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相羽 悠さんのレビュー一覧

投稿者:相羽 悠

7 件中 1 件~ 7 件を表示

紙の本

紙の本犯罪

2011/09/18 09:20

あとを引く小説

10人中、10人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 文学賞三冠に輝く現役弁護士のデビュー作と聞けば、思わず身構えてしまう人もいるだろう。しかし、読み始めれば、そんな思いはどこかに吹き飛んでしまう。本書には、さまざまな「犯罪」から浮かびあがってくる、不思議で、切なくて、残酷な人生の物語が並べられているのだから。

 たとえば最初の短篇「フェーナー氏」の主人公は温厚な開業医で周囲から一目おかれ、経済的にも恵まれた人生を送っている。しかし新婚旅行で強制されるまま、妻を捨てないと誓わされたのが運命の分かれ目だった。小言の絶えない妻に虐待され、唯々諾々と彼女に従う生活を数十年送ったある日、感情が暴発してしまう。離婚するなり、何か行動をおこせば自由になれたのにと同情したのも束の間、物語の最後の一行にはぞっとさせられる。何か読み落としたのかもと思い、読み直してみれば「ふたりはとても生真面目で、人に溶け込めず、寂しかったのだ」という一言が。夫婦それぞれへの評価が一変する。

 寂しさのあまり、自分の思いばかりにとらわれて人の気持ちが理解できないのは「チェロ」の姉弟も同じ。幼くして母を亡くしたふたりの子どもの世話をしたのは、あまり子どもに関心のない看護婦だった。優秀な会社経営者である父親は芸術家気質のわが子を理解せず、まずスパルタ式に鍛えて生活力をつけさせなければと考える。ただし金銭にうるさいのも子どもの将来を考えてのこと。金儲けの才能はあっても、子どもへの愛情を表現する術を知らない人だったのだ。そうした父親に反発して、姉弟は家を出る。だがその後の生活を支えたのは父親の大金の餞別だった。そして姉弟は自由気ままな生活を送るが、用心や配慮が足りず、不幸への道をたどりはじめる。その不幸は父親の人生も狂わせた。

 そして十一の短篇を収めた本書の最後を飾るのが「エチオピアの男」。捨て子の主人公を次々不幸が襲う。学校ではいじめられ、職場では盗難を疑われたあげく退職をよぎなくされ、社会の吹きだまりまで身を落としたあとも優しさが仇となり借金地獄に苦しむ。銀行強盗で資金を調達し新天地を目指すが、行き着いた外国でも悲惨な生活が待っていた。絶望して死に場所を探すうち病気に倒れてしまうが、そこからの展開が凄い。病が癒えた彼は、助けてくれた人々のコーヒー農園を手伝う。そこは貧しい村だったけれど、彼の資金で村は変貌をとげる。運搬トラックを買い、農園と村を結ぶロープウェイを設置し、新しい乾燥機を導入する。さらに村人と共同で灌漑施設や防風林を設け、村の外から教師を招き、自身も医術を学び簡単な手当ができるようになった。

 現地女性との間に娘も産まれ満ち足りた毎日だったが好事魔多し。当局に提出を求められたパスポートから銀行強盗の指紋が見つかり、ドイツへ送還され禁固刑が下る。だが刑期途中で一時外出が認められたとき、家族恋しい彼は旅費を工面するため、また銀行強盗を働いてしまう。「銀行強盗は、かならずしも常に銀行強盗であるとは限らない」という謎の言葉に従い判決が下される。人生での束縛に負けてしまう男の話にはじまった本書を締めるのが、人生でのマイナス要因をはね返す男の話なのは偶然ではないだろう。いい終わり方だ。

 最後、血なまぐさい「犯罪小説」は苦手という方へ。本書のほとんどの短篇では死体が登場する。凄惨な拷問のあとの描写もあれば、主要人物が殺し屋、麻薬の売人、窃盗犯だったりするのに、不思議とこの短篇集からは犯罪の生々しさが感じられない。それは扇情的な暴力シーンを避け、乾いた無機質な描き方をしていることとも無関係ではないが、場違いなユーモアが大きな役割をはたしている。死体を前にした男に銃を向けた婦警が口にするのは「駅構内は禁煙だ」というセリフだし、殺人に使われたある道具は入手が簡単なうえ、「安価で、持ち運びが楽で、効果的だ」という説明つき。たくまざるユーモアに笑いつつ、実はあの場面は……と何度も思い返しながら楽しめる短篇集に仕上がっている。

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紙の本

紙の本都市と都市

2012/02/16 00:39

同じ場所にありながら、見ないことで存在するもう一つの国家

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 二〇〇九年は『都市と都市』が出版された年。SFの歴史を綴る本にはそう記されるだろう。本書は、アメリカでヒューゴー賞にローカス賞、イギリスで英国SF協会賞にアーサー・C・クラーク賞、さらには世界幻想文学大賞と名だたる賞を手中におさめた。

 という受賞歴に加えて、SFの枠内だけに収まらない懐の深さも読者を魅了する。作者ミエヴィルは自作に関してファンタジー、SF、ホラーといったジャンル分けを嫌っており、「ウィアード・フィクション(奇妙な小説)」という総称を早くから提案している。本書ではミステリの要素も加わった。だからこそ、海外の書評ではP・K・ディック、レイモンド・チャンドラー、フランツ・カフカなど、ジャンルの異なる作家の名前が引き合いに出されている。

 東欧にあるらしい都市国家ベジェルから物語はスタートする。過激犯罪課に所属する警部補ボルルが若い女性の死体遺棄現場に到着した。第一発見者の証言を聴取して監察医の所見をきいてと捜査は順調にすすむが、現場のボルルは、ふと目をそらしたときある女性と目が合い大慌て。彼女はそこにいないはずで、見てはいけない相手だった。通りすがりの女性との間で何が起きているのか。ここから本書の仕掛けが明かされていく。

 ベジェルには、体制が異なるのに、地理的な理由で変則的にむすびついている都市国家がある。ほぼ同じ場所に存在する、モザイク状に組み合わさったウル・コーマだ。貧困で質素なベジェルと裕福で洗練されたウル・コーマ。対戦経験もある二国家では、互いの自治を守るための制約があった。相手国のものが見えそうになったら、すぐさま視線をそらして見えないふりをすること。見てしまうことはブリーチ(違反)になり、違反した国民を裁くための組織「ブリーチ」も存在する。両国の人々は、子どものころから、服装、歩き方、しぐさの違いから互いを見分けるように訓練されている。

 全裸で発見されたことと厚化粧から、殺された女性は売春婦と思われたが、実は考古学専攻のアメリカ人留学生。ウル・コーマの大学で分裂前の遺物について研究していた。研究途上で見つけたテーマがきな臭い。見ないふりをすることで共存するベジェルとウル・コーマの隙間に第三の秘密都市が存在するというのだ。化粧は死後に施されたものらしい。どこの国の人間が彼女を殺したのか。殺されたのは研究テーマのせいか。彼女はウル・コーマにいたはずなのに、なぜ死体がベジェルで発見されたのか。はたして第三の都市は本当に存在するのか。この異常事態にブリーチは反応するのか。

 なぞがなぞを呼び、だれが味方でだれが敵なのか判然としない。そうしたダイナミックな展開のおもしろさはもちろんのこと、架空の存在でしかない二つの都市の書き分けがすばらしい。本書の題名からして都市が主人公なのは自明だから、当然と言えば当然なのだが。ベジェルとウル・コーマでは使われている言語が違う。アルファベットも違えば、響きも違う二言語。それぞれの言語の用例をあげたり、状況次第で言語を切り替える人々の機知を見せたりと、作者の遊びがストレートに伝わってきて楽しい。

 それぞれの都市に関して、まずボルルの目からベジェルが描写される。イスラム教徒とユダヤ教徒が平和裏に共存するさま、警察に非協力的な関係者を拘束できる「半逮捕」制度、町にたむろするアカ、ナチス、統一主義者の連中、政治的なあるいは経済的な理由でウル・コーマを追放されベジェルに暮らす人々、そうした人々が故郷の料理の匂いをかぐためやってくるウル・コーマ・タウン、さびれた古い市街。一方、ボルルが捜査のため出向いたウル・コーマでは思想統制が終焉しており、新しいビル群が並び、金融市場には活気があふれ、ソフトウェア会社、CD/DVDショップ、ギャラリーのある明るい市街が見られる。異なる体制の書き分けに関しては、ロンドン大学で国際法の博士号を取得した作者の腕の見せどころ。とても架空都市を写し出したとは思えない。

 ミエヴィルは、自作が特定のジャンルに限定されることを好まない。SFの枠を超えてミステリの要素を取り入れたのと同じように、ファンタジーの枠も超えていると仮定できないだろうか。政治的な、経済的な、宗教的な、階級上の違いがあるから、互いを見ないようにして生きている人々は、意外なぐらいわたしたちの近くに存在する。

 ジャンルを超越して、何を仕掛けてくるかわからない作家チャイナ・ミエヴィル、その名前を覚えていても損はない。

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紙の本

泣いたら、だめだ。考え続けられなくなるから

3人中、3人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 よく通る声がある。声高ではないのに、どちらかと言えば控えめな声なのに、この流れなら無視されてもおかしくないのに、まっすぐ相手に届く声がある。ここぞという場面で、梨木香歩はこうした声を投げかける。

 本書の主人公コペルは十四歳の中学生。母親は遠距離通勤のため宿舎で暮らしており、父親も体の弱い母親を気づかって宿舎で過ごすことが多く、いきおいコペルは一人暮らしをよぎなくされている。とは言っても、寂しさのあまり引きこもるでもなく、栄養不足で体調を崩すわけでもなく、日々の生活に不自由は感じていない。雑木林で過ごす時間の楽しさを知り、ノートにいろいろ書きながら考えをまとめることが好きで、気負いもせず「不見識」なんていう言葉を口にしたりする。

 この日、コペルは植物採取のため、幼なじみのユージンの家を訪ねる。彼は鬱蒼とした森に囲まれた家に住んでいる。広大な敷地にシイ、カシ、ケヤキの大木が並び、沼と見間違うくらいの池ではアメンボが行き交う。しかも恵まれているのは自然だけではなく、家の屋根裏には古い本がいっぱい詰まっている。なんとも羨ましい。そうした環境で、ユージンは旧字もすらすら読みこなす、知識欲の旺盛な少年に育った。コペルとユージン、ふたりの共通点はむずかしい言葉をたくさん知っていること以外に、もうひとつある。ユージンの両親は離婚しており、彼を引き取った父親は海外に赴任中、コペル同様、親に守られる一方の子ども時代をユージンも早々に卒業したのだ。ただ、小学校の高学年から学校に来ておらず、その理由が思い当たらないコペルは今もとまどっている。昼時になり、ふたりは庭の野草をつかった料理について調べはじめるが、ある事件がおきて、この日の午後、思いがけない出会いが待っていることを知る由もなかった。
 
 コペルとユージンは何か考えるとき大雑把な捉え方を避ける。たとえで言うなら、この道を通ったという表現では終わらせず、歩いているとき視線が何を追っていったのか、途中で何があったのか、その道中を細分化していく。それを可能にしているのがふたりの豊富な語彙だ。自分の考えを表わすのに的確な言葉を選べるからこそ、思考の流れをきちんと整理することができるし、問題点がぼやけたりしないから深く考えることができるのだ。

 実際、この本では、ぼんやりとしていたものが焦点を結んでいく過程を、コペルの目を通して観察することができる。生きるために許される節度、戦時という特殊な環境のなかで「僕は、そして僕たちはどう生きるか」考え続けた男性の話、さりげなく図書館に置いてあった本に仕掛けられた巧妙な罠。なかでも《人は、人を「実験」してはいけない》というテーマにつながるエピソードは強い毒をもっている。コペルと同世代の女の子は、催眠術にかかったように「ふつう」という言葉にもてあそばれ、理念に支えられていたはずの「実験」の陰には、あまりにも人間的な悪意が潜んでいた。

 ユージンの登校拒否につながる場面に実は自分もいたことを知ったコペルは大きなショックをうける。彼がどれだけ傷ついたか、ちょっと想像してみれば、わかることだったのに。こらえきれず場所を変えて泣きだしてしまったとき、意外な人物から「泣いたら、だめだ。考え続けられなくなるから」という声がかかる。情に流されるな。自己憐憫という殻に逃げ込むな。泣くことで問題から目をそらすな。ひどく辛い思いをしているときにかけられた容赦ない言葉だが、そのメッセージはまっすぐ届いた。了解の印に、すぐさま頷いたコペルが清々しい。安易な慰めに救いを求めない姿勢がいい。

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紙の本

紙の本私のいない高校

2011/08/14 22:38

読み流した人は損をする。油断のならない小説。

1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 一九九九年、国際ローゼン学園はカナダ人のナタリーを初の交換留学生として受け入れた。ホストファミリーやほかの留学生に助けられ、担任教師の藤村の親身な指導をうけ、ナタリーは日本の高校生活になじんでいくのだが……。 留学生を迎え入れた数カ月を描く、どこか変な小説だ。まず気になるのが、書名の「私のいない」の意味だ。本書は主に藤村の視点から語られるが、語りの力がとても弱い、というか安定性に欠けている。「昼過ぎには宿に着いてさっそく展望風呂へ向かうと、湾を隔てた先に相変わらずのように富士の姿があった。部屋に食事が運ばれるまでには海岸から同じ風景がしっかりとカメラに収められた。夕食後に担任は宿からホストファミリー宅へ電話を掛け……」藤村視点で物語の流れを追っていた読者は、「担任は」の語句でいきなり突き放される。描写が主観から客観へと切り替わり、「私」視線の話し手が突如姿を消してしまうせいだ。このように小説随所で視点がさりげなく替わり、読者は何度もはっとさせられる。
 しかも「私」視点をつきつめないのは藤村だけではない。ほとんどの登場人物がフルネームで紹介され、生徒の所属するクラブ、クラスでの役割、教師の担当科目などの情報があたえられる。ただし説明されているのは学校での公の立場だけだ。「このとき日直の能木さやかは最前列の席で真っ直ぐ前を向いたまま号令を掛けた。全員が起立して気を付けするタイミングは耳で判断することができ、椅子の音が静まったところで一拍置き、間合いを計るように……」と人物の行動や感覚が細かく記述されていても、個人の心情が吐露されることはない。そこには個性も、自己主張も、葛藤も見られず、「私」を表現しない高校生活が描かれている。
 生の感情を表現する「私」のいない本書にはぼんやりした薄気味悪さが漂う。どきりとさせる要素は忘れかけていたころ登場する。度重なる生徒の私物の紛失、留学生が安い物にしか興味のないこと、前の日掃除したのに汚れている日曜日の教室、修学旅行の自由時間に市内で見かける生徒が少ないこと。実はとんでもないことが起きているのではないか。留学生が週末集まる目的は何か。気になりだすと疑惑は深まる。
 薄気味悪さは文章にも垣間見られる。学校側は異文化体験が▼課題【ルビ:プロブレム】であり▼使命【ルビ:ミッション】でもあると覚悟している。さらっと読み流しそうだが、待って欲しい。プロブレムと聞いて人がまず思い浮かべるのは困難な状況ではないのか。ひょっとしてダブルミーニング? 留学生受け入れという課題の難しさを伝えたいのか。そう合点するかもしれないが、「ミッション」のほうは? ミッションは布教も意味する。使命と布教が結びついているとすれば、この学校は何かの布教を目指しているのか。不穏な言葉はまだある。「ナタリーがカメラを▼とりに【傍点】行きたがっている」という生徒の言葉に「もうこんなじかん! ▼ま【傍点】やくしなくちゃ」というナタリーの言葉。「取りに」と「早く」の意味だが、本書の文脈からは「盗りに」「麻薬」が連想される。
 さらに薄気味悪いのは、担任に学校生活も休日の過ごし方も徹底的に管理されながら文句も言わないナタリーの姿だ。まるで従順な日本人そのもの。そして「今度の留学では日本語の習得が事実上の課題」だったナタリーが何を習得したか、数カ月の交流で生徒やナタリーがどう変化したかと言うと……。やはり本書は一種のホラーだ。

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紙の本

温故知新

7人中、7人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 おや、何読んでるんだい。『坊っちゃん』かい、なつかしい本だねぇ。すじを覚えているかって? もちろんだよ。甘えん坊のくせに江戸っ子を気取る乱暴者、親譲りの無鉄砲な主人公が、学校を終えたあと松山に渡るんだろ。数学の教師になったはいいが、生徒たちから新米いびりされるわ、田舎の空気になじめないわ、個性派ぞろいの同僚との接しかたがわからないわで、てんやわんやの騒動が続くんだよね。それで最後はマドンナを横取りされ学校を追い出される同僚に同情したあげく、かたき討ちとばかりに、気骨のある同僚教師と殴り込みをかけるんだ。世知にたけた教頭を相手に大暴れするのさ。

 あはは、学校の宿題なんだね。で、どう思った? 勢いにまかせて、何にでもかみつく威勢のよさがかっこいい? 漱石はほぼ一週間でこの作品を仕上げたらしいからね。作者が書きながら楽しんでいるのが伝わってくるテンポのよさがいい。ふとんに入れられたイナゴに気付いて格闘する場面は痛快だし、狸、赤シャツ、うらなり、山嵐と教師連に直観でつけたあだ名もふるっているよ。性急にまくしたてる坊っちゃんとは対照的な、松山の人たちののんびりした口調もいい味を出しているだろ。

 それに、あわて者で後先のことを考えずに行動するところに共感を覚える? まあ、お前もおっちょこちょいだからね。人の言葉を鵜呑みにするところも似てるんじゃないかい。下宿の斡旋話にせよ、同僚の評価にせよ、話を吟味する過程がなくていきなり走り出している感じだ。食いしん坊だし、人の外見ばかり見ている。この直情径行型で素朴なところがほほえましくて、坊っちゃんは愛されているんだよね。もちろん、その筆頭格が下女の清。両親や兄の悪口はいい放題の坊っちゃんも、ひたすら尽くしてくれる清には甘えっぱなしで、どこまで許されるか試している部分もある。

 でもちょっと気になる箇所があるって? どこだい。ああ、九州の会社に赴任する兄さんと東京で別れて、そのあと一度も会っていないところか。お前、目のつけどころがいいよ。うん、ばあちゃんがほめてやる。一緒に殴り込みをかけた山嵐とも、あっさり別れたきりだよね。ねぇ、はじめのほうに、東京へ帰ったとき云々と書いてあっただろう。この話は坊っちゃんが中学校を辞めたあとに書かれた話なんだよ。小説の最後、清が亡くなったのは「今年の二月」とあるね。「今年」っていつだと思う? 東京へ戻って市電の技手になってすぐ、数年後、数十年後? 設定次第で、小説の印象がずいぶん変わってくるねぇ。老人になった坊っちゃんが書いているとしたら、たったひとりの肉親や友人に対してずいぶん冷淡だなって思えるだろ?

 あと、これには気付いたかい? 小説のなかで坊っちゃん自身、智恵が足りないと言っているし、いろいろものを知らない設定になっているけど、それを文字通りに取っちゃだめだよ。ふらりと入った物理学校は進級や卒業がかなり難しかったんだ。なのに、ちゃんと規定年数で卒業しているだろ。一種のエリートとして東京から迎えられているという事実も見落とされがち。実は坊っちゃんは作中に描かれているより、ずっと優秀で勤勉だったんだ。そう考えると、坊っちゃんの語りで進むこの話にどれだけ本人の脚色が入っているか想像してみたくないかい? しかも同僚と違って、坊っちゃんの本名は最後まで出てこない。どんな脚色がされているのか、何を隠しているのか、想像するだけでも楽しいじゃないか。

 え? もう一度読んでみるって。うんうん、それがいい。これはなかなかのくせ者小説だからね。そうだ! あの本もお読み。え~っと、何ていう題名だったっけな。教師だった坊っちゃんが市電の技手になるなんて変だろ? その理由が書いてあったんだ。書かれた当時の鉄道事情から、明治、大正、昭和の小説を読み解いていく本でね、宮沢賢治の『銀河鉄道の夜』はもちろんのこと、芥川龍之介や田山花袋の作品も入っていたはず。それにさ、永井荷風『墨東綺譚』に出てくる玉の井と言えば……あっ、なんでもない。ともかく、その本は探しとくからね。

 じゃ、またあとで『坊っちゃん』の感想を聞かせておくれ。

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紙の本

紙の本沈黙 改版

2012/02/08 12:07

沈黙を選んだ司祭もいれば、沈黙を捨てた漁師もいた

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 遠藤周作『沈黙』(一九六六)はさまざまな沈黙が交錯する小説だ。

 小説の舞台は十七世紀。ローマ教会にある報告が届く。キリシタンへの弾圧が厳しい日本で、布教の柱、司祭フェレイラが信仰を捨てたというのだ。殉教ならともかく、今までも迫害に耐えてきたフェレイラの身に何が起きたのか。若き司祭ロドリゴは恩師フェレイラの変心が信じられず真相を探るため日本へ向かう。かつては信者だった、若い漁師キチジローの手引きで日本に潜入。信者にかくまわれ布教をはじめたが、穏やかな日々はつづかない。追手の手をのがれるべく逃走するなか、ロドリゴの頭の中では同じ問いが繰り返されていた。信者の苦難を見ながら、なぜ神は彼らを救おうとせず沈黙しているのか。その答の手がかりは、意外な場所で再会したフェレイラによってもたらされる。

 悩める若き司祭のそばに卑俗な漁師という配置がいい。偶然の出会いが結びつけたふたりは対照的。ほかの司祭が信仰を捨てたり殉教する状況下で、日本に残された最後の司祭ロドリゴは信者の尊敬を一身に集め、三度まで信仰を捨てて転んだキチジローはだれからも蔑まれる。そして自らの信仰を守るため、片や沈黙を選び、片や声高に主張する道を選んだ。

 恩師の消息を知ることもさりながら、信仰の火を消さないためにも日本に潜入したロドリゴは語学の達人で、コミュニケーション能力も高いようだ。外国人である日本人信者との意思疎通に困っている様子はない。さらに元来、寂しがり屋で、人が好きなのだろう。逃走中、たった一日、人と話せなかっただけで愚痴をもらす。取調べ役人のやさしい言葉に、すぐさま緊張がゆるむ。さぞや布教のため雄弁をふるいたかっただろうが満足に信者とも接触できず、沈黙を強いられる。苦悶する信者の姿を見ながら祈ることしかできない。信者を救うため日本に来たのに、司祭である自分がいることで迫害が強化され信者がより苦しむことになる。よるべないロドリゴはキリストの姿を思い浮かべ、黙想を深めていく。

 苦悩をかかえたロドリゴの沈黙は穏やかさとはほど遠い。なぜあなたは信者を救わないのか。ロドリゴは激しく神に問いかける。キリストの生涯を思い、黙考を重ねる。皮肉なことに、内にこもるロドリゴの悩みを解いたのは、外から聞こえてきたある音だった。黙想の邪魔となる音に彼は苛立つが、その正体をフェレイラに教えられたとき、司祭として、キリスト教徒として、この地で誠実であるため何をすべきか悟る。そのあとは一切の釈明をせずに沈黙を守った。

 他方、拷問が怖くて転んだキチジローは卑小なお調子者として描かれている。はじめは信者であることを拒否していたのに、ロドリゴとの出会いから彼は変わっていく。信者であることをロドリゴのいる牢屋でも口にするし、隠そうとしなくなった。暴力が怖くて役人に脅かされればすぐに踏絵を踏むけれど、信者でいようともがきつづける。何度転んでも、周囲の信者から冷たい視線を向けられようと、ロドリゴに煙たがられてもキリスト教との縁を切ろうとしない。赦しをもとめロドリゴを追いかけまわす。「パードレ、聞いてつかわさい。告悔と思うてな、聞いてつかわさい」キチジローを軽蔑していたロドリゴも、そのしつこさに音を上げて、罪を赦す告悔の祈りを唱えてやる。そして転びつづけたキチジローは生き残った。彼の生き方を卑劣だと非難することは簡単だ。だが、自分の弱さを全面的に認めて、大切なものにしがみつづけたキチジローは心強き者なのではないか。作者が彼に注ぐ目は優しく、キチジローが踏絵について吐き捨てるように言った言葉こそ、本書のテーマに直結することが最後まで読めばわかる仕組みになっている。

 凄惨な拷問がおこなわれるなか、自らの信仰をまもるため人々が沈黙していた時代。息をひそめ子孫に信仰を伝えていった隠れキリシタンもいれば、信仰に忠実でいるため沈黙を選んだ司祭もいれば、沈黙を捨てた漁師もいた。

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紙の本

紙の本3・15卒業闘争

2012/01/16 22:40

ラス・マンチャスふたたび?

2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。

 ファンタジーノベル大賞を受賞したデビュー作『ラス・マンチャス通信』以来、設定を変えながら、自分のアイデンティティに確信をもてない人物を多く描いてきた平山瑞穂。その作品の表立った筋は恋愛小説だったり、青春小説だったりするが、背後にはファンタジー、SF、ミステリの要素がそこかしこに織り込まれており、一筋縄ではいかない作品を発表しつづけている作家だ。彼が「たぶん僕にしか書けない」と自負する本書は、やむを得ず知的障害者の兄を殺して家族から捨てられ、世間をさまよう主人公を描いた幻想小説『ラス・マンチャス通信』がそうだったように、エロ、グロ、暴力の散りばめられた黒い小説という趣向をこらしつつ、主人公の「成長」をつづっていく。
 本書の主人公は中学二年生。異性への関心が高く、学校に気になる女学生がいるものの、どうアプローチしていいかわからない。勉強はそこそこにこなし、クラブはバレー部に入っていて、先輩に頭があがらない。今朝一番の心配事は遅刻だった。こう書くとふつうの学園小説のようだが、学校近くの歩道には棺桶がいくつか常備されており、ときどき教室に乱入してくる殺人鬼が生徒を殺す。生徒の年齢はさまざま。十四歳の生徒もいれば、三十歳の主人公より年上の中高年の生徒もいる。どうやら戦争中であるらしいこの社会の規律は厳しく、「不適格者」には社会的な抹殺が待っている。そうした不名誉な烙印を押されないためにも生徒たちは学校に通う。ただし、もう何年も卒業生は出ていないらしい。こうした状況に苛立つ有志生徒が結成した「卒業準備委員会」に主人公は加わり、学校側との抗争に突入していく。
 あらすじ紹介で「らしい」を連発しなければならず、舞台からして「あらためて考えてみたことはないが、たぶん中学校なのだと思う」と説明されるように、どこか現実感が希薄、不可解さがそこかしこにあふれる作品世界で目立つのは主人公の幼さだ。「大人ならば」「大人になるとは」など大人との距離を繰り返し強調、小遣い稼ぎに会社興しを思いついたものの、やることと言えばテレビドラマに出てくる会社を再現するべくグラフを壁に貼るぐらい、戦争中なのに相手国がどこだかわからず、卑猥な本やビデオに夢中になっている。三十歳とは思えないほど幼くて頼りない。大切なことほど思い出せない記憶のあいまいさも、その頼りなさを増幅する。
 他方で、「若い奴のなけなしの面子を守ってやろうという年長者としての余裕」「大学を出たてくらいの女の声」「いかがなものか」など、中学生らしからぬ表現が出てくる。さらりと書かれてはいるが、生命保険会社の名前を見て「生命」と「会社」の結びつきがミスマッチだという感想にどきりとさせられると同時に、主人公には社会人体験があるのではないか、意識的であるにせよ、無意識であるにせよ、幼さは演出されたものではないかという疑問が生じてくる。
 少なくとも幼さを装うことは主人公に有利に働く。戦争をやっていても、殺人鬼が定期的に襲ってきても、子どもであれば受け身をつらぬくことへの言い訳が成立する。さらに三十歳で中学校に在籍する正当性を勝ち取る道も開けてくる。最後に明かされるが、主人公にはそうまでして中学校にこだわる理由があるのだ。卒業生を出さず、進学や就職が取りざたされない学校、市民があまり意識していないらしい戦争を挙行し、敵の姿の見えない戦場に兵士を送り出す軍隊。両方ともその存在意義を疑いたくなるくらい社会での影が薄い。こうした組織が機能している社会はどこに存在するのか。その答と主人公の幼さはリンクしている。
 保護される立場を捨て、命令されたり、周囲の状況に流されたりもせず、主人公が行動をおこす最後がいい。なぜ中学校にこだわったのか明らかになり、本当に大切なものは何か、取捨選択を迫られる。そこに成長がある。ぼやけていた記憶がぶれのない像を結ぶ決断の瞬間が鮮烈だ。
 ここから先は本書を読み終わった方、しかも「深読み」を楽しみたい方に向けた情報となる。題名にある三月十五日、その日に学校を卒業する人もいるだろうが、「ブルータス、お前もか」と叫んで殺された人もいる。その人の名前はジュリアス・シーザー。彼がどんな形で殺されたか、その後ローマで政治がどう動いたのか、歴史のヒントをもとに本書を読みなおすと、いま一度めくるめく思いが味わえる。

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