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読者がせっかくたてた仮説を3回くらいひっくり返してくれる
上巻よりはるかに読みやすいのは推理をとく部分が多いからだろーカ
最後の数ページは秀逸
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ドグラ・マグラ下巻。
夢野久作の代表作。
読めば読むほど、頭がおかしいのはいったい誰なのか分からなくなる。
まず、現実なのか妄想なのか、それさえも。。。
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古文が途中入っていて間が空いてしまった。三大奇書と呼ばれる意味を読み終えて何となくだけど判った気がした。
再読をしようと思う気は起こらないだろうなというのが、現在の感想だ。
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わけがわからない。
作者の言いたいことや、仕掛けは大体全部分かった気がするんだけど、何にも分かってない気もする。
だけど、凄く世界に引き込まれて何回か電車乗り過ごした。
こんなの初めてだ。
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1月16日読了。さまざまな要素のゴッタ煮だった上巻に代わり、殺人事件の犯人(?)・その真相が博士と男性の対談から浮かび上がる・・・とは言え一読しただけでは一体何が真相なのか?何が事実で嘘なのか、混乱させられる。とは言え「探偵小説だ」と言われれば、納得するしかない。昭和怪奇小説的なムードも今読むと新鮮で、楽しめた。
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一体なにがあったらこういうことになってしまうんだろう(褒め言葉)
たしかにミステリ小説を書こうとしていたらしい形跡はあるんですが、読者はもう遠くから見守るしかありません。
そしてこのカバーイラストは天才的すぎます。
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論文以外のところはおもしろかったし、読みやすかった。でも、やっぱりうちにはハードルが高すぎたようで・・論文は一気に飛ばしてしまいました。。。なのに、読了まで2ヶ月。。。かかりすぎました
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上巻に引き続きこちらもオススメです。
一回読み終わった後にもう一回読み返してみると、
色々な点に気付けて、最初読んだときとは違ったものが見えてくると思います
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粘り着く様な濃厚な狂気に、幾度かくらくらとしたが無事に読了した
主人公が何を想うとも考えているともつかず、
その広がり、その深さ、孤独の全てを自覚し
又その全てを忘却出来ぬままに、ひたすら疾走していく描写は
小説を読む人そのものを著者が風刺している様に見える
大好きな場面で、読むと胸がすっとして気持ちいい
読み終えても、そこまで奇書だとは感じることはなかった
むしろ主人公の切実さや、取り巻く人々が放つ人間くささ、危うさは
誰でも持ちうるはずで、そこに理解や親近感がわく
奇書の形を纏った一種変わった群像劇といった印象をおぼろげに持った
久作さんに手招きされたような気がする読者は、おそらく数多いに違いない
(長くなったのであとで割愛して上げ直します、長文すみません)
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「ドグラ・マグラ」は、昭和10年1月、1500枚の書き下ろし作品として自費出版された。<日本一幻魔怪奇の本格探偵小説><日本探偵小説界の最高峰><幻怪、妖麗、グロテスク、エロテイシズムの極>とうたった宣伝文句は、読書会の大きな話題を呼んだが、常人の頭では考えられぬ、余りに奇抜な内容のため、毀誉褒貶が相半ばし、今日にいたるも変わらない。<これを書くために生きてきた>と著者みずから語り、十余年の歳月をかけた推敲によって完成された内容は、狂人の書いた推理小説という、異常な状況設定の中に、著者の思想、知識を集大成する。これを読む者は、一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書。
「これを読む者は、一度は精神に異常をきたすと伝えられる、一大奇書。
」という文句に惹かれて、大学2年の時に初めて読んだ本。その当時、ワタシはこの狂気の世界の虜となり、自分の書く文章一切が夢野久作の独特の文体と化していた。精神に異常はきたさなかったものの、脳髄を揺さぶられたことには間違いない。何が真実で何を信じるべきかわからなくなる、すさまじい影響力を持った、エログロナンセンスの最高傑作。
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探偵!?小説三大奇書の一冊。探偵小説ファンをまことに裏切るであろうこの本。便宜上そーしているだけ。
それよりも、「本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす!!」奇書として有名。
私、モチロン読破しました!!
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65/100 No.82「長門有希の100冊」
んー 難解だー たぶん、何回読んでも難解だろーなー
そういえば、夢でこの本のあらすじをぐるぐる考えてるんですよね。
で、昨夜見た夢が・・
色鮮やかな、熱帯魚が群れをなして泳いでました、それをわたし上から俯瞰して見てるんです。
ものすごく、ピカピカしたウロコがきれいだった。
なんだろー
何かのお告げか?
ちなみにわたし、熱帯魚飼ってるんですけど・・
それとあとひとつ、この表紙がヤバすぎて大衆の面前で読めない、かならずブックカバーをしようー
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最後はかなりの衝撃的事実で終わりました。
終わり方も、『始めに戻る』といった感じで
この本ならではな終わり方です。
もう一度読むとまた違った印象を受けました。
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日本探偵小説三大奇書の一つにして、
『本書を読破した者は、必ず一度は精神に異常を来たす』
とされる夢野久作渾身の怪作。1935年発表。
まるで微分方程式であった。
瞬間から難解な式を取り出して、解を提示したかと思えば、また瞬間へと収束していく。
精神病院に収容された若者。
彼には過去の記憶が存在しない。
それを復旧させようと、学者たちがあの手この手の実験を仕掛ける。
白紙の記憶が次々に書き換えられていく展開は息をつかせぬものがあった。
発見する奇妙な事実、ばらまかれた伏線を、胡散臭い論文を読破・理解することで回収・咀嚼していくのには、頭の体操どころではないカロリーを消費させられた。
キチガイ地獄外道祭文・胎児の夢・アンポンタン・ポカン氏の『脳髄論』・正木博士の遺書・・・
奇抜な論理の数々。理解によって見えてくる真実。
前評判に比べて、よほどしっかりした推理小説だと私は感じた。
人間の精神に迫った600ページに及ぶ重厚な刹那の瞬間、こんなモチーフでモノを書ける人間は他にいないだろう、まさしく奇書である。
(上下巻形式、レビューは上巻の内容も踏まえたものである事を断っておきたい)
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角川文庫版『ドグラ・マグラ 下』は、上巻の後半から始まった正木教授の遺書の続きを載せている。その遺書の中で、正木教授の言葉は次第次第に事件の核心へと迫っていく。福岡県の直方(のうがた)に住む美青年・呉一郎(くれいちろう)は、十八歳で母・千世子(ちせこ)を絞殺したとされ、姪の浜に住む伯母の八代子(やよこ:千世子の姉)に引き取られてからは、二年間無事に過ごしたものの、なおも自らの従妹であり、花嫁でもあるところの呉モヨ子を婚礼の前夜に手にかけてしまう…。(この呉モヨ子については、上巻の最後の部分から下巻の冒頭にかけて、若林教授が仮死状態となっていた彼女を秘かに蘇生させている)
いわゆる、直方事件と姪の浜事件の中心人物が呉一郎なのだが、彼が何故、このような事件を起こし、かつ発狂することになったのか、その暗部が段々と明らかにされていく。いや、違う。呉一郎は殺人事件を起こしたことによって発狂したのではない。発狂したがゆえに、意識の表面に現れ出た心理遺伝の作用によって、彼は二度の殺人事件を起こしたのである。呉一郎の脳髄に強烈な刺激を与え、発狂せしめたものは一体なんであったのか…?その疑問を解くのは、ある一巻の絵巻物である。
正木教授の遺書は、法医学者である若林教授が作成した直方事件と姪の浜事件に関する調査資料をも含んでいるため、読者はそこで事件の詳細を知ることが出来るようになっている。呉一郎自身に対する聞き取り調査書、その伯母・呉八代子に対する聞き取り調査書、豪農として知られる呉家の常雇い農夫・戸倉仙五郎が語る姪の浜事件当夜における目撃談、呉家の菩提寺・青黛山(せいたいざん)如月寺の由来を示す縁起文などなど。そこには、呉家の男達にだけ発症する精神病のことが書かれており、呪わしい血筋の秘密の鍵となる絵巻物の存在が浮き彫りにされる…。
その、呉家に代々伝わる一巻の絵巻物。
それこそは、はるか一千百年前、中国は唐の時代の白皙の若き芸術家・呉青秀(ごせいしゅう)によって描かれた死美人像を収めた巻物だったのである。貞観(じょうがん)の治によって唐帝国が栄えたのも今は昔、呉青秀が生きた時代は、年老いた玄宗が政治に倦み、楊貴妃との愛欲生活に没頭し始めた頃であった。画才によって玄宗の頽廃した生活を諫めたいと考えていた呉青秀は、妻の黛(たい)夫人とともに京師を離れ、人を寄せ付けぬ山にこもって何事かを開始する。それは、黛夫人も合意の上での、凄惨にして究極の画業、すなわち、呉青秀が黛夫人を絞殺し、彼女の遺骸が傷み腐乱していく経過にあわせて、その変容を絵に写し取っていくというものであったのだ。呉青秀はこれにより、どんなに美しい女性も死ねば目を背けたくなるような姿へと変っていくことを玄宗に理解させ、楊貴妃への寵愛を諌止し、国の政治を顧みるように伝えようとしたのである。
九相図(くそうず)というものがある。人間の遺骸が腐乱して白骨化していくまでの九段階を絵にしたもので、呉青秀が描いた巻物は、いわばその九相図に近いのであろう。しかし、彼がこの絵巻物を携えて京師に戻って来ると、時既に遅し、玄宗も寵姫の楊貴妃も安史の乱に巻き込ま���て散り散りになったあとであり、彼が妻を殺してまで行いたかった諫言は、その対象を見失ってしまった。自らの画業と妻の犠牲が無意味となった呉青秀は、とうとう精神に異常をきたし、それを哀れに思った黛夫人の双子の妹・芬(ふん)夫人に導かれて戦乱の唐帝国から逃れ、船上の人となる。芬夫人はその後、義兄の子供を身ごもり、たどり着いた日本の唐津で新たな人生を送るのだが、その呉青秀と芬夫人の子孫が、呉一族となったのである。だが、芬夫人が肌身につけていたその絵巻物は、呉家の男達に将来にわたって暗い影を落とすのだ。呉青秀という、強烈な狂気と偏執性を経験した先祖を持ったが為に、それが心理遺伝として子孫へと伝わり、絵巻物の腐敗した死美人像を見た呉家の男は、必ずといっていいほど発狂するのである。
そんな理由から、そのいわく付きの絵巻物は、呉家の菩提寺・如月寺に深く蔵されていた…はずであった。にもかかわらず、何者かの手によって、それはまたも白日のもとに現れ、呉一郎の目にするところとなったのである…。何故、誰が、その恐ろしい因縁を持つ絵巻物を手中に収め、呉一郎に見せたのか。物語は一挙にその疑問点へと収斂し、九大に収容されている記憶を失った青年も、正木教授が遺したこれらの資料に読み終えたところで、この事件の異常性に改めて戦慄するのである。
しかし、よくまぁ、これだけの事件資料を、自分の小説を成り立たせるためとは云え、夢野久作は各々文体を変え、視点を変え、話者を変えて書き上げたな、と感心して長大息を吐く。ここで読者は、ようやく資料の山から青年同様、解放されることになる。そして………。
「どうだ……読んでしまったか」
若林教授のものではない声に、我々読者はまたしても青年同様、驚かされるであろう。なぜなら、若林教授から一ヶ月前に自殺したと聞かされていたはずの精神病学教授・正木敬之博士その人が、忽然と青年の前に現れるからである。死んだはずの人間がこうして生きている…。その矛盾に正木教授は答えながら、恐ろしい伝説に彩られた絵巻物を巡る、二人の、学術研究の権化となった男たちの半生を語りだす。
Wか、はたまたMか。Wか、Mか…。Wか、Mか…?
若林か、正木か………!?
正木教授の遺書を読み終えたところで当の正木教授本人が登場し、一見、謎は着々と解決していきそうに思える。それなのに、虚実ないまぜとなったその後の展開が、読者側の結末に向けての勝手な安心感を決して許さないのである。事件の謎は解決したようにも思え、犯人が誰なのかも判ったような気はし、記憶喪失の青年も限りなく呉一郎に近いことは判るのに、この作品を全体としてみた場合、結局この『ドグラ・マグラ』という、大正十五年十一月二十日とおぼしきたった一日の出来事を書いた物語は結局何だったのか、という最も大きな疑問に付き纏われてしまう。
この『ドグラ・マグラ』は結末で、冒頭に聞こえてきたブウウウ――ンン――……………という音とともに締めくくられる。読者はその気さえあれば、またも冒頭の音に戻って、同じ物語、青年が行った夢中遊行をあたかも自分が発狂したかのように延々と繰り返すことが出来る。それこそ、��中で青年が(私は今から一か月前の十月二十日にも、やはり、きょうとソックリの無遊を行ったに違いない)(……否々……否々……きょうは、大正十五年の十一月二十日、と言った若林博士の言葉までも嘘だとすれば、私はもっともっと前から……ホントウの「大正十五年の十月二十日」以来、何度も何度も数限りなく、同じ夢遊状態を繰り返させられていることになるのではないか……)と疑い始めたその状況を、読者も同様に終りを知らず繰り返せるのである。
解釈によっては、冒頭と結末の音はある一点の同時間の音であり、その音が鳴っている一瞬間に誰かが見た夢とすることも可能だ。呉一郎自身が見ている夢かもしれないし、彼とは全く関係のない精神を病んでいない人間が、精神疾患を持つ人間の事を夢に見ているだけなのかもしれない。もしかすると、呉一郎の時代からはるか未来、呉家の血を引く胎児が母親の胎内で見ている夢なのかもしれない。正木教授の論文『胎児の夢』にある、胎児が祖先の経験してきた進化途中の形を再現しながら成育するのと同時に、祖先が経験してきた心理遺伝までも脳裏に再現しながら成長していくという説そのままに…。
自分が自分であるということを何にも拠らずに認識・証明することはきわめて難しい。何らの証明書等に依存せず、自分であることを説明しようとすれば、自分の記憶や思い出に頼るしかないのではないかとさえ思う。○○という名前の親を持つ私。△△という友人を持つ私。□□という本を読んだことのある私。●●という人を愛したことのある私。▼▼を好んで食べる私……。そういった幾多の記憶や関係性によって、一人の人間の何にも替えることの出来ない人格と命が出来上がっていく。そして、自分自身もまた幾多の記憶や関係と結びつくことによって、周囲の誰かをその人たらしめているのである。私を知っているその人。私と■■へ旅をしたことのあるその人―――。だから、呉一郎のようにある日突然、全ての記憶を失ってしまったら、最早私は私たりえない。この記憶があるから私は私なのだということが出来ない。この人との、この思い出があるから私は確かに私という人間なのだと断言することが出来ない。単なる宙ぶらりんの、息をしている「何か」にしかならないのである。『ドグラ・マグラ』を読みながら、記憶と関係性が、いかに人間の存立に寄与しているかということを考えたりもした。
『ドグラ・マグラ』の語が何を表すのかについては、諸説入り乱れているし、おそらく夢野久作自身も正解を決めてはいなかっただろうと思っている。それでもあえて私の考えを述べるならば、「ドグマ(教義)」と「マギ」あるいは「マグス(魔術)」を融合させたものとしたい。正木教授によって精神病学についての学説が執拗なまでに解説されている点と、この作品の解決がついたとも言え、ついていないとも言える魔術性、眩惑性、奇術性を取り上げてのことだ。Wか、はたまたMかという、そのアルファベットの使い方自体、Wをひっくり返せばMのように見え、逆にMを逆さから見ればWに見えるという、見方を変えることで受け取り方が異なってくるというような魔術性を帯びていると云えないだろうか。
ちなみに、この作品それ自体の中に『ドグラ・マグラ』という小説が登場する。その作中の『ドグラ・マグラ』もブウウウ――ンン――……………という音から始まっていて、我々が読んでいる現実の『ドグラ・マグラ』と同じ作品であることを匂わせている。だとすれば、作中で青年が手に取った『ドグラ・マグラ』の中にも更に『ドグラ・マグラ』が存在しなければならず、その『ドグラ・マグラ』の中に更に『ドグラ・マグラ』が…という風に「入れ子構造」にもなっているところが、この小説の魔術性を高めている。
上下巻とも表紙は、肝心な箇所が全く隠れていない女性のイラストレーションである。前ばりの如き「角川文庫」の文字がかえってユーモラスなのだが、私、考うるに、これを描いた米倉斉加年(よねくらまさかね)氏は、『ドグラ・マグラ』の響きから女の「股ぐら」を想像したのでないかと、かなり失礼な仮定を試みている。だって、全てはそこから始まっているのだ。千世子が一郎を宿した時から、この計画は始まっているのだ。その世界観を米倉斉加年氏は、大胆に、しかも的確に描いているのではないかと思う。
世界中の人間から「それは違うでしょ(笑)」と突っ込まれても、表紙に関しては、私は女の「股ぐら」説を掲げて力強く生きていきたい。
【附記】
この記事には現代の人権意識に照らし合わせて、一般的には不適切と受け取られる語句・表現がありますが、作品が書かれた時代背景・作品価値を鑑み、尚且つ、その不適切な語句の対象(たとえば「キチガイ」など)が、必ずしも本作品において否定的な意味合いを持っていないこと、作者にとって侮蔑の対象となっていないこと、むしろ作者が本作品を書く上で、その語句の対象が極めて重要な役割を与えられていること、また、勝手な改変を加えて、当該作品の価値を損なう権利は何ぴとにもないことを考慮し、取り上げた本の記載どおりとしました。