投稿元:
レビューを見る
うーん、途中までしか読めませんでした。
AKBファンがAKBがいかにすごいかを語っているだけ。な気がします。他のアイドルとの比較がないんですよね。なぜ嵐やももクロではキリストになれず、あっちゃんがなったのか書いていないんですよ。半分ぐらいまででですが…
AKBやあっちゃんは好きだし、最後に答えはわかるかもと思うのですが、なかなか読む気になれません。
投稿元:
レビューを見る
素晴らしいものを読んだ。
凄く良い。
「分不相応な女の子がアイドルになれること自体が罪=罪を引き受けるアイドル=キリスト的存在」
という読み解きより、むしろその発想の自由さ、想像力の逞しさに感動を覚えた。
最近不自由でしようがないと、頭が凝り固まってしまった感が否めない人は読めばいいと思う。
投稿元:
レビューを見る
授業でアイドルへのファン心理も信仰心と通底するとか僕も言ってるけど、宗教をカッコ付きのキリスト教でしかとらえてない本書とは、まったく立場が違うという話を今度しないと。
投稿元:
レビューを見る
何回震撼するねん!と思いつつも共感はできる。この本を読む数日前にNHKで深夜に放送していたAKBのドキュメンタリーを見てしまったからだ。アイドルにはまる理由がわからない、という拒絶の姿勢だとたぶん何の面白みも感じられないとは思うが、そこに共感できるなら面白く読めるだろう。でも、深みはあんまり感じなかったな。
投稿元:
レビューを見る
ぜんぜんまとまってない。こじつけにも程がある。でもなんかもうAKB好きなんだろうなぁという感じはすごいする。それが面白い。それでいい。
投稿元:
レビューを見る
『AKB48白熱論争』がすごく面白かったからあれより面白かったっていうイメージじゃないんだよなあ、あとメルマガプラネッツで少し読んでたから新鮮味があんまりない。
投稿元:
レビューを見る
明日から仕事だ。
この休みで結構本読めた。
その結構読めた本の中に、
『AKB48白熱論争』http://ow.ly/gvRCB と
『前田敦子はキリストを超えた』http://ow.ly/gvRVw
というAKB48に関しての2冊がある。
まず、AKBという「システム」を、秋元康氏が
発明・発見・実践したことは凄いことだと思うし、
エンタメ界にとどまらず、資本主義のあり方に
風穴を開けたといっても過言ではない、
(でもやっぱり、それは言いすぎかな)
とは思うけど、この2冊の議論レベルまで行ききると、
「いい大人」がくそ真面目にAKBについて
あれやこれやのアプローチで語り合う、
時に政治、時に社会学的アプローチ、
これはやはり少し滑稽に見えてくる。
なるほど確かにAKBは議論に値するくらい
革命的なアイドルかもしれないが、
誰かがどこかで言っていたように、
よってたかって笑い無しで学術的アプローチを繰り出し、
論壇的に議題として語り合うよりも、
ファンの間や、ネット上や、学校や、
居酒屋や、そういった「主観」や「個人」が
偏重的に入り乱れた空間で、「楽しく」
語り合わせるモノなんじゃないか、そう思う。
だから、例えば「AKB48白熱論争」の帯にある
「なぜAKB48だけが、売れ続けるのか?
4人の論客が語り尽くした現代日本論」
ってところに、
「なんで男どもはあんな大して可愛くないよくわかんない集団に熱狂しての?マジキモい、意味わかんない」
的な論調の女性が惹かれ、
「ん?この新書の論客達は博識な大人の男達のようね。論理的にキモいやつらのことを解き明かしてくれるのかしら?どれどれ・・・」
ってな具合に本書を手に取り、
仮に読んでみたとしたら・・・
「はぁ?なにこれ?やっぱりキモい。「AKBの運動が世界を変えていく」って何?本気でいってんの?」
という具合に、ベースとして
「引き気味で見ていたAKB現象」を
さらに引きに引いて、
結果、徹底した「無関心」に、
そう、結果、AKBに対する理解が1歩も進まない、。
結果、1歩進むどころか「後退」に
つながってしまうのではないか、
そう思う。想像だけど。
例えば、
俺はあっちゃんが好き。
なぜなら~だから。
このシンプルな思考を
ある男子が目の色を変えて熱く語る。
ここまでは既存のアイドルと同じ、
いや、むしろアイドルじゃなくても
自分の好きな歌手(例えばミスチルだって良い)、
芸能人、スポーツ選手にも言えることだ。
これは取り立てて新しいムーブメントでは無い。
AKBの新しさはむしろここからで、
自分のなけなしの金で買ったCDに
添付された投票券で、
自分が好きなメンバーに1票を投じる。
結果、そのメンバーはメディア選抜
(簡単に言えばテレビに優先的に出れる)
入りである16位より上の順位を獲得する。
ここだ。
旧来のアイドルとの違い、
熱狂の��泉はここにある。
今までのアイドルは、
例えば、ある男子が48人いる中の一人であるA
(しかもAは48人中25番目くらいの人気)
のファンだったとしても、
ある男子の「Aを好きだ」という気持ちだけでは、
Aをテレビなどの表舞台に引っ張り上げる、
「グループ内における一構成員でしか無い子」
を活躍させる直接的要因には
ある男子はなることが出来なかった。
だが、AKBではなり得るのだ。
「自分の1票」が確実に、Aをスターに出来る
可能性を秘めているのだ。
なぜならその票数が選抜につながるからだ。
さらに、好きなAに「握手会」で、
本当の意味で「直接」会うことが出来て、
なんなら「握手」で「触れる」こともできるし、
リアルな「会話」も出来る。
「いつも来てくれてありがとう」
「○○くん、今日も来てくれたんだね」
なんて言われた日には、ある男子は狂喜乱舞、
1枚しか買わなかったCDを5枚買うことになるかもしれない、
5票投じて、もっともっとAにスポットライトを当てたい
と思うかもしれない。
このシステムを開発したことが新しかった。
一歩踏み込めば、そこから段階的に
「AKBにハマる人間」を作り出すシステム。
くらいでAKBをまじめに語るのはやめておいて良いと思う。
「あとは個々で自分がタイプの子探してみなよ。一人くらいいるはずだよ?」
くらいの紹介で良いと思う。
そこでもし、
「じゃあ俺はこの島崎って子可愛いと思うわ」
って思ったら、
次の総選挙で「島崎って子」を、
少しだけ応援する気持ちになっていることに気がつく。
そしてさらに、
ここからが男の性で、どうせ俺が応援したなら
上の順位に!って自然と思いながら中継を見つめ、
「はぁ?こいつ島崎って子よりぶすなのになんで上なの?」
とか少しずつ島崎って子を
応援している自分に気づく。
って位の楽しみ方で良いと思う。
これ以上は、
ハマる奴はCD買って投票すれば良いし、
劇場行けば良いし、ライブ行けば良い。
そうやって増殖し続けているのがAKB。
それで十分。
楽しむ奴は楽しめば良い。
長くなったけど、
別にこのシステムをくそ真面目に
学術的アプローチしてどうとかいらないと思う。
逆に気味悪さが増すだけだ。
この本を読んで思ったのは、それ。
長くなったけど言いたかったのは、それ。
投稿元:
レビューを見る
宗教社会学専攻(修士一年)からの視点で。
宗教の構成要素とされるものは脇本平也『宗教学入門』(1997,講談社学術文庫)によれば、教義・儀礼・教団・体験の四つに大きく大別されます。とはいえ、たとえば神道など教義が存在しない宗教も存在するため、必ずしもこれがなければ宗教とは呼べないというものではないですが、AKBにおいて、存在するものの、濱野さんが語っていない部分、つまり『前キリ』を宗教学のテキストとして読んだときに大きく欠けているのが教団(ファンコミュニティ)への言及だと思います。そしてこの本は体験の記述が多い点から宗教学ではなく、神学によっているテキストとも言えます。
いったん宗教学のほうの話をすると『宗教学入門』で、宗教の機能とされているものは「補償」と呼ばれるものであります。一言で言えば、コンフリクトの解消を担うものです。なんらかのコンフリクトを抱えた人間がその解消を求めて、参拝などの宗教行動(受験の合格祈願をしに行くなど)をとる、あるいは入信を果たす。AKBには一見その機能はない、と思うと思いますが、それは早計であると思います。説明のための例としては、創価学会における座談会がよいでしょうか。これは簡単に言えば、教団員の間で悩みを語り合う場とされています(玉野和志『創価学会の研究』(2008,講談社現代新書))。語り合う場、というのはそれだけではありますが、存外に重要な場であり、社会から孤立している存在(アノミー)を生み出さない、という点で非常に重要な場であると思います。その場ははっきり言ってなんでもいい。宗教団体でも、AKBでも、家族、地域なんでも良いと思います。しかし特殊的宗教集団に入信する人々は家族や、地域といった生れ落ちたコミュニティから阻害されている場合が多いと思われます(創価学会が躍進したのは、都市部に流入し、田舎との繋がりが断絶した若年層を取り込んだことだと言われています)。生得的に得られる宗教でないもの、"わざわざ"入信をする宗教のことを特殊的宗教と呼称しますが、AKBを宗教とみた時にこれにあたることになるかと思います。AKBをこれとして話を進めますが、いわゆるカルト、と異なりAKB有効性が認められる点は市場に乗っかることにより、開かれているため、反社会的行動には移行しにくい、という点であると考えます。じゃあAKBじゃなくてもいいよね!とされると思いますが、まったくそのとおりで、つまりはAKBであることの必然性などありません(あるいはキリスト教、仏教、イスラムである必然性もまったくないと考えます)。
話が変わって、『前キリ』を神学として読んだ場合ですが、我らの神はあなたがたの神より優れている、と述べるのは自らの宗教の正当性を主張する際によく取られる手法だと思います。また書かれている内容、特に体験(レス)の記述が多いことも神学的だと言えるのかもしれません。私は神学テキストを研究したことはあまりないので、確定的なことは言えませんが、体験の記述が多く、また自らの神(ぱるる)をセンターである!と述べる濱野さんの態度は神学のそれであるといえるのかもしれません。
宗教学専攻のぼくとしては『前田敦子はキリストを超えた』かどうかではなく、AKBに宗教��な機能がある、とするならばそれはどんな部分で、また宗教にある機能でAKB(やその他コミュニティ)にない部分があるのであれば、それは宗教の独自性であり、定義である(もしくはそんなものはなくて、「宗教」とはまやかしなのかもしれない)、と最終的には述べたい。前提として『前キリ』を宗教学、あるいは神学のテキストとして読んでしまっている点は否めませんが、もし、構造的に神学テキストとして読めるのであれば、逆説的にAKBは宗教である!(「宗教」とされるものだけが宗教ではない!)という結論が導きだせるのかもしれない、という意味では興味深く読まさせて頂きました。
投稿元:
レビューを見る
「推し」とは何か?
絶対的なものへのコミットメント
⬇
境界線の恣意性
⬇
恣意性からコミットメントへ
(あえてコミットメントする)
宗教からAKBへはこういう一サイクルとなっています。
深いコミットメントを描いたここ最近の作品として
『1Q84』2009年村上春樹
『借りぐらしのアリエッティ』2010年 宮崎駿監督
しかしこの辺の作品が描く他者へのコミットメントとAKBの誰かへのコミットメントは違う気がする。
〈宗教〉としてのAKB48とは何か?
「あえてコミットメントする」から「あえて」がとれて
⬇
「(絶対的?)なものへのコミットメント」
まで1週したということ?
投稿元:
レビューを見る
本屋にて立ち読みでパラパラ読みでサラリと読了
我が神、我が神、なぜわたしをお見捨てになったのですか
というキリストの言葉と
私のことは嫌いになっても、AKBのことは嫌いにならないでください
という前田敦子の言葉を重ね
2人に自分を犠牲にして他者を活かす「利他性」を見出したり
オタクホイホイと呼ばれる握手会でのメンバーを
人間を釣る(漁をする)漁師
と評したり
キリスト教ネタを知ってる奴には楽しめるムダに熱い本
でもおもろかった!
古本で半値以下になったらじっくり読もうかな…ただその頃にはAKB終わってるかも(´・ω・`)
投稿元:
レビューを見る
話題の書帙を読了.AKBのセンターとして超越した存在である彼女,そして彼女達,そのシステムを,著者なりの視点で,宗教,政治,社会の一部と照し合わせ論理的に思考する良書.何よりその情熱が強く伝わってくる.読み物として面白い.ちなみに,僕はあっちゃんもぱるるもわかってない.
投稿元:
レビューを見る
[とりあえず要約]
「ここではないどこかに、はっきり存在するとは言い切れないが、いるとしか言えない」という否定神学が生む超越性でしか持ち得ない「贈与」を、ネットにおける匿名性が生み出す集合的無意識(アンチ)に曝されるネット身体とリアルの身体とを、絶対的「近接性」によって結束させることで得た「超越性」でもって(近接によって得た「関係の絶対性」を用いて結束させる)、マルクス資本主義における「搾取による疎外」を「搾取による贈与」に置き換えられる。贈与を可能にした近接性による超越性は宗教としか言えないのではないか。
投稿元:
レビューを見る
AKB48のシステムが宗教として機能している側面を分析。
内容はタイトルほど刺激的なものではないが、無理からに吉本隆明のマチウ書試論を引いたり、いちいち面白い。
後半どんどん語り口が熱くなり、AKBのために本気で著したことが伝わってくるのもまた好し。
投稿元:
レビューを見る
AKBがわからない人にとっては何を書いているのかさっぱり理解ができない。
それでも10代の女の子たちが、自分よりも年上のおじさんたちのアンチに叩かれるのは精神的に辛いだろうな。まあ、それが仕事なんだからね。
私には正直さっぱり理解できない本でした。
投稿元:
レビューを見る
キリストを超えた、というインパクトのあるタイトルはやはり大きい。
ここまではまるんだ→何でそこまで→それはこれこれ、こういう感じで、という、自分のような初心者にも一応納得できるアイドル・AKBへのハマり方を提示してくれている。
そこの表現が、かなり大袈裟(いい意味です)。
「大してかわいくない子たちが・・」と思っている人は劇場に行っていないからだそうで、間近で見ると声援を受けて輝く彼女たちの姿に、人はここまで変われるのか、と愕然とし、これはまさに宗教的奇跡とまで言い切ってしまう。
こういうところで興ざめして、拒否する読者もいるでしょうね。
AKBと宗教の類似性を論じた箇所に、役だつところあり。
会いに行けるアイドルという”近接性”がポイント。
現代の資本主義は人々を「疎外」するが、CDを買うなりすることで「近接性」を感じることができ、そこが”救済”としての意味を持つという部分。
何かにひかれる、というあまり意識していない部分も、これからはこの「近接性」が重要なキーワードとなる時代になっていくと思った。