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無風さんのレビュー一覧

投稿者:無風

5 件中 1 件~ 5 件を表示

紙の本老人と海 改版

2004/03/21 03:41

孤独を知るとき

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 他者とのつながりは不可避である。自分を知る者が、世界のどこかに必ず存在するからだ。だから、他者とのつながりなど、普段は意識しない。この意味では、自分が「孤独ではない」ことも意識していない。

 「孤独」は、一人になってみるまでわからない。否、それでもまだ不十分だ。老人のように、果てしない大海で、舟の上に身を委ね、命を賭けてみないと、わからないのかもしれない。「死」を連想してみないと、わからないのかもしれない。

 死に触れること、これが「つながり」の断絶、則ち「孤独」を感じる瞬間だとすると、人間が真先にとる行動は、「絆」を求めることである。絆ならば「何でも」構いはしない。それがたとえ、「命の取り合いをする相手」であっても。老人は「憎むべき相手」にまで、友情を見い出そうとする(七十頁——『いまはひとりだ。陸地も見えぬところで、かれは生れてはじめて見る大魚に、話に聞いたこともない大きな魚に、じっと食いさがっているのだ。しかも左手は依然として、鷲の爪のように硬くひきつっている。だがきっと癒ってくれるだろう。そして右手を助けてくれるだろう。そうだ三つは兄弟だ、魚とおれの両手とは。……』)。求める絆が「存在すれば」、その時点で既に「孤独ではない」はず。だから求める。すぐそこにあるから求める。これは普段私たちが「生への執着」と呼ぶものである。

 「生への執着」を醜いと評する人もいる。必死だからだ。何故、絆を求めることに必死になるのか。「つながり」は自然に発生する。けれど、「絆」は自然に発生しない。自分で求めるしかない。存在しないならば探し求める。当然の原理だ。老人は醜態を晒したかもしれない。けれど、彼を否定する気になれただろうか。

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紙の本赤と黒 改版 上

2004/03/07 07:38

人間の本性を見た

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 心は傷つきやすい。それなのに、心の生みだす欲望は、とてつもなく大きい。欲望が行動を支える。そして、行動は他人との衝突をひきおこす。

 心と心がぶつかり、突き放される。それでも、人間は、何かを手にいれずにはいられない。企む。願いが叶う。突き放される。傷つく。また企む。そのくりかえし。

 この小説には、嘘がない。どの時代にも普遍の、ありのままの人間が描かれている。微細な動作、瞬間の反応、心理描写に関するどこを採っても、現実に起こりうるものであろう。現実に打ちのめされ、流す涙は、心の穢れを示している。心の穢れをさらす姿は、あたかも本物の人間が息づくかの如くである。穢れのない心など存在しない。心が穢れるのは、欲望が現実を美化するからだ。

 行動を駆りたてるのは、社会背景ではない。欲望なのだ。欲望が人を現実から遠ざける。だからくりかえす。これが人間の姿だ。

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根本的な観念は今も残る

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 魔女狩りが行われていた時代があった。都市のエリートや教会改革者たちが、自分たちの秩序を固持するために、「魔女」の名の下に、女性たちを焚刑台に送った、あの所業である。反対に、女性が崇められる場合もあった。美徳あふれる行動や死後の奇蹟によって教会に多大の貢献をした女性を、司教が「聖女」として認可する、というものである。対象が女性であることが、共通している。何故か。

 『創世記』にこのような記述がある。

『女、汝は悪魔の門、汝は悪魔の樹木に同意し、また汝が最初に神の法を捨てさった。汝こそ、悪魔の攻撃にたえるに十分勇敢であったかの男(アダム)を説きふせたのである。汝はいともたやすく神の似姿に創られた男を破滅させたのである。……』

 この「女」とはイヴのことである。イヴこそ呪われるべき女性のモデルとして定着する。古代から教会人たちは女性を忌み嫌ってきた。これが「魔女」の概念へとつながることになる。

 ところが、これまで女性を嫌悪する気運だった世界において、十二世紀ごろから「マリア崇拝」が盛んになる。信仰心が柔和になったこの時代、もともとは聖職者や修道士という男性が、人類の優しい母としてのマリアに縋ったのである。現実の女性がマリアに重ねられることも否定されなかった。これが「聖女」の概念となる。

 以上が、「魔女」と「聖女」の裏事情である。重要なのは、世俗の女性たちには、「蔑視」されようが「崇拝」されようが、良い方向には作用しなかったということである。いずれにせよ、女性への押し付けになっている。「魔女」は言うまでもないが、ある意味では、「聖女」も女性に対する「差別」であるように思う。また、魔女狩りの横行は、ルネサンス期という一時期のことたが、こうした女性観「そのもの」は基本的にどの時代にも存在しているように感じる。現代も例に洩れない。

 なぜ女性が「自由」を求めるのか、少しだけ理解できたように思う。こうした女性観を克服するというのは、歴史的に見てみれば、極めて難しい問題だったのだ。

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すぐそこにある未来

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ナノテクノロジーは、私たちが知っているような科学技術の発展とは、少し様相が違うように思う。私はこれまで、ナノテクノロジーを単なる「小型化」の技術だと考えていたが、この認識は間違っているかもしれないと考えるに至った。

 小型化は、ここ数十年の、科学技術のテーマの一つである。けれど、トランジスタに例をとると、現在の微細加工では、数十ナノメートルの大きさで「限界」が訪れるという(百二十五頁)。そこでナノテクノロジーは、DNAを登場させる。生物の体は原子で構成されているが、この構成がプログラムされているのがDNAである。DNAに、トランジスタの回路をプログラムしておけば、恰も生物の成長するが如く、「自分で」回路を形成するというのだ(百二十六頁)。DNAは二ナノメートルの大きさしかない。故に、この技術で形成されるトランジスタは、数ナノメートル程の大きさということになる。

 ナノテクノロジーは、医学の分野でも活躍が期待される。「ナノメートルサイズの分子機械」を、人間の体内に入れる。そうすれば、初期の病気でも早期に発見でき(百四十四頁)、ピンポイントに患部を治療できる(二十六頁)。それだけではない。薬の効き方には個人差がある。だから、こうしたバイオチップを使って、個人の「遺伝子情報を詳しく分析」できれば、その体質に合った薬を処方できるのである(百四十五頁)。

 ナノテクノロジーは画期的である。けれど、画期的であるが故に、反動も小さくないかもしれない。

『進歩することはもちろん重要だが、どこへ向かって進むのかというビジョンがなければ、ナノテクノロジーの取り組む意味を明確につかむことはできないであろう。ましてや、やみくもな進歩は危険ですらある。』(百六十二頁)

 ナノテクノロジーに限ったことではないが、技術によって造りだされるものは、あくまで「人工物」である。DNAを応用して、生物のように振舞わせても、人工物に変わりはない。人工物には「感情がない」。造った通りに動く。だからミスがあっても、そのまま動く。「私たちの意志と無関係」に、である。

 ナノテクノロジーは単なる小型化を超えている。実現すれば、私たちの生活を根本から覆すものとなる。革命的ですらある。そして、その革命は既に始まっている。故に、私たちはナノテクノロジーについての更なる理解が必要と思われる。専門家だけが理解していても、豊かな社会は訪れないのだ。

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紙の本ヴェニスの商人 改版

2004/03/17 01:38

変化への意志を

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 冷血漢の出鼻を挫く。勝利に酔い痴れる。それも悪くない。けれど、それで終わりだろうか。何か大切な裏を、見落としてはいないか。

 クリスト教徒は悪意を問われたのではなかった。友を守る為、証文に判を押し、結果として証文を破った。それでも、事実を受け入れる。自ら進んで裁きを受ける。恰も、悲劇の主人公の振舞うが如く。けれど、どこか危うい。クリスト教徒には、裁きを受ける覚悟はあっても、納得がない。「覚悟」と「納得」は違う。納得しなければ、罰につりあう懺悔は生まれない。クリスト教徒を、悲劇の主人公などとは呼べない。事実を《甘受》したにすぎないのだ。

 ユダヤ人をして、『みんなこうなのだ、クリスト教徒の亭主というやつは!』と言わしめている。冷徹なユダヤ人の無慈悲ぶりばかりが槍玉に挙がりやすいが、これに限って、正鵠を得ている。皮肉なことに。

 もちろん、ユダヤ人は最終的には斥けられなければならない。好意をも裁けという無慈悲を。けれど、ユダヤ人の無慈悲だけを論点に据えて、それで良いのか。一方的で空虚な物語で終わらせて良いのか。

 「法学博士」には、逆転へと導く《意志》があった。《意志》がユダヤ人を斥けた。何故、斥けたのか。ユダヤ人を裁く為か。クリスト教徒を救う為か。それだけでは足りない。蓋し、《甘受》を否定する為ではないのか。《甘受》の虚しさを、示す為ではないのか。《意志》だけが、困難な状況に変化をもたらしたのだ。運命への甘えなど一切ない。何かを変える《意志》が、あった。

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