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日本での核開発原発の歴史から判りやすい言葉で書かれています。
アイゼンハワーの核の平和利用から日本の核武装を警戒しながら米国の核戦略に取り込んで原発を売り込んで行く。
原発ファシズムとして大資本と一体化した政府と大学や研究機関の原発ありきから始まる硬直化した姿勢、その中で事故は必然として起こりそれを解決する方策もなく場当たりで処理するしかない原子力共同体原発村。
張るか昔に聞いた山本義隆さんの党派等の学生とは違う平坦な言葉で訴えかけるアジ演説を思い出してきました。
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アルファブロガー池田信夫氏が「残念ながら読んではいけない本になってしまった、、、」と書かれていたので、政治的なことで山本先生もつい力が入って過激で刺激的な文になってしまったか、と思っていた。
が、池田氏が駄目出ししていた「正気で書いているのかどうか疑わしい。」という表現。苦笑を誘うような部分である。決して池田氏がいうように他者を罵倒したものではない。
読むべき本である。
ちなみに苦笑を誘う表現とは「処分場閉鎖後、数万年以上というこれまでにない・・・したがって、・・・各地方自治体や国民に広く理解、協力を得る必要があり・・・」という原発推進者の一文である。数万年・・・。苦笑せずにはいられないだろう。西堀栄三郎氏が技術者倫理を説いた「技士道十五ヶ条」の十四・「技術に携わる者は、技術の結果が未来社会や子々孫々にいかに影響を及ぼすか、公害、安全、資源などから洞察、予見する。」を捧げたい。1985年の言葉である。
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著者があとがきで断わっているとおり、とくに新しいことが書かれているわけではないのかもしれない。しかし、これまで「進歩」の名のもとで語られてきた自然支配へとシフトした科学技術の進展と、それに乗じた軍事技術の開発と一体で、かつ利潤のために不正と不公正を生まずにはおかない資本主義の発展との延長線上で、福島の「事故」が起こるべくして起きたことをこれほど明晰に見通させてくれる書物に出会ったのは、これが初めてである。著者が専門とする16世紀に、知と技術が自然の模倣から、自然の支配へと移行したこと、そしてその頃にはまだあった自然への畏敬がその後失われていったことから、科学主義的な幻想が生まれ、そして科学技術がとくに20世紀の大不況を契機として、国家に取り込まれ、その軍備拡張に寄与することになったことの延長線上に、現在の「原子力ムラ」の「原発ファシズム」とそれがでっち上げた「安全神話」があることが、簡潔ながらもしっかりとたどられている。また、原子爆弾をマンハッタン計画の延長線上に、「原子力の平和利用」があり、それはさらにニュー・ディールを背景としていることや、並行して日本では、戦前は岸信介が指導し、今日の経済産業省に連なっていく、国家資本主義による軍需産業の発展があったことも歴史的に描かれている。ちなみに、岸信介は戦後、核技術の導入に奔走し、その際核武装による「国力」の誇示をつねに夢見ていたとか。とくに日本の戦後に、「進歩」、「成長」、そして「復興」と語られてきたことが、何に由来し、何に行き着くものであったかはもはや明らかだろう。なお、科学史研究の立場から、現在の「原子力技術」が技術的にも欠陥だらけであることも、丁寧に綴られている。近代の歴史を踏まえて核を乗り越える見通しを開くうえで、貴重な足がかりとなる一冊と言えよう。
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間違いなく慧眼である。著者は、長い間政治に関わりそうな問題については頑固に沈黙を守ってきた。それだけに深く考え抜いた結論であると思う。
しかし、惜しむらくは、こうした本にするには、与えられた情報量があまりに少ないのでは無かろうか。原子力村だって一枚岩と推断できない様々な考え方があるに違いない。もう少し丁寧にそうした部分が拾えたらなあと無い物ねだりをしてみたくなる。
このタイミングでこのたぐいの本を出すとすれば仕方ないのかもしれないが。
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科学史に精通した著者によると、原爆製造から派生した原発技術は、核分裂という物理学理論から生み出された科学技術であり、それまでの経験主義的な技術先行で、理論が追いついてきた事例と異なっていると述べている。このような原発技術は未だ未完成であり、数万年にわたって管理が必要な放射性廃棄物の問題など、人間の感覚や想像を超える制御不可能なものと主張する。人間の能力を超えるものが存在するという認識は大事であると思った。裏表紙に記された一文には、日本の原子力ムラについての状況がシンプルに(一文としては長いが)的確に表されている。
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かっては日本物理学会を100年推し進める才能と期待され、現在は科学史著述家として活躍されている山本義隆さんの書下ろしです。
戦後、アメリカで提唱された「原子力の平和利用」を、当時の総理だった岸信介が、日本で国策として始めたのは、必ずしも将来の電気需要を見込んでの判断ではなく、核兵器保有国としての将来性を考えてのことでした。やがて、国策は、国是となり、政治家、官僚、学者、企業が一体となり原発プロジェクトが、推し進められました。
国是は、決して過ちを犯さないはずのものです。最先端の科学技術が集約されているはずの原発への、科学的な批判や検証が省みられることはありませんでした。多くの専門家の発言がそれを証言しています。
ルネサンス以降の自然を凌駕する人間の技術革新を良しとし、今後も進むのか。技術では制御できないものがあることを認め、謙虚に新たな道を模索するのか。私たちは選ばなければなりません。
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全共闘以来、発言を謹んできた山本先生。この福島の事故は、ポリシーを曲げても、メッセージを残したかったと思いました。
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大学1年のときに学科の学年縦断旅行で高速増殖炉もんじゅに見学に行ったことがある。言うまでもなくそこでは夢の技術としてそのすばらしさを強調されたわけなのだが(ただし、そこに辿りつくまでのバスの車中で、学科の教授によって高速増殖炉をとりまく世界の現状と、原子力政策が以下にうさんくさいかが散々語られた後で、である)、商業利用がコストやリスクにまるで見合わないのは明らかなので、なぜそこまで固執するのか全く理解できなかった。答えは、この本の最初の章にあった。というわけで引用その1。
http://booklog.jp/quote/129800
今年の広島の式典のときに、脱原水爆とともに脱原発も、という動きがあったけど、僕はそれに違和感を感じた。しかし、その動きを起こしていた人が意図していたのかどうかは分からないけれど、それは正しかったのだ。
たぶん、著者の主張は、もうこの章で尽きている。あとの2章は彼らしい詳細な分析で、この主張を裏付けようとするのだろう。そう期待しながら第1章まで読んだところ。
(2011.10.17)
僕は物理学科で原子核物理を専攻する大学4年生だけど、3.11以来顕在化した原子力をめぐる問題についてほとんど何もしてこなかった。多少考えることはしていても、何か発言する勇気はない。
そんな僕が、大学院入試が片づいたら読もうと決めていたのがこの本だった。最初はどのような内容なのか知らず、みすずの出版ダイジェストを見て驚いた。ずいぶん思いきったことを書いていると思った。でも、実際に読んでみると、ちゃんと納得できた。
この本などを読んでも、現在の原子力政策は非人道的なものであることは疑いないので、間違いなく改めるべきものと思う。その上で原子力を捨てるべきかどうかは、僕にはわからない。とはいえ、少なくとも現時点では、原発を動かしていること自体が間違っていると言えるのですべて止めたほうがいいと思うし、そうなると再開するのは現実的ではないかもしれない。
それにしても、なんだか原発関連以外でもブルーにさせられる本だった。第3章とかは必要なのかなという感じはしないでもないが勉強にはなった。
(2011.10.20)
関連リンク
山本義隆
http://booklog.jp/users/pn11/All?display=front&tag=%E5%B1%B1%E6%9C%AC%E7%BE%A9%E9%9A%86
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略歴には載ってないが,著者は東大全共闘の元議長。当然原発を批判する。まず原発導入の経緯を概観。岸信介をはじめとする戦後日本の支配層が,潜在的核兵器保有国となり国際的発言力を高めるという倒錯した論理で推進したと総括し,糾弾。
著者は物理学をやっていて,科学史に関する著書もある。近代社会の最大の発明は科学技術,というのが持論らしく,その科学技術は核エネルギーの解放をもって破綻へ突き進んでいると論じる。科学技術とは,単に科学と技術ではなくて,科学理論という客観的法則の生産実践への意識的適用としての技術。
技術は当初理論に先駆けて発達してきたが,原子力に至って完全に逆転。原爆は百パーセント学者の頭脳のみから導き出され,原発はその副産物として得られた。ここにはじめて科学理論に領導された純粋な科学技術が生まれたことになる。
しかしその科学技術の成立には巨大な権力が必要不可欠だった。人間に許された限界を超えた暴走が,怪物的権力によって引き起こされてしまった。福島の惨状も,政官財一体となった権力が何の掣肘も受けずに突っ走った結果。そして本書は次の一文で結ばれる。
「こうなった以上は、世界中がフクシマの教訓を共有すべく、事故の経過と責任を包み隠さず明らかにし、そのうえで、率先して脱原発社会、脱原爆社会を宣言し、そのモデルを世界に示すべきであろう。」
権力というものがなくなると,確かに原発なんかの大規模な科学技術は不可能になるんだろうが…。
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原発がなぜここまで推進されてきたのか。不安視する声が聞こえてこなかったのか。そんなことが分かる内容です。結果として誰にも止められなくなってしまっていると感じます。
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福島出張のお供にチョイスしました。
「福島の」とついてはいるものの、中身は日本の潜在的抑止力としての「核」としての原子力への取り組みからはじまり、誰も制御できないものになっていった過程、そして日本がアジアに、そして世界にどのような態度を示していくべきなのかということを訴えています。
福島にいる人々は明らかに被害者であったものの、この国は、世界的に見れば加害者なのです。なんともやり場のない…
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金曜日には本屋に寄るのが楽しみだ。
アマゾンでもずいぶん買うのだが、
本屋の空間が提供してくれる身体性、偶発性は
かけがえのないものだ。
山本義隆『福島の原発事故をめぐって
ーいくつか学び考えたこと』(2011)を読む。
山本の名前は『磁力と重力の発見』(全三巻)(2003)の著者として
僕の記憶にあった。
山本は事実や引用に基づき
丁寧に冷静に自分がなぜ原発に反対するか説いてゆく。
「16世紀文化革命」から始まる「3. 科学技術幻想とその破綻」は
人間の思考・営みを科学史の視点で俯瞰にとらえた著者の真骨頂。
歴史的事実の連続から現代の官民学一体の
反駁を許さぬ「原発ファシズム」の全貌までを明らかにしていく。
その筆致にはムダがなく、感情におぼれず説得力がある。
(デジタルノートが以前紹介した
平井憲夫『原発がどんなものか知ってほしい』(1996)からも
引用している。平井の原文を参照してほしい)。
福島原発事故から9ヶ月が過ぎ「終了宣言」のようなものが
政府から公式に出されたがその実態は疑わしい。
放射能汚染は数万年の単位で続くことが
科学的に証明されているからだ。
著者は現在学校法人駿台予備学校勤務。
こうした気骨ある在野の知性と対話し続けることで
僕も原子力問題について倦まず弛まず考え続けることができる。
雑誌『みすず』の福島原発に関する原稿依頼が
著者も予測しえなかった単行本の出版となった。
みすず書房の良質な仕事に感謝する。
(文中敬称略)
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3月11日の大震災、その後の福島の原発事故が発生し、いまだ自分の
中でもやもやした感情が残っている。
この著者は、今回の原発事故は科学技術幻想の肥大化が招いたものだ
と指摘する。科学技術とは、技術者が経験主義的に形成してきたもの
だが、原子力は純粋な科学理論のみに基づく点が異なり、それが人間
のキャパシティの許容範囲を超えた技術を生み出す結果になってしま
ったという。
脱原発社会に向けた説得的な批判を読み、腹落ちのする内容だったと
思う。
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誠実な思考。その積み重なり。
ひとことを導き出すために、多くの言葉が選ばれていることがわかる。
「特別にユニークなことが書かれているわけではありません」と著者がいうとおり、書かれていることは、すでによく知られていること。
それだけに、著者の論の進め方は、説得力がある。
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2011年3月11日の福島第一原発の炉心溶融・水素爆発事故を受けて、どうして日本で原子力発電が推進されてきたのか、その歴史的な経緯を振り返りつつ、原子力事故が隠される背景に探りを入れている。ページ数から分かる様に、それほど深い考察をしている訳ではないが、著者の専門分野との関わりを示しつつ、著者の考えを明らかにしている。
本書は三章構成となっており、第一章では日本の原子力政策に岸信介元首相が果たした役割を強調しつつ、兵器転用の含みを残すための民生利用だったことを明らかにしている。
第二章では、そもそも、原子核物理学から原子力工学へ至るためには、電気科学理論から電気工学へ至るのに比べ、比較にならないほどの経験蓄積が必要であり、未だ原子力を必要十分にコントロールできる科学技術はないという著者の考えを明らかにしている。
第三章では、科学技術に対する幻想と、政治的思惑の野合が、現在の状況を作り出し、それを掣肘することすら許さないもたれ合いが原子力村にはあることを糾弾している。
ではこれらの経緯を受け、これからどうすれば良いのか、そういうことを考えていく必要があるだろう。