投稿元:
レビューを見る
ブログの方でレビューさせて頂きました。
http://www.mypress.jp/v2_writers/rihito/story/?story_id=1373072
(06/4/7)
投稿元:
レビューを見る
今も昔も老いに対する感覚は変わらないってことか。現実の大カトーがこの本と違うことやらかしてるのも一興。
投稿元:
レビューを見る
久しぶりにローマ人の文章を読んでみる。主題の提示、老いが嫌われる理由の提示とそれに対する反駁、そして結論という明快な構成は非常に読みやすい。ギリシア・ローマの人生論の鍵となる「徳」という概念を知る上での一つの手がかりとなろう。
投稿元:
レビューを見る
現代でも高齢化社会のなかで「老後の幸福」論の類の本はよく見かけるが、古代ローマのキケローの『老年について』はそのような本の原点にあるものと言えるかもしれない。
キケローの考えのの土台にあるものは、ギリシアから続く「魂の不死」の思想である。
そのような人生というものを広く観た観点から「老年」にスポットが当てられているのではないか。
若干二十歳の私にとっては、老年を考えることは同時に「今」を照射することのように思えた。
投稿元:
レビューを見る
2000年前からあんまり人って変わっていないんだな・・・とつくづく思った。セネカの方が読みやすかったな。内容的な感動というか、納得感もセネカの方があったような・・・訳の問題なのか??それとも、キケローとセネカの違い?
投稿元:
レビューを見る
2013 11/7読了。神田の古書店街で購入。
岩波文庫を読もうシリーズ。
そういえば、キケロをちゃんと読んだのは初。
大カトーと小スピキオらの対話篇の形式をとった、老年期に関する訓示・・・というか、老いってのはそんなに悪いもんじゃない、というかむしろ老いてこそなんだ、という話。
まず巻末のキケロの生涯や執筆時期の解説から読んで、その後本編を読むと味わい深い。
キケロの書簡集を研究していた友達のことを思い出す。
もっと読んでみよう。
投稿元:
レビューを見る
古代ローマの時代に書かれたエッセイであるが、たいへんに読みやすい。
キケローも、老いては農事を事とするよう勧めていた。自然に近いところで生きていくことは、人間にとって大切なことなのだと思う。
投稿元:
レビューを見る
スキーピオとラエリウスよ、老年を守るに最もふさわしい武器は、諸々の徳を身につけ実践することだ。生涯にわたって徳が滋養されたなら、長く深く生きた暁に、驚くべき果実をもたらしてくれる。徳は、その人の末期においてさえ、その人を捨てて去ることはないばかりか―それが徳の最も重要な意義ではある―人生を善く生きたという意識と、多くのことをもって行ったという思いでほど喜ばしいことはないのだから。(p.16)
一見取るに足らぬ当たり前のようなこと、挨拶されること、探し求められること、道を譲られること、起立してもらうこと、公の場に送り迎えされること、相談をうけること、こういったことこそ尊敬の証となるのだ。これはわれわれのところでも他の国でも、風儀が良ければ良いほど篤実に守られている。(p.61)
果物でも、未熟だと力づくできから捥ぎ離されるが、よく熟れていれば自ら落ちるように、命もまた、青年からは力づくで奪われ、老人からは成熟の結果として取り去られるのだ。この成熟ということこそはこよなく喜ばしいので、死に近づけば近づくほど、いわば陸地を認めて、長い航海の果てについに港に入ろうとするかのように思われるのだ。(p.66)
投稿元:
レビューを見る
お前たちの言うよきものを、
ある間は使えばよいが、無い時には求めないことだ。
人生の各部分にはそれぞれその時にふさわしい性質が与えられている。 p36
投稿元:
レビューを見る
「人生の折り返し地点」という言葉も在るが、キケローはカトーにこう語らせる。「自然の道は一本で、しかも折り返しがない。そして人生の各部分にはそれぞれその時にふさわしい性質が与えられている」、と。
この作品では「老い」は十分に耐えうる価値あるものとして扱われる。私はカトーの語る考え方を気に入った。古代ローマには在ったかどうか知らないが、老いを退化に見立てる考え方を耳にしたことがある。人は、赤ん坊で生まれ、成長し、二十年ほどで人に成り、人生を全うするにせよしないにせよ、末期には心身共に衰えて目も耳も感じる力を失い、最低の状態に戻ってゆき死ぬ、その様が赤子に戻ってゆくようである、と言うのだ。寂しい発想ではあるが、これには言い当てているところが在るように感じる。人生の最高のときと聞いて、私には幼年も老年も早一番即座には想起されない。キケローの生きた当時も、老年を扱った作品にはその発想同様、老年を暗く捉えたものが多かったそうだ。人間の最大の関心ごとのひとつは死であり、老いには常に死の影が付きまとうのだから、老いを人が気がかりにするのは当然だ。青年の死と老年の死の対比でカトーは老年の死をある種の善いものと捉えた。その〈71〉の下りも大変気に入った。
論理展開も整っていて、読みやすかった。
訳者による解説も読み応え在った。アッティクスの死に様をおもう。
投稿元:
レビューを見る
年代それぞれに自然に与えられる恵みを活用し謳歌すれば、それは生きることを活かすことになる。 ないものを求めればそれが手に入ったとしてもまたないものを求めるが、今あるものの中で最大限活用して日々を生きれば、老年は重荷ではない。
投稿元:
レビューを見る
[関連リンク]
『老年について』 キケロー epi の十年千冊。/ウェブリブログ: http://epi-w.at.webry.info/201203/article_10.html
投稿元:
レビューを見る
好きな人には申し訳ないですが、人名が多いなど読む目的から本質的にズレた部分で楽しめず、断念しました…
投稿元:
レビューを見る
私の場合49歳辺りから突如老眼が始まり、頭髪が凄い勢いで減少し、歯肉炎も桁違いにひどくなった。そのとき、唐突にああ、自分は老い始めたのだ、と気づいたのだが、現在の日本社会では50歳前後ならまだ「初老」でもないのではないだろうか? しかし「老い」という問題が急に私に迫ってきたのは確かだ。
本書は紀元前44年、古代ローマのキケローの手になるもので、計算してみると当時キケローは62歳か61歳。当時のローマの平均寿命なんか知らないが、すでに「老人」の扱いだったのだろうか。
一応対話編の形を取る本書では、キケローの思想は84歳の大カトーによって語られる。自分より20歳以上上の人物の口を借りて62歳の著作家が「老年」について語る、ということ自体が、何となく奇妙な感じがする。
本書は哀れなもの・悲しむべきものといった「老年」のイメージを払拭し、それがいかに有意義な年代であるかを力説している。とても前向きな「老い」である。
当時も「ぼけ老人」はいたらしいのだが、それはそういう「病」であって「老年」そのものではない。聞き分けのない頑固爺がいたとしても、それもまた、若者にもいるであろう個人の性格の問題である。
そういう、まあ、今日から見ればある種常識的な論説ではある。麻生太郎とか二階俊博みたいな無礼で頑迷なクズのような自民党の老人議員を見ているとどうしても「老害」と言ってしまいがちだが、もちろん、とても高齢であってもシャキッとしていたり、素晴らしく善良であったり、明敏であったり、柔軟であったり、人さまざまなのだから、ひとくくりに「老人」というレッテルに収めてしまうのはやはり間違っているのである。
書かれているのは当たり前のことながら、なんとなくすっきりとした読書体験だった。
投稿元:
レビューを見る
老年になっても依然として敬意を払われる人は、青年の時に成すべきことを成していると聞いて身が引き締まる思いだ。
ランプに油を継ぎ足す要領で、精神・肉体ともにメンテナンスをしなければならないとも書いてある。長く幸せに過ごす基礎・基盤は紀元前でも現代でも同じなのだ。
また死ぬということは人も自然の一部であるということで美しいことなのだと思った。
『友情について』よりも、個人的には納得しやすかった。