは美味しい話を聞き出せるわけがない。
私は早速この本に飛びついた。
「顔は心の窓」であると言うのですね。まあこれは当たり前である。なにを今さらだ。しかし、その当たり前のことを私はきれいさっぱり忘れてしまっていたのだ。
いい原稿が書けない。手塩にかけているオーディオ装置からいい音が思うように出ない。トロンボーンを習い出したが上達が遅い。
人からみれば、なんでそんなことが、という些事が私にとっては重大で少しでもうまくゆかないと途端にくさってしまう。それがすぐに顔に出るのである。
こわい、こわい。
気持を、心の持ち方を、リリースしなくてはいかんな。
読み進むうちに私はどんどん気持が軽くなってゆく。いろいろな人の症例が紹介されている。ああ、オレよりも重症の人がいるんだな、オレなどまだ軽いほうだ。
人の不幸ではないが人さまの不幸を知ることによって自分の心を軽くするという弱さ、ずるさが人間にはある。
本書はいわゆる「ハウツウ本」である。私は以前からこの種の本をバカにしていた。本の形をしているが本ではないと思っていた。しかし近頃、その価値を見出し始めたのである。
ジャズをずっと聴いてきて当たり前でないことが素晴しいことのように見えていたが当たり前も素晴しいと思えるようになった。
魂の救済だかなんだか知らないがもったいぶった文芸書を「我慢して」読むのはつらい。そういう本が「いい本」として紹介される世の中、ギゼンだ。 (bk1ブックナビゲーター:寺島靖国/ジャズ評論家 2000.07.29)
2000/07/30 06:15
ジャズ本の夜明け
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「ジャズ本」という一つのジャンルがある。つまらない本の代名詞といってもいい。 なぜ、つまらないか。筆者がジャズのミュージシャンにひれ伏しているからである。
そういう筆者が「ブルーノート東京」へライブを観に行ったとしよう。海外からやってきたミュージシャンに積極的に話しかけようとするだろうか。ノーである。こわごわ遠くからご尊顔を拝しているだけである。
そんな人に面白いジャズの話が書けるわけがない。
平気で近寄り、一杯おごりましょうと言ってビールをくみかわす。そういう人のジャズ本を私は読みたい。
村井康司さんがまさにそういった方である。村井さんはいたずらにジャズにひれ伏さない。
ついでに言うとひれ伏すのは村井さんより一まわり二まわり上の私ぐらいの年令に人たちに多い。ジャズが神格化されて伝えられた時代に育っているからだろう。
村井さんはその点、ラッキーだった。
1970年代、フュージョンと言われるジャズの合いの子みたいな音楽が全盛の時代にジャズを好きになった。ジャズが少し神棚から下りてきた時代である。
その前がいちばん危い。バド・パラエル、チャーリー・パーカーといったジャズの創始者がいばっていた時代。
繰り返すと村井さんはジャズを自分と対等の位置に置いている。対等といってももちろんジャズへの尊敬の念を失ってはいない。あがめたてまつらないだけだ。ジャズを芸術だと言うのがいちばんまずい。そこでジャズとの接点が切れてしまうからである。
このジャズ本は最初から精読してゆくタイプの本ではないだろう。最初から精読しなくてはいけないタイプがつまらないジャズ本なのだ。一応年代的に話は並べられているがそれは本の構成上のことで読者はどのページから読みはじめてもいい。そのほうが愉しい。 たとえば「新主流派とは何だったのか」の冒頭。
わが国のジャズ・ジャーナリズムの中で何気なく使われている用語だが、改めて考えてみるとこれは相当にうさんくさいネーミングだ。
泣く子も黙るハービー・ハンコックなどの新主流派をうさんくさいとは何事か。私だって、一瞬「ムッ」としましたよ。
しかし怒りが収まるとその次に喜びがやってきた。これだけヌケヌケと言ってのけるジャズのライターが現われたのである。
ジャズ・ライティングの夜明けである。
遂に客観的にジャズをみることのできるジャズの筆者が出来したのである。
これまではジャズを「お勉強」する時代だった。筆者が言うように「我慢して」ジャズを聴いたこともあった。しかし、もうこれからは違うのだ。勉強の要素を2割ほど頭の隅に置きつつジャズを愉しむ時代がやってきたのだ。 (bk1ブックナビゲーター:寺島靖国/ジャズ評論家 2000.07.29)
紙の本決定版ベツレヘム・ブック
2000/07/30 06:15
ジャズの本質、インプロビゼイションが幻想とわかった時からジャズが面白くなる。
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文章をうまくなろうと思って中条省平氏の『文章読本』(朝日新聞社)を読んでいたら、ジャズの三文字にぶつかった。こういう本でジャズが顔を出すとは、うれしい。
最終章の「小説の方法について─村上龍ロング・インタビュー」のところ。
一般にはあまり知られていないが中条氏も村上龍もジャズが好きなのである。特に中条氏はジャズ専門誌の『スィングジャーナル』で毎月、レコードの評論をやっているほどだ。
なにやら私には理解できないお話をした後いきなり「チャーリー・パーカーがいうように、瞬間瞬間にイエスとノーの決断を積み重ねていくアドリブのことです。選択と自由の間をスリリングに縫ってゆくジャズの一番上質なアドリブみたいなものを、ちょっと連想したんですね」と中条さんが村上龍に話しかける。
それに答えて「僕はジャズの方法はあんまり好きじゃないんです。インプロビゼイション(即興)というのは幻想だと思う」と村上氏。
私は「インプロビゼイションは幻想」という言い方に惹かれた。
ジャズを長年聴いてくると(私は45年くらいになる)インプロビゼイションがうさん臭いものに思えてくる。ニシキのミハタじゃないのか、あるいは水戸黄門の印籠。
若い頃はインプロビゼイションだ、アドリブだ、即興芸術だといわれるとパタッと平服した。
しかし今は、まあまあ押さえて、押して、テイク・イット・イージー、と。
もちろん中条さんのようなジャズの見方も大事だ。私のようなイージー派ばかりだとジャズはこわれてしまう。きちんとした見方の人がいるからこうした風来坊を言っていられるのである。しかしジャズはインプロビゼイションをうさん臭く感じ出した頃から面白くなり出すんじゃないか。うさん臭い、幻想だといって見切りをつけるのではなく、ジャズの本質をインプロビゼイション以外に求めた時にジャズ鑑賞の第二期黄金時代がくるのである。
さて、ベツレヘムとはジャズのレコード会社の一つである。アメリカの。1950年代中期にしきりに活動していた。いまでは会社というよりレーベルとして通りがいい。
ベツレヘムは私に言わせれば、テイク・イット・イージーのレーベルなのである。どうもベツレヘムのプレイを聴いているとインプロビゼイションはどうでもいい。ひたすら気持よく楽しんでちょうだい、と言っているように思える。浮世離れしている。
ブルーノートやプレステージといったアメリカのジャズ・大レーベルは現実だが、それより大分小さいベツレヘムはまさしく幻想なのである。
そうした幻想的ジャズ・ブックを幻想的にリリースする「松坂」というマイナー出版社は松坂比呂さんというこれまた幻想的な女性によってささえられている。先日『ジャズ批評』誌が100号を突破したのでその記念パーティが行なわれた。いつまでも幻想を保ってもらいたいものである。 (bk1ブックナビゲーター:寺島靖国/ジャズ評論家 2000.07.29)
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