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狸汁さんのレビュー一覧

投稿者:狸汁

22 件中 1 件~ 15 件を表示

紙の本アメリカ人異人・変人・奇人

2010/01/02 16:28

ヘンなフツーのアメリカ人

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 新聞や雑誌の読者投稿欄を読むのは、結構楽しいものです。常識やルールに縛られている記者やライターよりも、ときとして突飛なことが書いてあります。また、どうでもいいって言っては失礼ですが、近所の人への苦情や姑の悪口のようなものもありますし、天下国家を熱く語る人もいます。

 ただ、日本の新聞の場合は、それほど常識から遠いものは編集の段階で排除しているそうですし、文章も記者が手を入れているそうです。だから本当の「生声」とはいえない面もあるようです。

 その点でアメリカのジャーナリズムがおおらかだと思ったのが本書です。ニューズウィークは一人の読者に1ページも与えて、思う存分に書かせているのですから。しかも、このアンソロジーを読むと、日本の新聞だったら「やばい」と思われるような、まさに異人・変人・奇人が自らを語っているのです。

 冒頭に登場するニューヨーク在住のロバート・デンカーさんは自分が「ヌーディスト」であることを告白し、そのすばらしさを縷々主張します。世界全体がヌーディストになったらいいと彼は考えますが、そのメリットとして、「空港の安全チェックが迅速になる」、「ヌーディストは他人が金持ちかなんてしらない。みんな同じ格好をしているからだ」とメリットを挙げ、結論としてヌーディストは「つまり、素晴らしい人が多い」となるのです。このとぼけだ自己主張に思わずおなかをかかえて笑ってしまいました。

 小型船で生活し「住所は海のどこか」と言うエリカ・グンズバーグクレムトさん。修士号を持ちながらも大好きなピザ宅配の仕事をやめないキャシー・クラークさん。デブのランナーであることに誇りを持つジェニファー・グレハムさん・マイウェイな生き方の人たちがたくさん「自分語り」をしています。

 ただし、本書は奇天烈な人の声ばかりではありません。。乱射事件の犯人を憎むべきか自問する被害者の牧師、少年時代を戦時下のアフリカで過ごし米国の平和な世界になじめなく悩む男性、児童虐待や人種差別の問題も数多く収録されています。

 ライターが紋切り型に加工をしないだけに、人間の複雑もかなしくも愚かな面がありのまま現れています。坂口安吾の名言に「人間は広大だ」というのが、ありますが、まさにそういう感慨にとらわれる本です。

 言っておきたいのですが、アメリカ人の多くの人は宗教への固執や人種問題、経済格差などのなかで、一部をのぞいて非常に視野が狭いのです。「バカ」と言いたくなりますが、落語の与太郎が世間を写すように、本書に登場する愛すべきおバカさんたちからアメリカという特殊な国のリアルな姿が見えてくると思います。

 それにしても、ジャーナリズムだけは、その寛容さにおいてアメリカは尊敬に値すると思います。日本の横並び、紋きり、ことなかれ主義はどうにかならないものでしょうかと思います。せめて、ニューズウィークのこの欄のようなユーモアをもてればいいですね。

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紙の本日本国怪物列伝

2009/12/30 22:07

かつての日本の“濃い”人たち

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 福田和也さんという評論家はどうも偽悪者的で、雑誌の対談などを読んでも好きになれるタイプの人ではないと思っていました。けれども、福田さんの人物評伝を読むと、非常に巧みで、なるほど、とうならせる文章家ではあります。

 「怪物列伝」と銘打たれた本書ですが、いかにも怪物然とした人からそうではない女優なども含めていて、バラエティー豊かな評伝集になっています。

 最初の怪物は陶芸家にして美食家であった北大路魯山人。美に惑溺した稀代の文人の魯山人が怪物とされるのは当然ですが、何をもって怪物とするかというと、福田さんは「作品数の莫大さ」と指摘します、魯山人自身の作品に限らず、美食の拠点だった星岡茶寮の食器まで含めると、それこそ「いくらでもある」のだそうです。数という巨大さ―それがピカソにも比する怪物芸術家たるゆえんだと指摘します。

 怪物とは「過剰」であるということが福田さんの視点であるようです。親から譲り受けた財産を道楽で使い尽くし、独自の歌舞伎演出に異能を発揮した武智鉄二。学生時代から京都の祇園に通い、金に飽かせて舞妓を横取りし、女性遍歴を重ねる。蕩尽(とうじん)の末に財産を失っても平然とし、道楽で学んだ色欲と伝統美を作品に昇華させまいた。

 その一方で、怪物らしからぬ人物にも怪物性を発見していきます。小説家の山本周五郎は人情派の作品で知られますが、作品とはに似合わぬ私生活だったそうです。作品に取り組む前は連日遊び回り、無一文になって書き始めたそうです。山本は「原稿料は収入ではない」と書きました。出版社や新聞社が「山本周五郎たらしめる」ために、原稿料という投資を、貯金などに「横領」しないという美学がそこにあったようです。。

 女性の怪物は意外にも田中絹代です。著者は歯に衣着せずに書いていますが、田中は美人ではなく、芸達者でもなかったと。しかし、少女から中年、老人の役を年齢ごとに演じきり、銀幕に君臨し続けました。その不思議さが怪物の名に値するのだといいます。

 「電力の鬼」松永安左衛門、「政界の黒幕」杉山茂丸(夢野久作の父)、共産党の徳田球一…さまざまな分野の怪物の人生が切れ味のいい筆致で描かれています。今はどんな世界でも人物が小粒になったと言われますがが、かつての日本にはそれぞれの怪物性を発揮していた、濃厚な人物がたくさんいたのだな、と思わされます。

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紙の本反社会学講座

2004/07/18 21:00

「自立」と「ふれあい」のウソ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 どこかの大学の先生が匿名でウェブで書いていたのがもとになっている。「少年犯罪が凶悪化している」や「少子化で国が滅ぶ」、「欧米の学生のよりに日本の学生はふにゃふにゃしてる」といった、いわゆる通俗の社会理解を笑いとばしてしまおうというコンセプト。たとえば犯罪白書をちゃんと読めば、若者のときに一番凶悪だったのは実は60代だったり、欧米のほうがフリーターが多かったりと、常識崩しを試みている。

 面白かったのは、なぜ日本の若者が自立(というか一人暮らし)できないのかという理由。だって、日本のアパートは先進国の中でいちばん初期費用が高くて、東京なら40万円、(夜逃げが多いという俗説のある)大阪では80万円も、若者に払えっていうほうが無理な話。電話だって7万2千円もする(欧米だと数千円)。賃貸用の不動産をもっている勝ち組老人はますます豊かになって、年金制度は(少子化ではなくて)彼らが社会還元しないから崩壊するという流れ。うん、たしかにそうだ。

 すみっこの話題で笑えたのは、「ふれあい大国日本」。都道府県のなかで、「スナックふれあい」と「ふれあい」の名前がついた公共施設の多いのは、北海道、埼玉、愛知なのだが、「ふれあい」が好きな地域ほど少年犯罪や不登校が多いという。「ふれあい」が増えると子供たちが荒れたりキレたりする。もちろん、かっこつきの「ふれあい」です。一方で、学校では教師のわいせつ行為という「ふれあい」が増加したりしている。「ふれあい」は危険なのである…。

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紙の本らも 中島らもとの三十五年

2007/09/03 00:59

愛と孤独がせつなすぎる

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

中島らもさんの奥さんの美代子さんが、らもさんとの35年を語った本だ。早逝した希代のトリックスターの夫婦の物語は、あまりにもせつなく、読み終わったあと涙がとまらなかった。

二人が出会ったのは1970年。美代子さんは短大生、らもさんは灘高の3年生。恋愛時代のことは、フランス映画のようにメランコリーでうつくしい。

<高校時代、授業をボイコットし、シンナーを吸い、睡眠薬を飲み、酒を飲み、音楽と活字に耽溺して毎日をようやく生きのびていたらもは、誰から見ても将来に何の希望も抱いていないのは明らかだった。心の中に大きな虚無が巣くっていたらもは、不安と、怒りと絶望の塊だった。>

そんならもさんが、美代子さんに一目ぼれする。美代子さんはお嬢さんだったが、中2で初体験をすませたすすんだ娘。一方、らもさんは突っ張って頭でっかちで、うぶだった。

<私が風邪で寝込んだとき、…らもはガイコツの灰皿をはにかんで差し出した。お見舞いにガイコツの灰皿というのもどうかと思うが、らもは大真面目にそれを選んできた>

<その年の暮れ、私はらもに連れられて、一軒のラブホテルの入った。らもの実家の二軒隣にある「喜楽」だ。「何でここにしたの?」「ここしか知らなかった」 こういうところは、らもは、ほんとにピュアというか衒いがないというか、子供っぽい>

らもさんらしいエピソードだ。鬱屈した優等生のおぼっちゃんは、どんどんドロップアウトしていくけれど、彼女との恋愛が若き日のらもさんのすべてだったのだろう。ヌーベルバーグ映画のように、自分勝手で理屈っぽくて、でも自由な青春が輝いている。

しかし、らもさんが世にでていくにつれ、二人のあいだには泥沼のようなものが広がってくる。面白いもの、あやしいもの、わけのわからないものを無防備にのみこんでしまうらもさんと、美代子さんのある意味でのいいかげんさが泥沼のまねきこんだのだろうけれど、あまりにも痛々しい。

解放区のようになったらもさんの自宅では、終わることのない宴がつづいていくが、精神の自由はときに性のほうらつさをともなう。中島家も例外ではなく、いつからか二人がほかの異性とセックスするようになり(というか、らもさんが提案している)、スワッピングのような殺伐な状況もあり、らもさんは自由をいいながら、美代子さんがほかの男性と関係をもてば修羅場となり、二人の心はぎしぎしとぶつかり合っていく。

本の後半は、美代子さんからすれば、らもさんを支配し、利用し、捨てた、わかぎゑふさんへの複雑な思いで占められている。

演劇をやりたいというわかぎさんのために、らもさんは劇団リリパットアーミーをつくるが、楽しかったのは自分のギャグでみたされた最初の3、4作ぐらいで、あとは起承転結のある芝居をつくりたいわかぎさんにひきずられ、お金もどんどんつぎこんでいき、最後は少しのコントコーナーしかない平団員となり、劇団をぬけていく。女帝として劇団を支配するわかぎさんの手前、らもさんは美代子さんをみんなの前で激怒し、わかぎさんも美代子さんをなじる。夫の恋人の話だから、一方的であり、わかぎさんの反論もあるだろうが、なまなましい。

<「延命はしないでください」。私は、らもの最後の願いを叶えるために、先生に告げた>

階段から転落し脳挫傷で危篤となった中島らもさんは、事故から10日後に人工呼吸器が外され、息を引き取った。享年52歳だった。生前、繰り返し自分の死を語り、延命措置はしないでほしいというらもさんの意思どうりに美代子さんは決めた。

わかぎさんとたもとをわかち、ほとんど視力をうしなうような状態で自宅に戻ったらもさんは、美代子さんに口述筆記をしてもらう。ぼろぼろだけれども、美代子さんにとっては晩年の静かな生活がもっとも幸福だったという。

<うん、五十歳を過ぎて、らもと過ごす時間はなんだか静かな輝きに満ちていて、幸福だった。あの七月十六日の未明に電話が鳴るまでは>

この本で、美代子さんはらもさんとの思い出のすべてをうつくしいものととらえようとしている。理由は、らもさんがいかに悪くても、自分はらもさんの才能を尊敬し、愛していたからだという。しかし、行間からは、美代子さんのらもさんへの激しい愛とともに、強い孤独もにじんでいる。

常識からすれば、あまりにもひどすぎるDV夫だし、インモラルな夫婦の物語だ。作家とその妻の特権がはなもちならないという読まれかたもされるだろう。しかし、死後に妻が語ったものさえ、リアルというよりファンタジーのようであるのは、やはり破天荒で才気にあふれ、破滅と死を友にした、ある意味では「最後の文士」だったらもさんならではだと思う。

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西遊記を徹底的に「探偵」

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 「西遊記」の解説本と思って購入したのですが、これは「解説」ではなく「解読」といったほうがいいでしょう。さすが中国文学の第一人者で、西遊記を翻訳した方だけあり、まるで探偵のような緻密な推理力で、西遊記という大伝奇小説を探究しています。3章からなりますが、第一章は、三蔵法師、孫悟空、沙悟浄、猪八戒の主要メンバーを考察しています。

 なぜか日本のテレビや映画では、故夏目雅子さんをはじめ、深津絵里さんや牧瀬里穂さんら「女優」が演じています。なぜそんな「女々しい」というイメージが出来上がってしまったのか、本書はその考察から始まります。

 三蔵法師はインドの向かってお経を手に入れるため長い道のりを踏破したわけですから、いってみれば冒険家です。業績をもとにイメージすれば、強く、いかつい男でも不自然ではありません。著者は莫高窟の石像や昔の図版をもとに、時代ごとの三蔵法師像を探ります。すると、「ハンサムで女々しい」というイメージではない時期もあったことが分かりました。虎を連れたむくつけき法師の姿もあったのです。

 詳しい説明は本書に譲りますが、女々しいというイメージになったことは、物語として伝承される間に、従者との関係性から女性的いなっていったようです。力強さは孫悟空に。俗人性は猪八戒になどとイメージが「譲渡」されていったというのが、著者の推理です。西遊記は史実をもとにして、長い間に脚色され、明代に小説として成立するまでに、それぞれがキャラ立ちしてきた、と著者はにらんでいます。

 孫悟空については、こう書いています。「『西遊記』を注意深く読んでいくほどに、『孫悟空』はサルかな?という疑問が次々と生まれてきました。そしていろいろ考えているうちに、孫悟空は龍でもあり、石でもあり、金属でもある、と結論づけることができました」。孫悟空にまつわる伝承をひもときながら、孫悟空のイメージの多様性をたどっています。

 ほかの2章は「『ならべる』世界」「『もぐりこむ』世界」とユニークなタイトルがついています。なぜ西遊記は、百科事典のように羅列が多いのか、洞窟や瓶のなかかに「もぐり込む」というエピソードがたくさんあるのか、なぜ猪八戒はダジャレばかり言うのか…楽しい話題が続いています。

 西遊記は単なる娯楽作品ではなく、「迷路」のようだと著者は強調します。「家一軒を建てるような建築思考なしには『西遊記』の世界は成り立たず、いかにもエピソードを「ならべた」だけの並列構造であるかに見せながら、じつは建築物にも似た緊密な立体構造になっている」という分析をします。

 西遊記研究では右の出る人のいない碩学であり著者が、西遊記を「迷宮を探偵のように探っていく」という一冊。読者もわくわくするような迷路・迷宮のなかに連れていかれることでしょう。

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紙の本安息日の前に

2009/12/25 19:33

現代にこそ生きてくる哲学

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「沖 中氏の哲学者」と呼ばれたエリック・ホッファー(1902-83)が、晩年に自らの老いと死を意識しながら書いた日記です。ホッファーは長い放浪生活と港湾労働者の生活のなかでテキストを書き続けました。テキストにはそのデラシネ(根無し草)の生活の様子が書かれているわけではありません。ローマの哲人皇帝マルクス・アウレリウスの「内省録」のように、みずからの純粋な思考を記述し、一方で世界について描写しようとしています。

 ホッファーの魅力は、最近気がついたことですが、なにごとも「自分なり」に「定義」をしようとする思想的営為にあるのではないでしょうか。彼はほとんんど教育らしい教育を受けていないだけに、知的訓練を受けたインテリのテキストと似ているようで似ていません。かれは、世界で起こっていること、あるいは自分の心のなかに想起したことに、ゼロの段階から「定義」づけをしようと、ノートにテキストをつづっているのでないかと思います。

 本書は、1974年と75年の日記が収められています。東西冷戦真っ盛りのころですから、政治的な記述が多いです。なかでも社会主義と資本主義についての考察が目立ちます。

 「社会主義社会で暮らしている自分の姿など想像もできない。私の情熱は放っておかれるべきであり、そうしてくれるのは資本主義社会だけである。資本主義は物を支配する理想的な力をもっているが、人間を支配するのは得意ではない。人間は放任されても、それなりに行動するという前提の上に資本主義は成り立っている」

 その後、社会主義への批判が続きますが、興味深いのは資本主義を賛美しているのではなく、彼が自分に自由を与えられること、「放っておかれる」ことにもっとも執着をしていて、体制そのものの是非について意見を述べているのではないのです。通常のインテリであれば、社会主義を批判するジャーゴンを持っていますが、彼にはそれがない。それだけにユニークで、類をみない哲学者たりえたのでしょう。

 未来がみえないグローバル資本主義のなかで、ホッファー的な「自分だけで考える」という姿勢は必要なのかもしれません。この日記のなかには、まさに箴言というべきものが詰まっています。

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紙の本大搾取!

2009/12/24 19:12

悲惨なる米国の労働現場

5人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

日本の労働現場にもひどい搾取やハラスメントが蔓延していると思いますが、この本を読むと、アメリカも労働者に対し随分とひどい扱いをする国なのだな、とびっくりさせられます。著者はニューヨークタイムズの労働問題担当記者で、じつに丁寧な取材によって、アメリカの非人間的な労働現場をリポートしています。

 ひどいと言えば、世界にも展開しているスーパーマーケット・チェーンの「ウォルマート」。万引き犯を捕まえたのにけがをして出社できないためにすぐにリストラ、そして驚くべき低賃金。ある町にウォルマートが進出してくると価格競争にならざるを得ず、ほかの良心的な店は苦境に陥ります。ウォルマートの超安売り戦略を支えているのは、低賃金と過酷な労働ですから、怒りを覚えます。

 他企業でも、むりやり残業させるために倉庫の外から閉めたり、トイレの時間まで管理して秒単位で減給するなど、「自由の国」アメリカでは、本当に企業が自由を謳歌しています。

 本書に深みのあるところは、かつてのアメリカはそんなに労働者に冷たかったのではないと歴史的にたどっていることです。労働組合は、いろいろと問題はありますが、労使協調によって職員の待遇を維持してきました。

 別の本で経済学者のポール・クルーグマンも指摘していましたが(『格差はつくられた』、いい本です)、アメリカでは企業が労働者を比較的優遇することで、ボリュームのある中産階級をつくりだし、内需も拡大させていたのです。ところが新自由主義時代になると、大金持ちは一握り、中産階級であっても病気でもすれば貧困層にまっさかさま、それに法律で定められた最低賃金ではとても食べていくことはできないのですから。

 日本では、小泉竹中路線がそういう新自由主義社会をつくろうとしましたが、政権交代でいまは一応ストップされています。でも、アメリカの周回遅れで社会が変わる日本ですから、民主党政権であってもどうなるか分かりません。世界の趨勢からは日本とて逃れることはできませんから。

 いずれにせよ、絶対にアメリカ人にはなりたくない、と思わせる一冊です。

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楽しく生きるモデルには大賛成

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ちょうど秋葉原の事件の直後に読んだので、まずはこう考えた。加藤容疑者も高円寺に住んでいれば、孤独じゃなくて、人を殺さずにすんだかも、と。

 でも、しばらくして、またちょっと考えた。「高円寺にいても加藤容疑者はああなったかな~」というのが正直な感想だ。

 その理由はちょっと後で。

 内容はというと、高円寺のリサイクルショップ「素人の乱」を運営し、「貧乏人」のアジテーターとして知られるようになった筆者の、ざっくりといえば「貧乏でも勝手に生きられるぞ!」という“啓蒙書”だ。

 本書中で対談をしている雨宮処凜さんの言うとおり「スカッとした本」であることは、私も賛成だ。格差社会は、「政治が悪い」「いや非正規労働が悪い」「いや若者も怠惰だ」など、今風にいえば「上から目線」で語られてしまうテーマなのだが、筆者はわきめもふらず、実践、実践であって、人生そのものがユーモアにあふれている。お上や社会の矛盾はまず笑い飛ばすことが武器だと思う。

 安く住む方法、メシ代をただにする方法…ここらへんは貧乏指南としてよくあるとして、おもしろいのは、「町内会とつながろう」と「選挙に出てみる」だった。

 自分の住んでいるところで楽しく生きようと思っても、じつは厄介なのが地元の中高年対策だ。「地域を活性化したい」と思う半面、「面白がり」の幅はかなり狭い。「向島学会」なんていうのが典型的だったけれど、かっこつけてよそ者が地域活性なんて乗り込んでくると地元住民と(若い人も含め)主導権争いなんかも起きてしまう。

 その点、高円寺の筆者は成功したようだ。実はだれでもうまくやれるはずだとは思う。中高年にも礼儀正しく、オープンに接すればいいのだから。

 それから選挙で遊んでしまうこと。これはいままでのきまじめなサヨクの人たちにはできなかったことですね。隣の区で筆者に投票してしまう知り合いとか、最高です。なんだ、投票率を上げるのは簡単じゃないかと、感心してしまった。

 いい本だし、悩んでいる人を明るくしてくれる本だと、おすすめします。これはホント。

 でも、筆者とその周辺の人たちの方法に少しだけ疑問的も示しておきます。「貧乏人の反乱」にたいしては、大賛成です。家賃がこんなに高いのもおかしいし、雇用構造の変化もひどいことだし、みんなが鬱になっているのもいったいなんなんだ!と思う。

 でも、筆者とその仲間をみると、やはりある種の「線引き」をもっているように感じてしまう。その線引きとは、貧乏人の仲間に入るのにも、一定のコミュニケーション能力が必要なのでは?ということだ。また、ある種の「政治性」も気になる。やはり都内の大学の左翼系サークル、中央線沿線のサブカルチャーという揺りかごがあるからできたことなのではないかと思う。

 あえて加藤容疑者をひっぱりだすことはいけないかもしれないが、ああいう人は、筆者の仲間に入れただろうか? 楽しそうなつながりだけど、自分に「ネタ」がないと尻込みする人は多いような気もする。これは難しい問題。

 でも、格差社会を食い物に貧乏人の味方のようにアジる大学の先生とかに比べれば、とっても健全な人だと思う。

 って、私も「上から目線」か…。

 読む価値はとてもある本だと思います。だって、いまの世の中で楽しく生きるモデルを示しているのですから。それは大変すばらしいことです。

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公正な世界を求めるために

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 グローバル・リッチ・リスト(http://www.globalrichlist.com/)というサイトがある。自分の年収をドルあるいはポンド単位で入力すると、自分が世界で上から何%の金持ちなのかが分かるというものだ。サラリーマンである私の年収を入れてみると、なんと上から0.7%だった。そんなに金持ちだったのか。だいたい4万ドルぐらいでも1%には入るという。試しに1万ドルで13%、1千ドルでも44%。世界はいかに貧困が満ちていることか。同時に「世界の大金持ち」である自分の立場に複雑な気分になってくる。
 本書でも、「グローバル・リッチ」について言及されているが、もちろん私などとはレベルが違う。現在の貴族階級とは何か。「ITや生命科学、その他の最近の技術開発の恩恵に浴したニュー・リッチ、スポーツ選手やメディア関係のスター、ミュージシャンやタレントなど」である。その下位に多国籍企業の社員や官僚など「力を得て急増するグローバルなミドルクラス」も存在する。本書が的確に言い当てている現代的特質とは、たとえば芸能人やスポーツ選手という「ドリーム型」の成功モデルは、アンダークラスから「闘争」の契機を奪う「装置」であることだ。アメリカが欧州とちがって階級が強く認識されなかったという歴史的事実が示すように、「ドリーム」は、巧妙に階級の存在を隠蔽していくのだという。
 一方で、貧困は暴力的に圧倒的に拡大し、そして貧富の差は固定化の度合いを強めている。それは発展途上国だけの問題ではなく、先進国の国内でも「アンダークラス」と呼ばれる人たちが増大している。
 しかし、彼らは不平等に対して、政治的な行動はとらなくなった。ひとつには社会主義の失敗で階級闘争的を志向する勢力が壊滅的に後退したこともあるが、さらに高度消費社会としての特徴も見逃せない。「貧者は富者のイメージに合わせてその姿を変えつつある。彼らは、何を買うか、何を持つか、どのようにカネを遣うかについて、どこにいても執拗な広告、同じ勧誘に晒されている。彼らの欲求は煽られる。彼らの現世での現世での物欲はかき立てられる」。しかしながら、「貧者にとっては、市場に参加するためのカネは手の届かないところにある」のだ。
 中産階級が多いとされた日本も例外ではないだろう。フリーターなどの労働市場での弱者は増大しているし、また地方の荒廃は著しい。それでいて、地方都市の郊外にでてみると、ジャスコとマクドナルドの巨大な店舗が並び、覇気のない家族がハンバーガーを囲み、偏食という「飢餓」のなかで、病的な肥満の姿をみせている。これは、日本のアンダークラス、あるいは予備軍の絶望的な風景ではないか。
 アカデミズムの中でも、「階級」は「階層」と言い換えられ、「不平等」という抽象的な概念によって、貧富の差が語られていく。著者が言いたいのは、それが「まやかし」だということだ。階級はマルクス主義が敗北しても、厳然として存在するし、さらに絶望的なことに、そのことに対する異議申し立ては、かつてに比べはるかに弱くなっている。「左翼の歴史的課題が無効になったからといって、公正な世界を求めて活動する人々が幻滅することはない」と著者は訴える。「たとえプロレタリアート独裁が死を迎えたとしても、それはおそらく、人類の幅広い解放のために道を譲っただけのことである」とも。それは宣言に過ぎないとしても、耳を傾けるべき言葉である。
 さて、「世界の大金持ち」である私が、左翼でいられるにはどうしたらいいか。弁解じみるかもしれないが、やはり公正さに対する想像力と、できる範囲での行動しかないとは思う。

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紙の本ロッキン・ホース・バレリーナ

2004/07/17 19:44

青春ロード・ノベルのスマッシュ・ヒット

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 いやーサイコーでした。大槻ケンヂ、ありがとう。
あとがきで想定読者のひとつである「かつてのバンド少年、ところが気がついてみたら『えー? ○さん昔バンドやってたんスか? しんじられない!』と若いもんにきっぱり言われてしまったロック・オヤジの皆さん」のひとりとしては、堪能しまくりました。 読了後、ツェッペリンの「天国への階段」を聞いて、弾いてしまった。楽器店で試奏しよっかー。「天国への階段」禁止でも、あはは。
 「十八歳で夏でバカ」。ギターの耕助、ベースのバン、ドラムのザジのパンクバンド「野原」は、おんぼろハイエースにのって初めてのツアーに出る。マネジャーは、「目的は金だー領収証きっとけー」と叫ぶ三十八歳の得山。旅の途中で巨大花「ラフレシア」にみえたゴスロリ少女の町子を拾ってしまう。キレた少年少女とキレたオヤジの、ドタバタ珍道中。やがて野原にのメジャーの魔の手が忍び寄り、「ツアーでガンダムを集めるように女とやりまくる」はずだった耕助と、「博多でビジュアル系バンドのメンバーに食われに行く」はずだった町子の二人の間には…。
 バカバカしくも、やがて切ない青春ロード・ノベル。いまの若者の描写だけではなく、80年代の青春を経験した「オヤジ」のセンチメンタルもあり、それが奥行きを出している。
 甘酸っぱさが欠乏している人には、是非。

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食文化論の入門にうってつけ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 表紙は、「包丁人味平」著者のビッグ錠さんのワイルドな漫画ですが、内容はとても分かりやすく食文化論を教えてくれるなかなかに硬派な本です。

 「『食べる』とはどういうことなのだろう」「ヒトが食べるという行為は何なのだろう」。テーマは本質的なものです。テレビではグルメ番組があふれ、以前にまして人々の食への関心は高まっていると思います。しかし、あの店がおいしいとか、外国のどこそこの名物料理は何だというのは表層的なものでしかありません。それに対し、本書は食文化の原点にかえり、論考をめぐらせています。

 著者の強みは、戦場カメラマンとしてスタートし、ジャーナリストとして世界各地の食文化を数多く経験してきたことです。とりわけアジアには造詣が深く、これまでにもアジアの食についての本をたくさん書いています。そうした積み重ねのなかから、大づかみに食の本質をとらえようとしています。

 人類の生活スタイルは大きく4つに分かれます。それは狩猟採集、牧畜、農業、産業社会です。人類の発展段階ですが、現在も牧畜や農業を生業としている人々は多いので、遅れているとか遅れていないという単純なことではありません。いずれにせよ、食についてもその4つの間には大きな隔たりがあります。

 著者はモンゴルの遊牧民やシベリア、アラブなど牧畜が行われてる地域の「嗜好の違い」に注目します。同じように牛乳や馬乳という材料を使っているのに、味が違う。それはなぜかというと、著者は「保存」のやり方が違うと気づきます。また宗教的なタブーも影響します。そこから導かれるのは、人間は「保存」する動物だということです。

 本書でユニークなのは、地域ごとに異なる食文化が「交わる」ことによって、どのような変化がおきるかを考察している点です。人類史的事件といえば、コロンブスのアメリカ到着でしょう。アメリカ大陸原産のジャガイモや唐辛子が世界に広がっていきます。アジアでは米という植物もそれにあたります。米が広がっていくなかで、地域ごとの煮炊きの仕方がちがいます。食文化が交わることで何か起こるのか、著者はそれを世界地図を広げながら考えています。

 人間の「雑食性」についての考察も興味深いです。狩猟採集時代は何でもたべなければ生存できなかったので人間は相当に雑食でした。しかし、農業で主食の確保が容易になり、産業社会で流通が発達するなかで、実は食は単一化・平準化し、かつての人類よりも食に多様性がなくなったのではないかということです。飽食の時代ですから、何でも食べられるとわれわれは思っていますが、意外と単調な食事をしているのではないかというのが著者の見立てです。

 付録に世界地図の上の各地域の代表的料理の写真とビッグ錠さんのイラストが描かれた「冒険地図」があります。食文化論の入門書としては、とても楽しく、うってつけの一冊だと思います。

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紙の本絵引民具の事典

2009/12/31 07:09

読んで見て楽しい事典

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大掃除などのときにすっかり忘れていた古道具が出てきたりしますよね。本書はなつかしい日本の古道具をイラスト入りで解説している事典です。

 ぱらぱらとページをめくりながら、民具のイラストを見ていると、いまのわれわれは実に味気ない道具を使って暮らしているという感慨にとらわれます。土間があり、そこで煮炊きされていた時代には、大きな釜や土鍋があい、粉篩(こなふるい)やたわしの用途の簓(ささら)があり、炊き上がったご飯はお櫃に入れられたでしょう。いまは何でもチンですんでしまいます。

 民具とは、言葉通りに庶民の生活用具のことです。衣食住、生業にかかわるものだけではなく、信仰行事や玩具も含まれれます。本書は1500の項目すべてにイラストがあり、読んでも見ても楽しい事典です。特に中林啓治さんのイラストが緻密で良く、実際の工具が目に浮かぶようです。

 雑学を仕入れるにはもってこいの本ですね。たとえば杓子(しゃくし)には飯杓子と汁杓子の2つがあります。汁杓子は、かつてはホタテやハマグリの貝殻に木の柄をつけていました。杓子はご飯を分配する道具ですが、それは家計をまかなう主婦に絶対的な権限がありました。姑が嫁に主婦権を譲り渡すことを「シャクシワタシ」と呼んだ地方もあったそうです。

 衣食住に関しては、金属やプラスチックなどに形を変え、現在でも使われているものが多いですが、玩具・楽器などをまとめた「たのしむ」の章をみると、いまでは見慣れないものが多くなります。たとえば人形をとってもさまざまで、千代紙細工の衣装を着せた姉様人形、絡繰(からくり)でお茶を運ぶ茶運人形、お公家さまから流行した体全体が真っ白な肌の御所人形‥‥挙げていくときりがないですね。

 少し値段が張る本ですが、昔のレトロな生活に思いをはせるのがお好きな方は、時間を忘れてずっと読んでしまうかもしれませんよ。

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日本人も旧正月を祝おう

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 著者の李さんは日本に移り住んだ在日中国人のなかで最も有名な人の一人でしょう。エコノミストの莫邦富さんもいますが、莫さんが表社会ならば李さんは裏という位置取りでしょうか。李さんは湖南省の片田舎で生まれ育ち、深センで商売を覚えます。来日してからは、新宿歌舞伎町で「安全」な中国人飲食店を紹介する仕事で頭角を現し、「歌舞伎町案内人」として、歌舞伎町や在日中国人社会のことをたくさんレポートしています。

 李さんの本は、どこまで虚か実か分からないのですが、すごく面白いです。均質化した日本のなかで、数少ないアウトロー感があるからなのでしょう。一種の冒険譚のようなわくわく感があります。

 本書は、ニューズウイーク日本版での連載コラムを初めてまとめたものです。媒体が硬派なので、李さんも少しかしこまった感じもうかがえますが、平気で女性遍歴のことを書いてもいますので、アウトロー感はそれほど薄まってはいないですね。

 第一章の100ページほどを日本人論に費やしています。なかなかに鋭い観察です。「ケンカっ早い中国人 退屈な『いい人』日本人」というコラムでは、ケンカを見ることがほとんどない日本社会が奇妙で仕方がないといいます。それは退屈な社会でもあると。

 「中国の新聞を笑えない 自由の国の不自由なメディア」では、日本の似たり寄ったりの横並び報道を批判し、自由な選択肢がない中国の新聞と同じではないかと感じるそうです。「嘘で固めた報道と、沈黙する大衆。どこかで見たような光景は、もういらない」とも。また、ラーメンから風俗嬢までランキングする日本の文化はやはり多くの人が好む(とされる)ものに群がるという日本人の習性は、李さんには、長年日本に住んでいてもなじまないそうです。

 でも日本人と在日中国人がもっとふれあって、仲良くなってほしいという訴える気持ちは伝わってきます。たとえば「アジアの同胞たちのため旧正月も祝ってほしい」というコラム。中国や東南アジアでは正月のお祭りは今も旧正月のところが多いので、李さんはこう言います。「もしあなたの周りに中国人がいたら、次の旧正月には「新年好(シンニェンハオ・中国語の新年のあいさつ)」と声をかけてあげてほしい。きっと彼らの心が少しだけ、温かくなるはずだ」。こういう話はいいですね。

 ついに在日外国人で、中国人が韓国・朝鮮人の数を抜きました。60万人の中国の人が日本にいるわけですから、つきあい方は本気で議論すべきです。李さんの日本人論は、あちらからどう日本人が見えているかという点で、とても参考になります。なにしろ歌舞伎町というフィールドで日本人のいちばん濃い部分を見てきた人ですから。

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紙の本儒教と負け犬

2009/12/26 13:34

東アジアの「負け犬」事情

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 もはや巷間で定着した感のある「負け犬」を造語した酒井順子さんが、今度はなんと中国、韓国まで広げて、東アジア全域の負け犬事情を探ったルポです。

 なにより驚いたのは、中国と韓国での「負け犬」に相当する女性たちの名称です。中国では「余女」、韓国では「老処女」。日本の「負け犬」に比べると女性のはきつい呼ばれ方ですよね。余った女に、老いた処女なんて。かつての日本では「いかず後家」というひどい言葉もありましたが、もはや死語ですね。

 負け犬とは30代以上の未婚女性のことですが、中国でも韓国でもその数は増えているそうです。負け犬となる事情には、それぞれのお国柄が現れています。

 まず酒井さんは韓国で「負け犬座談会」を開きます。日本の負け犬は男性の選り好みをしているうちに時がたってしまった人が多いようですが、韓国もそうした実情はあり、さらに徴兵制ということも影響しているそうです。つきあっていた相手が徴兵され、その間に別れてしまうこともあるし、女性の方が先に社会に出て、男性優位の儒教社会である韓国では、恋人関係がぎくしゃくして、結局別れる例も多いそうです。

 酒井さんは続いて中国を取材します。
韓国とは逆で、中国の女性の強いこと、強いこと。特に上海に行ったのですが、中国でも女性の鼻っ柱とプライドの強さはトップとのこと。結婚した男性は、ひたすら妻に服従し、家事も一切引き受けないといけないそうです。男性にしてみれば「結婚は人生の墓場」ならぬ「人生の労働改造所」のようで、結婚には男性の腰がひけているのが実情だそうです。

 タイトルにあるように東アジア3国はいずれも儒教文化の国ですが、現代ではそれぞれの結婚観、家族間は大きな隔たりがあるようです。酒井さんは、しかしある意味では儒教感覚が残っているからこそ、晩婚・少子化となっているのではと考えます。韓国では結婚すれば夫につくさないといけないし、中国には大家族主義の面倒くささがあります。

 日中韓は世界のなかでも晩婚・少子化の激しい国です。近代化をしているのに社会にはまだ儒教の残滓があって、そのために「負け犬」が増えているのではないかという見方です。

 本書では触れられていませんが、諸外国でも儒教ではありませんが、伝統的家族主義の根強いイタリアやスペインはほかの欧州諸国より、晩婚・少子化だと数字に出ています。結婚してうまくいかなければ離婚して、また別の相手を探すことが楽な国の方が、どんどん子どもをつくっていくようです。

 それにしても「余った女」「老いた処女」はひどい蔑視ですよね。「負け犬」というソフトな造語をした酒井さんに救われた女性も多いことでしょう。

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「歴史書」と言うほかない

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本を置くことができず、明け方までに一気に読み通させられるおそろしい本だ。アウトローと政治家の癒着、検察・警察の闇、「闇社会」を流通するめまいがするような巨額のカネ、そうした事実に圧倒されるだけではない。本書は、バブル、ひいては日本の「戦後」に落とし前をつけた驚愕すべき「歴史書」であり「民族誌」となっているからだろう。本書はもっとも近い歴史のもっともなまなましい記録であるのだ。

本書の概要を紹介しておこう。著者は、元大阪地検と東京地検の特捜部のエースとして、ロッキード事件以来の政治家逮捕にいたった「撚糸工連事件」や、現職警官を摘発した「大阪ゲーム機汚職」などを手掛け、平和相互銀行事件などで政治家の圧力に屈する検察にいやけが差し、弁護士となった後は一転して山口組や許永中らバブル紳士のみならず清和会など政治家の代理人となり暗躍した。そしてかつての検察の上司に狙いうちされ、石橋産業詐欺事件で実刑判決を受けた後、自分がかかわってきた「闇社会」の克明な事実を、まさに「洗いざらい」告白したものだ。

 著者は自決するつもりではないか、と思うほど事実は生々しい。裏社会からわいろをうけとる政治家、政治の圧力で事件を潰す検察幹部、自分の絵図通りに事件を捏造していく検察・警察、そしてバブル時代の想像を絶するようなカネと欲望のありさま。それがすべて実名で明かされている。

 思わず唸るような事実は読んでいただいたほうがいいが、印象的で象徴的に思えたのは、大阪の焼き鳥チェーン「五えんや」の中岡信栄のエピソードだろう。小学校もでていない中岡は松下の社員食堂に勤めたころ松下幸之助に気に入られ、1本5円の焼き鳥屋からはじめ、金融で成り上がった。字も読めない自分がエリートや有名人とつきあえるうれしさから、あいさつをすれば100万円をわたし、お祝いには1000万円をわたし、彼に政治家、大蔵官僚、芸能人、有象無象が群がった。

 著者も中岡にどこか思い入れをもって書いている。それは自らもそうであった「成り上がり」への共感でもあり、同時に深い自嘲でもある。しかし、成り上がりとは「ハングリー」から生まれたものであって、その時代精神を描写しきった…が、本書をすぐれた歴史書にしたのだと思う。

 著者は長崎・平戸の貧漁村で漁師の長男として生まれた。まさに赤貧洗うがごとしの暮らしが記されている。苦学、というよりサバイバルのような苦労の末、検事となる。弁護士として巨額の収入を得るようになって、7億円のヘリコプターを購入する。しかし、乗ったのは故郷の平戸に凱旋するための1回だけだった。これが絶頂であった。

 戦後とは、貧困という厳然たる現実から人々がはい上がる時代だった。そんなことは当たり前だと言われるかもしれないが、若い世代は実はよくわかっていないだろう。それが「歴史」になったとき、つまり「現代」をつくった理由がはっきりとするから、ぼくたちも骨身にしみることができる。

 著者はこう総括している。「日本人は、高度成長による経済発見の結果、金銭や物に対する欲望を全面的に肯定する社会になったように思えてならない」、そして「堀江貴文や村上世彰のようにバブル紳士以上に金儲けに貪欲である、実際に信じられないような大金を手にしている。しかし、その裏側で年収100万円にも満たず、公立の小中学校に通うこともできない子どもが増えている」「異常事態である。しかし異常な状況だという危機感すらない。そんな社会になってしまっている」。

 おそらく、多くの人々が語ってきた陳腐にも聞こえる結論かもしれない。しかし、本書でバブルという究極の欲望に溺れ死に、それをすべて記した著者が言うとき、重みはまた違ったものになるだろう。

 バブルの本当の落とし前は、本書でかなりの部分がついたような気がする。バブルとそのしっぽの何年かで終わりを告げた戦後が、「遠景」となり「歴史」となった音が聞こえたようだ。

 「歴史」となったというのはどういうことか。戦後の欲望を振り返り、総括していない現代の日本とは何かという問いがそこから現れてくる。著者が指摘する通り、「ワーキングプア」の問題をはじめとして、時代の欲望の裏側にひろがる「新しい貧困」とは何かが突きつけられるのだろう。

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