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  3. 中乃造さんのレビュー一覧

中乃造さんのレビュー一覧

投稿者:中乃造

27 件中 16 件~ 27 件を表示

紙の本配達あかずきん

2006/10/18 20:00

書店の内側、けっこうリアルに書かれています

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本屋で起こるちょっとした事件を、書店員が解いていくミステリ短編集。とても身近に感じたのは、血なまぐさい殺人や凝った密室が出てこないことに加え、私自身がぺーぺーながら書店員だから。エピソードの数々に「そうなんだよねー!」と共感しながら読みました。
せっかくなので同業視線も交えて、特に気に入った二作品に感想を。

表題作『配達あかずきん』は一番好きな作品でした! べ、別にゲスト的登場人物のキングがえらいかっこよかったからとかそういう理由だけではなく……。あ、「配達あかずきん」である博美ちゃんも可愛かったです。
配達した本の周辺で悪質な事件が起こり、書店員の身にも危険が迫るという話は、スリルがあってどきどきしました。謎の核である部分も、なるほど〜と楽しみました。
私の店は配達をしていません。なので比較的、外側からの視線で読んでいました。配達って大変そうですが、「ハーレム」と異名をとるほどいい男だらけの理髪店へ行くなら確かに楽しそう。そういえば書店員は比較的女性が多い気がします。ハーレムの話題で色めき立つ、おなごワールドの雰囲気が楽しかったです。

『ディスプレイ・リプレイ』もとても面白い作品でした。出版社が主催するディスプレイのコンテストに応募することになった成風堂書店。バイトの子の友人なども参加し、気合いが入っています。
私もポップを描くのが好きだったりしますが、条例のせいで大掛かりなディスプレイができないんです。こういったコンテストの様子を伝えるパンフを眺めるたびに羨ましくなります。だからこの作品も、一所懸命飾り付けているみんなが本当に楽しそうで、愉快に読んでいました。
ところが話は一転。せっかく作ったディスプレイがひどい悪戯をされてしまう。何者による仕業か、また、複雑な背景を映す真意とは何か。なかなか読み応えがありました。
読んでいて、書店員としての立場について考えました。本を「商品」としてしか見ていない時は、確かにあります。きつい棚にグイグイ押し込んでしまったり……全然売れないと悪態をついたり……。私が扱う「商品」が、いずれ買い求め大切に読む人にとって「一冊」であることを、忘れてしまう時がある。好きだからと書店で働きはじめたはずで、本に対するお客様の気持ちが解らないはずはないのに。とても単純で基本的なことを改めて思いました。

レギュラー陣からゲストまで、登場人物を描く筆を見るにつけ、この作者は優しい視線を持っている人なんだなあと感じます。
シリーズ主人公である杏子はハッキリと物を言う女の子なのですが、刺々しかったりクールに過ぎるというのではなく、頼れる姉さん風。アルバイトの多絵とのコンビも楽しいです。実際に謎を解く探偵役は、不器用だけど勘の鋭い多絵という感じですね。かといって杏子は第三者というのではなく、やっぱり姉さんらしくリードしています。社員やお客様も、決して突拍子もないキャラクターではありません。総じて近くにいそうな人達を好感度高く描けるのは、作者自身が身近な人々を好きだからなのでしょう。
優しさは作品全体も包んでいるようで、ほとんどどの作品も読後感が柔らかくて良かったです。

『配達あかずきん』は、私にとって、探偵役に自分を重ねることができる貴重な作品でした。もちろん書店員ではない読者にとっても、よくは知らないけどちっとも特別ではない、書店の内側を覗き見ることができて楽しいのではないかと思います。

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紙の本蠅の王 改版

2006/09/29 00:54

少年達は敗れる

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

光と影と色彩が言葉によって創られている。文学の文学たる由縁だと嬉しくなる。解説によればゴールディングはもともと詩人だったそうだ。

読み始めてまもなく目の前には天然色の景色が広がる。陽光が燦々と降り注ぐ孤島だ。本当に文章なのかと一瞬疑いたくなるほど鮮明で、眩しい。それは、島に不時着し大人のいない世界を得た少年達にふさわしいと思われた。

話が進むにつれ影が浸蝕を始める。光があまりに強かったからこそ影も濃い。初めは些細な諍いだった。幼いプライドを持つ少年達の心理は丁寧に描かれ、辿っていくことは難しくない。だがそれもいつしか逸脱していく。そして蠅の王が姿を現す。

権力を巡るラーフとジャックの対立が表立っているが、肝心なのはそこではない。隊長に選ばれたラーフは権力に固執するようにも見えない。そしてなにより、対抗するジャックを嫌悪できない。たとえ彼が、豚を殺すことに興奮し少年達を狂気にまで煽り立てて、挙げ句仲間を殺すことになっても。
読みながら私が見つめていたのはジャックという少年ではなく蠅の王であり、蠅の王は、自身が言うようにどこにでも存在するからだ。もちろん、小説世界に限った話ではない。

少年達はほとんど最後まで蠅の王の正体を知ることができなかった。彼らが怯えたのは「獣」だった。海からやってくる、あるいは空からやってくるのかもしれない。得体の知れない「獣」に怯え、ジャックはそれに豚の頭を捧げる。サイモンという少年がただ一人、「獣」の正体と、腐った供物に宿る蠅の王を見た。

乱れていく景色の中で唯一静かに輝いていたほら貝が失われた時、光と影は完璧な反比例を成す。最後までほら貝を抱いていたピギーの眼鏡は、そういえば、いつも太陽の光を反射し火をおこす役目を持っていた。

当然のことながら、この小説は単なるサバイバルでも冒険譚でもない。どちらか一方が戦いに勝ったのでもなく、経験を積んだのでもなく、誰もが蠅の王に負けたのだ。
しかし、敗れ去った少年達の姿を目にし、そして燐光に包まれ真夜中を漂うサイモンの姿を思い出すと、彼だけは例外だったもしれないと思う。

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紙の本常世桜 地神盲僧、妖ヲ謡フ

2006/09/11 20:14

目を閉じて読んでみる

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

琵琶法師の清玄を主人公とした短編集。小さな猫が庵に現れる時、清玄を頼みにする者が訪れます。
七・五の強く意識された文章はいかにも雅で、酔っぱらってしまいそうになります。では古の物語だけかというとそうではなく、第一話の舞台は現代の六本木なので多少面食らいます。そして、時代は固定されず一編ごとに変わりますが、時を旅しているという風情でもない。伴侶とした琵琶の十六夜を携えて、清玄はいつの時代にも当然のように存在しています。
どの短編も、温かながら決してホンワカ一色ではありません。深みや時には凄みがあり、きっと清玄の奏でる琵琶の音色そのものなのだろうと感じます。
一等気に入ったのは『定家葛』。五月雨の日に清玄は絵師の生き霊と出会います。絵師はなかば強引に清玄を連れて行き、願いを叶えてくれという。すでに名画を残して地位も富も与えらている絵師の願いは、真実を描きたいというもの。「所詮は人の技なれば」そう慰める清玄に「ならば、儂は人を超えたい」と言い切ります。そして、彼が捕らえたいと願う題材は、龍でした。
盲僧の清玄が絵師の生霊を手伝うとは一体どういうことなのか。絵師はどうやって真実の龍を描こうというのか。妄執に至った希いは果たされるのか。山場は迫力と緊張に満ちていてとても読み応えがありました。そしてラストも、とても気持ちが良い。
『玉兎』は優しい雰囲気。清玄はひょんなことから兎を飼うことになります。たかが兎一匹といえど、流行のせいで兎インフレとでもいうような状態にある世間。苦心し行き詰まる清玄ですが、彼に兎を託した商人が再び目の前に現れます。その人こそは——、というお話。世の無常にちょっとしんみりしながらも、タマと名付けられた兎は可愛いらしいし、たおやかな作品でした。
オールスター競演の趣がある『武蔵野』も楽しいものでした。清玄と対立した都育ちの陰陽師も、揃いも揃った連中(!)にどっと嘲笑されたらさすがに生きた心地がしないだろうな……。気の毒に、フフ、などと笑ってしまいました。
現代に戻り短編集を締める『さくら桜』。こればかりは非常な痛みを伴っていました。どの時代にも命は生きて死ぬ。巡り巡る哀しみは止むことがない。それはまるで清玄自身のようです。そしてだからこそ、地神盲僧清玄でなければ救えなかったのでしょう。
「焔火桜(ほのおざくら)は天より降って、母と子供を焼き尽くしていく」(『さくら桜』より)
清玄は盲僧ですが、しかし彼の目は想いを映し、視線には慈愛と厳しさが湛えられています。なにか大切なものを感じ取ろうとする時にまぶたを閉ざすことがありますが——清玄の世界に出逢いたいと思いました。

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紙の本月光とアムネジア

2006/08/25 15:17

境界は存在しない

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

読了した時、ひとつの小説を思い出していた。『浦島さん』という短編で、作者は太宰治。十代の頃に読んで受けた衝撃は今でも忘れられないほどのものだった。『浦島さん』の中に太宰はこう書いている。
「年月は、人間の救いである。
 忘却は、人間の救いである。」

さて、牧野修の『月光とアムネジア』はSF、幻想小説である。
<レーテ>という特殊空間に入ると、三時間ごとに記憶がリセットされてしまう。リセットを繰り返せば負担が大きくなり後に障害が残る。
この<レーテ>に、伝説的殺人者である町田月光夜が入り込んだ。彼を追うのは県警の特務部隊と、月光夜に裏切られた犯罪結社<ホッファ窯変の会>である。
警察官の漆他山はかつて<レーテ>に入ったことがあり、記憶障害で入院していた。他山は月光夜を追う特務部隊に選ばれる。<レーテ>経験者は空間から受ける影響が軽度になるからだ。

作品はエンタテイメントの王道を行く。謎めいた月光夜はもちろん、特殊部隊の面々も強烈な個性を持っている。予期せぬアクシデント、記憶の定かならぬせいで生まれる不信。狽や水牛など<レーテ>内の生物は、読んでいて嬉しくなる気味悪さだ。
これらの要素は、作品が純然たるエンタテイメントであることを主張しているようにさえ思える。

では単なるサバイバルゲームか。そうであればラストがあんなに物哀しいはずがない。
これは記憶と忘却の物語であり、そして他山の物語だ。
他山はかつて<レーテ>に入り、記憶に障害を負っていた。隠された他山の過去、あるいは過去を失っていた他山こそが、核だ。もうひとつの核である月光夜と融合する時、『月光とアムネジア』は顕になる。
そして私は、はじめに挙げた純文学作品を思い起こさなければならなかった。忘却は救いか否か。『月光とアムネジア』は太宰ほど親切ではなく、明確な答えを示してはくれないのだが。

そしてまた、この虚構世界は現実を引き寄せる。記憶と忘却が積み重なる平凡な日常に波紋を投げかける。<レーテ>を取り巻く帯状の霧<愚者の王冠(クラウン・オブ・クラウン)>は電磁波を遮断するかもしれないが、読者にとって境界の役目を果たしていないようだ。
そういえば、キテレツな造語が飛び交う中に<オモイデ造り>というものがあった。<レーテ>経験者が身に着けてしまうことのある能力のひとつで、他人の記憶に新しい記憶を付け加える能力である。行事の際など何気なく使われる言葉と同じ響きを持つことは、ちょっとしたジョーク以上の意味があるようにも感じる。

とか言いながら、この作品はやはりドキドキワクワク読むのが一番楽しいに違いない。心の底からそう思う。本当に。

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紙の本イン・ザ・ペニー・アーケード

2006/06/14 12:51

芸術と幻想

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

三部構成の短編集ですが、一貫して美しいその文章。私はミルハウザーの作品を読むのは初めてですが、勝手にイメージしていた幻想的な淡さとは少し違いました。やや硬質な筆致は、題材や背景に甘く流されることがなく、鮮やかに明確に対象を描きます。絵画よりも彫刻を感じさせるのは、「刃物」や「刻む」印象があるからかもしれません。
『アウグスト・エッシェンブルク』はやや長く中編程度。田舎の時計屋に生まれたアウグストは、自動人形師としての才能を見込まれて、百貨店に展示する人形をつくることになります。しかし理想を追って一切の妥協を許さないアウグストは、卑近な世界に生きていくことが出来ません。
題材が題材なので、芸術というものの一面が現されているように感じました。しかしアウグストは、鼻持ちならないナルシストや夢想家ではなく、あくまで職人。これが上記したような文章とぴったりで、とても素敵でした。
同じように、芸術的なものに強く迫っていく『雪人間』。大雪の降った後、子供達は雪で人形をつくって遊びます。それは見る間にエスカレートして、街全体がまるで熱に浮かされたように、巧妙精緻な雪人間が次々と創られていく。決して単純明快な喜びが描かれているわけではないけれど、覆った雪が作品をどこまでも美しくしているようです。
アウグストが大衆に負け、雪が太陽に溶かされるように、本質的に幻想である世界が最も瑞々しく描かれているのが表題作である『イン・ザ・ペニーアーケード』。遊園地のゲームコーナーは、久しぶりに訪れるとただの汚らしい場所になってしまっている。がっかりした主人公でしたが、再度あの世界への鍵を発見することが出来ます。小銭を入れると決まった動きをするだけのただの機械が、そこではいきいきと輝き魅了する。
日常に還っていっても、鍵を握りしめていればきっと、その脆くも美しい場所を訪れることが出来るのでしょう。その鍵は例えば、ミルハウザーの小説だったり。

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紙の本アクアリウムの夜

2006/06/07 00:39

反転する世界

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

後にライトノベルレーベルから発行された点をみても、この作品はジュブナイルホラーと定義されるようです。しかし私はその位置づけに正面からは賛同できません。例えば将来、中学生くらいの自分の子供がこれを読んでいたら、取り上げてしまいたくなる。だから子供は、親の偵察に備え机の上に勉強道具をセッティングしたうえで、こっそりとページを捲ればいいのです。そんな読まれ方が似合う小説だと思います。
ある日、主人公・広田の住む街の野外劇場に、奇妙な見世物がやってきます。カメラ・オブスキュラ。そもそものカメラの原理であり、暗い部屋に外の景色を映し出すという。それを見に行った広田と高橋は、原理上ありえないものをそこに見ます。
良子を交え冗談まじりにやったコックリさんのお告げ、霊界ラジオ、禍々しいものが広田達の生活に染みのように広がっていきます。
ホラーとしては申し分ないどころではなく、特に広田が見る白い目玉の夢は、いい大人が……と自覚しながらも「怖いよぅ」と涙がにじむほどでした。
様々なオカルト的モチーフは、ともすればB級にもなりえます。しかしこの作品がそうでないのは、登場人物達に通う血のせいでしょう。精神に異常をきたしたかのような友人を見る、広田の視線。それは「まっとうに」温かいもので、彼の視点を得ている読者は、一笑に付すことができません。
広田は、複雑に絡み合う糸をほどいていくように事実を追究し、やがて全てを明らかにするために自分から行動を起こしてく。その傍らには良子がいます。
この流れは一種の典型であり、不穏な雰囲気や神経に響く繊細な表現はさしおいても、ある意味落ち着いて読み進めることができました。
しかし終盤は、歴とした幻想小説であり、妥当な期待はことごとく打ち破られました。水族館の地下に隠されたもの、それは生半可な現実感を裏切りどこまでも飛翔します。迫るというよりは叩き付けられるイメージはあまりに強烈で、圧倒されるよりありません。
そして誰もが、本当の意味では還ってこない。カメラ・オブスキュラに閉じこめられたまま。
この読書体験はあまりにも衝撃が大きすぎると、理性ある大人が不安になっても仕方ないと思うのです。
非常に印象に残っている場面があります。地下室で、貯水槽への道を確信した時に良子が見せる微笑みです。この笑顔の理由は、作品中で結局明らかにされていないようです。
これは良子が「少女」だったからではないかと私は感じました。作品中、回想の形を取って、十六歳と十八歳のふたりの少女の物語が挿入されています。この場面の美しさはちょっと筆舌に尽くしがたい。紛れもない妖しさ、しかし完璧な透明感。ふたりの少女は薄いヴェールでこの世と隔絶された場所にいました。
良子はちょうど、その時のふたりと同年代にあたります。賢いけれど少しミーハーな、全く普通の女子高生であった良子ですが、彼女たちと通じるものを潜在的に持っていたのではないでしょうか。それはもしかすると良子に限らず、ある年代の少女の特権とも呪縛とも言えるものかもしれません。
その点において広田とは決定的に違っていた良子だからこそ、間もなく来るその瞬間を前に微笑んだのではないか。そんな気がしてなりません。

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紙の本八本脚の蝶

2006/05/30 00:53

二階堂奥歯は物語になったか

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

物語とはなんだろうと考える。
著者である二階堂奥歯は、かつて自身を、物語は書けないがまもるものでありたいと言った。そして自ら命を絶った後、残された日記はこうして一冊の書物になっている。
『八本脚の蝶』は果たして物語と言えるのだろうか。
私の答えは否だ。
物語と言うにはあまりにも破綻している。終盤、つまり著者があきらかに死に向かっていくようになって以降。あまりにも支離滅裂で、もし物語であると定義したとしても読むに絶えないそれである。
人生はそれ自体物語だ、というお決まりの概念は、甘い幻想だと知らされる。二階堂奥歯は物語になりきれず死んだ。そうと知っていたから、物語を愛したのだろうか? 物でありたいと、特に誰かの所有物のようにありたいと願い続けた彼女は、人間の生が辿り着くことのない美しい世界に憧れていたのかもしれない。
あるいは、彼女自身が読まれることを拒んだ結果がここにあるのかもしれない。しかし読者のいない物語が物語でいられないこともまた、真実のように思えるのだ。
二階堂奥歯は非常識なまでの読書家である。日記を読み進めるだけでもそうと知れるが、知人のコラムによれば「生まれてから過ごした日数をはるかに越える冊数を読んでいた」ということだ。この本の中には多くの書物に対する感想や、それらからの引用がある。こういう言い方は不謹慎かもしれないが、ありがたくも、読者はそれに触れて数多の物語への扉を開くことが出来る。
上記したような著者への感慨は、人によって是非があろうが、『八本脚の蝶』が見事な読書案内であることは疑いないだろう。

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紙の本不思議じゃない国のアリス

2006/05/28 23:08

出逢うのが運命だったとか、出逢うまで生きてて良かったとか、そうまで思える本がある。

4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

短編集ですが一貫したテーマが感じられます。ニセモノとホンモノの間に生きる少年少女達の物語。帯には「新感覚ホラー・ミステリ」とありますが、それだけでは言い尽くせない。一番強く感じられるのは、リアルへの突き詰めた想い。それは時に残酷であり、破滅的であり、切なさを伴ったりもします。
以下、収録作のいくつかについてに感想を。

『銃器のアマリリ』は、傑作としかいいようがない。
基本的に筋という筋を持たない作品です。主人公は友人の少ないおとなしい少女。小さい頃に母親が自殺しており、そのことで心に深い傷を負っています。そんな少女の元に、ある日不思議な女の子が現れる。少女はその子をアマリリと名付けます。アマリリは、拳銃やショットガンで、周りの人間を撃ってあげると言う。
独特な構成は短絡的な感情移入をあからさまに拒み、理解しよう感動しようという下心を許しません。この作品は完璧に閉じられており、読むためには、一緒に閉じこもらなければならない。読者は少女の世界を生き、クラスメイトや行きずりの人々を次から次へと撃ち続け、同じ銃口を自分に向けなければならない。ドアが現れて(或いは発見し)そこから抜け出した後に初めて物語を知ることが出来るのであって、しかしその時にはもう世界は消滅している。
撃つことと撃たれた人間の叙述に多くを費やしながら、徹底的に詩的で美しい作品です。ほんともう、傑作としかいいようがない。

『飛行熱』の少年は、ニセモノに囲まれた世界から逃げるために家出をし、ある男=ブラザーに出会って彼をホンモノだと信じます。ホンモノの仲間に入れてもらうために、そしてニセモノを憎むが故に、少年はブラザーを手伝っていきます。馬鹿がつくほど素直な少年とブラザーとのやりとりはユーモアさえ帯びており、それだけに、不条理な世界の輪郭が浮かび上がってくる。
やがて迎えるカタストロフの中で、少年は今度こそ彼なりにニセモノとホンモノとを分かつのです。それは単純な物語の終焉ではなく、崩壊というべき圧倒的な結末でした。少年は瓦礫の中で温かく眠りますが、それを許されず生き存えてしまった大人の読者達は、廃墟の中を生きていくしかありません。

『空中庭園』は比較的ミステリ要素の強い作品。オンラインゲーム上での交流をベースに、参加者の一人である少女の現実を挟みながら話は進んでいきます。参加者達はやがてゲームの枠を超えて、悩みを打ち明けたり励まし合ったりする。
生身ではないコミュニケーションが本物か否かなどは詰まらない主題と思いますが、しかしこの作品はそんな次元を超えたところにあります。
ラストで明かされる真実は、なんだ〜騙された〜というお気楽さは皆無。失望によりとんでもない虚脱感に襲われました(作品に対してではなく、書かれていることに対して)。逆説的にその最後の一行を噛みしめ噛みしめ、なんとか持ち堪えました。そうしながら、こういう行為はまやかしなのかなあと不安にもなる。

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bite!

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

表紙を見た時なんでシマウマなんだろうと不思議でしたが、シマウマは実に重要な要素でした。テーマなどという野暮な言葉は似合わない作品なのだけど、敢えて言うならシマウマさんはテーマを担っています。
いわく、シマウマの国は何処にある?

今作も濃いキャラクタに溢れていました。
トイトイは元シャブ中のどうしようもないチンピラ。ハービーは奥さんが子供を殺して以来薬漬けで殻に引きこもっちゃってる人。柴尾は犯罪に手を貸す警察官で好きでもない女を抱いては自己嫌悪に陥っている。智也は比較的軽妙路線なのですが、これは罠です。読者に対する罠ではなく、智也自身に対する罠。
こう挙げるとなにか重っちい話に思えるから不思議。
彼らをここまでポップに描くことが、どうして可能なのだろう?

東山彰良は、品がいいとは口が裂けても言えない作品ばかり書いていますが、今回は一等下品でした。そこが面白いのです。冷静になってみれば、智也のやっていることなど、笑い転げて読んでいていいものではないはず。でも笑ってしまう。

山場は見物。自分勝手で口八丁で女たらしの智也が窮地に立たされる。ヤクザに凹られストーカーと化した元カノに拳銃突きつけられ、死ぬか生きるか紙一重であるというのに、その笑えることと言ったら。
で、ゲターっとなった直後、ただの馬鹿だったトイトイに冷や汗をかいてしまいました。デビュー作『逃亡作法』でのカイザーさんを思い出させる迫力あり。不意打ちだったので余計に驚いたかも。

不意打ちと言えば、「あー面白かったなあ」とニヤニヤしながら差し掛かったラストで、私は思わず泣いてしまいました。いわゆる泣かせ系の小説ではないのですが、「このラストいいなあ」としみじみしてついホロリ。

読後に気になるのが、パラノイアの存在です。これが異分子なのは明らかであって、だからこそおそらく故意でしょう。きっと作家の、作品という世界に対する回答のひとつなのだと私は思います。なんというか、如何ともし難い、破片だ。

あっちこっちとバラバラに見えて最後は一本にまとまっていく筋の面白さ、そしてなにより活き活きした人物達を楽しんでいるうちに、なんだか元気が出てきます。沈んだ気分も日頃のお悩みも噛み千切ってくれる、痛快な一冊です。

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住む主体

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

辰巳渚は、『「捨てる!」技術』の著者として有名かもしれません。私はベストセラーになった『「捨てる!」〜』を昨年末に読んだのですが、未だにその影響下から抜け出せず、休みの日にはゴミ袋を抱え荷物を引っ繰り返しています。ずいぶん身辺がスッキリしたもんだ。
それだけ、私は辰巳渚の考えに共感できます。しかも内容だけでなく文章も好き。さっぱりと整えられていて読みやすい。ユーモアが散りばめてあり時折漏れる毒も楽しくて、飽きることのないテキストです。
『いごこちのいい家に住む!』は、そのタイトルの通り家について書かれた本。しかし要するに暮らしの空間を意味する「家」は、実家住まいフリーターの私にとっては「部屋」と置き換えたほうがしっくり来ます。なので勝手ながら、以下「部屋」について、本書を読みながらつらつら考えたこと。
部屋とはいったい何なのか。
本の中では頻繁に「住み手」という言葉が出て来ました。部屋とそこに住まう人間を繋げる、うまい言葉だなあと感心します。ただの四角い空間が、住まわれてはじめて「部屋」になる。そこにはひとつの関係がある。
自分の部屋が変わった時のことを思い出しました。同じ家の中なのですが、それまでは四畳半を自室にしていたのを、六畳に移動したのです。
タンス以外の全ての家具を移し、前よりも広くてエアコンがある部屋に大満足してさあ寝ようと思った夜。私はなかなか寝付くことが出来ませんでした。それは明らかに、枕が変わると〜というレベルを超えた違和感でした(大体枕は変わっちゃいない)。
他人の視線を感じるんです。しかも敵意を含むもの。それがびしびし刺さってくる。布団の中でドキドキしながら「この部屋絶対なんか棲み憑いてるな」と半ば以上本気で考えたのでした。
そんな夜がしばらく続き戻ろうかどうしようか迷っていましたが、やがて気付けば視線を感じなくなっていました。今もその六畳で毎夜スヤスヤ眠っています。
思えばあの時感じた他者の視線は、きっと部屋のものだったに違いない。初対面だったから緊張感が漂っていたんでしょう。時間が経つにつれ、良好な関係が築けるようになっていったみたいです。
そんな経験があったから、「住み手」という言葉もごく自然に理解することが出来ました。
インテリアの雑誌などを眺めるのも好きなのですが、紹介されている写真を見ても「住みたいな!」と思う部屋は案外ないもの。もちろん、純粋に趣味じゃないという場合も多いのですが……
しかしそれ以上に、雑誌に載っている部屋と私とは根本的に関係を持っていないからなのかな、と思いました。凝っていてきれいで広い部屋は、憧れはあるかもしれないけど、結局それだけのもの。アイドルを見てカッコイイー! と騒ぐことはあっても、写真の中の彼らより隣に座っているステディのほうが大事だ、ということと似ているかもしれません。
本当に心から気持ちいい部屋に住むために、まず自分が良い「住み手」になりたいなと思いました。

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紙の本巷説百物語

2004/06/01 22:50

アンチ制裁な彼ら

2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

切ない。哀れ。悲しい——どれも、しっくりこないような?
ぬくもりのある寂寥感、絶望に裏打ちされた優しさとでも言いましょうか。
不思議に湿った気分になってしまう「巷説百物語」、怪談話の旬である夏よりも、それが密やかに忍び寄って来ている梅雨時のほうが、読むに素敵な季節かも知れません。

御行姿は小股潜りの又一。山猫廻しのおぎんに事触れの治平、それに加わる形になるのが戯作者志望の山岡百介。
彼らが裏で糸をくるのは、あやかしが跳梁するかの如き、謎めいた事件達。
その大半が、ワケアリの下手人を隠密裏にどうにかする、というものです。
どうにかする——と、曖昧な言い方になってしまいましたが、そうとしか言いようがないのです。
確かに彼らが行うのは、制裁かも知れません。罪に対する罰なのかも知れません。
だけれども、そこには必ず情けがあった。
業に翻弄された哀れな者を、優しく包む視線があった。
又一達は決して、罪人悪人を懲らしめるヒーローではないのです。
業を知り、傀儡になった者に寄り添い、それを昇華させるかのように。
「御行奉為——」
又一の、いわゆる決め台詞とでも言うべきその言葉は、どこか乾いた冷たい風に乗って聞こえてくるようでもあります。

現代ならば、サイコキラーものとでも呼ばれてしまいそうな設定が、しかし江戸の闇というオーラを纏って、全く違う形をとって胸に迫ってきます。
個人的にオススメの話は「帷子辻」と「芝右衛門狸」。
双方、違う雰囲気を持った作品ですが、上で感想を述べたような観念は、やはりその底に流れているようです。

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紙の本月の裏側

2004/03/29 23:43

恐怖の裏側

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 水の町、箭納倉にて。
 失踪した人が、ある日ひょっこり帰って来る。けれども、消えていた期間のことは一切覚えていない。そんな事件が相次いで、登場人物達が調べ始めると。
 得体の知れない、あるものの存在に気がついてしまう。
 ソイツは、徐々に、しかし確実に、人々の平穏な日々に浸食してくる。その正体は何?
 ——そして、私は本当に私なの?

 と書くと、いかにも現代ホラーだ。恐るべき大仰な敵、それと闘う人々や。そんなものを想像していると、肩すかしを食らうことになる。
 確かに恐ろしいのだけれども、その恐怖は迫ってくるのではない。読者を包み込んでしまうのだ。
 幻視的な独特な文章、不思議な魅力のある登場人物。それらは確かに、この作品が持つ包容力の一端には違いない。
 しかし、一番の原因は、そこはかとないけれども物語の底に確かに流れている、優しさのせいなのだ。そう、この物語には優しいホラーという形容詞が一番似合う。
 得体の知れない恐怖にどきどきしながら、心のどこかで安心を感じてしまう。その不思議さに戸惑いながら読み進めていくうちに——
 気を緩めていると、すっかり包み込まれてしまって、後戻りできなくなっているかもしれない。ご注意あれ。

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