紙の本
ゴジラの世界を越え、ナウシカの世界を生きる。
2016/02/21 20:59
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投稿者:銀の皿 - この投稿者のレビュー一覧を見る
東日本大震災を東京で体験した著者。呆然とした時間の後にやったことがパソコンで映画『ゴジラ』とアニメ『風の谷のナウシカ』を見ることだった、というところから本書は始まる。震災、特に原子力発電所の事故から考えさせられたことは科学技術のありかたである、というのはかなりの人に共通することであろう。本書もそこにつながっていく。
既出の文章などをまとめた部分が多く、内容も『ゴジラ』についての考察が多い。(正直なかなかナウシカまでつながらないので読んでいて少々焦った)。しかし、著者の言いたいことはよく伝わってくる。『ゴジラ』や『風の谷のナウシカ』、さらには『グスコーブドリの伝記』まで引用されてるのだが、ストーリーを知らなくても大丈夫。著者は丁寧に物語を追いながら思考を綴ってくれる。
『ゴジラ』が第五福竜丸や戦争の犠牲者への思いを秘めた作品であることはよく言われることでもある。最後には新しい科学力で葬られるゴジラ。そこにはまだ「科学でなんとかなる」という考えがあったとと著者は分析する。では『ナウシカ』は。科学で破壊された世界は科学の遺物である「巨神兵」では制御できない。アニメ版では若干違和感を残した終わり方をしたと著者は思い、漫画版についても言及をし「人間が火を手にしたことに潜む原罪」にまで考えを広げていく。
「ゴジラ」や「ナウシカ」に対する著者の解釈は、原作者の意図したものではないかもしれない。描かれたものとは、そういうものだ。独り歩きもする。それでも、新たな考えを引き出したり、展開させたりする刺激になるというだけでも、たかが映画、たかが漫画と言えない役割がそこにあるという価値を証明してくれている。
本書での考察はまだ完結しているわけではない。本書のあとがきの日付は2014年7月28日。ハリウッド版「ゴジラ」を見ての感想を含めて書かれていいる。ナウシカについても、特に漫画版の評などはまだ未完であるようなので、再度(いや何度でも)考察して著して欲しいと思う。
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みちのくのゴジラ論
2019/12/20 18:37
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投稿者:名取の姫小松 - この投稿者のレビュー一覧を見る
ゴジラやナウシカから民俗学を論ずるというより、東日本大震災後の心理をゴジラに仮託して語っている印象。荒ぶる神であるゴジラ、清濁併せて受け入れると悟るナウシカ。心の整理が足りず、語り足りないよう。
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「怪獣は異界からの訪れ人である。異界にたいする豊かな感受性と想像力を背景とすることなしには、怪獣は誕生せず、その物語が大衆的に受容されることもない。昭和30年代の後半からはじまった高度経済成長期という名の、日本列島の根底からの変容と崩壊の季節のなかで、怪獣を分泌するに足る想像力の源泉としての異界とその闇は、列島の内部から根こそぎに失われていった。もはや列島はみずからの内部から、異形の愛すべき怪獣を産む力も根拠も失ったのである」 面白く真摯な考察。
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2014.11記。
「ゴジラ」の意味について:赤坂憲雄氏の見解
核実験によって眠りを覚まされたゴジラ。南の海から東京に上陸し、破壊の限りを尽くし去っていく。著者はそこに南洋に散った多くの日本兵の英霊を見ている。
ゴジラ第一作の公開は1954年、この年の人々にとって、「南の海から舞い戻り自分たちに怒りをぶつける存在」として、多くの戦死者たちはリアルそのものだった。「海の彼方より訪れしものたち」を巡る、沖縄伝承や遠野物語といった民俗学的知識を動員しての考察は興味深い。ゴジラを単なる「反核兵器」のアイコンとみるのは一面的にすぎることが理解できる。
実は三島由紀夫はゴジラを高く評価していたそうで、著者の推測も含めて言えば、彼の作品「英霊の声」にはゴジラと符合するとも思われる部分がある。「この日本をめぐる海には、なほ血が経めぐってゐる。・・・月夜の海上に、われらはありありと見る。・・・赤い潮は唸り、喚び、猛き獣のごとくこの小さい島国のまわりを彷徨し、悲しげに吼える姿を。」三島由紀夫が単なる軍国礼賛主義者などではないことがよくわかる。
日本人であれば、無念を晴らすために荒ぶる神になった尊い存在をいくつも知っている(菅原道真しかり、崇徳上皇しかり)。ゴジラも同様に祈りの対象だった、という解釈は可能に思えた。
ちなみに我々の世代であれば、初代ウルトラマンにおける名作怪獣「ジャミラ」を思い出さずにはいられない。惑星探査に派遣されながら事故に合い見捨てられた元宇宙飛行士が灼熱の中で怪獣に変異し、地球に舞い戻って復讐する。ウルトラマンの発射する水流によって倒れ、国際会議場の万国旗をなぎ倒しながら死んでいく姿はもはや世代の共通記憶と呼びうる領域に達している。
評論家の加藤典洋氏は「ウルトラセブン」のセブンは、つまり米国第七艦隊を意味している、と指摘した。自国の防衛を「セブン」に依存することへのディレンマを、沖縄出身の脚本家であった金城哲夫氏は題名に込めたのだ、と。ことほどさように、怪獣モノは戦後日本思想史を色濃く反映している。
蛇足だが、赤坂氏と対談している俳優の佐野史郎氏の恐るべき知識量と洞察が圧巻。
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ゴジラは、水爆であり、核であり、第五福竜丸であり、戦死者であり、太平洋戦争であり、文明であり、技術であり、それら全ての象徴として皇居を目指す。
しかし、皇居は不可侵な聖域として破壊しない。
皇居は、いわば森である。
森は、自然であり、聖域であり、神である。
ゴジラは、ゴジラ的なものは、神を侵せない。
ナウシカの森もまた、不可侵である。
火は、森の前に無力であった。
ゴジラもナウシカもただのお話ではない。
物語に包まれずには語れない、生々しい批判がある。
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米アカデミー賞でも評価された、日本発のゴジラとジブリ。そのコンテンツの源流はどこにあるのかを民俗学視点で解き明かした本。
ゴジラが決して侵攻しない場所がある。国会議事堂も東京タワーも破壊したゴジラは、皇居には足を踏み入れない。それはゴジラが太平洋戦争の英霊たちのメタファーであり、またその表現をした瞬間に映画としての評価は地に落ちるからだ。
ナウシカでも行き過ぎた人類科学が崩壊して、そこに自然界が再生していく様子が描かれる。人間はむしろ汚濁を広める存在であり、津波のような王蟲と人身御供として差し出される蒼い衣の少女。清浄なる自然と聖なる犠牲が当たり前のものとして、日本の精神性には対置されているのだ。
大いなる清浄な存在、それは地震であり津波であり、現在進行形で原子力災害に向き合う我々に問いかけられている。無力な人々は、それを讃えやり過ごすことで、やがて豊潤な実りをもたらすことを理解していた。汚濁としての人間社会は、相変わらず混沌と理想に満ちている。自然を制御しようと線形的に進む進歩主義の行く末は、とっくに答えが出ているのかもしれない。