らせんさんのレビュー一覧
投稿者:らせん
とりかへばや物語
2009/07/09 14:28
あらすじを知ればきっと続きが知りたくなる、学校では教わらない面白古典の名作です
19人中、19人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
先日、現代語訳『とりかへばや物語』を読んだところ、たいそう面白かったので、次の日会社の昼休み、後輩にそのあらすじを語るわたくし。
私:『とりかへばや物語』ってこんな話なんよ。
1.権大納言には腹違いで男と女の子供がいた。
2.男の子(男君)は内気でおとなしく、女の子(女君)は男勝りで活発。顔立ちは双子のようにそっくりで、たいそう美しい。父の権大納言は二人の性格が入れ替われば良いと願うが長じてもその気配がなく、男君を“娘”、女君を“息子”として育てることになる。
3.権大納言の麗しい子息の評判が伝わり、息子を公達として出仕させるよう帝から催促される。
4.最初は出仕を拒んでいた権大納言も帝の要請は断れず、結局女君を男として元服させて朝廷に出す。ついでに男君も女として裳着(女の成人式)を済ませる。
5.侍従の君(女君)は美貌と賢さで朝廷のアイドルに。式部卿の宮の子息で、色好みと評判の宮の中将と親しくつきあうようになる。
6.帝が退位して新帝が即位。父権大納言は左大臣に、女君も三位の中将に昇進。 新帝には子がないため、先帝の一の宮が女春宮となり、春宮の後見役として、男君が典侍(督の君)としてお仕えすることになる。
7.おっとりとしてあどけない風情の春宮と、寝所を共にしてお仕えするうちに、男の本能でつい春宮と男女の仲になってしまう督の君(男君)。やがて春宮は督の君(男君)の子を身籠もる。
8.左大臣の兄である右大臣は、自分の四番目の娘(四の君)の婿に三位の中将(女君)を望む。
9.父の左大臣大いに悩むも、北の方(女君の母)に「四の君はまだ幼く、男女の営みも理解してないっぽいので結婚させたら?」 と言われ、覚悟を決めて結婚させることに。
10.晴れて夫婦になった権中納言(女君)と四の君だが、仲睦まじいものの当然夫婦生活はなし。
11.宮中一の色好みと評判の宰相の中将(宮の中将)が、四の君に懸想し、権中納言(女君)が宿直で留守の夜、夜這いをかけて四の君と密通してしまう。
12.四の君が宰相の中将の子を妊娠出産。生まれた子は宰相の中将そっくりで、不義の相手が分かるも、女の身であるため嫉妬もできない権中納言(女君)。
13.世を儚んでいっそ出家をと思っていた権中納言(女君)は、吉野の里に隠れ住む賢人(先帝の第三皇子で唐で勉強の後帰国した偉い人)の存在を知り、会いに出かけることに。
14.吉野の宮に、初めて兄妹取り替えの真実を打ち明けるも、心配することはないとアドバイスされる。しかも権中納言(女君)は女性として位を極めることになると予言される。
15.また吉野の宮には美しい娘が二人おり、吉野滞在中に姉の大君と良い仲になる権中納言(女君)。
16.色好みの宰相の中将は、美しいと評判の督の君(男君)にも懸想をして夜這いをかけるも、きっぱり拒絶される。
17.督の君(男君)への悶々とした思いを、権中納言(女君)に聞いてもらおうとやってきた、宰相の中将の悩みを聞いているうちに、男とは思えない色香にクラクラきた宰相の中将に押し倒され、ついには犯されてしまう権中納言(女君)。
18.しかも宰相の中将の子を妊娠してしまい、出産のためやむを得ず宇治にある宰相の中将宅に匿われることになる。
19.都では右大将(女君)の失踪で大騒ぎ。失踪の理由が、四の君が権中納言(宰相の中将)と通じ不義の子を産んだためと噂され、四の君は父親の右大臣から勘当されてしまう。
20.女君は宇治で男の子を出産。権中納言大いに喜ぶが、時同じくして四の君が再び権中納言の子を妊娠。こちらは難産で、宇治と都を行き来する権中納言。男の訪れを待つだけの女の身の辛さを嘆く女君。
21.失踪した女君を探せるのは自分しかいないと決意した督の君(男君)が、男姿に戻り女君を探しにいくことに。この時点で春宮も妊娠中だよ、どうするんだオイ。
私:「だいたいここらまでが前編なんじゃけど、面白いじゃろ」
後輩:「めっちゃ面白い。でも男の本能ですぐ春宮を孕ませちゃう男君が、なんちゅうかすごいですね」
私:「荒唐無稽な話なんだけど、破綻することなく最後までまとまってるし、本来の性と社会での性が入れ替わった故に、悩み深い男君と女君の内面の描写もしっかり書かれていて、物語としてのレベルが高い気がするよ」
後輩:「色香に迷った宰相の中将に男の女君が押し倒されちゃうシーンはキャー♪ですね」
私:「うん、読んでて結構興奮した(笑) でもこんなキャーな話を学校で教えてくれんのは仕方ないわねぇ。授業では『源氏物語』とか先行する物語の二番煎じで、文学的評価が低い作品って教わったような記憶があるけどね」
後輩:「でも近頃夫が通ってこないと愚痴をこぼす妻の日記より、こっちの方が面白くて好きなんじゃけど」
私:「ほんまじゃね。だいたい学校で教わらんものほど、面白くてタメになるものなんよ(笑)」
後輩:「で、続きはどうなるんですか?めちゃくちゃ気になるんですけど」
私:「いやぁ、話せば後半も長いし、昼休みももう終わるから続きはまたっちゅうことで……」
結局、後輩の猛抗議で最後まで続きを語ることになり、「もしドラマ化するなら、配役はこの人がいい!」とか、しばらくは『とりかへばや物語』が大いに流行りましたとさ。
しかしこんなに続きが気になるような話を、今まで読んでいなかったのは不明の至りでした。
文学的評価が低かろうが、物語として面白ければ良いじゃないですか。
「もしも男女が入れ替わったら?」という物語題材として魅力的なifが堪能できる名作として、これからも友人などに布教していきたいと思います(笑)
最後の波の音
2007/07/28 02:44
波が引けても、波音は今もこの胸に響いています
10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
名コラムニストの山本夏彦さんがお亡くなりになってから、もう5年が経とうとしています。
この本は、山本さんが癌と闘病しながら書き続けた最後の作品集で、主に雑誌連載から抜粋編集されたものです。
新出本というよりは再録本と言っても良いのかもしれませんが、山本さんの逝去後に出たコラム集で、400頁を越すたいへん読み応えのあるものです。
山本夏彦さんと言えば、23年にわたって雑誌「週刊新潮」に連載されていた「写真コラム」が有名です。
私は大層マセた子供だったので、小学生の頃から病院の待合室などに置かれている週刊新潮を手にとってはよく読んでいました。
その当時から毎号必ず載っていたのが「夏彦の写真コラム」と「黒い報告書」(すみません、本当にマセた子供でした)で、この2つの連載は「週刊新潮」という雑誌に対して抱く私のイメージそのものになっていたので、今「週刊新潮」を開いても「写真コラム」がないことを本当に悲しく思っています。
写真コラムはその名の通り、原稿用紙2枚ぶんのコラムと1葉の写真が対に並んで雑誌巻頭のグラビアページに載っていました。
「原稿用紙2枚で書けないものはない」と言い、現にその素晴らしい見本を毎週読ませてくれたコラムは、山本さんの物事の本質を衝く批評眼と厳選された言葉、そして自らを「ダメの人」と称すユーモアで「史上最強のコラム」とも言われていました。
その一方で「毎回同じようなことを書いている」と言うような声もあったようです。
愛読者の一人として、山本さんの著作を多く読んだ私にはわからなくもない意見です。
しかしそれは、物事に対して一本筋の通った山本さんの目線にぶれがなくて、それゆえにいつも同じことを書いているように見えたのではないでしょうか。
ぶれがないから、時流に合わせて言を左右にすることがない。
これをマンネリと言う人は、時に応じて右にも左にも向く風見鶏であるかもしれません。
肝心なのは、山本さんのぶれのない目線は、読者にもぶれのない感興を与えてくれるものであったと言うことです。
本書には「寄せては返す波の音」と表題されたコラムがあります。
この「寄せては返す波の音」こそ、山本コラムの本領を言い得て妙な表題だとずっと思っていました。
波の音のように、繰り返し寄せてきては返す。
同じ波に見えて、ひとつとして同じもののない波。
時に高く時に低く、それが山本さんのコラムでした。
そして晩年最後の仕事である本書につけられた書名が「最後の波の音」であるのは、実にふさわしい書名であると思います。
波が引けても、名コラムと名文句の数々は遠い波音のように私の心に響いていて、折りにふれ読み返しては今も変わらず楽しんでいます。
プロメテウスの乙女 改版
2007/07/18 01:57
そのまんま映画にできそうな、これは「青春小説」です
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
書店の文庫コーナーでひときわ目立つショッキングピンクの表紙の本を発見。
手に取って見れば、赤川次郎さんの『プロメテウスの乙女』でした。
何でも改版で出版社を変えての再版とのこと。
懐かしくてつい読みふけってしまったのは、中学生の頃この本で読書感想文を書いて、当時の担任に激賞されたことがあったからです。
物語の舞台は近未来の日本(ちなみに本の初版は84年だそうです)。
武器輸出が解禁され、政権の右傾化と軍国主義の台頭が著しい社会。
良家の子女を選り抜きのメンバーにした民兵組織「プロメテウスの処女(おとめ)」は、独自の武装をもって社会秩序の維持、言論の統制にあたり、市民からは畏怖の対象、為政者からは純真な愛国者と称えられる組織だった。
武器輸出企業の社長令嬢で女子大生の二宮久仁子は「プロメテウス」の影の支配者である滝首相から「プロメテウス」の一員になるよう求められる。
時を同じくして、現政権に反対の勢力から、首相暗殺を狙って体内に爆弾を埋め込まれた3人の女性が送り出された……。
今はもう当時の感想文に何を書いたか覚えていませんが、恐らく右傾化した社会の恐怖と、全体主義への批判といった教師受けすることをそれらしく書いたのだと思います(担任は平和学習に力を注ぐ熱血社会科教師でしたから受けるに決まってます)。
まったく、今から書く感想と読み比べてみたいものです(笑)
大人の視点で読み返して最初に感じたことは、この本は実に「青春小説」だな、と言うことです。
主人公久仁子の青春が描かれた物語で、全体主義批判や軍国主義への警鐘の本などではないと言うことです。
裕福な令嬢として不足なく育ったであろう久仁子が何故、何をきっかけに、どうして体内に爆弾を埋め込みテロリストになる道を選んだのか、その経緯や内面の葛藤は一切書かれていません。
読者の前に最初に現れた久仁子は、既に体内の爆弾で首相を殺すという決断を終えています。
そして恐らくは標的の首相に近づくため「プロメテウスの処女」の一員になり、そこで傷つき摩耗し、果たして最期に彼女は自爆を選ぶのかどうか、久仁子の内面はやはり多くは語られません。
読者は彼女の行動を物語の進行とともに追体験していくことで彼女の語られぬ内面を推し測り、共感させられるこの手法は映画に近いです。
まるで映画『ニキータ』を観ているような感じで、タイトルをつけるなら日本風にベタに『テロリスト久仁子最期の日々』でしょうか?
この手法を前提に踏まえ物語を読めば、物語の本質は社会の右傾化や言論弾圧を批判するのではなく、その様な社会の業を背負って咲いた久仁子という女性を描いたことだと思うのです。
そして久仁子と同じく爆弾を埋め込んだ2人の女性の悲劇と、権力の走狗として政治利用される「プロメテウスの処女」たちの悲哀が徒花として脇を飾り、読み手の胸を打つ優れた「青春小説」になっていると思います。
ですからもしこの本を中学生の頃私が書いたように、全体主義批判、軍国主義批判の書と捉えるのなら、それは間違いとは言いませんが、もっとその任にふさわしい書は他にあるので、そちらを読まれた方が良いと思います。
しかしながら、此度2度目の文庫化、改版もされて装丁も目立つショッキングピンクというあたりに、出版社の力の入りようを感じます。
これはやはり物語の世界観が時宜にかなっている(平たく言えば売れる)と判断されたからなのでしょうか。
今実際に世の中が右に傾きつつあるのか定かではありませんが、その方向に進むことを憂う向きがあるのは多分に事実で、それ故のリバイバルかもしれないと思うと、映画的な青春小説としてこの作品を評価している私には、残念に思われてなりません。
最後に今回再読して一番違和感を覚えたことですが、それは主人公が女子大生なことです。
この本が出た80年代は女子大生ブームで、女子大生という存在に大きな価値があった時代でしたが、現在は女子大生では青春小説が希求する若さを感じられないように思うからです。
現在なら主人公は女子高生になるのでは?というか、私が作者ならそうします。
この20年間で女性の価値=若さといった風潮が広がったことを感じます。
既に若くない私としてはこの短絡的な価値観は否定したい所ですが、主人公が女子高生の方が時宜にかなうし、きっと売れるのでは?と思うと、またしても残念な気持ちになりました。
レ・コスミコミケ
2009/07/23 18:00
寓話的でSF的で哲学的で幻想的で、他に類をみない、私が大好きな短編集です
5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
戦後イタリア文学を代表する作家、イタロ・カルヴィーノの傑作と言われているのが、本書『レ・コスミコミケ』です。
寓話的でSF的で哲学的で幻想的で、他に類をみない短編集です。
宇宙創世の始めから、この世に起きたあらゆる出来事を見届けてきたと自称するQfwfq(クフウフク?)じいさんが、この一連の物語の語り部です。
このじいさん、ある時は宇宙を構成するあらゆるものが、ただ一点にひしめきあっていたビッグバン以前の出来事を“ご近所物語”として語り(ただ一点に)、またある時は、回転する銀河の公転周期を測るため、銀河の端っこにしるしをつけてみたり(宇宙にしるしを)、またある時は、一億光年離れた向こうの星雲に「見タゾ!」と書かれたプラカートを発見して、その謎の「見タゾ!」の告発にビビって、意趣返しを企んでみたり(光と年月)、ある時は、進化の途上で陸にあがるのを頑固に拒む魚類の叔父さんに婚約者を奪われたり(水に生きる叔父)、またある時期は、じいさん自身が絶滅した恐龍だったり(恐龍族)、Qfwfqじいさんの語ることは正にワールドワイド・ビヨンドザタイム。
どんな時でもQfwfqじいさんはいて、あらゆるものがQfwfqじいさんなのです。
落語に出てくるご隠居が披露する、博識と昔話を宇宙規模にスケールを大きくしただけの、途方もないホラ話しと言えなくもないですが、ビッグバン理論をはじめ、きちんとした学説に基づく宇宙理解がそのベースにはあり、その科学知識に想を得た突飛な物語がSFの傑作といわれる所以です。
また「いつでもどこにでも偏在する」Qfwfqじいさんの存在は、多分に哲学的で、仏教の華厳経に出てくる「一即多・多即一」という概念(私なりの解釈では、この宇宙において万物は互いに交じり合いながら流動しており、「一」という極小のなかに無限大の「多」一切が含まれ、無限大の「多」のなかに、「一」という一切の極小が含まれる)を思わせます。
そして、はしごで昇れば手が届きそうなほど近くに月があった頃のじいさんの恋を語った、冒頭の一遍「月の距離」に見られるような、絵画的な美しさは正に幻想的です。
「無色の時代」は、灰色な地球に色ができはじめた頃、じいさんが出会った美少女アイルに色を教え、最後は彼女を失う切ない話ですが、白黒の世界に色がついていく場面が、これも詩情あふれる美しさで語られており、映画『カラー・オブ・ハート』の先をいっています。
私がこの本を「寓話的でSF的で哲学的で幻想的で、他に類をみない短編集」と書いたのは、Qfwfqじいさんのホラではなく、こればっかりはまったくの真実なのです。
ふつう短編集を読むと、一番好きな話はコレ!と決まってくるものですが、この本に限ってはどの話も好きで、私的ベストワンが決められません。
12の物語、その全てが個性的で甲乙つけがたい。
また本書を楽しむ上で重要なのが、米川良夫さんの訳です。
まるでQfwfqじいさんの言霊が降りてきたんじゃないか、と思わせる素晴らしい語り口に魅せられて、何度も繰り返し読む私の愛読書です。
初恋温泉
2007/07/06 23:36
湯煙にけぶる5編の男女の物語
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
日本各地に点在する実在の温泉を舞台にした短編集です。
5編の作品が収録されておりすべて男視点の一人称になっています。
熱海の高級旅館に妻を伴って来た男。外食チェーンを経営し成功したはずの人生だったが、男は妻に離婚を切り出されていた(初恋温泉)。
話し始めたら会話が途絶えることがない似た者同士と言われる騒々しいカップルが、ひなびた温泉旅館で自分たちとは対称的に静かな佇まいが印象的な男女に出会う(白雪温泉)。
学生時代の同級生とW不倫中の男は、不倫相手の女に京都旅行に誘われる。ひと足先に女が投宿した宿で男が見た光景は(ためらいの湯)。
外資系生保のトップセールスマンで妻に裕福な暮らしをさせていることを誇りに思っていた男は、妻が本心では幸せを感じていなかった事実を知り、激昂して妻に暴力をふるってしまう。家を後にして、ふたりで行くはずだった温泉に一人で出かけた男は、そこで一人の女に出会う(風来温泉)。
高校生カップルのはじめての温泉旅行。彼女には夫婦仲が危機的状況にある兄夫婦がいて、彼女はそれをひどく悩んでいた(純情温泉)。
私個人の考えですが、男女二人で行く温泉旅行ってドメスティックな感じがしてあまり好きじゃありません。
団体旅行や女友達と行くのは別に良いのです。
女友達と「後片付けもしなくていいし今夜は女同士朝までゆっくり話そうや」なんてのは、日常を離れ楽しむために温泉に来た!という感じがして甚だ魅力的なのですが、これが男女二人だと、温泉に行く目的はつまるところ「飯食って風呂入って寝る」でして、これでは日常と何ら変わらないのではないか?と常々心の中で疑問視していました。
各編の主人公は、皆様々な日常を引きずったまま温泉に来ています。
離婚を口にした妻を伴って温泉にきた男は、妻同伴ゆえに夫婦の問題を温泉に来てまで直視しなければならず、逆に発作的に妻を殴って一人で温泉に来る羽目になった男には、それゆえに妻と来られなかった現実が重くのしかかっています。
温泉に行くという行為が、一見日常を離れて非日常を楽しむことに見えて、こと夫婦や恋人といった男女の仲においては、むしろ日常をドメスティックに抱え込んだまま、ただいつもと場所を移しているだけに過ぎないのでは?という私の持論はいい線をいっているんじゃないかと思いました。
しかし、この男女で温泉に行くことのドメスティックさこそが、物語に組み込まれた作者の仕掛けなのだと思います。
ところで温泉の非日常性の最たるものは、当たり前ながら温泉そのものにあります。
家庭の風呂とは違う、広々として様々な効能がある温泉に浸かることで、男たちは持ち込んだ日常を湯に溶かし、立ち上る湯煙越しに傍らにいる女、或いは傍らにいるはずだった女を想うのです。
この男たちが抱える日常を、温泉の非日常性に浸かることで見せる物語の仕掛けは、実に上手いと言わざるを得ません。
さらに上手いと言えば、5組の男女の書き分けも丁寧で、男たちが抱え込んだ日常と口に出されない心の機敏がよく伝わります。
最初はそうではなかったはずなのに、いつの間にか妻の心を見失っていた夫の心中など特に良く描かれていて、夫婦という同じ型にはまりながらも、心の場所は別な夫婦関係って?と考えさせられます。
そして歳月を伴にした男女の心のすれ違いに切なさを感じた後に、初々しい高校生カップルの一編を読むと、その眩しさが際立ちます。
少女を愛していることを自覚した少年が、湯煙の中でこれから傍らの少女以上に愛する者はいない、と決意する心の声は気恥ずかしいくらいの直球で、これこそ温泉という日常の中の非日常が生んだ魔法のようなきらめきを感じました。
この高校生カップルの話を短編集の最後に持ってきた構成も見事で、やはり吉田修一は上手い作家なのだと再認識致しました。
サンタのおばさん
2004/12/17 22:59
サンタクロースに必要な資格ってその外見ですか?
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
杉田比呂美さんが描く表紙がとても可愛いくて、思わず手に取ってしまった絵本がこの「サンタのおばさん」です。
そもそもサンタクロースの起源は中世キリスト教の聖人の聖ニコラウスから来ているとか。トナカイのそりに赤い衣装の白いあごヒゲを伸ばしたおじいさんのサンタ像は聖ニコラウスがモデルだからこそなんでしょうね。では、このサンタクロースはおじいさんしかなることができないのか? 女の人はサンタにはなれないのでしょうか?
この絵本はクリスマスを前に世界中のサンタが集まるサンタ協会の席でアメリカ支部のサンタが引退することになり、自分の後任として魅力的な女性を連れてきたことから始まります。紹介された他の国のサンタはびっくり仰天。果たしてこの女性はサンタとして認めてもらえるのか?と言うお話です。
男女平等が進んだとは言っても女性に門戸が開かれていない世界はまだありますよね。例えば大相撲の土俵に女性があがることができないとか。(横綱審議委員の一人に女性を選んでおいて、それはないんじゃないか?という気もします)。とは言えサンタの世界まで女性が進出する必要性があるのかと思っちゃいますが、ともかく世界のサンタ達はこの女性を仲間に迎えるかで熱心に議論を尽くします。でもこの女性はそもそも何故サンタになりたいのでしょうか? その理由は……と言うのがこの話のミソでコレ以上は書けないのですが、サンタクロースの形を借りて男女同権の考えとその現実、価値観の多様性、人種と文化の違い、家族のあり方の変化など今日的な社会問題がわかりやすく語られているのが驚きです。
著者の東野圭吾さんは「秘密」が話題になった推理作家ですが、「片想い」という作品では性同一性障害をテーマにしていますからジェンダーの問題について特別な関心があったのかな?と思っていたら、後で知ったのですが「片想い」の執筆過程から生まれた物語だったそうです。この本は特に男の人に読んでもらいたいな。おかしくて、ちょっぴり切ないクリスマス・ストーリーです。彼氏へのプレゼントにいかがでしょう。
板谷バカ三代
2004/12/26 00:30
蛙の子は蛙とか、血は水より濃いとはよく言ったものですね。
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
アジア各地への体当たり旅行記『怪人紀行』シリーズでおなじみゲッツ板谷さんの本です。それも、これまでゲッツさんの著作で度々ネタになっていた、板谷家の家族についてのみ書かれた同人誌風に言うと「板谷家オンリー本」です。
仲間が数人集まってワイワイ楽しんでいる時、その場の話題が「貧乏自慢」や「ドジ自慢」の競いあいになってしまうことはありませんか? でもってその中に、ただその場で受けるためだけに、身を切るかのごとく自虐的なネタを次々と繰り出して、その場の爆笑を独り占めしてる人がたまにいますよね。
(実は私もその一人だったりして(笑)受けをとるのに血道をあげるタイプです)。
より悲惨で、より笑える経験の持ち主が、やんやと笑いと喝采を受ける“自虐自慢タイマン勝負”の舞台で「こいつより面白いネタを持ってる奴はいねぇよ!」と誰もが鉄板で太鼓判を押すであろう、最強の家族ネタの持ち主がゲッツ板谷さんです。
冬の空気が乾燥しまくった日に、庭の草を火炎放射器で燃やすのと一緒に自宅をも燃やしてしまった男ケンちゃん(ゲッツさんの父)、履き古したパンストを帽子代わりに頭にかぶって歩くバアさん、トラックの色が青じゃないからと言う理由だけで、勤めていた運送会社を辞めちゃうセージさん(ゲッツさんの弟ね)など、ゲッツさんの血族のバカの濃さはハンパじゃないです。脇を固めるキャラも奇天烈で、正にゲッツさん曰くバカのディズニーランドに間違いなし!
私この本がとても好きで、文庫化されるのを首を長くして待ってたのですが、いざ発売になると、発売されてることすら気がつきませんでねぇ……。
本屋で見つけてビックリ仰天。さっそく会社の帰りに買って、バスの中で読んでたら、笑いをこらえるのが大変でした。爆笑、でもって一気に読了。次々飛び出す板谷家のバカの応酬に笑い転げつつも、読後には「やっぱ家族っていいもんだよね」とベタでハートウォームな気持ちになるオマケつきで、仕事の疲れも吹っ飛びます。マジでマジで。
「なんかバカそう」と言うだけの偏見でゲッツさんの本を未読な方にこの本を強くオススメします。バカの読まず嫌いは良くないですよ(笑)西原理恵子画伯のファンキーな表紙が目印です。
芭蕉紀行
2004/12/11 01:34
そゞろ神に誘われた、江戸の俳聖と現代の作家の時を越えた夢紀行
3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
大の松尾芭蕉フリークとして知られる嵐山光三郎さんによる松尾芭蕉ガイド。文庫裏の解説によれば、『野ざらし紀行』『冬の日』『笈の小文』『奥の細道』はもちろん、従来の案内書にはない『かしま紀行』『更科紀行』ゆかりのスポットも完全網羅。中学三年で芭蕉の言霊にふれ、自らも「旅を栖(すみか)」とする著者が、足と目と感性で俳聖の全足跡を辿る。研究者のあいだではタブー視されている、蕉翁の衆道にも踏み込んだ稀有な書。沿道の美味な食べ物も紹介。著者手書きの絵地図入り。『芭蕉の誘惑』を改題。
松尾芭蕉は言わずとしれた俳句の神様で、この偉大すぎる個性に凡人が正面きって向き合うには、嵐山さんのように、芭蕉が句を得た全紀行を自ら辿り検証することしかないのかもしれませんね。芭蕉と同じ目線で芭蕉が見たであろう光景を幻視し、芭蕉を丸ごと取りこむことで、嵐山さんは芭蕉について様々な発見を掘り起こしています。こんな風に好きな作家の好きな作品を感得できるとは、フリークの冥利につきると思います。うらやましい。芭蕉の生きた時代から遠く離れ、世は移り変わっても、芭蕉が土地ごとに残した言霊は今も確かに息づいており、それは見る目聞く耳のあるものにしか分からぬほど微かなもので、それを嗅ぎ取るため五感を研ぎ澄ませて辿る旅は、なんと贅沢な旅でしょうか。「俳聖」として教科書で学ぶ通り一遍の松尾芭蕉像ではなく、ひとりの人間としての松尾芭蕉が浮かび上がる本です。この本と、松尾芭蕉と『奥の細道』を、とある外国人が書いた作品の翻訳という形式で徹底的にパロディ化した、小林信彦さんの名著『ちはやふる奥の細道』(新潮文庫)を合わせて読めば、松尾芭蕉の認識が変わること間違いなしです。しかし、芭蕉が歌に詠み嵐山さんが辿った、この国の四季と自然は素晴らしいですね。私も芭蕉ではないですが「漂泊の思いやまず」どこか遠くへ旅に出たくなりました。
あやかし探偵団事件ファイル No.1 庚申塔の怪
2009/06/18 12:41
少年探偵団モノの新しい定番になることを期待するシリーズの幕開けです
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
子供時代友達と話していたこと。
「後から生まれてくる子の方が、覚えなくちゃならない歴史が多いから大変だよね」。
そう、この瞬間も世界では新たな歴史が作られており、後から生まれてくる世代ほど学習する歴史の中身が多いのは確かです。
そしてもうひとつ。
「後から生まれてくる子の方が、面白い本がたくさん読めていいよね」。
そう、この瞬間も世界では面白い本が続々と書かれており、後から生まれてくる世代ほど読める本の数が多いのは……半分本当で半分間違いです。
何故ならそこには“流行”という淘汰があるから。
オールタイムベストとして読み継がれる本は、この淘汰に残った一部の本に過ぎないのですから。
長い前置きですが本書『庚申塔の怪』は『あやかし探偵団事件ファイル』として刊行されている小学生向け推理ミステリーシリーズの第1作目で、現在既刊3巻が出ています。
主人公の元気が取り柄の健太は“庚申祭”の夜、自分の身体から抜け出た“三尸(さんし)”を捕まえる。
しかしそれは別の「だれか」もので、しかもその「だれか」は、きょう爆破と殺人を計画しているらしい。
何とかして謎の「だれか」を見つけ出し犯罪を止めるため、健太は文武両道の秀才だがキツい性格で、いつも一人でいる拓人の力を借りることににする―これが本書のプロローグです。
小学校の高学年くらいになると“探偵モノ”や“怪奇モノ”が流行る時期ってありますよね。
いつだって子供は興奮する謎や怪奇が大好物(だと思う)。
私も子供時代『少年探偵団』や『こちらマガーク少年探偵団』をワクワクして読んだし、『学校の怪談』には震え上がったものです。
でも荒唐無稽な話じゃダメで、そこにはそれなりのリアリティーがないと感情移入できませんでした。
子供向けの話だからって軽く見られたのでは、子供の心は決して捉えられないものです。
まず“探偵モノ”は、子供がいかに自然に事件に遭遇し解決まで導くかにかかっています。
現実の世界では子供ができることは限られていて、探偵団を結成して事件を解決するなんてあり得ない。
その点この本はよくできていると思いました。
周囲の大人の後押し(特に拓人のお父さんで民俗学の教授)と、子供達の知恵と努力が生む結果が、絶妙なバランスでリアリティーを生んでいます。
犯人の捜索方法(似顔絵を持って聞き込み)や、爆破予告現場への潜入方法(警備員に一芝居打つ)などは、意外と地道かつ頭を使った捜査ぶりで、これがなかなか本格ミステリーっぽい。
苦心した推理が壁にぶつかり、次の手がかりを求めて出直す姿には、インターネットで調べれば、答えがポンと出てくるお手軽な時代を生きる現実世界の子供達でも、自分の知恵と勇気でぶつかることの難しさと面白さを感じることと思います。
また物語のもうひとつのテーマである“怪奇”も、その由来や故事から丁寧に説明がされています。
本作に登場する“三尸(さんし)”とは人間の体の中にいる虫で、三尸は庚申祭の夜、人の体を抜けだして、神様にその人間の悪事を告げ口にいき、神様は三尸の報告を聞いて人間に罰を下すと言われ、“庚申祭”とは一晩眠らないで三尸が抜け出さないよう見張る、道教由来の風習であることがきちんと書かれています。
こうした児童書でありながら考証に手を抜いていない姿勢が物語に骨太な印象を与えると同時に、子供の興味をかきたてるのだと思います。
登場する少年達は、挿絵の影響もあって今時のコミック風でかなり個性的です。
元気印の主人公に、ツンデレの秀才くん、秀才くんの良くできた可愛い妹、実は一番の大物?のほほんくん、芸術家肌の不思議くんが探偵団のメンバーで、全員些か格好良過ぎな気もしますが(『ズッコケシリーズ』の3人と比べれば容姿だけでも段違い)、各々の個性が探偵団の捜査に役立つようになっており、また事件を通じてこれまで知らなかった互いの一面に気付くようになるのも設定が上手いと感じました。
全体に「面白い物語が書きたい」という書き手の意欲が強く反映されているという印象を受けました。
もし私が子供の頃この本と出会っていたら、間違いなく夢中になったであろうことは太鼓判を押したいと思います。
学校の図書室で貸し出しの順番をずっと待っている自分を思い出してしまいました。
果たしてこのシリーズが“流行”の淘汰に打ち勝ち、オールタイムベストとして読み継がれるような本であるか今は分かりません。
ですが私の心に、子供時代に大好物の面白い本を手にした時のワクワク感を思い出させてくれたし、今の子供達の心もきっとワクワクでいっぱいにさせてくれる物語に違いないと感じました。
願わくはこの先もシリーズが続いて、かつて子供だった大人が懐かしく振り返ることのできるような“探偵モノ”のオールタイムベストになって欲しいなと思います。
続巻の『逃げた奪衣婆』 『狐憑きの謎』も面白いので是非。
しゃばけ
2005/04/12 23:34
「水戸黄門」ご一行だって一番偉いのは守られてるはずのご老公様、いわんや「しゃばけ」においては?
8人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
1.廻船問屋と薬種問屋の大店「長崎屋」の若旦那一太郎は、当年17歳。
2.一太郎は生来病弱で、床から長く離れた試しがない。
3.両親は大事な一粒種の一太郎を溺愛しており、世間では大甘と大評判。
4.一太郎には幼少時から彼に仕える、2人の手代がいる。
5.実はそれは手代に身を替えた、妖怪の犬神と白沢である。
6.一太郎の周りには、他にも家鳴という小鬼や屏風覗きなど様々な妖怪がいるらしい。
そんな深窓の若旦那が、ひょんなことから江戸市中を騒がす、謎の連続殺人事件の目撃者になったから大変。心優しい若旦那と妖怪達は否応なく事件の解決に乗り出すことになる、愉快な愉快な時代小説です。
親が金持ちだから病弱でも路頭に迷うことのない、存在そのものがかなり“嫌み”な一太郎ですが、春風駘蕩を絵に描いたようなお人で、正岡子規じゃないですが“病牀六尺”の世界で半生を過ごしてる割に、世間が良く見えていて、人柄も練れている。これで身体が丈夫ならば……は本人が一番良く感じているだろうに、それは言ってはならない繰り言と、我が身を笑い飛ばせる強さも持っている良い若者なのです。こういう人物には他人(ひと)が寄ってくるのが当たり前で、その上、一太郎には人ならぬ妖しの類までが寄ってきて、彼を盛り立ててくれます。この妖し達も、愛玩動物のように可愛い小鬼から、後見人の犬神白沢に狂言回し的役のものまで、ひと通り揃っていて実に魅力的です。さて、こうしたキャラクターの個性が光る冴えの一方で、物語り本筋の殺人事件ですが、妖し絡みでしかもそれが、一太郎自身の出自にも関わることであった、その背景を折り込む為もあってか、ちょっと人死に過ぎ?と思える大味な展開になったのが残念です。ついでに手代の二人が妖しの本領を発揮して活躍する見せ場が薄いのも残念。せっかくキャラクターが立ってるのにもったいなく感じましたが、実は本作はこの後続編が出てシリーズ化しています。お楽しみは次作に、と言うことですかね? あと余談ですが、本作を読んで、私は“時代小説の王道”池波正太郎さんの『剣客商売(8)狂乱』の中の一編「狐雨」を思い出しました。アレも妖しと人間の不思議な縁が語られた楽しい話ですよね。本作には「こんなん時代小説と言えるか」と、時代小説愛好家の手厳しいダメ出しの声もあるやもしれませんが、私は池波さんの例もあるように、こういうのも有りだと思います。灯りを落とせば漆黒の闇が外にあった江戸の時代は、妖しが手代になってるファンタジー世界と存外相性がいいようです。時代小説の可能性と裾野を広げる快作として、私は評価したいですね。
悲しみは早馬に乗って
2009/06/26 12:34
愛らしく、つつましやかな登場人物に好感がもてる作品集です
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
『悲しみは早馬に乗って』と言うタイトルに惹かれて手にした本です。
私は未読なのですが、著者のドロシー・ギルマンは軽妙洒脱なミステリー『おばちゃまはスパイ』シリーズが有名で、日本にも多くのファンがいる作家とのことです。
この本は表題の『悲しみは早馬に乗って』他、小品8編が所収された短編集で、うち7編の主人公が若い女性です。
夫を突然の病で失った未亡人が、残された生命保険で、まだ幼い息子二人を連れて世界旅行に出かける。旅先で盗賊に襲われた絶対絶命の危機に、母親が振り絞ったある言葉が親子を救うことになる。(悲しみは早馬に乗って)
田舎町を出て都会で“この世でいちばん美しい暮らし”をすることを夢見る娘に、都会からやってきた新しい下宿人が“美しい暮らし”の真実を教える。(夢見る人)
小柄で世話焼きでどんなことにも首を突っ込むおばさんが、人付き合いが良いが恋愛には不器用なのっぽの青年の恋路を取り持つ話。(客間のジャイアンツ)
周囲に人気のない夏の別荘で、ひとり過ごすことになった娘をつけ回す怪しい男。追いつめられた娘は自力でこの窮地を脱することができるのか?(エスケープ)
大学入学前の短期間のつもりで電話交換手のアルバイトを始めた娘は、志望大学不合格の手痛い挫折を味わう。しかし心優しい青年との出会いを通じて大きく成長する。(ダイヤルLはラブのL)
兵役から一時帰休した恋人を駅で見送る娘は不安でいっぱいだった。恋人がプレゼントしてくれた本には、娘を勇気づける愛の言葉が綴られていた。(アイラブユー、アイラブユー、アイラブユー)
ソフトドリンクを買ってくれたらどんな願いでも叶えましょう。不思議なドリンク売りの博士に少年がしたお願いは?(魔法の願い)
幼い兄妹二人の子供とアパートで暮らす母親に、突然かかってきた脅迫電話。警察に訴えてもまともに取り合ってもらえず、孤立無援の親子を執拗につけ回すストーカー。母親は子供を守るため毅然と立ち向かう。(ストーカー)
軽くパパッと一読して、気に入った何編かをじっくり読み直しました。
『悲しみは早馬に乗って』は、突飛な世界旅行に旅立った、その真意を告げる母親の言葉が印象的な作品です。
不意打ちの悲しみを前に、逃げることしかできなかった母親が、初めて悲しみと向き合った時の強さを、息子達はいつまでも忘れないことでしょう。
『客間のジャイアンツ』はラストに明かされるのっぽの青年の正体にニンマリします。
『ダイヤルLはラブのL』は青春の挫折が若者の成長の糧になるという、実によくある話ですが、腰掛けのつもりで始めたアルバイトと、青年との恋を通して変わった娘の姿には、思わず応援したくなるいじらしさがあって、味わいのある作品です。
『アイラブユー、アイラブユー、アイラブユー』は兵役に戻る恋人を想う娘の切なさと、ふたりが誓う永遠の愛の純粋さが、この短い話に凝縮されていて胸がキュッとなる佳作でした。
全編を通じてのテーマがあるとすれば、主人公の女性達が愛らしく、つつましく、人生に不安や恐れを感じつつも前向きであることがあげられます。
この“愛らしく、つつましい”という印象は、主人公の多くがアメリカの田舎住まいであること、兵役中の恋人を持つ娘など、物語の時代背景が古めかしいことから来ているのかな?と思っていましたが、後で訳者である柳沢由美子さんによるあとがきを読んで腑に落ちました。
この短編集は作者のドロシー・ギルマンが1950年代~60年代に、女性ジャーナルや少女雑誌に発表した初期作品を、日本で編集出版したものだそうです。
だからどことなく古めかしくて、登場する女性も今風にトンガってなく、愛らしく、つつましいのですね。
読みながらイメージしたのは「若い女性が、高みを目指してジャンプしたけれど高くは飛べず、着地したのは前に居た場所のほんの少し隣りだった」という光景です。
ジャンプして落ちた場所が、前進であったのか後退であったのかは他人には分かりません。
ただそこから眺める景色は、前とは似たようでどこかが違う。
その異なって見える景色の中にこそ、人生における愛や幸せや喜びが存在しているのもので、今まで見えなかったものの存在に気が付けば、人生はより素晴らしくなるのだという、尊い真実を語っているように感じました。
そしてこれらの作品を執筆当時、恐らく作者のドロシー・ギルマンもまだ作家としては駆け出しで、作品中の女性達同様、愛らしく、つつましい人だったのではないかな?と想像します。
これを機会に彼女の長編作品も読んでみたくなりました。
野武士のグルメ
2009/05/22 14:14
旨い飯が食いたくば野武士を目指せ!
8人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
『かっこいいスキヤキ』『孤独のグルメ』の2大グルメマンガの原作者である久住昌之さんのエッセイ集です。
テーマは“外食”それもミシュランを意識したような高級グルメではなく、庶民飯である居酒屋、ラーメン屋、定食屋を主な舞台にした孤高のひとりメシを語った痛快エッセイです。
このエッセイの面白いところはB級グルメの味うんぬんではなく、久住さんの食に対する過剰な偏愛ぶりと、氏が志向してやまない“野武士”にあります。
この本の表題でもある“野武士”とは「腹が減ったその時、店がそこにあれば入る、なければ入らない」ただそれだけの、愚直なまでにシンプルかつ図太い食事態度を指しており、著者の久住さんはいつもこのような気概を持って食に挑むのですが、残念なことに久住さん自身はかなりの小心で、初めての店に入るときは逡巡し、入れば入ったで店の細かい雰囲気が気になるタチで、およそ“野武士”とは対極にある人物です。
そんな自分を自嘲しつつも心には“野武士”への憧れを秘めて、まずい定食には怒り、そのような店を選んだ自己を責め、流行りのラーメン店の店員の揃いTシャツ&バンダナ&注文の大声復唱を斬り、群れるサラリーマンの飲み会を乾いた目線で冷笑するとといった具合に、正にリアル井之頭五郎(@孤独のグルメ)いやむしろ漫画以上にディープなひとりメシ道が書かれているのです。
さらに読み進めるとわかりますが、野武士的図太さの裏には、野武士的リリカルな部分があって、母の戦時中のおはぎにまつわる思い出『おはぎと兵隊』や4年前に亡くなった漫画家の杉浦日向子さんと飲んだ時を綴った『死んだ杉浦日向子と飲む』などは、思いの外グッと心に沁みる味わいでした。
この本で語られているのは、つまるところ食よりはむしろ、小心な野武士が捉えた食をめぐる「人々の風景」と「自らの心の風景」という2つの風景なのだと思いました。
先に「漫画以上にディープなひとりメシ道」と書きましたが、原案を漫画化するという作業は、ある種の洗練だと思います。
このエッセイには漫画化という別の行程を経て洗練される手前、久住さんが捉えた2つの風景から得たファーストインパクトが濃縮されており、そこが何ともディープだなと。
久住漫画の愛読者はもちろん、未読者もそのディープインパクト(笑)にハマると抜けられなくなるかも。
そしてこの本を読むと無性に久住さんと食事がしたくなります。
心で捉えた風景をおかずに、旨い食事をしている人だと思うからです。
一緒に井の頭公園で焼きそばを食べてビールを飲んで、食から得られる「純粋で無垢な悦び」をご相伴にあずかりたいものです。
食べることへの飽くなき好奇心と幸せがこの本には詰まっています。
あなたの人生の物語
2006/10/20 01:37
難解な物語に挑む喜びがこの本にはありますが、その難解さ故に途中で音をあげても大丈夫、短編集ですからいどこでも止められます
7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
中国系アメリカ人の若手作家、テッド・チャンの傑作SF中短編集です。
寡聞にして知らなかったのですが、このテッド・チャン氏は現在のSF界では最も評価されている作家のひとりで、この本に所収の8編の作品の内、表題作とデビュー作「バビロンの塔」でネビュラ賞受賞、「地獄とは神の不在なり」でヒューゴー賞を受賞している、すごい人なのだそうです。
8編の作品の中から、私が気に入ったものを幾つかあげてみたいと思います。
巻頭の『バビロンの塔』は、天まで届けとそびえたつバベルの塔の、頂上を目指す職人の視点で描かれた物語です。
頂上に辿りつくまで2ヶ月はかかるほど巨大な塔の描写が実に魅力的です。
上へ上へと天の高みを目指した果てに、行きつく場所は宇宙であるのか神の座であるのか?
これを読んで漠然と、ブラックホールとホワイトホールの関係を思ってしまいました。
最初は哲学的に空間を捉える認識論めいたことを考えたのですが、これは一種のワープを描いたのかもしれない。
今までこういう語り口の作品を読んだことがなかったので、とても新鮮に感じました。
『あなたの人生の物語』は、突然地球に訪れたエイリアンとのコンタクトの物語です。
エイリアンとの対話を担当した言語学者ルイーズは、彼らの人類とはまったく異なる言語を理解するにつれ、新たな世界認識を獲得します。
その世界認識とは、原因があってそれによって生じた結果を知覚する<因果的世界認識>ではなく、その動機から結末までを同時に知覚し、その中の事象のひとつひとつを照らしていくような、<同時的世界認識>とでも呼ぶものです。
これは時間を縦方向によってのみ見る見方と、横方向から全体を見る見方の違いとでも言うものでしょうか。この世界認識を持つと、人は未来を見とおせる予言者にもなれると言えます。
過去も未来も現在も一度に知覚できる認識。この驚くべき世界観を、物理の「フェルマーの原理」をひきあいに、徐々に明確にしていく腕は実に見事です。
ルイーズが獲得した<同時的世界認識>の世界では、未来は未知ではなく既知のものであるが故に、人には未知の人生を選び取る苦難より、既知の人生を生きていく覚悟のようなものが必要に感じました。
そのイメージから、何となく『銀河鉄道999』に出てくるメーテルを思い浮かべてしまいました。
彼女は多くの時を生き、過去も未来にも生き、にもかかわらず永遠に銀河鉄道のレールの上を生きる定めの女性で、その在り方は正に<同時的世界認識>下にあるように思えるのですが……(-_-)ゞ゛ウーム
「地獄とは神の不在なり」は、天使が実際に人々の目の前に登場し、数々の奇跡と災厄を起こし、天国や地獄を見せてくれる物語で、あなたは神を信じることができるか?と言う問いでもあります。
この作品に出てくる神と天使は驚くことに、漫画家の萩原一至さんが描く天使のように化け物じみていまして、キリスト教的世界観のない身にとっては、ちっともありがたくない存在なのですが、その異形の神にすがりついていく人間の執念は凄まじいと感じました。
主人公は旧約聖書のヨブの焼きなおしですね。そして彼の運命はヨブほどに救いはありません。
宗教・数学・哲学・物理と様々な分野から、色んなエッセンスをもってきた作品ばかりで、テッド・チャンは本当にアイデアの宝庫とでも言うべき作家ですね。
奇抜な世界の設定と、ストーリーの上手さでどの作品も頭をひねりつつ面白く読めました。
ちょっと、いえかなり難解と言えなくもないのですが、SFですからこれくらい骨のある作品の方が読み応えがあるってもんです。
賢者のおくりもの
2004/12/16 01:11
愛する人からもらいたいのは、心のない贈り物よりその人の真心です
6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
キリスト教に馴染みのない日本人にはわかりにくいことですが、賢者の贈り物というのはイエス・キリストが生まれた夜、東方から星の導きによってやって来た3人の賢者が、みどり児のイエスに与えた祝福の贈り物のことを言います。この贈り物に題を取ったのが、O・ヘンリーの代表的な短編『賢者のおくりもの』でこれはその絵本です。
ニューヨークに住む若夫婦のジムとデラは、互いを愛して暮らしていました。貧しい暮らしでしたが、ふたりはそれぞれ自慢の宝物を持っていました。ジムの宝物は祖父から父へと代々伝わる金時計、デラの宝物はほどけば膝のあたりまである栗色の美しい髪の毛でした。クリスマスの前日、デラは愛する夫にプレゼントを買うために自慢のこの髪を切って売ってしまいます。そしてそのお金で、ジムにプレゼントの「金時計につけるプラチナの鎖」を買ったのでした。一方ジムは、妻のプレゼントに美しい髪にさす「べっこうのくし」を買うために大切な金時計を売ってしまいます。互いのプレゼントを買うため犠牲にしたもののためにプレゼントはすっかり無駄になってしまうのですが、ふたりは互いを思いやる“愛”というより大きな贈り物を分かち合ってとても幸せでしたと言う有名な有名なお話です。
この物語に寄せる感想は、物語をしめくくるO・ヘンリー自身の言葉に全て語られています。「およそ贈り物をする人々の中でこのふたりのような人こそもっとも賢い人であり、どこに住んでいようとも彼らこそが賢者なのだ」。贈り物とはつまるところ心を贈ることなのですね。心のこもった贈り物がやはり尊いのです。ああ、なんてクリスマスにぴったりの良い話なんでしょう。
でも、この物語を読むたびに私の中にはいつも黒い心がわいてくるのです。というのも、妻の髪って放っておけばまた伸びますよね。そうしたらくしはちゃんと使えるけど、夫の鎖は時計が戻ってこない限りずっと使い道がないじゃないですか。これって全然フェアな贈り物じゃないですよね。あと1年か2年したら夫は「やっぱり時計は売るんじゃなかった…」と絶対思うに違いなく、そのとき夫婦の間に亀裂が生じないかとずっと気になって気になって。いけませんねぇ、せっかくのクリスマス・ストーリーに邪推を働かせては(苦笑)
この絵本は、イラストレーターのリスベート・ツェルガーさんによる挿絵がとても素晴らしい絵本です。訳者の矢川澄子さんの文も簡潔でわかりやすく読みやすいです。こんなセンスの良い絵本をプレゼントにもらえたら最高ですね。それこそ賢者の贈り物だと言えるのではないでしょうか?
いさましいちびのトースター
2009/10/14 23:33
健気な忠電ご一行ご主人を探して旅に出る
4人中、4人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
だんなさまは、いったいどうしたんだろう? 森の小さな夏別荘では、主人に置き去りにされた電気器具たちが不安な日々を送っておりました。ある時ついにちびのトースターが宣言します。
「みんなでだんなさまを探しに行こう!」かくしてトースターのもとに電気毛布、掃除機、卓上スタンド、ラジオなどが集結し、波乱に満ちた冒険の旅に出たのですが……けなげでかわいい電気器具たちの活躍を描く、心温まるSFメルヘン。(文庫のあらすじ紹介より)
引っ越しの時など家族に置いてけぼりにされた飼い犬が、信じられない距離を越えて飼い主を探し当てるなんて話は『名犬ラッシー』の昔から現実でもたまに耳にしますよね。
ひたすらご主人をお慕い申し上げて、苦難の末に辿り着けば、たいていの飼い主は「よくぞここまで来てくれた。置き去りにして悪かった」と、感動に目をうるうるさせて大手を広げて忠犬を迎えてくれることでしょうが、ちびのトースターを筆頭にした忠実な家電(略して忠電)のご一行を迎えたご主人様はどうだったかと言うと……。
ご主人への忠義心では犬猫に劣らなくても、忠電には愛玩動物との決定的な違い「使えなくては意味がない」という宿命があるんですね。
自らの「有益性」でもってご主人に仕えられなければ、そもそも存在価値がないというとても重たい宿命。
その宿命ゆえに、幾多の冒険を経て辿り着いた旅路の果てに、彼らはかなり切ない現実に直面することになります。
ここら辺の物語の運びは、健気な忠電たちに肩入れして読んでいただけに、思わずウウッときます。
でもよく考えると忠電のご主人様はそんなひどい人ではないんですよね。
私だって日常生活において、イチに「有益性」で判断して天寿を全うさせていない家電がありますもの。
例えばビデオデッキ、ラジカセ、ワープロ、そしてアナログテレビ。
これらは壊れたわけでもないのに、時代の移り変わりでその「有益性」を他の家電に取って替わられたタイプです。
今ではほとんど出番がなく、テレビの下でポツンと佇む寂しいビデオデッキが日本全国至る所にいるんだろうな……と思うと気が咎めますね。
さらにパソコン、DVDデッキ、携帯音楽プレイヤー、そして家電とは言えないけれど携帯電話。
これらは技術革新による頻繁なモデルチェンジで、その家電が持つ「有益性」が新しい製品の「有益性」に駆逐されるタイプです。
これは“もったいない”以外の何ものでもなく、私もいかがなものかと思いますが、技術革新は資本主義を支える一面でありこれを完全に否定することはできません。
それでも作中で年長の掃除機が言った「われわれはここで必要とされておらん。帰るんじゃ」の言葉には、そんなこと言って君たち帰る場所もないのに……と切なくなりました。
もう私が過去に見捨てた家電たちが頭をよぎって、忠電たちの献身的な奉仕に応えることができなくてすまない、そんな気にさせられましたよ。
それだけに最後にはハッピーエンドを迎えることができた、彼らの旅にホッとしました。
彼らにとってのハッピーエンドとは「人間のために働く」ということで、その結末は読んでもらってのお楽しみですが、気弱な電気毛布の活躍に私の胸が熱くなったことだけは書いておきましょう(笑)
ところで日本には長く使われた道具には魂が宿って「付喪神(つくもがみ)」となると言う伝承があります。
伝承の背景には、年を経たものへの畏敬の念ともうひとつ“身の回りの道具は大事に使いましょう”という教訓があったと思います。
するとこの物語はさしずめ現代版付喪神(つくもがみ)のお話と言えるかもしれないですね。
今お使いの家電も大事に大事に長持ちさせれば、いつか立派な付喪神となってあなたに恩返しをしてくれるかも。
反対にまだ使えるのに捨てたり粗末に扱えば……。