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現代日本社会において「物語」が商品になる現象に関する、やや批判的な立場からの論評。しかし、物語を消費者に提供することは必ずしも悪ではない。本書をさらに批判的に検討することで、売らんかな主義のマーケティングではない、"健全な"物語消費のありかたを考えることができないだろうか。
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2012.12.28 断片的には理解できたが、全体を通じて著者が言いたかったことについてもう少し読み解いていきたい。ポストモダン以後の(ある意味、間違った)大きな物語への希求に対して危機感を覚えずにはいられない。
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情報が膨大で感想に困惑。未知の分野に全くついていけず、興味が0になったのは稀有な体験でした。それだけ深掘されている論である、と解釈。世代と興味に拠ることを踏まえても、非常に面白かったです。第一部は第一章、第二部は「ビックリマン」と天皇制が印象的。
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やー、やっぱ大塚英志さんのサブカル評論は面白い!。はじめの方こそ「俺は80年代に現在のこの状況を予見してたんだ」みたいな語りが多くてアレだったけれど、本論たる中上健次・村上春樹分析やジブリ分析による「大きな物語の欠落と物語りへの渇望」というのは、確かに彼が何か書くたびに言ってきたことだけれど、書き下ろし(前半部分)であることもあって、構成がしっかりしていて判りやすい。
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消費者というものは、そこらに転がっている断片的な情報を繋ぎあわせて
セルフ・プロパガンダのための「大きな物語」を作り上げてしまう
そういう習性を持っているようだ
著者自身も、それを「動員の技術」として飯の種にしてきたようで
実際、僕なんかも大塚さんの関わった漫画はけっこう読んでるのだった
しかしやがて「物語消費論」は消費者のあいだでも独り歩きをはじめ
ウェブ時代においてますます加速するその広がりはいまや
独裁者不在の「大衆自身による自己動員」をひきおこすまでに至った
そこに、大塚英志さんの危惧がある、というわけだが
なんかムシのいいこと言ってる感じはあります
でもまあ確かに、最近のネットや
コミュニケーションに関する識者の発言なんか見てると
ちょっと能天気すぎるんじゃないか、と思わされることがしばしばある
その能天気さがダンプカーのブレーキを壊すことはあろう
しかしそれらは結局「習性」にまつわる問題であって
村上春樹やスタジオジブリに問題の根を探すことは
あんまり意味ないんじゃないかな…
サブカル話のネタとしてはものすごく面白い本で
一読の価値あり
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改とは、ウェブ辞書によれば製品名、作品名について続編や後継機であることを表す接尾辞。
つまりはこの本にはオリジナルがあるってこと。それをすっとばそうとしたからか、最初は非常にこの本が読みにくかった。
第一に帯がいけない。でっかい文字で「大きな物語」に抗いうる物語の強度とは何か?
そして続いて、「はっきり言う。今、この国で進行している事態は、明らかに錯誤である」とか言われちゃうし。
錯誤つまり誤解ってことは、ベースの共通認識としての「正」を共有していなければいけないのだろうけれど、ほれほれ「改」から入っているあたし、まったくベースができてないんだよね。そこでまず、つまづきました。
でも、各論はそれぞれ面白かった!取り巻く概念がわからなくても楽しめる。これ重要かも。
たとえばトトロと蛍の墓を比較して、同じ小道具でも違って捉えられていることを検証してみたり、あるいはあたしも大好きでした、「多重人格探偵 サイコ」というマンガにおける「マクガフィン(架空の、でもあたかも実在するような意味のないなにか。作中においてはキーになる大切な謎、守るべき価値観などといったらわかりやすいかな?)」である、ルーシーモノストーンをめぐる一連の物語の生成過程。アングラとかサブカルチャーなどが好きな人なら楽しめると思う。
サイコ、もういっかい、読みたくなっちゃったかも。
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まだ読み終えてませんが、いまのサブカルブーム、おたくブームが歴史・事実と完全に切り離された状態で成立し、そうであるがゆえ、現代に成立しているという分析はいたく納得できた。なるほど。だから一見政治性、歴史をプロットとしているように見えて、現実のそれとは切り離して、若者の心に存在し得る、ということ。これを読んで思い出したのは、Hun SuyinがA Many Splendored Thingで書いてた、「借りものの場所、借りものの時間」という表現。Suyinが書いたのは、実在する香港という街だけど、いまの物語消費論的状況は、確立された「構造」にそって、手を替え品を替え、繰り返し架空の時間と場所が生成されているという点。そして、現実と切り離され架空であるはずの、それらの世界を限りなく現実に繋げてしまっている点で大きく異なる。要するに、これは戦後GHQ教育により、しつこくしつこく贖罪意識を植え付けられたがゆえの、現実からの逃避行動であり、また逃避し続けて、現実から離れるのではなく、むしろ自分たちにとって都合の良い仮装現実を、現実側にむしろ強引に引き込もうとしているように感じる。(仮想世界が現実をも侵食しつつある、という表現は、そういう事だろう)
とにかく面白いです。
面白いと同時に、こういう大きな流れが確立されてしまっているという点に、驚愕します。
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けっこう長いこと積ん読してた本。
おたく系マーケティングについて考えることがあったので、調度良いやと思って手に取りました。
近年のネット隆盛による情報や物語の消費の仕方の変化についてざくっと概観する序章と
自身が主導的にしかけたマーケティング実践を中心におたく系マーケティングを物語消費として論じる1章はまぁまぁ面白かった。
ビックリマンチョコ当時のことも含め1章の内容はもうちょっと細かく読みたかった。
が、後半はなー。書いてることの意味は分かるんだけど、なぜこれを書くのかがよく分からない。
特に4章のジブリの話。なんでこの手の評論家たちはジブリをこう一生懸命語るんだろう。
ジブリや宮﨑駿に対する評論としては面白いのかもだけど、それっていったい「物語消費論」なんだろうか。ジブリをどう位置づけてくれてもいいんだけど、位置づけた上で語って欲しいのはそれを消費する個人や社会のことのはずなんだけど。
まぁそれが厚めに書かれてたとしてもなんでジブリってそんなに象徴的ですか、って疑問はそもそも残るんだけど。
「大きな物語」の喪失という文脈で語られるべき象徴的な存在なのだとしたらその背景ももうちょい解説して欲しいもんだしなぁ。うーん。
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現代の消費文化に根ざした物語と僕らの共犯関係を解く。
僕らが作り上げる物語。それは本来なら誰かに準備してもらうものではないはずだ。