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黒耀さんのレビュー一覧

投稿者:黒耀

3 件中 1 件~ 3 件を表示

紙の本読書について 他二篇 改版

2004/11/03 02:56

読書をやめて、読書について考えたい夜に。

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

文庫にしてわずか150ページ足らず。
「読書について」という邦題のわかりやすさも手に取りやすく、この薄い文庫本を初めて私が手にしたのは中学生のときだった。
しかし眼は文字を追うもののその意味を理解することが出来ずに早々に投げ出したのが、その後もずっと記憶に残ってショウペンハウエルを読まず嫌いすることとなった。
汲めども尽きぬ泉から穴の空いた杓子で水を汲むごとく、膨大な過去から現代の出版物を全て読みつくしたいと若い日の自分は熱望していた。
まさに稚くして未だ読書を知らず、というものである。
その後も相当の齢を重ねるまで多くの知識を得るためにより多くの本を読むことが読書家のあるべき姿と考えていた。
経済的に余裕のある一時期には稀購本を入手することに夢中になったこともある。
そのとき本は競って手に入れるべき高価なオブジェであった。
そういった経過を踏んで、今漸くこの本を知ることが出来たように思う。
数十年の時を経て改めて手に取ったこの本は、わずか数十分で乾いた砂が水を吸うように私の脳に染み入ったのである。
ショウペンハウエルのなんという小気味よい叱責。
冴えわたるペンの切れ味。
「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。」
表紙にも引用されたこの警句は現代の読書人にこそ必要なのではないだろうか。
「読書界に大騒動を起こし、出版された途端に増版を重ねるような」出版物に手を出すなとショウペンハウエルが喝破したのは今より百五十年も前のことである。
「比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品」が次々と絶版していくこの時代を彼は既に予想していた。
今や本は日本でもかつてそうであったように貴重なものではなく、読み捨てられる娯楽へと失墜してしまった。
オブジェとして高価な古書を買う行為も、彼に寄れば「ただしそれを読む時間も買い求めることができればである。」と鋭く斬られている。
最近、一冊の本を何度も読み返しては思索することに時間を費やすようになった自分は、もはや読みつくしたい野望を抱いた青春時代から遠く離れ、不要となった花弁が散って果実を成すように、自分だけの思想が厳選した書物の助けを借りて成熟するのを待つことを楽しむ季節を迎えたようだ。
若い日の書物への渇望も決して無駄ではなかったと受容し、その先を考える時期に来たのだろう。
氾濫する情報の奔流に流されて「読書」に迷った時、常に傍にあるはずの友人としての本が不意にわからなくなった時、この本は読書と経験により培われた人生を歩む人になら、自信を取り戻してくれる指針となるに違いない。
コーヒー一杯よりも安い、僅か百数十ページの一冊が雄弁で心強い教師となることもある。

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紙の本電車男

2004/11/16 00:13

大量消費される共同幻想

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「電車男」とは2ちゃんねる内で、ある期間に起きた現象であり、この本はその記録である。
しかし出版社によって無効と思われる発言は削除され、有効な発言のみが抽出されているので厳密には「記録」とは言いがたい。
一冊の本としての役割を考えれば、そこに整理整頓の役割としての編集が入ることは当然だが、書籍としての「電車男」には人々の共感を呼びベストセラーになるという重大な使命がある。
その使命のためには単なる整理のためではなく恣意的な編集が行う必要があったはずだ。
2ちゃんねるを知らない、あるいは2ちゃんねるにネガティヴなイメージを持つ読者にも支持されるための編集が。
2ちゃんねる内のスレッドであれば、必ず見かけられる猥褻な書き込みや、わざと神経を逆撫でする書き込みをして相手を激高させて面白がる「煽り」や「釣り」と呼ばれる書き込み。そして当然割り込んでくる「自分語り」や「広告書き込み」。さらには「コピペ荒らし」と呼ばれる無作為の荒らし投稿。
それらを全て排除したこの本は老若男女誰にでも供することができる安全で清潔で無害な浄化水のようなものである。
内容的には何年かに一度周期的にやってくる純愛ブームを考えれば話題性も充分にあり、売れる勝算は高かった。
これまでに発行された2ちゃんねるのまとめ本(2ちゃんねるの泣ける話、怖い話等、2ちゃんねる内のレスを編集した書籍)と違うのは、「中野独人」が書いた「恋愛小説」という体裁をとったことであろう。
今までこのような演出をしたまとめ本はない。まさに新潮社という大手出版社のなせるわざである。これによって「電車男」は「冬のソナタ」、「世界の中心で愛を叫ぶ」などと同じく、テレビドラマにしても問題ないクリーンさとなった。
「集中した資本主義は、その最も進んだ部門において、『完成品の』時間ユニットの販売に向かう。」(ギー・ドゥボール「スペクタルの社会」)
「出会い」や「会話」でさえも参加費として時間ユニットを組んで販売される資本主義社会において、2ちゃんねるはいまだに参加者に無料でサーヴィスを提供し続けている。
この点においても、本来は大手メディアと2ちゃんねるというコラボレーションは困難であるということが明らかだと思う。
一方的に消費のための恣意的操作を行った情報を流し続けるマスメディア。
それを検証し、茶化し、嘲弄する視聴者・読者・消費者(=2ちゃんねる)。
この愛憎半ばする関係の一方である「視聴者・読者・消費者」は「2ちゃんねる」という場を得るまで発言の場所を持っていないも同然だった。
スレッドの進行上不都合がない限り全員が「名無し」であるというシステムは、ネットにおけるハンドルネームという署名さえも放棄することによって、皮肉にも社会主義的様相を帯びる。そこで自分はエリートだと声高に叫ぼうと、素晴らしい美女だと主張しようと冷ややかな嘲笑が返ってくるに過ぎない。全員が「名無し」である社会でそれらを証明する術などないのだから。
発達した資本主義社会に生きる日本人の集うインターネット最大のコミュニケーションサイトが実に資本主義のアンチテーゼとしての社会主義的システムに拠るという皮肉。
私はそこに「パラレルな形で成功した五月革命」を見る気がする。
かつてフランスの五月革命下において「壁は語る」という言葉が生まれたように、一見落書きにしか見えない言葉や記号の数々は大量消費社会の奴隷化を推し進めるメディアへの反逆であり、メディアによって消去されるのも当然のことであると妄想すればなんとなく象徴的ではないだろうか。
まあ、こんな穿った読み方も一興であろう。

ひとつだけ申し添えておけば「電車男」が「実話」か否かの詮索は無粋なこと。
読んで面白ければそれでよし。
(参考文献 「スペクタクルの社会」ギー・ドゥボールLa societe du spectacle- Guy Debord)

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紙の本漱石と三人の読者

2004/11/09 04:30

変遷する三人目の意識の中で。

1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

石原氏の言う三人目の読者(顔のないのっぺりした存在)とは作者にとって存在していることは確実に思われても未知の存在である。
漱石の時代から百年の時を経て、その作品に触れる私達はまさに彼にとって「三人目の読者」に他ならない。
小説の地位もまだ固まらぬ時代において、作者にとって既知の存在である一人目の読者(具体的な「あの人」)だけを意識すればよい同人ではなく、新聞というマスメディアで作品を発表することにより、二人目の読者(なんとなく顔の見える存在)を意識せざるを得なくなった漱石が、やがてまだ見ぬ読者へと意識を移行していく経緯を、石原氏は明解にナビゲーションしてくれる。
百年の時を読み継がれ続ける作品は、その時代の相貌を映す鏡となるのだ。
前回、ショウペンハウエルに触れたが、他所で「では良書選択の基準は何なのか。もっと具体的に指摘すべきだ。」とあるのを見た。
ショウペンハウエルは「比類なく卓越した精神の持ち主、すなわちあらゆる時代、あらゆる民族の生んだ天才の作品」と明快に答えていると思うのだが、「具体的」というのには作品名をあげて紹介せよという要求まで含まれているのであれば、昨今においてあ「あらすじ本」なるものが売れるのも頷けるというものである。
古典はさておき、近代百年の間に目まぐるしく変遷していく読み手の意識や価値観に遅れることなく圧倒的な存在感を保ち続ける作品をもって良書とするのは当然であろう。
漱石においては三人目の読者の存在(未知そして未来の読者)を意識できたことがその作品に大きな変化をもたらしたに違いない。
「あとがき」で石原氏はご自分が「テクスト論者」であることを告白しているが、私が学生の時分、テクスト論の講義において適用されたのが漱石であり、まさに「三四郎」で氏が引用した美禰子登場の場面を試験で出されて苦吟した記憶がある。
荒正人を例に引くまでもなく、もはや作品の文字数まで数えられているのではないか、と思えるくらいに「読みつくされて」きた作家も稀有ではないだろうか。
正直、読む前は講談社現代新書が創刊四十周年を迎えた記念の新刊に今さら漱石とは、という気はした。
しかし、まさか漱石自身を「テクスト」として扱う試みとは思わなかった。
大変に面白くそして新鮮に読むことが出来た。

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