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(1966.09.30読了)(1966.09.14購入)
(「BOOK」データベースより)
死について、幸福について、懐疑について、偽善について、個性について、など23題―ハイデッガーに師事し、哲学者、社会評論家、文学者として昭和初期における華々しい存在であった三木清の、肌のぬくもりさえ感じさせる珠玉の名論文集。その多方面にわたる文筆活動が、どのような主体から生れたかを、率直な自己表現のなかにうかがわせるものとして、重要な意味をもつ。
☆三木清さんの本(既読)
「哲学入門」三木清著、岩波新書、1940.03.
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『死について』『幸福につて』『懐疑について』など、一つひとつのトピックについて数ページの文章で語られている。
三木清という哲学者の実直さが感じられる質実剛健な文章。内容は短いが奥行きがある。
手元に置いて、迷ったとき、行き詰まったときに開いてみる。そんな本だ。
「幸福を語ることがすでに何か不道徳なことであるかのように感じられるほど今の世の中は不幸に充ちているのではあるまいか」という三木氏の指摘は、寺山修司の「幸福の相場を下落させているのは、幸福自身ではなく、むしろ幸福という言葉を軽蔑している私たち自身にほかならないのである」(幸福論)という一文を思い出させる。
もっと「幸福」を語ろう。
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哲学ノートと比べて、随分読みやすい。しかも、論文形式ではなく、思いついたことがつらつらといくつも書いてある感じ。だから同じ章の中でも脈絡がない。なんだか本当に三木清の思索ノートの中身を覗いてるみたいな。すごく多岐にわたるテーマなので、誰もがひとつやふたつは、ああ、いまこれが必要だ、と思うような章があると思う。わたしは虚栄心について、とかは響いたなあ。あと旅先だったからか、一度どこかで読んだことがあったからか、旅について、も深く心に刺さった。この人の言葉を読んでいると本当に人間の思索の無限の可能性をひしひしと感じる。言葉ってとても不思議だなあ、人間ってとても不思議だなあ、人間が生きるということはとても不思議なことだなあ。偉大な哲学家の懐にちょこっとだけ入れてもらって、歴史の波にたゆたう。
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わけのわからない外来語が出てくる。
長々しい意味不明の言い回し、
その割には大したことは言ってなかったり。
少なくとも、読書好きなこの私が読んで、文章が解らないものは、私のせいではないと結論づけることにしている。
こういう文章を読むことによって、
国際条約やら法律の文章、保険の説明などに誤魔化されないような”読解力”を養うという目的なら、時間を掛けて読むのもいいかもしれない。
しかし、今の私にとっては時間の無駄。
もっと読みやすく心にストレートに入ってくる本を読みたいものだ。
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「死は観念である、と私は書いた。これに対して生とは何であるか。生とは想像である」
・・・わからん!!!!!!!!!
死や、幸福、怒り、孤独、成功、嫉妬、偽善などのテーマについてそれぞれの考察が短く書かれておりますが、
・・・・わからん!!!!!!!!
十年後読んでみて、一文一文がすごく心に突き刺せいます
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三木清(1897〜1945)
ハイデガーに師事した哲学者。ファシズムに抗して獄中死。
この本に収められた「旅について」を読んだのは高校生のころ。ずいぶんと小難しい文章だなあ、と思った覚えがある。今再び読み返してみると、以前感じたほど難解な文章ではないし、もちろん哲学者らしい論理の運び方で頭を使わずには読めないのだけれども、ずいぶんと素直な文章だなあという印象。こころの赴くまま、さらさらとノートに書き付けた、みたいな、でも時折はっとっするような言葉が記されてる。全編を通じて感じたのは、「虚無」と「創造」。様々なことについて語っていますが、根本を成すキーワードはこのふたつではないでしょうか。あらゆる虚無に抗するものは創造である、と、そういうことではないか。非常に暗い時代に、こんなにも明晰な知性があった、彼の思索の軌跡がいまも読みつがれている、これこそが。
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どのぐらい理解できたかはわからない。理解が難しいものもある。中学時代に美術の先生に勧められた。当時だったら早かったし、今初めて読むのも遅かったかもしれない。でも、読んでよかった。時を置いてから再読したい。
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☆4(付箋12枚/P175→割合6.86)
千夜千冊1550夜から。いくつかの断章からなっている。その懐疑について、松岡正剛は以下のようにまとめていた。
“不確実なものが確実なものの基礎である。
パスカルは「人は不確実なもののために働く」とさえ言っている。なぜ懐疑が生まれるかといえば、いかなる者も他を信じさせることができるほどには、自分を信じさせることができないからなのである。
懐疑は方法であり、そのことを理解できた者のみが、初めて独断も方法であることを理解する。”
***以下抜き書き***
・幸福は人格である。ひとが外套を脱ぎすてるようにいつでも気楽にほかの幸福は脱ぎすてることのできる者が最も幸福な人である。しかし真の幸福は、彼はこれを捨て去らないし、捨て去ることもできない。彼の幸福は彼の生命と同じように彼自身と一つのものである。この幸福をもって彼はあらゆる困難と闘うのである。幸福を武器として闘うもののみが斃れてもなお幸福である。
機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現れる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥の歌うが如くおのずから外に現れて他の人を幸福にするものが真の幸福である。
・懐疑には節度がなければならず、節度のある懐疑のみが真に懐疑の名に価するということは、懐疑が方法であることを示している。懐疑が方法であることはデカルトによって確認された真理である。デカルトの懐疑は一見考えられるように極端なものでなく、つねに注意深く節度を守っている。この点においても彼はヒューマニストであった。彼が方法叙説第三部における道徳論を暫定的な或いは一時しのぎのものとしょうしたことは極めて特徴的である。
方法についての熟達は教養のうち最も重要なものであるが、懐疑において節度があるということよりも決定的な教養のしるしを私は知らない。
…懐疑が方法であることを理解した者であって初めて独断もまた方法であることを理解し得る。
・懐疑は一つの所に止まるというのは間違っている。精神の習慣性を破るものが懐疑である。精神が習慣的になるということは精神のうちに自然が流れ込んでいることを意味している。懐疑は精神のオートマティズムを破るものとして既に自然に対する知性の勝利を現している。不確実なものが根源であり、確実なものは目的である。すべて確実なものは形成されたものであり、結果であって、端緒としての原理は不確実なものである。懐疑は根源への関係付けであり、独断は目的への関係付けである。理論家が懐疑的であるのに対して実践家は独断的であり、動機論者が懐疑家であるのに対して結果論者は独断家であるというのがつねであることは、これに依るのである。しかし独断も懐疑も共に方法であるべきことを理解しなければならぬ。
肯定が否定においてあるように、物質が精神においてあるように、独断は懐疑においてある。
すべての懐疑にも拘らず人生は確実なものである。なぜなら、人生は形成��用である故に、単に在るものでなく、作られたものである故に。
・自然は芸術を模倣するというのはよく知られた言葉である。けれども芸術を模倣するのは固有な意味においては自然のうち人間のみである。人間が小説を模倣しまた模倣し得るのは、人間が本性上小説的なものであるからでなければならぬ。人間は人間的になり始めるや否や、自己と自己の生活を小説化し始める。
・ひとは愛に種類があるという。愛は神の愛(アガペ)、理想に対する愛(プラトン的エロス)、そして肉体的な愛という三つの段階に区別されている。そうであるなら、それに相応して怒にも、神の怒、名誉心からの怒、気分的な怒という三つの種類を区別することができるであろう。怒に段階が考えられるということは怒の深さを示すものである。ところが憎みについては同様の段階を区別し得るであろうか。怒の内面性が理解されねばならぬ。
・自己は虚無の中の一つの点である。この点は限りなく縮小されることができる。しかしそれはどんなに小さくなっても、自己がその中に浮き上がっている虚無と一つのものではない。生命は虚無でなく、虚無はむしろ人間の条件である。けれどもこの条件は、恰も一つの波、一つの泡沫でさえもが、海というものを離れて考えられないように、それなしには人間が考えられぬものである。
・孤独が恐ろしいのは、孤独そのもののためでなく、むしろ孤独の条件によってである。恰も、死が恐ろしいのは、死そのもののためでなく、むしろ死の条件によってであるのと同じである。しかし孤独の条件以外に孤独そのものがあるのか。死の条件以外に死そのものがあるのか。
・孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである。孤独は「間」にあるものとして空間の如きものである。「真空の恐怖」―それは物質のものでなくて人間のものである。
孤独は内に閉じこもることではない。孤独を感じるとき、試みに、自分の手を伸ばして、じっと見詰めよ。孤独の感じは急に迫ってくるであろう。
・嫉妬心をなくするために、自信を持てといわれる。だが自身は如何にして生ずるのであるか。自分で物をつくることによって。嫉妬からは何者も作られない。人間は物を作ることによって自己を作り、かくて個性になる。個性的な人間ほど嫉妬的でない。個性を離れて幸福が存在しないことはこの事実からも理解されるであろう。
・仮説的に考えるということは論理的に考えるということと単純に同じではない。仮説は或る意味で論理よりも根源的であり、論理はむしろそこから出てくる。
・娯楽という観念はおそらく近代的な観念である。それは機械技術の時代の産物であり、この時代のあらゆる特徴を具えている。娯楽というものは生活を楽しむことを知らなくなった人間がその代わりに考え出したものである。それは幸福に対する近代的な代用品である。
・今日娯楽といわれるものの持っている唯一の意味は生理的なものである。「健全な娯楽」という合言葉がそれを示している。だから私は今日娯楽といわれるもののうち体操とスポーツだけは信用することができる。娯楽は衛生である。ただ、それは身体の衛生であるのみでなく、精神の衛生でもなければならぬ。そして身体の衛生が血液の運行を善くすることにある如く、精神の衛生は観念の運行を善くすることにある。凝結した観念が今日かくも多いということは、娯楽の意義とその方法がほんとに理解されていない証拠である。
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すっごい難しくて、途中「よくこんな小難しいことが言えるな。」と愚痴ってしまったが、所々、「そうか!」とか「そういう考え方もあるのか」という文もある。
哲学者だけに難しい。大学卒業後に書いた「個性について」の終わりはとても良かった。
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これから人生を生きていくために参考になる言葉がいくつか見つかった。再度読み直した際に、発見できる味わいもあると思う。再読必須
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1945(昭和20)年9月、敗戦からわづか一か月後、三木清は獄中にて病死しました、即ち今年は没後70年に当る年であります。驚くべきことに、現在でも新しい読者が生れてゐるさうです。なるほど、新潮文庫の改版歴を見ても頷けるところですな。
『人生論ノート』は学生の頃、「新潮文庫の100冊」に選ばれてゐたので読んだ覚えがあります。当時の正直な感想としては、まづその不貞腐れた(と、その時は思つた)文章に「うは」と思ひました。ドイツ語直訳調と呼ばれる文体にも拒否反応を示し、その後手に取ることはありませんでした。
しかるに何ぞや、年齢を重ねた今再度読んでみますと、実に味はひのある一冊でございます。あの嫌味でひねくれてゐると感じた文章も、実は茶目ッ気たつぷりではありませんか。わたくしは、一種のアフォリズム集として受け止めました。
試しに、任意に本書を開いてみ給へ。さまざまな警句・箴言が散りばめられてゐるのであります。即ち。
「幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人ではない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう」(幸福について)
「模倣と習慣は或る意味において相反するものであり、或る意味において一つのものである」(習慣について)
「虚栄は人間的自然における最も普遍的なかつ最も固有な性質である」(虚栄について)
「怒は復讐心として永続することができる。復讐心は憎みの形をとった怒である」(怒について)
「孤独は山になく、街にある。一人の人間にあるのでなく、大勢の人間の「間」にあるのである」(孤独について)
「感傷はたいていの場合マンネリズムに陥っている」(感傷について)
などといつた塩梅であります。
学生時代まだ健在だつた小林秀雄が、「最近は新しい書物を読みたいといふ気持ちがなくなり、気に入った古い本ばかり繰り返し読んでゐる。読書の楽しみとはさういふものではないか」みたいな事を述べてゐました(正確な発言ではなく、要旨であります)。
その時は「新刊書に興味を持てなくなるとは、堕落ぢやないのか、何が知の巨人だよ」と毒づいてゐたのですが、この『人生論ノート』を再読しますと、「ああ、かういふ事を言つてゐたのかなあ」と納得するのでした。
http://genjigawa.blog.fc2.com/blog-entry-549.html
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学生時代から手元に置いてあった本。これまで、人生誤りそうになっても軌道修正ができたのは、本書のおかげです。
難解な文章が多い反面、アフォリズム形式でわかりやすく書かれた箇所もあり、拾い読みでも収穫が大きいです。
『怠惰と我執と傲慢とほど、私達を自己の本質の理解から遠ざけるものはない。』(『個性について』より)
…実社会で、自己の本分に打ち込み、充実した生を送っている人と、地に足がつかずに劣等感に苛まれてる人との違いが、端的に述べられていると思います。
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三木清は、京都帝大で西田幾多郎に学んだ後、ドイツに留学しハイデガーらの教えを受けた、昭和初期に活躍した京都学派を代表する哲学者。
本書は、死、幸福、懐疑、習慣、虚栄、名誉心、怒、人間の条件、孤独、嫉妬、成功、瞑想、噂、利己主義、健康、秩序、感傷、仮説、偽善、娯楽、希望、旅、個性という23のテーマについて論じた評論集。
昭和50年代の大学受験の(模擬)試験問題では、丸山眞男の『日本の思想』、小林秀雄の『考えるヒント』とともに定番となっていたのを懐かしく思い出す。
死について・・・「執着する何ものもないといった虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないということは、執着するものがあるから死ねるということである。深く執着するものがある者は、死後自分の帰ってゆくべきところをもっている。それだから死に対する準備というのは、どこまでも執着するものを作るということである。私に真に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する」(これは、佐野洋子の『100万回生きたねこ』に通じると言えようか)
幸福について・・・「機嫌がよいこと、丁寧なこと、親切なこと、寛大なこと、等々、幸福はつねに外に現われる。歌わぬ詩人というものは真の詩人でない如く、単に内面的であるというような幸福は真の幸福ではないであろう。幸福は表現的なものである。鳥が歌うが如くおのずから外に現われて他の人を幸福にするものが真の幸福である」等、今にして深く頷かせるセンテンスが多い。
70年ほど前の著書でありながら、古さは感じさせないし、見事なレトリックで綴られた文章は思いのほか理解もしやすい。
尚、現代哲学者の木田元の『新人生論ノート』(2005年・集英社新書)には、「三木清と『人生論ノート』について」という一章があるが、本書の(愛)読者としては一度目を通しておきたいものである。
知命を過ぎた人々には懐かしく、若い人々にも手に取る価値のある作品と思う。
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烏兎の庭 第二部 書評 10.2.04
http://www5e.biglobe.ne.jp/~utouto/uto02/bunsho/mikiy.html
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普段自分が持つような疑問、考えに真正面からこたえてくれる。文体も量も読みやすく、感銘を受けた文章がたくさんある。これから何度も読み返したい。「君たちはどう生きるか」と並ぶ、個人的に枕元にでも置いておきたい一冊。