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muneyukiさんのレビュー一覧

投稿者:muneyuki

50 件中 31 件~ 45 件を表示

決して消えない光がある

3人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

「正義」って言葉はホント危ない。
俺ぁ、正義なんて語るやつなんざぁ、信用出来ねぇな。

そんな事を大っぴらに語るひねくれ者でも、
正義隊の語る正義にはきっと煌めく温かな光を感じる筈です。

『正義隊』は、青林工藝舎・アックスに連載されていた漫画。
4巻の帯に「9年間走り続けて来た」と書いてあるので、2002年初出かな?

冒頭に危ないと書いたのは、勿論アメリカ様の事もイメージしています。
奴ら、「自分達が正義である」と信じて自分の行為の正当性信じ切ってますからね。
「正義」という言葉を用いるのは気持ちがイイ。

自分の行為が正しいか否か、という考えは究極的には宗教にも法律にも収斂されません。
「自分の正しさ」は自分にしか分からない。
アメリカの、アメリカ的な考え方が、傍から見れば狂っている位に見えるように、正義の究極は「思い込む・信じる力」と言い換えても良いでしょう。
正義とはとても私的な価値観なのです。

対義語的な「悪」との違いは、計り知れないほど微妙です。
正義を為している本人には、自分の行為が悪かどうかは観測出来ません。
僕的にはそこに「他者への思い」が介在するかどうかかなぁー、と思っています。

「正義」は自分の正しさをとことん信じ込むこと。
「悪意」は他人を押し退けて自分を優先すること。
この位のシンプルさで成り立っているから、「正義隊」の正義はカッコいい。

『正義隊』は極めて私的な正義集団の物語です。
別段、公の組織という訳でも無く、かといって一人のリーダーの下に狂信的な人間が集まっているという新興宗教的な構図も無い。
隊員各々が「正義」を信じる、正義キチガイ集団が「正義隊」なのです。


『正義隊』を紹介する記事の中で、大抵挙げられている、有名なキチガイシーン。


主人公:「気持ち悪いわ!」
敵:ムク 「そんなことしても無駄だよ」
     「殺すよ!」
主人公:「殺せまい!!」

―――『正義隊』


殺そうとする相手に「(お前を)殺すよ!」と叫びかけ、それを言われた側は「(私は)殺せまい!!」と雄叫びを上げるのです。文意としては何もおかしくないシーンなのですが、何という狂った会話・世界なんでしょう。
そう、かつてジョジョやバキで味わった、流れとしてはそんなにおかしくないけど部分毎には大分おかしい、笑いとも恐怖とも感動ともよく分からないあの感覚が確かにこの作品にはある!

ジョジョにおいて、
脈々と受け継いで来た、正しさを愛する姿勢『黄金の精神』と
目的を達成する為には人殺しも辞さない覚悟を持つ『漆黒の意思』というワードが登場しましたが、僕にはどうもこの二つのワードは同じモノを指しているように思えてならないのです。
それを貫く言葉が「正義」。
「正義隊」はこの二つの精神を持って、「正義隊活動」を行っています。
時として其れは非常に傲慢で、一方的で、無神経なモノです。
けれども、それを貫き通す為には、強い意志と行動力が必要になる。其処で中途半端な優しさを持ってポリシーを捻じ曲げてしまうようなら、それは正義では無く、「親切心」でしかないのです。

押しつけがましく、うっとおしく。
けれでも、強く明るく輝く。

月光仮面の生みの親、川内康範さんがインタビューで仰っていました。

「正義」の味方なんだよ。けっして正義そのものではない。
この世に真の正義があるとすれば、それは神か仏だよな。
月光仮面は神でも仏でもない、まさに人間なんだよ。

―『箆棒な人々』より


「正義の味方」だからこそ、彼らは「悪」を「やっつけ」ます。
決して不殺のヒーローでもないし、一対一の戦いを重視することなどこれっぽっちも無い。神や仏では無く、ただの人間だから。
でもそれは決して私情では無い。
正義隊は正に「正義の味方」という人間達なのです。


最後に衝撃的な最終巻・四巻のあるシーン。

ある日、正義隊員・元子は、リーダーのケズルより今晩1時15分にデパートの屋上に来い、との伝言を貰います。そんな夜遅くに一体何の用かしら… 此処で凡百の少年・少女漫画なら告白展開となるであろう所…

夜1時。街路には、仕事に疲れたサラリーマンが、永遠に続くかのような無為に働く毎日に絶望して帰宅…
元子はすっかり熟睡して、約束の時間に起床。デパートの屋上へ向かうと。

気球! 
ケズル:「この気球にはスピーカーが取り付けてある この気球に乗って街にロックンロールを流すのだ!! 合理化された社会に人間的感動を呼び醒ますのだ!! 出発だ!!」

一人でやれとか夜中そんな事したらうるさくて寝らんねーだろとか、そういうのはもうどうでもいい。合理性を捨てて、宙へ浮かぶ気球。

そして、肩を落として歩くサラリーマンに、上空から降り注ぐヴァン・モリソン。

サラリーマン:「この音楽は… このリズムは! ウワー!!」
サラリーマンを絶望の底から救い出すのはロックミュージック!正義!

そう、正義はロックで、ロックは正義!!

生きていると色々と嫌な事があって、色んな事で落ち込んで。ちょっとやさぐれて「まぁ金の為に働くしかねぇーし」とこぼしてみたりして。そういう何か先が見えなくていやーな雰囲気の時、きっとこの漫画はその先に何となく光がある事を信じたくなるような、煌めきを教えてくれます。

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紙の本ロコス亭 奇人たちの情景

2011/08/09 07:19

作者VS作中人物

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本書は短編集の体裁を取り、一話完結型となっていますが、
こっちで出たキャラクターはこっちではこういうポジションになってて、という群像劇的な一つの物語に収斂される構造になっています。

手塚治虫に代表されるような、「スターシステム」が柱になっているのです。
例えば手塚作品の常連である、ヒゲオヤジやアセチレンランプ等が様々な作品において様々な役どころについているように、本書『ロコス亭』でも明らかに作中人物達はあちこちの物語を飛び回って、作中人物を演じています。

その演じている様を殊更強調してくるのが、「*(注)」の存在。
一般的な使われ方と同じ様に、彼らは一文の終了間際に登場して、その一文の句読点の様に素知らぬ顔で、さも当然の様にポチッと座っています。
一般的な使われ方なので、「其れ(その一文)がどういう事なのか」を説明する役割を持って彼らは居座っているのですが、其れの何が特殊なのかと言えば「その一文を演じている時、演じている役者は実際どんな気持ちで居たか、またその役者は通常時はどんな人なのか」という裏事情みたいなものが見開きページ左端に掲載してあり、そこへのリンクとして彼らは作用しているのです。

*何人かの人(ドン・ホセ・デ・ロス・リオスもしかり)は、どうひいき目に見ても不快をもよおすこの場面は不謹慎だ、マダム・チネラートやここで扱われているような子供は描くべきでない、と異議を唱えている。僕だって異議はあるのだが、チネラート本人が、本編のこの場面で俺は悪の権化と化すと言って聞かなかったのだ。        『チネラートの人生』

ここで「僕」と名乗っているのは、作者のフェリペ・アルファウ。
彼までもが作者という立ち位置と作中人物を行ったり来たりします。

しかし、誰がこんな無茶苦茶を望んだか。

この本の成立を望んだのは、勿論作者のフェリペ・アルファウ。
しかし、この本の在り方を望んだのは、作者でも読者でも無く、登場人物たちなのです。
正に『作中人物』という話にはこうしたスタンスがムックリと表れていて、
作中人物、ガストン・べハラーノは現実に浸食し、作者に筋書きを変える要求まで出してきます。

虚構の住人達にとっての現実は、虚構の中に在る。
けれども、私達にとっての現実の中で幾らでも「嘘」、演じる事、お世辞を言う事、取り繕う事が存在するなら、虚構の中でも其れは有り得ます。

僕の四肢は僕の意志とは無関係に動いたように感じられた。 『犬の物語』

「スペイン」という国の在り方が緻密に、細密に描かれた本です。
しかし、其れ以上に「物語の在り方」を形にしたような本である、と僕は思います。
現実もまた、小説世界と同じ様に、不明確な、不確定な、けれども一種予定調和的な物語なのです。
そこを疑ってかかるべきではないか、と考えさせられた。
現実の現実感を疑わされた。
そうした側面を持った、危険な小説とも言えます。

『犬の物語』中の「僕」のように、あなたも意志と無関係に体が動く感触を感じた事がありませんか?
あなたも誰かに動かされているんじゃないですか?
あなたの現実が「本当の現実」である事を、あなたは証明出来ますか?

『ロコス亭』の奇人たちは、小説世界を越えて、あなたの現実を浸食しにやってきます。

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紙の本グッバイ艶

2011/06/17 19:01

「愛」は本当に幸せなものなのか

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

放送作家である著者と、亡くなった妻・艶との、出会いから最期までを描く、半自伝小説。

帯文の
「童貞だった僕は、酒を飲ませればだれとでも寝る女という言葉を信じ、艶との出会いを果たした。」
と書かれているものに惹かれて読み始めました。
作者の童貞喪失を描く、青春恋愛小説かなぁ、と。

で、ちらりと読み始めて呑み込まれました。
最初読み始めた時は、最愛の妻との日々を小説として売り出すなんて、
なんて恥知らずな「愛妻家」なんだろう、なんて思っていました。

しかし、まずその描写の精緻さに驚かされました。
仮にその内容がフィクションだったとしても、自分の心の中に中々ここまで「ヒロイン」を住まわせるのは難しい。
本当に愛があったんだなぁ、と思わせる、艶との生活の、細部に至るまでのリアリティと情熱。

けれども、「愛してる」だの「好き」だのと、甘甘だけで、無難に暮らしていくだけでは、その愛は有り得なかったように思います。

放送作家である著者の「やりたい事」、
仕事への理想や妻以外の女を知りたいという欲求、理論と欲望に裏打ちされた男性的な世界と、
愛酒家で、死にたがりで、快楽主義者で、文学的世界観を好む艶の「愛と憎悪」、
感情と欲望に裏打ちされた女性的な世界は、絶対に共存する事は有りません。

二人はぶつかり合い、傷付け合い、本当に血塗れになりながら、
艶の死というラストに向けて夫婦生活を続けていきます。

ぶつかり合い、傷付け合い、互いを理解する。
少年漫画、少女漫画なら其処で愛なり友情なりが芽生えてハッピーエンドの筈なのです。

艶の死後、著者は「あるノートの切れ端」を見つける。
今まで最大の理解者を自負していた筈の自分が、愕然とする艶の思い、過去。

愛の逆が憎しみであるなら、話は簡単なのです。
また、愛を貫き通した事で、何か結果として残るモノがあるなら、
「愛」は確実に実在を証明出来るのです。
しかし、僕らの生きる「現実世界」では全ての物語が自分という主観が終わるまで、
死ぬまで「エンディング」等という生易しいモノは有りません。

愛は本当に美しく尊いのか。破滅的な状況から人は何を見出すべきか。
一見、妻に振り回され、彼女の思い、心の底を追い続けた筈の夫が、最後に手にした物は何だったのか。
異性と付き合い、結婚し、子どもを遺し、その成長を見ながら老いていく。
そんな「人として当たり前に目指すべき幸せ」を怖い、と思わせる。
この小説はラブストーリーでもヒューマンドラマでもない、ホラー小説です。

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紙の本たかがバロウズ本。

2011/06/08 00:23

愛とはべったりひっつけばイイってもんじゃない。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

まずちょっとでもバロウズの小説、
例えば『裸のランチ』を開いてみると分かりますが
さっぱり意味が分からん。

文学評論、精神分析、文化研究なんかでバロウズが取り上げられてる事が多いので、そういう本も少しつまみ食いするのですが、
やっぱり意味が分からん。
何故彼らはあんな訳の分からんものから、そんな意味が読み取れるのか?

「現代社会の醜さを風刺して」るか?
「『男らしさ』という神話の解体」?
「ポストモダンを象徴する、脱近代・脱構築的な、二項対立解体への挑戦をして」いるのか?
カットアップに「教育的効果」なんて感じられるか?
そうした「意味性」を僕はバロウズから見つけることは出来なかったし、小説として彼の小説が面白い、とは思いません。

「それでいいじゃん、たかが小説じゃん」
と山形さんはおっしゃってくれています。

バロウズを読み込むには二つのスタイルが必要である事。
彼自身の生き方(ライフスタイル)と文体(ライフスタイル)。
それらを過不足無く混ぜ合わせ、其処に在るものからだけ、判断しろ、というのが彼の主張。
故にこの本はバロウズの作品解説・読解本でも、伝記でも無く、
彼の『すべて』を薄く広く、濃く狭く、上手い具合に要点を押さえた研究書なのです。

文学部、特に英文関係でバロウズを取り扱おうとしている人が居たら、国内での最高の研究書はコレ。必読。
というかコレを読んでしまうと、多分卒論の研究でバロウズを扱う気、失せるんじゃないでしょうか。
語るべきモノが全て語られてるから。
あとはもう、自分が読んだバロウズの感想文でも書くしか無くなるのでわ。

で、山形さんの、本書の著者として重要なポイントは
「バロウズの著書を全部日本語訳したほど彼の作品を読み込んでいる事、また、バロウズの生き方のフォロワ―ではない事」の二点かと思います。
バロウズめっちゃ好きやで!とかいうバロウズファン、
流石に僕の同年代ではあまり見かけることはないのですが、
彼らの多くは全然バロウズを読んでない、「途中まで読んだ」が共通の話題になる、という山形さんの指摘。

持ちあげる事は簡単なのです。
うわ、めっちゃカッコエエ、って思うには
手持ちの中から自分の気に入る素材だけ選び取って、
ひたすらその素材について連呼すればイイだけですから。
特にバロウズみたいなカッコいい人間には目ぼしいポイントが多い。

本書の後に、バロウズについて語るべきポイントが無くなるのは、
山形さんが決してバロウズ好きではあっても『バロウズフォロワ―』ではないから、
綿密に作品と向き合って、全て把握した上で、バロウズについて語っているからなのです。

「本当に好きなら、私のダメなとこも含めて私を全部愛してよ!」
こういう奴は、男も女も馬鹿です。
でも『本当に好き』ってのはイコール『全面的に受け入れる』という事でもあって。
山形さんの視点は、そういう浅はかな「体しか見ずに」「財力を期待して」バロウズ読者達を笑い飛ばす、強い「愛」があるのです。

バロウズは失敗者だった。
其れは下手なバッシングやイイとこどりフォロワ―からは決して出せない、山形さんの強さを示す言葉の様に思います。

もっと増刷したらいいのに、と思う
単にバロウズ論だけで無く、書評の在り方、人間の在り方を知る事の出来る名著。

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紙の本創世紀

2011/02/26 13:15

ずんどこ耽美、ポップに残酷を楽しむ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

魔法少女まどかマギカというアニメが面白い。
エルフェンリートとかひぐらし、もしくはレ・ミゼラブルとか小公女でも良いんですが、それらが受けたりするのと同じ様な感じで、
一定の層は本当に美少女が好きで、そのキャラクタの可愛さと悲哀を楽しんでるんだと思います。
そうじゃない層は「美少女」というアイコンと残虐趣味のギャップを楽しんでるのではないでしょうか。

どちらにしても皆安全な所から他人の不幸を見てみたい欲求ってのは少なからずあると思います。
だから僕は正義感ぶったジャーナリズムが嫌いなんですよね。
「不幸」に人間の本質を見るから覗き見たいのだ、とそういえば僕も彼らを信頼するのに。

この星園先生の描く女の子、絶対この人は「美少女」が好きなんだと思います。
にも拘わらず、無情なまでに彼女達を象徴化・ツール化して、蹂躙するのがこの『創世記』。

星園先生がリスペクトする作家として挙げているのがアウトサイダーアーティスト・ヘンリーダーガー。
彼の描く世界では大した必然性も無く大人に子どもがぶち殺され、
それに反してヴィヴィアンガールズという聖少女像というイメージが違和感無く共存しています。
好きで好きでたまらなくなると、そうした真逆性が不具合無く合わさってしまうのです。
だから、「食べる」、「解剖する」、「保存しておく」みたいなのは倫理的に共感は出来ませんが、
僕はとても納得出来ます。
制御出来ない程強烈な情熱は、表と裏を貫通して「一枚」にしてしまうのです。
星園すみれ子の描く世界には、そうした倫理的に共感出来ない部分と納得出来る部分がぴったり合わさった気持ち良さがあります。

とはいえ、彼女はヘンリー・ダーガーではありません。
そこが彼女の魅力のキモであるのです。
ダーガーの世界では、必然からキリスト教やポップカルチャーからの影響が見られますが、
それはその素材を使わなくてはならない、代替不能なものとして、強固にそこに配置されています。
なんというか、神経症的なコラージュ。

対して、星園先生にはそうした神経症的な感じはあまりありません。
その描線なんかはとても細かくて、とにかく耽美的なバロック的な線をガシガシ入れる!という気迫があるのですが、別段題材としては何でも良くて、「耽美な雰囲気」ありきで物語が後から配置されていきます。
この本は短編集で、特に表題作「創世記」などは創世記を星園流にアレンジしたものですが、
一歩引いた素材拝借、「パロディ」なのです。
笑っていいのです。
その軽い感じと、残虐と、美少女が合わさり、何とも言えぬ魅力的な世界が構築されています。

常々ガチの死体写真を見てみたいと思ってる。でもちょっと怖くて見れない。
新興宗教による被害者を祭り上げる様なことは不謹慎で許せない。でもオウムの勧誘アニメを見て吹き出したりする。

そんな臆病で、でも実はアングラな雰囲気大好きなサブカルファンにはたまらない一冊。

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すべての発情期のサルどもへ

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

本屋でちょろっと立ち読みした、『スッパニタータ』という漫画に圧倒されました。
絵は、明らかに女の子とか可愛くないけど、ゴリゴリと音の聞こえて来そうな、重い線でした。
そして、ストーリー。
ギャグと読んでいいのかよく分からない、必死過ぎる主人公と合わない社会環境。
笑いと恐怖は『ズレ』を楽しむものだと思いますが、
これは笑っていいのか?
ひょっとして恐怖すべき所なのか?

本作、『サルハンター』は同作者・ツギ野ツギ雄さんの古い作品。
僕が買ったのは2004年に復刊されたもので、
雑誌に連載されていたのは95~96年。

ざっと内容をさらうと、

「サルの群れのせいで救急車が止まり、乗っていた恋人がそのまま 帰らぬ人となってしまう。
 猿の一匹が去り際に『マヌケ』と主人公に言い放つ。
 事実を確かめる為、日光山へ向かう主人公。そこで喋るサルと、 サルにレイプされた女性を発見し、
 人間である主人公と日本全土に広がる猿軍団の死闘が幕を開け  る…」

と。
作者も認めているようにB級映画のような筋立てです。

でも決して「B級映画」という言葉は貶し言葉ではありません。
色々定義はあるんでしょうが、B級映画は突拍子もない筋立てがあり、それに対して主人公が無茶苦茶に向かっていきます。
多分、その「解決」を描くのがA級の仕事で、「過程」を楽しむのがB級の範囲なんじゃないかと僕は思います。
要は無茶苦茶さを楽しむのですが、解決を目標に映画を進めていくとなんか良くも悪くも綺麗に収まっちゃう。
どうなっても良いからとりあえず突き進んでいくぜ!というストーリーだと、その色々なものが置き去りになっちゃってる感が疾走感として主人公の爆発力に加算されるのです。

『サルハンター』はサル側も凄いですが、主人公の爆発力がともかくアツい。
特に前振りも無く、恋人の敵討という理由で日光山へ向かい、
唐突に電磁ヌンチャクを取り出して、怒髪が天を衝いてサルを撲殺&感電死。
ばしばしサルを切り倒し、
いつの間にか特殊部隊の様な様相となって、
題名通りのサルハンターと化す。
最終的には修羅と化す。

あとがきに「なんと絵の稚拙なことか!」と作者の嘆きの様なものが書かれていますが、その稚拙な感じがソリッド感として、一層作品の熱を高めているように思います。
「すべての発情期のサルどもへ」は本当に最後の最後のページに書かれていて、一見すると主人公のサルたちへの憎しみの言葉にも見えるのですが、なんか僕には「一緒に馬鹿しようぜ!」という読者への前向きな文言である様にも思えます。

馬鹿で、力強くて、アホくさくて、青臭いものが好物な人には堪らん作品です。
『スッパニタータ』も早いとこ買おう。

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発掘された奇才

0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

緑の五寸釘編集『孤独』にて、この作家さんを知り、他の作品を読んでみたくなり購入しました。
一歩間違えるとギャグになりそうなテーマ性を、作者のネガティヴな感覚が強烈にホラー方向へと引っ張っていってるような。
個人的には、デビュー作「人生」の、良い雰囲気になりそうな話を、訳の分からない負の力でホラーな結末に捻じ曲げてしまうパワーに、ニヤリとしました。

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紙の本花のズボラ飯

2011/03/05 12:12

今ならアタシブタと呼ばれてもいいっ

9人中、8人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

幸福ってなんなんでしょうね。

「あなたにとって『働く』って何ですか?」と聞かれます。
当然就職して収入を得たい私は「自己実現の手段です」とか言う訳です。

「私は仕事を通して、一個人として認められたいのです。
 無論最初の内は大した事は出来ないでしょう。
 しかし、ゆくゆくは私が私でなければ出来ない、そういった仕事をしたいのです。
 そうして、人から代替不能なモノとして認識してもらえる事を目指すのが
 私の自己実現であり、働くということであり、幸せということだと思うのです」

んなわきゃあない。
結局突き詰めれば「飯のタネ」が欲しい訳で、それに付加価値として「自己実現」なんてのを付けたそうとしているだけなのです。
美味しいもんを食べる・リビドーを刺激し、満たす・安全に満足に眠れる。
幾ら人間様が火を怖がらない、道具を使う、芸術品を作る、神に次ぐ、いや神にもまして地球を統べる存在である!といえども、その原動力には必ずこの三つの何かが関わっています。
だからこそ、この根幹に近いテーマの内、「食べる」は活動的かつ老若男女問わず共有出来、イメージしやすいという万国共通のエンターテイメントに成り得るのです。

本作の原作者、久住昌之さんは近年、ナイスミドルがとにかく外食を食べまくり、内面を極めて特徴的な言葉選びで吐露するという『孤独のグルメ』で微妙なブームを巻き起こした人気漫画原作者。
漫画を描くのは、水沢悦子さんという新人(?)漫画家。この人の描くキャラクタはとにかく可愛い。三頭身・四頭身位の、如何にも漫画チックにデフォルメされたキャラクタが、割と欲望に忠実に行動・発言する。どこまでが水沢先生の範疇なのかは分かりませんが、本作でも主人公・花さんがそうした魅力を大爆発させています。

進行は、『孤独のグルメ』と同じく「飯を喰うエピソード」が一話完結でつらつらと続いて行きます。
ただ、『孤独の~』とは真逆の
・主人公はロリ可愛い主婦(30)
・描写されるエピソードは必ず「家で食う飯」を中心としたモノ
・よく喋る
・ハイテンション
・感情表現がストレート
・ご飯にお金があまりかかってない
という、い~い対称具合なのです。


以下、イイネ!と思った花さんの発言集。
「ご飯が無いチンゲール!!」
「本を読む気にもなりまセーヌ川…」
「めしめし…もりもり…たまたま…まんなかちょいほり…わりわりいれいれ」
「今ならアタシブタと呼ばれてもいいっ 幸せなブタちゃんです」
「でもいーんだぷーっ明後日はシヤワセな夫婦の夕餉だぷ―――――!!」
「くやすい~っ 風邪退治汁の効果が薄れちゃう!!」
「湯捨ててー…お約束のボコン鳴りましたぁー」
「ハイできあがり~花のエサですよー」
「あたりめえだ オラおかわりさするだ!!」
「なんかすごいテーブルになっちゃったぞぉ まぁいいやここは高級ズボラ料理店ってことで…」

雑感としては『孤独のグルメ』を『よつばと』ノリで行く、という感じ。

ご主人のゴロさん(奴だといいな)は単身赴任中で、残されたハナさんは毎晩一人寂しく飯を食う訳です。
でも全然寂しくない。
彼女は「楽しみ方」を存分に心得ているのです。
勿論、三大欲求を満たせる事はとても幸せなことです。
しかし、本作の花さん、『よつばと』のよつば、『孤独のグルメ』のゴローちゃんなどから「幸せ」を考えると、そうした基本的な欲求よりも「如何に世界を自分のフィールドに出来るか」というのが幸せを決定付けるもの、と思えてきます。

部屋はくっそ汚いし、作る飯は適当の極み、服装は来客がある場合を除いてほとんど下着。
けれど、是非こんな友達が欲しい。そんな風に思わせてくれる幸せ漫画です。

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紙の本ねこだらけ

2011/04/04 10:55

私達もまた、ねこになるしかないのだ。

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

基本的には全ての漫画が「無意味」なのです。
「笑い?別にどーでもいいよ。」という作者の声が聞こえんばかりの、自然体ゆるふわナンセンスギャグマンガなのです。
しかも一ページに四コマ漫画が一つ、という
省エネ・エコ重視時代に恐ろしく逆らいまくりな非経済っぷり。

一つ、文章でご紹介しましょう。
ネタばれ?この漫画ではそんなことどーでもいいんだよ!

『知性』
「キリッとした眉毛、真面目そうな雰囲気の眼鏡ねこがアンニュイに佇んでいます。
次の瞬間、次元を飛び越えて読者に突き刺さるねこの視線。
目が合った!
と同時にぽろりと落ちる眼鏡。眉毛付きの眼鏡。剥がれ落ちる『知性』という名の仮面。
再び、その『知性』をキュッキュと掛け直すねこ。

知性もまた、単なるペルソナに過ぎない。
それは非常に皮相なものであり、本来在るべき『知性』とは、
肩書や外見、借り物の言葉で表わされるようなものではないのである。
という痛烈な、現代アカデミズム批判を暗喩するのが、本作である。」

…とまぁ、こういう風な「無意味さ」がガンガン連ねられ、
まるで本から無意味臭が漂って来そうな、恐ろしい濃度のゆるふわギャグマンガなのです。

無意味に彩られた本作の世界観に浸る事で、日常の大事な事は全てうやむやになって行きます。
学校も、仕事も、恋愛も、趣味も、人間関係もどーでもよくなって来ます。
この漫画を読み終わった時、全てはナハハ、と笑い飛ばせるのだ、とあなたは悟るでしょう。

闇を覗く時、闇もまたあなたを覗いているのだ。
私達もまた、ねこになるしかないのだ。

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紙の本からっぽの世界

2010/08/16 01:33

虐げられた者の不愉快な眼

5人中、5人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

山田花子という漫画家は24歳で自殺しました。統合失調症だったそうです。
 彼女の漫画は、ギャグ漫画の体裁を取りながらも、ヤマやオチがほとんどありません。そこに描かれるのは様々なシチュエーションにおける強者と弱者。そこで虐げられる弱者の内面。
 
 日本の美徳の一つに『下剋上』というやつがありまして、下から見た上の立場の者は、不合理で意地悪で腐敗してる、みんなで力を合わして上の奴潰そうぜ!ってのがありますが、「多数」で「個」を考えた時、大抵「個」は「個としての個」ではなく「多から見た個」に変形させられている事に「多数」は自分達で気付いておらず、自分達に都合の良い解釈で「個」を捉えます。
 下の者だって単なる人間ですから、不合理で意地悪で腐敗してるかもしれません。逆に上の者は合理的に、公平にあろうとしているのかもしれません。けれど下剋上の美徳においては、弱い事が=正しい事、評価される事に変質してしまい、立場が上というだけで悪のレッテルを貼られてしまう。『下剋上』を美徳として認めちゃう人間性は、ステレオタイプで人を評価しようとする、というのは少し言い過ぎでしょうか。

 山田花子の描く漫画では、強者も弱者も、同じようにどす黒い感情を渦巻かせています。美徳は徹底的に排除され、ただ人間関係のぎくしゃくした感じ、場の気まずい空気、鬱屈した思いが実直に描かれます。

 たとえ障害を持った人が起した事件でも事件には変わりないし、内向的で意見をあまり言わない子だから優しい訳でもない。当たり前なのに、誰もがあまり見たくないから目を背けて、意図的に忘れている事が、ヤマもオチもない、同じようなストーリー展開の短編をいくつも並べる事で強烈に読者にそういえばそうだった、と思い出させます。
 しかし、何でそれを忘れていたかと言えば、「見たくないから」「不愉快だから」です。
 「弱いもの」はつまり「支配下におきたいもの」で、「守りたいもの」で、それらが純真で、可憐で、無垢であればあるほど、自分より弱いという属性が強化される。そうじゃないなんて、下剋上の美徳が身体に沁み付いた僕らには信じたくないのです。

 おおよそ、この漫画を読んで救われる人や晴れやかな気分になる人は居ないでしょう。その苦々しさを僕ら読者は笑いで表す事が出来ない。苦笑、あるいは露骨に落ち込んだ表情。読者は、それらを一時の感情として、脳の片隅の適当な引き出しに放り込んでおいて、また彼女の作品に触れた時にでもあぁそういえば、と少し引っ張り出して来れば良い。素知らぬ顔をして、自分より弱いものを愛でればいい。
 しかし、それらを常に出ずっぱりにして生きなければならない作家・山田花子はどこに弱いものを、守るべきものを見出せばいいか。

 しんどくて、不愉快で、気持ち悪くて、切ない短編集でした。

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明治化物草紙

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

明治期の日本にラスプーチンが来る、
その間の「大津事件」、その周辺状況を描く、
という山田流if明治時代小説なのですが。
スーパーロボット大戦、もしくは平野耕太の『ドリフターズ』みたいな状況を思い浮かべてもらうと分かり易い。

登場するのはタイトルにもあるようにまず怪僧・ラスプーチン、
それから大津事件の主要人物達・ニコライ二世、児島惟謙、津田三蔵、
ほんで二葉亭四迷、乃木希典、内村鑑三、アントン・チェーホフ、ニコライ大教主、下田歌子(下田宇多子)、飯野吉三郎(稲城黄天)、川上操六
カメオ出演に川上音二郎、谷崎潤一郎、正岡子規、夏目漱石、森歐外、津田梅子、ベルツ、
ともうやり過ぎ感が漂うほど、明治の化け物どもが一堂に会している小説です。

で、これらをまとめて主人公となるのは明石元次郎。
ロシア革命を先導したとか何とか言われる、
実在した日本のスパイの大家である軍人。
まぁ広く知られるスパイが果たして名スパイなのかどうかはよく分かりませんが…。
天衣無縫・怪男児・快男児の彼の、明朗なヒーローっぷりは痛快。
とても合理的かつ理性的、でも既存のルールに縛られない、色々と無精で汚ない。
南方熊楠のイメージとダブらせながら読んでいました。

勿論、チェーホフとラスプーチンが出会ったという史実はありませんし、
ラスプーチンが日本に来た記録もありません。
しかし、山田風太郎の手にかかればもう、
同時代人ってだけで「関係性があるもの」として、
上記の人物達が全て一つの物語の登場人物としてまとめ上げられるのだから凄い。

ただ本当にカメオ出演の人達はちょびっとしか登場シーンが無い為、「あっ!この人知ってる!」という喜びを盛り上がらせる素材くらいに考えておいて下さい。
僕は夏目漱石と正岡子規の登場シーンで、
ほんの4、5行の描写ながらしっかりキャラクターを感じられてニヤっとしました。
どのキャラクターも非常に生き生きと描かれ、司馬遼太郎が日本人の竜馬観を決定してしまったように、色んな歴史上の人物達がこの小説によって読者に固定イメージを与えるかも。

大筋のストーリーとしては
軍人・明石と稲城黄天との、そして物語後半ではラスプーチンとの戦いとヒロイン・竜岡雪香とのロマンスが描かれます。
それだけであれば、如何にもな「伝奇小説」「時代小説」でしかないのですが、きちんと思想性が滲み出ている所が、ちゃんと「文学」しています。

例えばラストの描き方。
単なる伝奇小説であれば、明石がラスプーチンを倒して、雪香と明石が結ばれて良かったね!というハッピーエンドでも良さそうなモノを、この終わり方はまるでその後に続いて行く国勢、世界情勢を反映したかのよう。
化物共が横行し、くるくると日本や其れを取り巻く世界が急速に変化し、とてつもなく「面白い時代」であった筈の明治が、
何故その後の「暗い日本」へ続いて行くのか?
歴史観を踏まえると、ラストの描写も少し見方が違って見えるのではないでしょうか。

また、ヒロインの「聖女」としての描き方。
それは作者なりの女性への神秘性・強さに対する信仰の形であったり。「穢れ無き乙女」だからこそ、竜岡雪香はこうならなければならなかった、という結末にも思えます。

山田風太郎は忍法帖シリーズしか知らなくて、
エンターテイメント性の強い作家という印象が強かった。
勿論、この小説も有り得ぬ人物同士の邂逅、スーパーロボット大戦のようなそれぞれの人物に対するファンへのサービス的出演、
エンターテイメントバリバリです。
しかし、山田風太郎≒エログロという僕の勝手な山田観に、
この小説はセンチメンタルという属性を付加させてくれました。

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芸術とそうでないモノ

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

町野変丸という漫画家。彼は主に成人向けの漫画を書いていました。
その20年間の漫画家生活中、モチーフはほぼ同じ。
「ゆみこちゃん」という女の子が、朝学校に遅刻しそうになって急いで走っていると、ドーン、ぶつかりました。
ぶつかった相手が漫画によって異なり、
宇宙人だったり、変質者だったり、ミイラ男だったり、透明人間だったり、妖怪だったり、ロボットだったり…
で、相手に犯されます。
ゆみこちゃんは「やーん!」とか言いながら、どんなに強烈に犯されようと、痛めつけられようと、肉体改造されようと、「ふぅー気持ち良かった!」とか何とか言いながら特に気にせず生活を続けていきます、終わり。

延々こうした情景が繰り返されます。
読者は
・どんな思わぬ相手とぶつかるか
・どんな思わぬバトルっぷりになるか
を延々楽しむ、という漫画群なのです。

本書は
・お父さんが自転車を勝手にSOD風に改造
・船乗り
・よく分からん兄の同級生
・俺があいつで、あいつが俺で
・身体検査
・戦車級
・メイド
・ヌルヌル
・奇跡
の短編九本仕立てですが、まぁそんなにいつものと違う訳じゃありません。
何故か成年マークが付いてませんが、表現が抑え目とかそんなことは全くありません。

身も蓋もない事を言えば現代美術は「アイデア勝負」なのです。
その作品のバックグラウンドに、作者以外がどれだけ意味性を見出せるか、共感出来るか、が芸術とそうでないモノを分け隔てるのではないかと思うのです。

例えば町野変丸の作品を
・オタク文化を象徴的に描き出す、「ゆみこちゃん」のカワイイデザインとその他の存在のデフォルメ的デザイン
・日常に潜む非日常性
・人体破壊のアイデアの限界に挑み続ける思考実験
・同じモチーフを繰り返す事で、より「アイデア」の輪郭を浮かび上がらせる挑戦的行為
・また、モチーフの繰り返しから批判される大量生産・大量消費社会
・エロティック≒グロテスク≒ナンセンス
とか何とか言って評価をする「評論家」が居れば、
彼の作品はもっと芸術として評価されているのではないでしょうか。

いや、現に村上隆率いるHIROPON FACTORYなどでアーティストとして海外や国内で芸術活動を行っているという、立派な「アーティスト」なのです。

僕は彼の作品に「芸術」は全く感じません。
しかし、「村上隆やデュシャンを芸術として評価する下地を感じた時」、
町野変丸の作品に芸術を感じるのです。

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史上最弱は最も恐ろしい

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数学といい、算数といい、もう文字を見るだけで手が震えるほど苦手です。
でもその中でも「論理的思考」って結構好きだったりします。
公式とか数字っていうデータが無くとも、必死で考えればきちんと答えが出てくる感じ。


「AならばBである」=「AでないならBでない」


それでは、「史上最強の存在は誰にとっても恐ろしい」の対偶は何でしょうか?


『バキ』の板垣先生がやらかしてくれました。
もう『バキ』と言えば、格闘漫画を越えた超エンターテイメント漫画であるのは周知の事実です。

そんな板垣先生が「土下座」をテーマに漫画を描く。
どんな異様な漫画が始まるんだ!?と思いきや
土下座が決まれば勝つ、バトル漫画でした。

…え?と思ったあなたは正しい。
そこに「論理」は無いのです。
本来、相手への恭順・屈服を示す、最大の姿勢が土下座。
攻撃の意思は全く無く、もうあなたの思い通りに何でもしますので命だけはどうかご勘弁を、という最弱のポーズ。
のはずなのに。

ヤンキー高校生だろうが、柔道家だろうが、ヤクザだろうが、その親分だろうが。
その男が土下座をしてしまうともう、攻撃を加えられなくなる。
その男の土下座には、人を屈服させる、平服させるだけの「威力」が、「破壊力」があるのです。
何を言ってるのか分からないと思いますし、僕も訳が分かりません。
頭がどうにかなりそうです。


言ってましたよね、ガンジーも。
「フッフッフッ 史上最弱が…最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も最も
最も恐ろしィィ マ ギ ィ ー ー ー ー ー ー ッ !!」


どうにかなりました。

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震災周辺の「サッカー」について述べる本。

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

サブタイトルにもあるように、
震災周辺のサッカー、Jリーグの動きについて、様々なライターが様々な観点から述べた本。

僕はサッカーも別に好きじゃないし、
震災の影響もほとんど無かった関西在住者だし。
全く自分と関係無いからこそ、何が起きていたのか客観的に知りたかったのです。

「サポーター」という存在。
僕は不思議に思っていたのです。
例えば、部活のマネージャー。自分が競技者でも無いのに、何故自分の時間を割いてまで「応援」に労力を割くのか。
…まぁ偏見ですけど、女子マネージャーなんてどうせ好きな男でも居るんだろクソックソッ
じゃない、いや、そんな別に怨恨とかは無いんですが、無いという事にさせて下さい。

自分で、自分の為に、何事かをやり遂げたい、という自分にとって、
ちょっと彼らの存在は理解出来なかったのです。

清義明さんというライターの方が寄せている文章より。
「サポーターならテレビやインターネットじゃなくて現場だろ!」
そんなアジテーションに共鳴されたサポーターにより、日帰りでボランティアを行う弾丸バスは、合計3回でのべ120名以上のサポーターを現地に送り込んだ。


ああ、そうか、彼らにとっては「応援をしに行く」のは観に行くんじゃなくて、参加することなんだ、と思いました。
ボランティア経験が無いから迷惑をかけるとか、迷惑をかけるのは嫌だから自分は最初から何もしないとか、迷惑をかけたボランティアをバッシングするとか。
そういうのは結局「他人事」なスタンスなのです。
「自分の事として参加していく事」、それがサポーターという存在なんだ、と思い知らされました。

その他の文章も、如何にも体育会系脳の書いた「よくやった!頑張った!カッコいい!」という文章が羅列してある訳では無く、論理的・理知的にJリーグの研究論文であるかのようにビシィッと書かれています。
難を言えば、掲載写真がちょっと綺麗な所を抜き出し過ぎなんではないかなぁ、と。

何にせよ、ちょっとスポーツ観戦欲を引き出されるような、楽しいビジュアルブック。

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紙の本染みるブライト・ノア

2011/06/12 17:10

歳を取るほどに分かるブライト・ノアの魅力

6人中、6人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

劇場版ファーストガンダムと逆襲のシャア以外を視聴していない自分にとって、
ブライト・ノアという人物は「エースパイロット達との比較対象たる凡人」位の印象しかなく、
どちらかと言えば嫌いな位のキャラクターだった。

自分に出来ない事を人に強要し、
その人が失敗したり、思い通りに動かないと怒り、修正に走る。殴る。
上司に対しては卒の無い対応を取り、挙句、女性クル―と仲良くなり、結婚にまで至る。
何なんだよ、この男は。

僕は無能なので万が一にもそんな事には成り得ませんが、
もしメカニックとかでホワイト・ベースに乗り込んでたら
横暴過ぎんぞ艦長一揆でも起こすんじゃなかろうか。

といった具合の悪印象を彼に持っていた。
へっ、こんなガキ大人に成ってたまるかよ、等と嘯く。
いやいや、どっちがガキ大人だよ、と気付かされるのが本書である。

帯に「まるごとブライト・ノア」とあるように、
私のカバーしていないZガンダム・ZZガンダム、そしてファースト、逆シャアと
ブライト・ノア登場作品四作に登場する彼を、
惜しげも無く解体してくれている。

「今は、そんな哲学など聞いている暇は無い!」
「しかし、アムロだ…あいつがいなくなったとき感じた不安というのは、こりゃ絶大だ。一体なんなんだろうな」
ファーストに登場した筈の、こんな何気ない台詞すら、今なら「彼の魅力だ」と気付ける。

どうしても、「子ども」は派手な部分に目が行くし、まして自身が「子ども」ならば「カッコいい子ども」にしか目がいかない。
それがアムロであったり、シャアであったり、カミーユであったり、ジュドーであったり。
彼らは理想に生きています。それは理想を実現出来るだけの力があるからなのです。
でも、そんな手持ちが無い奴は、凡人は、それなら諦めて死ね、とでも言うのか?

そんな現実に気付いてしまった子ども達、つまり「成長してしまった大人達」を導いてくれるのは彼らの様な主人公達ではなく、「ブライトさん」なのです。
彼はいつも現実を真っ向から見据え、自分の手に届く範囲の物事をしっかり選択し、適材適所を彼なりに考えて来た。そのままの意味での「力」を無視して言えば、四作劇中で一番強いのはブライト・ノアなんじゃないか?

それが錯覚かどうかはよく分かりませんが、序盤のページに書かれているように
「歳を取るほどに分かるブライト・ノアの魅力」に気付かされる一冊です。

…でも益々これで「19歳」という年齢設定はおかしいんじゃないかと思えて来ました。

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