意見が割れるであろう批評
2015/03/26 17:06
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投稿者:september - この投稿者のレビュー一覧を見る
宇野さんの批評は新しい見方で感心することもあったが、あまり合わないことの方が多かった。だいぶ意見が割れるであろう批評だった。
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エヴァンゲリオンについての評論がいちばん興味深かった。これまでのエヴァについて“「つながり」の手段が変化する一瞬、それが見えなくなった瞬間の不安を敏感にとらえた“という指摘には目から鱗が落ちた。
また、賛否両論を引き起こした「Q」については“積極的かつ的確に「現代」を切り取ろうとしている”と位置づけ、旧エヴァを引き合いに出しながら「Q」の物語の本質に迫ろうとしている。
人類補完計画と、昨今のソーシャルメディアの発達を重ね合わせることはおそらく妥当であろう。そしてネルフとヴィレの対立を、近代とポストモダン、古い男性社会と新しい女性社会に読みかえたのもしっくりきた。(恥ずかしながら、自分は「Q」の超展開についていくのがやっとで、そこまで深く考察できなかった)
確かに「Q」には古い時代の悲鳴しかなく、新しい何かを提示しきれてはいない。「序」「破」が二次創作の域を超えていないというのもその通りだ。
だが、「破」における綾波の大きな変化や、「Q」のラストにおける、シンジとアスカと綾波が三人で歩きだす場面に、うまく言葉にできない新しい何かを感じた自分がいたのも確かだ。単なるキャラクターへの愛着以上のものがそこにはあった。
僕はこう思う。
新「ヱヴァ」と旧「エヴァ」はやはり一続きの物語なんだと。“「つながり」の手段が変化する一瞬、それが見えなくなった瞬間の不安”という過渡期における特殊な状況を表現したことがこの作品の最大の意義だと総括してしまうのは、全然しっくりいかない。
エヴァはまだ、90年代後半の、日本の特異点(しかも歴史的にかなり大きな意味を持つ転換点)の意味を完全に総括しきれていないのではないのだろうか。あの作品が本当に伝えたいことは、ソーシャルメディア隆盛直前のあの時期ではなく、人類補完計画がカジュアルに達成されてしまった今だからこそ有効性を持つのではないだろうか。
つまり、つながる理由がなくなって(=社会的な要請が薄まって)、つながる手段も提示されない(=ツールを持っていない)という状況は、日本の歴史の中で見れば特殊かもしれないが、人間が陥る状況として置き換えてみると、普遍性を持つ。
それは言葉で表すならば、宙ぶらりんであり、自由であり、フラットな孤独だ。
言語やコンピューターがいかに発達しようと、僕たちは常に「フラットな孤独」に陥る可能性から逃れることはできない。これまでも、おそらくこれからもずっと。そこでいかに「手をつなぐか」という問いは、まだまだ考える価値のあるものではないだろうか。
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連載を読んでいるので木皿泉さんのとこ以外は連載時に読んでいて木皿さんの文章も他での掲載文を読んでいるにも関わらずけっこう読み飛ばしている部分や忘れてしまっている箇所に気付いた。
AKBに関しては知っているけどファンというわけでもなく宇野さんなどが関わっている書籍などは読んでいる程度の僕でも1「ファンタジーの作動する場所」での文章の熱さというか宇野さんはやはりロマンチストなんだなって感じるし涙腺が急に緩くなりそうになる。
2「糸子のために」も掲載時に読んで膝を打ったものだった。そうか糸子は洋装し自ら動いた事や後半のメタフィクション展開に僕は新しい朝ドラを感じていたのを思い出した。
僕は『平清盛』での兎丸の存在の話もすごく惹かれるものがあった。僕も平氏でも源氏でもないからだ。だとしたら僕は遊びの心と新しい可能性にどこからか現れる新しいシステムに期待してしまう人なのだろう。
あと僕が堀江さんの事が好きというか好意的に受け止めているのは書籍を読んだだけじゃなくて宇野さんが書く堀江さんについてのことがけっこう影響してるんだろうなって。
このサイズで毎年連載をまとめると来年はここに「あまちゃん」論などが入ってくるのだろうけどそうやって地層のように積み重ねていく批評、物語や現象は読者にとって新しい視点や受けとり方を提示していってほしい。
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Kindleで購入。ダ・ヴィンチ連載コラムの単行本化ということで、最新のポップカルチャー作品の解説・批評がオムニバス形式で並んでいる。宇野さんのポップカルチャー批評は、若い頃からの多く仕入れている情報量に支えられているなと実感した。ただのAKB論者では決してない。
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宇野常寛さんが、A KB48や朝ドラやダークナイトやエヴァや特撮博物館や大河ドラマや政治やホリエモンについて語りまくる評論集。
どの評論を読んでも、基本的には「ここではない、どこか」ではなくって「いま、ここ」に無限の可能性があるっていうことを言っていて、『堀江さんのこと』に書かれた堀江貴文論にも顕著だけど、既に存在している可能性を深く追求すること、そこに喜びや楽しさがあると。
で、遊びを忘れたら滅亡すると。(平清盛論で)
そもそも、宇野さんのしているポップカルチャー批評も今あるメディアに深く潜ることで、対象物をもっと面白く意味深くしているし、僕がこうして本の感想を書いているのもそういうことかもしれないなーと思います。
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もっと映画系のレビューが多いと期待していたが、ドラマや本、AKBの曲などを題材にしたエッセイだった。
著者のリトルピープルの時代なんかを読んでいると、正直そこまで目新しくはなかった。
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ここで紹介されてる作品すべて知らなかった
さすがにアンテナが弱すぎるのでもうちょっと広い目を持ちたい
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この著者の近作一般に言えることだが、処女作に比べると心に残る文章が大幅に減り、平凡な感想文に堕してしまっている。たとえばタイトルにも選ばれているダークナイト3部作の分析。Web上で読める一般人のブログのほうがよほど生産的な分析が多く、批評の水準として負けてしまっている(たとえばrootport氏のブログ「デマこい」http://rootport.hateblo.jp/entry/20120805/1344176990)。ダークナイトからライジングにかけての「善/悪」の意味の変化など、ハイカルチャー/サブカルチャーを問わず同時多発的に問われている相当刺激的なテーマのはずだが…。嫌われない程度に「対象を貶めない」という配慮は感じられても、対象と「同じ時代、同じ問題を生きてる」という共感があまり感じられなかった。よって、この本は再読はしない。