紙の本
柴田氏の翻訳だから、信頼できます
2019/03/08 22:17
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
「だが僕の頭はいつも、ひとつの空白を浮かび上がらせるだけだった。せいぜい出てくるとしても、あるごく貧しい情景にすぎなかった―鍵のかかったドア、それだけだった。ファンショーは一人でその部屋の中にいて、神秘的な孤独に耐えている。おそらくは生きていて、おそらくは息をしていて、神のみぞ知る夢を夢見ている。いまや僕は理解した。この部屋が僕の頭蓋骨の内側にあるということえを」と「僕」は独白する。だとすると、ファンショーとは何者なのだろう、「僕」の幻影なのか、ひょっとするち「僕」そのものなのかもしれない。じゃあソフィーとは何者なのか、と考えていくと面白くなってくる、ミステリアスな作品だけど、ミステリーではないオースターにしか書けない作品としか言えない
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完成度の高い佳作
2002/06/02 22:26
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投稿者:ひろぐう - この投稿者のレビュー一覧を見る
ニューヨーク三部作の中では最も小説らしい小説。この作で初めて物語は「僕」という一人称で語られます。また、人物描写や行動もより普通小説に近いものです。幼い頃からの親友の妻から、夫が失踪したという知らせを受けた「僕」は、彼が残した膨大な原稿を出版する決心をする。親友は死んだものとみなされ、「僕」は彼の妻と恋に落ちて結婚するが、しだいに「僕」と「彼」とのアイデンティティが交錯していき…。というストーリーで、テーマは前二作を踏襲するものになっています。主人公の「僕」は物語の中で『ガラスの街』『幽霊たち』という本を出しているので、作者の分身でもあります。また「彼」も大学で学んだ後に船員となり、フランスに渡って職を転々とするというオースター自身の経歴と共通しています。そういうドッペルゲンガー的なキャラクタを巧妙に配して、自己の存在・実存とは何かという魅力的なテーマをリーダブルなお話に仕立てた佳品だと思います。この三部作は「ホップ」「ステップ」「ジャンプ」または「起」「承」「転結」というような関係になっているという印象で、書かれた順番に読むとより一層楽しめると思います。
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書くことは何かの謎
2022/09/26 01:39
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投稿者:une femme - この投稿者のレビュー一覧を見る
物語を書いた作家に関わった人たちの話とも言えるけれど、その話が、入り組んでいて、特異なのである。
語り手である主人公が、夢を半ば諦めかけた、普通の感覚を持った、中年の男性ゆえか、奇妙ではあるが、起こり得るであろうと感じさせる語りに、引き込まれていく。一方で、主人公の後悔をない混ぜにした内省に、考えや推測を触発させられる。
読み進めるほど、目が離せなくなる面白さがある。
次第に、主人公が、予期せぬ不穏な流れにすぶすぶと入り込んでいくにつれて、読むのが辛くて恐ろしいほどになる。
物語の最後の場面をどう解釈したらよいのか、謎が残った。主人公は、日常に戻り、幸せな毎日を送っていることが示されていることからすると、決着をつけたということなのだろう。
書くこととは何だろうと、また、書く人とは何だろうと、物語を通して、問いかけられているように思った。
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ポール・オースターNY三部作の第3作。
このNY3部作で一番エキサイティングな作品。
自分を失わないように。
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NY三部作のひとつ。
主人公が、不在の人物をめぐる依頼を引き受ける、というパターンである。
ラストシーンは印象的だった。
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ニューヨーク三部作の第三作。存在を否定したファンショーを追い求めて、最後にファンショーの鍵のかかった部屋に引き寄せられていく主人公。追い求め過ぎて自分のアイデンティティが崩壊しそうになる。ニューヨーク三部作はそれぞれリンクしているので、順番にそって読むことをお勧めします。
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書店での見つけやすさの順だったような気がするが、
三部作を順番どおり読めてよかった。
他人と自分と社会と思考と見失いながら、気がつきながら。
ラストの行動は、ある意味決別?別の選択?
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PaulAusterのNY三部作、ラストの第三作目。三部作の順番を知らずにこの本から読み始めてしまった私は、一気に彼の魅力のとりこになってしまった。すばらしい。三部作のラストにふさわしい最高傑作。
追いかける方と追いかけられる方。あなたは、どちらですか?
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内容(出版社/著者からの内容紹介より)
幼なじみのファンショーが、美しい妻と小説の原稿を残して失踪した。不思議な雰囲気をたたえたこの小説の出版に協力するうちに、「僕」は残された妻ソフィーを愛するようになる。だがある日、「僕」のもとにファンショーから一通の手紙が届く――「優雅なる前衛」オースター、待望のUブックス化。
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透明な水の中にとても強い色の色水が一滴ぽとりと落とされる。みるみるうちに水面に波紋は拡がり、透明な水の中を色が生き物のように伸びて行く。波紋はへりにぶつかって反射し、増幅され、打ち消し合う。色水の持つ色素は引き伸ばされ、薄められはするのだが、不思議な模様を作り出し、虹色の様に一色にとどまらない。ひとしきりその変化を楽しんでいると、ふっと水面は既に収まっており、不思議と水の色も再び無色透明に帰っていることに気づかされる。ポール・オースターの小説にはそのような、驚きに満ちた仕掛けがある。手品師が宙から取り出した小さな箱を開くと、そこから予想だにしなかったものが次々と飛び出してくるような印象があるのだ。しかし最後には小箱から飛び出して来たものは、出て来たものの中に消えて戻り、小箱もやがて宙に消える。その展開が見事である。
一人の評論家のもとに、昔の親友の妻と名乗る人物から会って話ができないかという内容の手紙が届く。かつての親友は失踪し、どうやら死んだらしい。その妻は、夫の残した原稿を整理して欲しいと依頼するのだ。原稿の価値を認めた編集者は、同時に未亡人にも惹かれ、原稿の取り扱いについての義務を果たすと彼女に結婚を申し込む。これだけでも十分波乱万丈な物語が描けそうなものだが、これはあくまで物語の始まりに過ぎないのだ。
評論家である「僕」には名前が付けられていない。「僕」の友達はファンショーという。ファンショーは何をやらせても一流という、ちょっと信じられないような男だ。二人は一週間と違わず生まれ、垣根のない隣合った二軒の家の間で家族同様に仲良く育つ。高校を卒業したきり音信不通となるが、この物語の始まりに至って二人の道は不思議な交差に至るのだ。出版された本が好評を博すと、突然ファンショーからの手紙が届き生きていることが知らされる。しかも自分は死んだものと思ってくれという。「僕」は悩んだ末、ファンショーの伝記を書くという口実を手に入れ、彼の行方を追う。
ファンショーを巡る話の筋だけを追ってもこの物語が大仕掛けのエンターテイメントに溢れた物語であるのは明白なのだけれど、この「僕」に名前がないことが実はとても意味を持っていることが徐々に解ってくる。物語の焦点は謎の人物ファンショーを追っている様でいて、実は、僕の内面へ内面へと降りていくことの方が主流らしいと気づくのだ。読者は「僕」という目の前いるモノローグの語り手を常に見つめていながら、その実態が実在のものなかかどうかの判断すらつきかねる錯覚に陥ってしまう。名前がない、ということが実に上手く使われている。ファンショーの家族や、彼の妻、そして「僕」の知らなかったファンショーの知り合いなど、他人に対しては丁寧な人物描写がなされていく中で、「僕」の実態はようとして知れない。そして「僕」は追い詰めていたつもりの人物に逆に精神的に追い詰められてしまう。
カメラのファインダーを覗くと一人の人物が映っている。焦点の合わないその像がファンショーなのだと思って懸命にピントを合わせようとすると、像は二重になったりぼやけたりする。ようやく像の焦点が合ってき��とみるや、そこにある顔はどこかで見た顔だ。余りによく見た顔なのだがどこか細部が異なっている。それは鏡に映った自分の顔が、裏返しになった顔なのだ。さては「僕」というのは実はファンショーであって、これまで語られた「僕」なる人物はファンショーのドッペルゲンガーなのではないか、と一瞬そう見破った気分になる。しかし倍率をあげてみるとそれはやはり「僕」ではない。その事実に気づいた「僕」はようやく追い詰められたものから解放され、今や自分の妻となったソフィーの元に戻ることができる。
そこで終わってもよいのだけれど、いつも気前の良いポール・オースターはもう一つその先のドンデン返しを用意している。本当にサービス精神旺盛な作家であると思う。その付け加わったエピソードによってようやくタイトルの意味するものが直接的に読者に示され、「僕」と共にファンショー捜しに付き合った読者にも、ふっと安堵のため息を吐かせる展開になっている。なってはいるのだけれど、実はタイトルのいう「鍵のかかった部屋」は、ここにも、そこにも、あそこにも存在していたのだ、ということも、また、じんわりと理解されもするのである。それは、子供の頃大事にしていたテレビの箱のことであり、ファンショーとソフィーのアパートにあった原稿の詰まった部屋のことであり、貨物船の客室のことであり、パリ郊外の別荘のことであり、そして「僕」の仕事部屋のことでもあったのだ。そこにファンショーは囚われたように存在し続け、「僕」もまた囚われてしまっていたのだ。
そして最後の「鍵のかかった部屋」だけは、気前の良いポール・オースターも読者に見せようとはしない。そのことは、どこかしらこのエンターテイメントの中にオースター自身の自伝的要素があるのではないかと勘繰らせる疑惑の種にもなっている。この作品は「ガラスの街」「幽霊」と合わせてニューヨーク三部作と呼ばれているらしいが、その二つの本のタイトルも唐突に登場し、「僕」にとって、この本がそれら二つの作品と同じ物語なのだと「僕」が語る場面が登場し、さては「僕」というのはポール・オースターのことだったのか、と思ったりもするわけだ。さらに、「僕」とソフィーの間にできた子供の名前が「ポール」だという。さては、と再び思うのだ。
しかし、ポール・オースターは空蝉の術が得意である。この人物はあの時の彼だったのか、などと思った瞬間にその人物の実態は失せ、後には手裏剣の刺さった木が残るばかりなのだ。
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授業で英訳した時には何なのこのわけのわからない比喩は、などと思ったものが、柴田元幸氏の訳で「掛け値なしに」おもしろくなっている不思議。
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ニューヨーク三部作(といっても連作ではないからどれから読んでもいい)の最後にあたる作品で、不在の人物を巡る依頼を主人公が受けるというところから始まる。小説を残して消えた友人を探す「僕」の話。作中の孤独に幽霊を追い求め自己を見失う姿が、書くという行為自体そのものだというメタ的な構造をしている気がしました。ポールオースターは書くという行為、読むという行為自体について考えるところから小説を始めた人のように思える。ニューヨーク三部作の締めくくりで、その問題をひとまず解決したように感じた。この本はきっと僕のために書かれた本だな、などと思い上がれるほどは傾倒しないが、凄い刺激をうけました。
また村上春樹がこの話の一節を「風の歌を聞け」で借りてる場所があった。読んでたんだなと思った。
「翻訳される前に発掘してちょっとパクる」と「長いこと絶版になってる本から言い回しを変えてちょっとパクる」は合法的なテクニックだと思う。
何よりも柴田元幸の翻訳がいい、オースターの作品が日本で受け入れられてるのは訳が優れてるからだと思う。海外文学っていうのは一度訳者のフィルターを通してるわけだから、本当はこういうニュアンスなんだろうなと翻訳を通して原文を予想するのが翻訳ものを読む上での喜びの一つなんですが、柴田元幸の訳はその作家やその国の文学研究者がするような堅い訳ではなく、読ませる訳しかたをしてるからそういうの考えずに読める、それはそれでいいと思う。
優れた作家に出会うとその作家の小説以外のものエッセイとかが読みたくなる。オースターのエッセイが数冊あるようなのでそれも読みたいと思う。
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■後半の失速がもったいない
主人公の「僕」が、疎遠になっていた旧友ファンショーの妻、ソフィーから突然、呼び出されるところから物語は始まる。ファンショーは失踪し、生死も分からないという。「僕」はソフィーからファンショーが残していった「遺作」ともいうべき原稿を預かり、その後の処理を任されることに……。
ある日届いた、ファンショーからと思われる、差出人不明の手紙がきっかけとなり、「僕」は彼の行方を追うことになる。まさに、先にぐいぐいと読み進めさせる探偵小説風の展開だ。ファンショーを失い、傷心だったソフィーとのロマンスも盛り込まれ、二人の関係がどのようになるのかにも興味津津。また、この先、彼らの不幸を案じさせるような表現が複数散りばめられ、言いようのない不安にも襲われる。
しかし、このドキドキ感、不安感も中半まで。ネタバレになるので詳しくは書かないが、個人的には、後半の首を傾げたくなるような展開は、とても残念に思える。この後半は、もう少し複数のエピソードを盛り込むなどして、展開に性急な感を持たせないように、厚みを持たせて良かったのではないだろうか。
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緊張感溢れる展開で一気に読み終わりました。
ラストに衝撃です。
何回でも読み直したい作品です。
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NY三部作第三弾。小道具や登場人物の名がこれまでの二作とリンクしてはいるが、物語的には連作ではない。“非在”の存在を追う構成は前二作と重なるものの、完全に主人公自らも失われる一作目、漠然とした出口は見えるがやはり主人公が消えて終わる二作目に比べると、三作目はもっと積極的な事態の解決が図られている。さらに非在のはずの人物が立ち現れる展開、そして非在者が主人公にとって赤の他人ではないということも前二作との大きな違いなのかも。
「他人の中に入っていける人間などいはしない……自分自身に到達できる人間などいない」鍵のかかった部屋の中に誰がいるのか、扉が開かない限り分かりはしない。部屋の扉は鍵で閉ざされ、そしてそれは自らを他者から隔て「部屋」を構築した本人にさえ開けられない鍵なのだ。けれど、「自分と自分でないものとのあいだにある」「僕の真の場」を見失わず、鍵のかかった部屋の外に自分の居場所を見つけた者は、扉を開け放さずとも世界と繋がっていける。部屋は世界の全てではなく、世界は鍵のかかった部屋には収まりはしない。
入れ子形式の物語、その入れ子の外側にある現実が曖昧だった前二作とは異なり、「鍵のかかった部屋」を入れ子形式で包み込む現実は、明朗で健やかな輝きに満ちている。顔の見えない他者の中で自らの顔も失っていく前二作の主人公たち――今作の主人公はイニシエーションを経て、鍵のかかった部屋の中に在る非在の男と決別し、顔のある一人前の男として甦る。靄が立ち込める「鍵のかかった」NYから、三作を経て晴れやかに抜け出すゴールが見えてくる一作。