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自己を否定し神に身を委ねるアフォリズムの哲学。それぞれの感情や感性に加えて労働、現代社会(大怪獣)など、同時代に際立っていた哲学上の問題を改めてキリスト教と絡めつつ、教会不在の信仰に置き直す。また読み直したい。
最初の方の章と「愛」「不幸」「矛盾」「美」「注意と意志」あたりを特に。
p112
芸術作品というものは、ただそれらが存在しているという事実だけで、わたしたちを力づけてくれるものだが、そういう芸術作品の与えてくれる慰めとはちがった慰めを、愛する人々に対して要求すること(あるいは、かれらに与えようと望むこと)は、卑劣なわざである。愛し、愛されるということは、互いにこうして存在しているという事実をさらに具体的なものとし、つねに心の目にありありと見えるようにしているということにほかならない。だが、心の目にありありと見えるといっても、それが思考の源泉となるためであって、思考の目標となってはならないのである。
p113
自分自身の目に自分を明瞭にうつし出してみるよりも前に、人から理解されたいと望むのはあやまりである。それは、友情の中に、楽しみを、それも受けるねうちのない楽しみを求めることである。それは、愛よりも何かしらもっと腐敗堕落させるものとなる。あなたは、友情のためにたましいを売り渡そうとするのか。
友情を、というよりも、友情についての夢想を、きっぱりはねのけるすべを学ぼう。友情を望むのは、非常なあやまりである。友情は、芸術や人生がもたらしてくれよろこびと同じ、価なしに与えられるよろこびでなくてはならない。そういう友情を受けるねうちのある者となるために、友情を拒否しなくてはならない。友情は、恩寵の次元に属するものなのだ。
p137
よろこびは、実在感に充ち溢れていることである。
だが、実在感をそのまま維持して、苦しむことの方がもっとよい。悪夢の中に沈むことなく苦しむこと。苦痛が、ある意味ではすっかり外面的なものに、また、ある意味ではすっかり内面的なものになるといい。そのためには、苦痛はただ、感覚の範囲内にだけとどまっていなければならない。
p168
もし引き上げてもらえたのなら、そのものは実在するのである。想像上のものはどんなに完全なものであろうと、一ミリメートルすらもわたしを引き上げることはできない。なぜなら、想像上での完全なものは、それを想像しているこのわたしとおのずと同じレベル上にあって、それより高くも低くもないからである。
思考をほこのように方向づけることによって[私よりもさらにすぐれたものに向けていく]与えられる結果は、暗示などとはまったく比較にもならぬものだ。もし毎朝わたしが、「わたしには勇気があるのだ。わたしはこわくないぞ」と自分に言いきかせるとしたら、わたしは本当に勇気のある人間になれるかもしれないが、その勇気というのは、現在の不完全なこのわたしが勇気という名によって思いえがいているようなもの、それゆえに、わたしの不完全さを越えることがないようなものにすぎぬといってよいであろう。それは同じ次元で変化しているにすぎず、次元そのものがかわってはいないのである。
矛盾があることが、基準になる。暗示によっては、互いに相容れないものを自分の手中にもつことはできない。恩寵だけには、それができる。
p200
わたしたちの欲望は、その言いなりにまかせていたらそれこそ限りがないが、それを生じさせるエネルギーの点では限りがある。だから、恩寵の助けを借りて、欲望を抑えつけ、消耗させて行って、ついにはほろぼすこともできる。このことがはっきりと理解できたときから、事実上欲望を屈服させたことになる。ただし、いつも注意をこの真理に向けて離さずにいるならば。
p218
正義。他人とは、その人がすぐそこにいる場合(あるいは、その人のことを考えている場合)に、自分が〈読み〉とっているものとは別なものだということを、つねに認める心がめでいること。でなければ、むしろ、その人は自分が〈読み〉とっているものとは、確かに別なもの、おそらくは全然別なものであることを、その人において〈読み〉とること。
人おのおのは、別なふうに〈読み〉とってほしいと、沈黙のうちに叫んでいる。
p228
からだと道具との関係は、修行しているうちに変わってくる。からだと世界との関係を変えねばならない。
執着から離れるのではない。執着の中身が変わるのだ。すべてのものに執着すること。
あらゆる感覚を通じて、宇宙を感じとること。このとき、それが快楽となるか、苦痛となるかはどうでもよい。永い間会わなかった愛する人とめぐりあって手をにぎりあったとき、きつくにぎられて手が痛かったとしても、それがなんだろう。
苦痛もある段階に達すると、世界がぽろりと落ちてしまう。だが、そのあとでは、安らぎがやってくる。それからまた、激痛がおこるとしても、次にはまた、安らぎがやってくる。もしこのことを知っていれば、この段階がかえって次にくる安らぎへの期待となる。その結果、世界との接触もたち切られずにすむ。
p231
自分の救いを望むのは、まちがっている。エゴイスト的だからというのではない(エゴイストになるのは人間の力でできることではない)。そうではなく、たましいを存在の充実感に、無条件に存在する善に向けないで、個別的で偶然的な単なる可能性に向けることになるからである。
p260
名前は同じであるが、根本的に別々のものである、ふたつの善がある。悪の反対のものとしての善と、絶対的なものとしての善と。
p292
あらゆるかたちの嫌悪は、上昇するための梯子として人間に与えられている、何よりも貴重な悲惨さのひとつである。わたしは、この恵みにたっぷりと十分にあずかっている。
どんな嫌悪をも、自己への嫌悪にかえること……
[...]
労働の霊性。労働を通じて、究極の目的が、打たれたボールのはね返ってくるようにつき戻されてくるさまを、疲労でくたくたになりながら、味わい知ることができる。食べるために働き、働くために食べ……このふたつのうちのひとつを目的とみなしたり、あるいは、ふたつともを別々に切り離して目的としたりするならば、途方にくれるほかはない。サイクルにこそ、真実が含まれている。
p295
労働すること――疲れ果ててしまうのは、物質のように、時間の従属物となってしま��ことだ。思考は、過去にも未来にもすがりつくことをゆるされずに、ただ瞬間から瞬間へと移って行くことを強いられる。それが、服従するということである。
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原書名:Le pesanteur et la grâce. 2.éd
著者:シモーヌ・ヴェイユ(Weil, Simone, 1909-1943、フランス・パリ、哲学)
訳者:田辺保(1930-2008、京都府、フランス文学)
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何か一つの宗教を信じることは他の宗教を否定することになると思っているので、彼女の言う「神」を、真理やら世界やらに言い換えてから読んだ。宗教には明るくないのですが。
最近色々と考え実行してみたりしていることを、彼女も考え実行していたことをちょっと嬉しく思い、彼女がもっと遠いところにいることを目標にこれからも先へ進みたい。
生きるために大切なことを教えてくれる本。
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主人が奴隷を作り奴隷が主人を作るという意味において、ヴェイユはきっと正しさの奴隷だったのだろうと思う。ここまで透徹している人間が生き易いわけはないけれど、この本は私の生き易さの指標になると同時に生きにくさの補強にもなったと思う。
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死後に遺されたノートを編纂して刊行されたもの。編者による長めの解題が巻末に収録されている。
思索の断片に近いメモの集積で、一貫した論文の状態ではないが、逆に生々しい、著者本人の思考を辿るような読み応えがある。書かれた順番に収録されていたらどうなっていたのだろう。
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[ 内容 ]
「重力」に似たものから、どうして免れればよいのか。
―ただ「愚寵」によって、である。
「恩寵は満たすものである。
だが、恩寵をむかえ入れる真空のあるところにしかはって行けない」「そのまえに、すべてをもぎ取られることが必要である。
何かしら絶望的なことが生じなければならない」。
真空状態にまで、すべてをはぎ取られて神を待つ。
苛烈な自己無化への志意に貫かれた独自の思索と、自らに妥協をゆるさぬ実践行為で知られる著者が、1940年から42年、大戦下に流浪の地マルセイユで書きとめた断想集。
死後、ノート(カイエ)の形で残されていた思索群を、G・ティボンが編集して世に問い、大反響を巻き起こしたヴェイユの処女作品集。
[ 目次 ]
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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台北にいる間、ずっと読んでた。
表通りから一本入った滞在先のアパートの部屋で、ずっと読んでた。
台北では、現地人のような凡庸さで生活をした。あさは何も食べず、昼と夜は屋台で適当に済ませた。タクシードライバーは、俺に観光地を勧めたが、打ち解けると、中国人ばかりでうんざりするから観光地へ行かないのは正解だ、と言った。日本はもちろん、冬に行ったオランダにも中国人がたくさんいた。中国が世界を牛耳るまであと何年くらいだろう、と、タクシードライバーに言うと、早くて十年と見てると彼は言った。台北の政治家たちも、外国人に対する規制を緩める気満々なのだそう。中国人が落とす金に期待してるのは、どこも一緒。
世界がどうなろうが知ったこっちゃない。本音を言うと、心の底の底の底では、自分がどうなろうが知ったこっちゃない。俺は阿呆だから、毎日毎日、欲求と達成の間をだらだら歩いていれば大満足で、結婚という名の墓場に入る気はさらさらないし、将来何を仕出かすか判ったもんじゃない子のマネージャーになる気もない。阿呆じゃない男たちは、夫になり、子を育て、妻を愛し、妻を裏切り、妻に裏切られ、それでも死んだら同じ墓に入る【家族】という制度に順応し、ヴェイユなんて読まず、投資信託を勉強し、保険の見直しなどをしながら、日々を過ごしている。正直、大尊敬だ。俺には絶対に出来ない。彼らが地元の同窓会に出席したがる理由が、ぼんやりとだが見えてくる。墓場に届く青春の気配に、誰が抗える?
人生、最高。
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2023/3/5(3回目)
「苦しみがなくなるようにとか、苦しみが少なくなるようにとか求めないこと。そうではなく、苦しみ によって損なわれないようにと求めること」辛くて苦しんでいたときに恩師から言われた言葉
「どうか、わたしは消えて行けますように。今わたしに見られているものが、もはやわたしに見られ るものではなくなることによって、完全に美しくなれますように」この世には究極的な言葉、といったものが存在すると思うが、これはその一つ 本当に眩しくて透きとおっていて信じられないほど美しくて悲しい
「知性は(中略)鋭敏で、尖鋭で、正確で、厳密で、酷薄でなくてはならない」恩師によく似合う言葉
「泣いてはならない、慰めを受けたりしないように」いつもこの言葉を思い出して生きていきたい
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断章集だったのもあって読み終わるのに4ヶ月くらいかかった
自分も、自分の思想も、消えて見えなくなって欲しいと願ったところに彼女らしさを感じる
何かと比較した時の善は社会的な利益しか得ないってところは共感だけど、逆にそうじゃない善なんて僕は出来ない
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なぜ勧められたか覚えてないのだけど、仲の良い友人に「重力と恩寵読んだことある?たぶんすごく共鳴すると思う」的なことを言われたのが今年の初めくらいにあり、たまたま某図書室でも発見して、これは今読むべしということだなと思い、手に取りました。
なんの脚注もないので解釈むっずとなりながらなではあるものの、読み終わりました。
また別の人に、少し前に読んでいた悪徳の栄えとは真逆すぎて面白いですと伝えたら(快楽に対する態度とか)、「両極端すぎるように見えて紙一重なところがありそうじゃない」と言われて、確かに己の中にジュリエットもヴェイユも存在するので、それはあながちそういう側面もあるかもと思っている。基本は私はジュリエット派なのですが笑
重力と恩寵
・たましいの自然な動きはすべて、物質における重力の法則と類似の法則に支配されている。恩寵だけが、そこから除外される。
・ものごとは重力にあい応じて起こってくるものだと、いつも予期していなければならぬ。超自然的なものの介入がないかぎりは。
・ふたつの力が宇宙に君臨している、ー光と重力と。…
・重力には全然かかわりのない動きによって、下降すること…重力は下降させるもので、つばさは上昇させるものだ。つばさの力を二乗してみても、重力がなければ、下降させることができるだろうか。
・創造は、重力の下降運動、恩寵の上昇運動、それに二乗された恩寵の下降運動とからできあがっている。
・恩寵とは、下降運動の法則である。…
最初の数ページ、最初に読んだ時は、?でいっぱいでした笑。
対象なしに望むこと
・だれかを失うとする。その死んだ人、いなくなった人が、架空の実体のない存在になってしまったことがつらく悲しい。だが、その人を慕わしく思う気持ちは、架空のものではない。自分自身の内部へくだって行くこと。そこには、架空のものではない慕わしさの思いが宿っている。…死んだ人が現前するというのは、想像上のことにすぎないが、死んだ人の不在はまさに現実である。その人は、死んでからは、不在というかたちであらわれるのである。
大森荘蔵も『流れとよどみ』で似たようなことを言っていたなあ
脱創造
<脱創造>はヴェイユの独自な造語であるが、創造とは無から有が呼び出されることであるとすれば、いったん存在をゆるされたものが、その存在を否定して、もとの無へと帰って行く動きをこのように名づけているとみてよい。人間の側からみるとき、創造とは、神から存在を奪いとることであったとすれば、創造された性質(被造性)をぬぎ捨てて、完全な無を指向することが<脱創造>ということになる
・死。過去も未来もない。瞬間的な状態。永遠に近づくためには欠かせないもの。
必然と服従
・神との正しい関係とは、観想においては愛であり、行動においては、奴隷の境遇である。このことを混同しないこと。愛をもって観想しながら、奴隷として行動すること…
幻想
・仮象にも、十分すぎるほどの実在性があるが、それはただ仮象としてだけである。仮象以外のものとしては、虚妄にすぎない。
偶像礼拝
・偶像礼拝が生じるのは、絶対的な善を渇望しながらも、超自然的な注意力をもたず、それが育ってくるのをじっと忍耐づよく待てないというところからである。
・人間の思考は、情念や空想や疲労などに引きずられやすく、変化しやすいものである。ところが、実際の活動は、毎日、そして一日のうち何時間も同じようにつづけられて行かねばならない。だから、思考とはかかわりのない、つまり、さまざまな関連をはなれた、活動の動機というものが必要となってくる。これが、偶像である。
愛 神への愛ではなく、肉体的な現世での恋として理解してましたが、好きでした笑
・芸術作品というのは、ただそれらが存在しているという事実だけで、わたしたちを力づけてくれるものだが、そういう芸術作品の与えてくれる慰めとはちがった慰めを、愛する人々に対して要求すること(あるいは、かれらに与えようと望むこと)は、卑劣なわざである。愛し、愛されるということは、互いにこうして存在しているという事実をさらに具体的なものとし、つねに心の目にありありと見えるようにしているということにほかならない。だが、心の目にありありと見えるといっても、それが思考の源泉となるためであって、思考の目標となってはならないのである。理解されたいとねがう気持にむりがないのは、それが自分のためでなく、他人のため、他人のために存在しようとするねがいに発しているからである。
・汚すのは、変化させることであり、触れることである。美しいものとは、変化させようと思うことのできないものである。なにかに対して力をふるうのは、汚すことである。所有するのは、汚すことである。純粋に愛することは、へだたりへの同意である。自分と、愛するものとのあいだにあるへだたりを何より尊重することである。
へだたりへの同意、本当にそうだと思うので。使っていきたいし戒めていきたい。
・…すべて快楽への欲望は、未来に属し、幻想の世界に属している。ひとりの人が存在するようにと望みさえすれば、その人が存在するのだとすれば、このほか、これ以上に何を望むことがあろうか。そのとき愛するその人は、想像の未来におおい包まれていず、裸のままで、現実に存在する。…この意味では、未来を範として考えだされたいつわりの不死性に向けられていなければ、死者にささげられる愛は、完全に純粋である。なぜなら、それは、もはやこれ以上新しいものは何ひとつもたらすことのできない、終了した生をねがい求めることだからである。この死者がかつて存在したことがあればと、わたしたちはねがう。そうすると、その死者は存在したことになる。
偶然 一番共鳴した章
・わたしが愛する存在は、造られたものたちである。かれらは、偶然から生まれた。わたしとかれらとの出会いもまた、偶然である。かれらはいつか死ぬであろう。かれらが考え、感じ、行うことは、限界づけられていて、善と悪とが入りまじっている。このことを、たましいのすべてを尽くして、知った上で、なおかつ、かれらを愛すること。限りあるものを、限りあるものとして、限りなく愛する神にならうこと。
・わたしたちは、どなものでもなにかの価値をもつものが、永遠であればよいのにと思う。
・��らめく星と花ざかりの果樹。どこまでも永久に続いてかわらぬものとこの上なく脆くはかないものとは、ともに永遠の印象をもたらす。
・貴重なものが傷つきやすいのは、ほんとうにいいことなのだ。傷つきやすいということこそ、生存していることのしるしなのだから。
・トロイアの滅亡。花ざかりの果樹から花びらが落ちること。もっとも貴重なものは、生存の中に根を張っていないということを知ること。このことは、ほんとうおにいいことなのだ。どうしてか。たましいを時間の外へと投げだすこと。
注意と意志
・孤独。孤独の価値は、いったいどういうところにあるのか。単なる物質(空、星、月、花の咲いた木などにしても、みんなそうだ)、人間の精神よりは(おそらくは)価値の低いものばかりを前にたたずんでいるにすぎないというのに。その価値は、注意力をはたらかせる可能性が、いっそう多いという点にある。ひとりの人間を前にしても、これと同じ程度に、注意力をはたらかせることができたらよいのだが…
知性と恩寵
・求めるべき対象は、超自然的なものではなく、この世でなくてはなならない。超自然的なものは光である。それを一回の対象にするのは、それを低めることになる。
・世界は、いくつもの意味を含んだひとつの文章である。人は、苦労をしながら、意味をひとつひとつつかまえて行くのだ。…
宇宙の意味
・宇宙全体とわたしのからだとの関係が、盲人の杖とその杖をもつ手との関係とを同じようなさまになってほしい。…自分と世界との関係を変えて行くこと。ちょうど、修業によって職人が自分と道具との関係を変えて行くように。怪我をすること、それは、職業がからだにくいこむということなのだ。苦しみのたびごとに、宇宙がからだの中にくいこんでくるように。
習慣、熟練、意識が今持つからだとちがう対象の中に移って行くこと。その対象が、宇宙であるように。季節、太陽、星などであるように。…
美
・美しいものには、相反するもののさまざまな一致が含まれているのだが、とくに瞬間的なものと永遠なものとの一致が秘められている。
・美しいものは、官能に訴えかけるもので、そこには人を遠くへおしやり、あきらめさせるような力が含まれている。心のもっとも奥深くでのあきらめ、想像力すらも捨てさせてしまうようなものが、その中にはある。これがほかの欲望の対象なら、どんなものでも食べてしまいたいと思う。美しいものは、欲望の対象とはなるが、食べようとは思わない。わたしたちは、それがそのままそうあってほしいと望むのだ。
ヴェイユがここまで神を信じること、特にキリスト、に関してはやはり不思議というか全然納得できないのだけれど、言いたいことはまあわかる、という感じである。
こんなにも自分を無へとストイックに追い込んでいくことは私には到底できないし、その発想もなかった。面白い1冊であった。またいつかで会うだろうか。
そして彼女もギーターを何回か引用しているのが面白かった。