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テクノロジーの可能性を追いつつも、地に足つけようと思わされる(笑)。
論理的に考えていくと「人間とロボットの区別はつかなくなる!」と言える
ような気がしてしまうが、それでも残る違和感ていうのはあるからなあ。
それがなんなのかまだわかってないだけかもしれん。
以下この本の要点と思ったこと。
・人間は閉じたシステムで、かつ時間の流れに抗えない存在であることを見落としてはならない
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請求記号:007ニ
資料番号:020207833
装丁:クラフト・エヴィング商會
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脳の仕組みだけじゃなくて、感情とか肉体までを考慮しないと、人間の行動モデルは作れない、という気付きがあった。企業情報システムの受託ビジネスは、真のIT産業じゃない、というような記述がどこかにあったが、同感。ただ、それ以外のビジネスが儲からなさ過ぎるのは何故か、という点も気になる。
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心とは何であろうか。心とは宙に浮いている抽象的存在ではない。心を支える物質的基盤があるはずだ。
IT革命によって人間は本来もっと自由になり時空に余裕のある生命的環境に近付けるはずなのだった。現在のIT立国の方向は妥当なのだろうか。
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西垣通氏らしく、ITを中心としながら、文理にまたがってわかりやすい展開。目新しさは特にない。いくつか読んだからなあ。
むしろ、政治に関する言及に、僕には未知の発見あり。
世界史を勉強したくなった。
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私というリアルは、閉鎖系、自律的。他と有機的に交わる風なことができる、というのは身体感覚や器のような場所があるから。
生きてるうちに情報学的転回というものがあるのかな、ソシュールは転回させようと思って構造主義を…?
20Cのはじめと今。思うことは、ソクラテス強い。
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読み途中。
難易度としてはやや難しめ。
ネットだけではなくその根底となる自己についてなどやや哲学的な話も。
ジャンルが広いので参考になると思います
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今、自分が漠然と感じていたことを、きれいに問題として整理してくれた。
最初のあたりこそ、ところどころ「おいおい、それは論証不足じゃないかね?」と突っ込みたくなる部分が何カ所かあったが、後半はぐいぐいと立証していく。つまり、あたらしいかたちでのコンピューター(めメディア?)と人間の関係。右脳=感情を支える技術、副題の「生きるための情報学」の模索。
・数値比較できない「私」をのばしていくのが、本来の教育ではないのか。
・身体が感情の原器。
・ノイマンとウィーナーの晩年。
◎身体をつかって生きるという行為そのものが、世界の創出につながるのである。
・生命情報、社会情報、機械情報。
・人間とはコミュニティへの身体的共感なしには、生きてはいけない生物だ。
・声は時間とともに流れ消えていくが、文章命題の論理はある一時点で、いわば空間的に成立するものだ。
・ITは逆に身体性の回復のために用いられなくてはならないのだ。
・人間を機械部品化するITではなく、人間の身体や心をやさしくつつんでくれるITが必要なのだ。
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(2012.10.08読了)(2012.07.24購入)
副題「生きるための情報学」
ソーシャルゲームにのめり込んで大金をつぎ込んでしまっているとか。長時間やり続けて生活のリズムが崩れているとか。問題視されています。
ネット社会に生きがいを見つけ、実社会での生活ができない人たちが出てきているようです。
著者は、体あってのこころなので、純粋にコンピュータ上に心だけをつくりあげるのは、不可能と言っているように思えました。(読み間違い?)
著者の結論は、以下のようです。
「身体性とコミュニティの回復が、情報社会の未来をひらくのである。」(157頁)
【目次】
第1章 ITが私を壊す?
1 私にとってのリアル
2 デジタル・ニヒリズム
第2章 生きることは創りだすこと
1 心と脳とコンピュータ
2 情報処理機械としての私
3 心はなぜ閉じているの?
第3章 未来のネット
1 自由平等という落とし穴
2 タイプⅢコンピュータとは
あとがき
参考文献
●脳が心をつくる?(26頁)
近年の脳科学や認知科学の研究によって、古典的な人工知能の発想には大きな不備があることが明らかになった。なぜならまず、心をつくっているのは脳だけでなく、内臓や筋肉骨格を含む身体全体だからである。
●自己(28頁)
「私(自己)」という存在は、少なくとも二種類に大別できると考えられる。第一は「言語的自己」であり、第二は「身体的自己」である。
言語的自己とは、意識的な存在だ。
一方、身体的自己とは、半ば無意識的な存在だ。
私(自己)という存在は実は、言語的自己と身体的自己とが緊密に統合された複合体である。どちらが欠けても完全とは言えない。そこに私だけの「リアル」が生まれるのだ。
●感情(71頁)
古い人工知能の理論では、脳で感情が発生し、それが身体に伝わると考えられていた。しかし、最近の脳科学研究はむしろ、身体が感情の原器であるとみなしている。「怖い」から脚がふるえるのではなく、まず全身の身体的反応があり、その結果を「怖い」と言語的に表現しているのである。
●客観的世界はある?(77頁)
個人ごとに興味も異なり、見ている主観的世界は違うし、犬や猫はまた別の世界に住んでいるだろう。観察者によって世界は異なる。
●言語、文化の優劣(136頁)
人間の思考は言語に依存している。英米人は英語でものを考えるし、日本人はどうしても日本語の概念から抜け切れない。一九世紀まで、近代化に先んじた西欧諸国では、英語、フランス語、ドイツ語などがアジア・アフリカ諸言語より優れており、一層正確に世界を記述できると考えられていた。
しかし、ソシュール言語学は言語の間に優劣はないと主張する。これを受けて、文化人類学者クロード・レヴィ=ストロースは、諸民族の文化の間にも優劣はなく、それぞれが相対的な価値をもつという構造主義人類学を提唱した。
●ノイマンとウィーナー(156頁)
ITに基づく二〇世紀情報社会の方向性は、どこか誤っていたと言わざるを得ない。この問題は、フォン・ノイマンとウィーナーとの方向性の違いを比較すればはっきりわかる。
☆西垣通さんの本(既読)
「インターネット社会の正しい読み方」牧野昇・西垣通著、PHP研究所、1996.11.07
「デジタル・ナルシス」西垣通著、岩波・同時代、1997.01.14
「メディアの森」西垣通著、朝日新聞社、1998.10.30
「こころの情報学」西垣通著、ちくま新書、1999.06.20
「刺客の青い花」西垣通著、河出書房新社、2000.11.20
「IT革命」西垣通著、岩波新書、2001.05.18
「1492年のマリア」西垣通著、講談社、2002.07.05
「アメリカの階梯」西垣通著、講談社、2004.09.07
(2012年10月10日・記)
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ネットとリアルのあいだ―生きるための情報学 ネット時代のなかでウツ気分な人のために書かれた本らしい。大部分は哲学的な内容。最終的に言いたいことは、感性情報のコンピュータがでてくるだろうということ。 http://bit.ly/cYIN0n
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人間の心を機械で作る試みはまだ発展途上で、失敗の原因は言語的自己ばかりを求め、身体的自己を蔑ろにしているからである。
心のはオートポイエティック・システム(自己創造)である。
インターネット(殊バーチャルリアリティ)の問題は、人間の知覚(嗅覚や触覚や味覚)を使っていないことである。主に言語脳しか使わないため、所謂ネトゲ廃人は虚無感や虚脱感等の精神疾患になりやすい。
精神よりも肉体に重きを置きましょう、という主張は、甲野善紀さん、池谷裕二さんと同じです。頭で考えるより、先に身体を使って行動せよ。これには賛成します。でも日本には余裕がない。だから失敗は許されない。許されないならどこで経験を積むのか。それが今の日本の課題だと思います。失敗をカバーできるように全体でサポートしなければならないのですが、まだまだ環境が整っていません。
喜怒哀楽といった感情ではスムーズな社会運営はできない、だから言語を用いて理性で問題を解決しようとしたのが歴史です。そして再び感情や身体に注目していこうとする最近の流れを見ると、へーゲルの弁証法を思い出します。
Aというテーゼ(言語を用いないで感情や身体を使って生活していた頃。イメージとしては原始時代)から、Bというアンチテーゼ(感情に流されて行動するのは野蛮だ。言葉を用いて理性的に問題を解決しようとする風潮。イメージとしては中世以降か?)へ、そして現在はジンテーゼC(言語中心では心が荒むだけだ。感情や身体にも気を配らなければ)に落ち着いています。弁証法的に見ると、当たり前の流れですね。
やっぱりリアルの世界が充実しないと、人間は腐っていくように思います。いくらバーチャルが良くても、ベースとなるリアルの世界で自己肯定感が無いと、生きる価値が見出だされずに荒廃していきます。
「成功率なんてものはただの目安だ。あとは勇気で補えばいい!」
アニメ「勇者王ガオガイガー」より
この名言が好きです。
本当にその通りなんです。政治も経済も、本当は失敗しちゃいけないのにもかかわらず、失敗しています。一流企業でも不祥事を起こします。
だから完璧じゃなくて良いのです。とりあえず当たってみて、ダメな時はあまり真剣に悩まず、常にポジティブに考えて行動することが大切です。
今の若年層のニートも、著者らしく言えば『言語的自己』ばかり使っているのです。かくいう僕も頭でっかちで(笑)、『僕に足りないのは経験だ!』とは分かっているのですが、新しく就職活動をする勇気がない(ただ今絶賛ニートです笑!)、新しく友達をつくる勇気がない等、ほとほと困り果てています。
ですが、このままでは廃人行きは目に見えています。
感覚の大切さは分かっていますが、それを理解してくれないのが社会です。
「根拠のある自信は、根拠が崩れると自信が無くなるが、根拠のない自信は、崩れることはない!」
こういった、感覚に頼るというのも必要ではないでしょうか。
知的好奇心を満たすものとしては面白いですが、実際問題として、『じゃあネットとリ��ルのあいだに挟まれている私はどうすればいいの?』という疑問には答えてくれません。そういった処方箋を求めている方にはオススメできません。僕の評価はA-にします。
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3つの章に分かれていますが、とくに人間の心は、論理的な推論をおこなう機械として捉えることはできないということを解説している第2章が、興味深く読めました。といっても、すべてが理解できたわけではありませんが、自分なりにまとめると次のようになるかと思います。
生物は、外部からの情報に反応する機械ではなく、身体を通じて生きることで固有の環境世界を創生しているオートポイエーティックなシステムだという考え方が、紹介されます。しかし、オートポイエーティックなシステムは「閉じたシステム」だと考えられています。では、私たちが相互に意思を通じ合っていることは、どのようにして説明されるのでしょうか。この問題について著者は、心とは身体感覚を脳がモニタリングすることで生じるということを手がかりにして、そうした身体のありようを脳がシミュレーションすることで、社会のメンバー相互の「身体的共感」が生じるという考えを提出しています。
そして、意識は3千年前に人間に始めて宿ったとする心理学者ジュリアン・ジェインズの仮説を、そこに接続しようと試みています。ジェインズは、自己意識をもつ前の人類は、「右脳からの幻聴」に従って行動していたと考えます。著者はこれを、群れのメンバーたちが身体的共感によって結ばれているとき、右脳から聞こえてくる「神々の声」によって統制されることとみなそうとするのです。
最後に、こうした身体的な共感をも含み込んだ、新たなコンピュータの可能性について語っています。
やや問題が大きすぎるようにも思いましたが、刺激的な内容の本でした。
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心とは何か。身体性の大切さ。右脳中心から左脳重視の傾向を見なす時期。人間がシステムの中に組み込まれ、取り替え可能なものになってしまっている。デジタルな情報だけが情報だけではない。現代人が鬱な気分になるのは人間の身体と心を軽視している。新しいIT社会をこうちくすることの必要性。
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現代にあるのは物理的な貧しさより、心理的貧しさがある。
脳だけでなく体の反応も大切である。
体の反応無くして感情もあり得ない。
そう考えると体には何も無駄が無いように思える。
難解な部分もあるが情報社会の現代に警鐘を鳴らす良書。人間を機械部品化するITではなく、人間の身体や心をやさしくつつんでくれるようなITが必要なのだ。
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LINEでのやりとりに違和感を覚えて、このモヤモヤの正体をみつけられる本かもと思って図書館で借りた1冊。
実際に読んでみると抽象的な物言いが多くて難しいところが結構あった。
でも、ネットへの疑問の一部が少し解決された気がした。こういう考え方もあるんだなという発見があった。
ただ、ここに書いてあることは理想論であり、具体的な解決策には遠いと感じた。(最近の本ではないからしょうがないところもあるだろし、最近の本でも解決策を明言しているものはなかなか無いとも思う。)