紙の本
初心者向き
2002/10/24 13:13
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『聖書に興味はあるが、何の予備知識ももっていない』『聖書は難しい』と感じているひとが、気軽に読める本。マルコ、マタイ、ルカ、ヨハネの福音書や、書簡などわかりやすく簡潔に書かれている。これを読むと聖書が楽しくなる。
電子書籍
重箱の隅をつつきます
2019/11/16 19:42
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投稿者:じゅん二 - この投稿者のレビュー一覧を見る
三浦綾子読書会で、使ってます。今日2019年11月16日(土)には、文字を大きくしていたため、ページが変わり、会場の貸す紙媒体のものと並べて読みました。
なので、ページ数はわかりませんけれども、
三浦綾子さんが間違え、校正しなかったところがあるかもしれません。
ぶどう酒、の、記述。
【原文まま】イエスの十字架 の章
「マタイによる福音書 26-29」
【私が正しいと思うのは】「...... 26.26-29」
つまり、聖書の「章」と「節」が同じ場合、「26.26」との繰り返しを、避ける現象は出版の上であるとは、聞いた事がないので、間違えかと思います。紙媒体も、2つの出版元のうち少なくとも1つは、そのようです。
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こちらも基本的には旧約聖書入門とアプローチは同じ。
著者なりに解釈して分かりやすい解説がなされてます。
より深い内容を求める人は
聖書を読んでください。
旧約聖書入門とこの新約聖書入門は
著者のキリスト教観がよく表れているので
「氷点」など三浦綾子作品を読む際に
理解への大きな手助けになります。
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聖書って難解で何が書いてあるかわからない。何を言いたいのかわからない。そんな人々の手助けとなってくれる本であると思います。
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教会にすでに通われている方が読むと味わい深しではないか…。
一般向けではないような気がする。
使徒行伝、書簡集が好き。
特にコリント人への手紙。
愛です。
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医局の本棚にあり読んだ。新約聖書の話。キリスト教のことがわかりやすく書かれている。使徒について解説してありよかった。聖書では姦淫の女の話が一番好き。石を投げようとする人々に、イエスが。「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず、この女に石を投げなさい。」といったという話。
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旧約に続き、課題でした。以下レポートの一部です。著者三浦綾子が、自身が聖書を手にしてキリスト教を信仰するようになるまでの心境の変化などを織り込みながら新約聖書について解説している。彼女の心ひかれた部分により多くの文字数を割いているため『マタイによる福音書』は一際長い章となっている。 『旧約聖書入門』と同様、口語体であるとともに初めは著者自身も私のように信仰があったわけではなく、むしろキリスト教に反感さえ持っていたところから書かれているため大変読みやすかった。『イエスの死と復活』では簡単な年表まで掲載されており、聖書に通じていない場合にも理解しやすいようになっていた。「心は熱しているが、肉体が弱いのである」という一文はとても慈悲深く慰められるものだった。また最後になるが、聖書全体はノックであり、自分で受け入れなければキリストは入れないというのは興味をそそられるラストだった。
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僕は信仰を必要とするほどの人生を歩んでないから、そこまで迫ってくる言葉はなかった。
けど、「聖書は人生をひっさげて読むものだ」という言葉もすごく理解できる。自分の人生と向き合える書でもあると感じた。
聖書買おうとまでは思わないけど、折りに触れてこの本を読み返すことを忘れないようにしよう。
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クリスチャンだけあって、旧約聖書入門よりノリノリ。
章が少なくひとつひとつに多くのボリュームを取ってることもあり、マタイによる福音書は80ページ、前作より出来がいい。
惜しむらくは書簡集が駆け足になってること。ここも同じくらいにボリュームで書かかれてたならば、もっと良かった。
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(2012.07.31読了)(2012.07.24購入)
【7月のテーマ・[キリスト教を読む]その④】
『新約聖書』の解説書です。著者の経験から特にわかりにくそうなところにポイントを絞って解説しています。なるほどそういうことかというところもありますが、解説してもらってもなおかつよくわからないところもあります。
イエスの生涯については、特に述べていませんので、イエスの生涯を知りたい方は、別の本に当たった方がいいでしょう。
キリストが生きた時代の違い、暮らした場所の風俗・文化・慣習の違い、ユダヤ教徒やローマ帝国との関係、等、ハードルの高さは結構あるのだと思います。
最終的には、宗教書ですので、信仰する、しないというところにゆだねられるのでしょう。
【目次】
まえがき
一 マタイによる福音書
二 マルコによる福音書
三 ルカによる福音書
四 ヨハネによる福音書
五 イエスの十字架
六 イエスの死と復活
七 使徒行伝
八 使徒の書簡集
参考文献
聖書地図
●心の貧しい人(28頁)
心の貧しい人とは、人に誇るべき何ものを持っていない人であろう。金もない、地位もない、体も弱い、知識もない。己にたのむ何もないがゆえに、ひたすら謙遜に、神の前に頭を垂れている人たちである。
●取税人マタイ(33頁)
今までのレビという名を捨て、マタイという名を名乗った。マタイとは「神の賜物」という意である。
●認められたい(52頁)
男というものは、勲章が好きなものだ。いや、それは男ばかりではない。人間はみな「ほめられたい」「認められたい」という強い願いを持っている。
●山上の垂訓(60頁)
〈人を裁くな。自分が裁かれないためである〉
〈求めよ。そうすれば、与えられるであろう〉
〈捜せ、そうすれば、見出すであろう〉
〈門をたたけ、そうすれば、あけてもらえるであろう〉
●安息日に禁じられていたこと(101頁)
一、種まき
一、刈り入れ
一、売買
一、点火
一、夫婦生活
一、食事の用意
一、九百メートル以上の歩行
一、急病ならざる病気のいやし
●隣人とは(119頁)
私の友人が、ドライブ先で交通事故の若者たちを見つけた。若者たちは藪の中に車もろとも転落して、血まみれになっていた。私の友人は、一人では救援困難と見て、道行く車に助けを求めた。が、眺める者はいても、手を貸してくれる者はいなかった。自分の衣服や車が血に汚れることを嫌ったのである。
「隣人とは誰か?」
それはごく親しい者を指すのではなかった。たとえ行きずりのものであろうと、自分がなさねばならないことをなすべき対象が隣人なのだ。なさねばならなぬことをなすことによって、また隣人は生まれる。
●自由(129頁)
タバコを喫む自由もあるが、喫まない自由もある。酒を飲む自由もあるが、飲まない自由もある。浮気をする自由もあるが、しない自由もある。意志が弱いために、ずるずるとひきずりこまれるのが自由であるとは、決して言えない。そうした観点に立ってみると、自分の思いのままにふるまって、自由に生きている錯覚している人間ほど、不自由な人間はあるまい。なぜなら、それは単に欲望に負けている姿だからである。
●最後の晩餐(284頁)
イエスは最後の晩餐で、パンを分けながら「これはわたしの体である」と言い、ぶどう酒をわける時には、「これはわたしの血である」と言われた。それが誤り伝えられて、キリスト信者は人肉を食い、人血をのむというあらぬ風評が立ち、さらに、他国人や赤ん坊を殺して食べるといううわさまで流れていた。
☆関連図書(既読)
「死海のほとり」遠藤周作著、新潮社、1973.06.25
「イエスの生涯」遠藤周作著、新潮社、1973.10.15
「キリストの誕生」遠藤周作著、新潮社、1978.09.25
「イエスの生涯」モーリヤック著・杉捷夫薬、新潮文庫、1952.10.
「旧約聖書入門-光と愛を求めて-」三浦綾子著、カッパ・ブックス、1974.12.20
「聖書物語」山形孝夫著、岩波ジュニア新書、1982.12.17
「ふしぎなキリスト教」橋爪大三郎・大沢真幸著、講談社現代新書、2011.05.20
(2012年8月1日・記)
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三浦さんの作品にはキリスト教への信仰が見受けられます。
種三浦さんの作品を知る手がかりになる、そう考えます。
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なぜ、新約聖書の冒頭は、外人の名前が羅列されているのか、愛の章とは、不正な家令の話など一信者の目線から聖書を解説している大変分かり易い本。聖書を読む前に読んでおきたい本。
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キリスト教について興味があり、ふと手に取った。さすが作家なだけあって、こちらが知りたいと思うことを面白く教えてくれる。著者の経験を交えての解説にも好感がもてた。心に触れる言葉も数多くあり、実際に聖書を読んでみようと思った。
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4福音書、使徒行伝、1つずつの書簡、ヨハネ黙示録と特徴を書きながら、エピソードを交えて説明していくところは流石!著者の明確な信仰が主張されている。見事な説教集のようである。印象に残る明確な内容は私たちがイエスの代わりに救われたバラバだということ!そしてシロアムの池で目が開かれた盲人の心の動きについての説明。しかし、細かい福音書などの出来事の説明は正直なところ、「クリスチャンである私には分りやすいが、ノンクリスチャンにどこまで分りやすいかな」と思わざるをえないところもあった。
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再び、三浦綾子氏の作品だ。著者の作品は、ものすごく深いとこまでを知っているという訳ではないかも知れないが、押し付けがましくも無く、実体験に基づいていたり、読むほうからするとすんなり入りやすい。
イエスはいつも弱い人々に目を向けていた。イエスのいちばん嫌いなのは、自分を正しいと思っている人間達であった。心の中でいつも「自分は大した者だ。学はある、金はある、そして人に尊敬されている」と数え上げては誇っている人たちである。イエスは誇ることの出来ない人たちには限りなく愛をそそぐが、誇り高ぶる人間には容赦ないきびしさを持っていた。考えてみると、私たちは神の前に立ったとき、本当に誇るべきものをどれだけ持っているのだろう。神の支配する天国に入れてもらうため、私たちは一体どんなものを携えることが出来るだろう。金袋は天国では一文の価も無い。地位があるからといって、先に天国の門を通してもらうわけには行かない。神の前に通用するのは、ただ、心が貧しい、というだけなのである。それは「私には誇れるも何も持っていません」という謙遜だけなのだ。たとえ何ほどかの親切や善行をしたことがあったとしても、それは神の前に何の手柄ともならない。そのいささかの善行や、いささかの親切を誇ることがすなわち高ぶりなのだから。しかも、私たちは、そのささやかな親切や善行の何千何万倍の罪を日々重ねているはずなのだから。人間は所詮、神の目から見れば、罪を犯さずには生きていけない存在に過ぎない。その私たちが神の前に一番に為すべきことは、神よ、私は罪深い者です、という謙遜な思いを持つことだろう。それは簡単に見えて、決して容易ではない。どうしても自分がそれほど悪い人間には思えないのだ。しかし、もし私たちが生まれてこの方、知り合った人々全てに、忌憚の無い自分への批判を聞くとするならば、そこには思いがけないほど多くの自分への悪口雑言があるのではないか。全ての人の批判に耐えうる者は一人もいないだろう。
「悲しんでいる人たちはさいわいである。彼らは慰められるだろう」という聖書の言葉がある。この言葉の意味を考えたい。なんで悲しんでいるのが幸いなのか。この世には悲しむべきことがあまりにも多すぎる。親の死、伴侶の死、子供の死、兄弟の死、友人の死、夫の不貞、妻の不貞、離婚、子供の非行、肉親の非行、病気、不和、家業の不振、失恋等あまりにも多すぎる。その悲しみに触れて、私たちは「悲しむべきこと」が何であるかを見失って生きているのではないか。人間として一番悲しむべきことが他にもあるはずだ。それは、自分の不真実、自分の罪、自分の醜さ、弱さ、不貞、狭量、嫉妬等、それらは少なくとも人間である限り、悲しむべき事柄のはずである。ともすれば、悲しみというのは、自分の心の内にあるのである。そして最も重要な悲しみとは、この自分の醜さゆえに、神の国に入るにふさわしくない者であることを悲しむ悲しみではないだろうか。金が無い悲しみは金が与えられれば癒されるであろう。子供の非行は、それが元にもどされればいやされるであろう。病の悲しみは健康になったときにいやされるであろう。肉親との死別の悲しみ���え時間とともにいやされていくものだ。私たちの悲しみというのは、そうした底の浅いところに終わりがちで、自分自身のあり方に対する痛烈な悲しみというのは、あまりにも少ないのではないだろうか。この神の前における自分自身への痛恨を抱くもの、それがイエスの言われた「悲しんでいる者」なのである。つまり、悲しんでいること自体が既に祝福の中にあるということなのだ。すなわちそれは、自分の罪を悲しめないものは、祝福に入れないということでもある。
一人の人間でも、時と場合によって、良心が変わることがある。人のやった過失は鋭い良心で指摘するが、自分の犯した過失は鈍い良心で弁護する。この世には良心の基準と言うものはない。そして全く同じ良心というのもないであろう。金銭面の良心の高さは同じでも、異性についての良心となるとぐっと差がつくこともある。良心に恥じない、といっても低い良心ゆえに恥じない人もあるし、良心に恥じることをした、といっても、他の人なら痛痒を感じないことを心にかけていることもある。
罵りや怒りは殺人と同罪である。この世の中で一日中ただの一度も人のことを悪く思わずに生きることの出来る人が一体どのくらいあるだろう。また、人の悪口を言わない人がどのくらいいるだろう。人を殺す罪と、バカと罵る罪は神の前には同罪なのだ。殺人の芽は、実に罵りという種から生えるからだ。怒るとき、人はその相手の顔を二度と見たくないと思うだろう。二度と見たくないということは、突き詰めて言えば、死ねばよいということでもある。私たちは人を悪く思ったり、人を怒ったりするとき、それが実は殺人の芽だということを思ってもみない。思ってもみないが、事実それは殺人なのだ。怒りもせずに人を殺すことは狂人でもない限りありえない。人が人を殺すのは怒るからであり、憎むからである。私たち自身、人に悪口を言われただけで罵られただけで、自殺する人間さえこの世にはたくさんいる。だから舌先三寸で人を殺す、という言葉さえある。いかにイエスが人間という者の実体を見極めていたかに驚嘆せずにはいられない。
イエスを試すために、姦淫した女を連れてきて、どう裁くか試した愚か者もいる。イエスは、「汝らのうち、罪なき者まづ石をうて」といった。ここでイエスは、人間を裁きうるものは全く罪の無い神のみであることを宣言されたのではないか。と同時に、人間は全て罪人であることを彼らに悟らせようとしたのではあるまいか。決して、イエスは、この姦淫の女を殺す前に、お前達を石で打ち殺すともいわなかった。言えたのに。それが救い主イエスの姿だ。また女にも、再び罪を犯さないように、と新たに生きる道を示された。私たち人間がいかなる過ちを犯しても、その罪におののくとき、イエスはこのようにして私たちをかばい、許してくれることを思わせてくれる。