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あるWebニュースで次のような見出しが躍った。
「『宗教上の理由』で休日出勤が免除されるなら『アニメ』『アイドル』イベントも認められるべき?」
この議論は既存の宗教界に波紋を投げ掛けている。一方は「神」への信仰、もう一方は「ネ申」への信仰である。そんなイベントが宗教的理由と同等とされるはずがない、というのは宗教界側の理論であり、オタ側の理論とは真っ向から対立する。
書評子は決してAKB48なるものが好きなわけではないが、しかし若者たちを虜にし熱狂させるあの“現象”が、どのようなシステムによって成り立つのかという意味において大変興味深く捉えている。オタにとってアイドルは趣味の領域を超える存在である。もし彼らが「生きるにも死ぬにも唯一の慰めがAKBである」と公言するなら、その者たちにとってAKBはある種の宗教となる。
本書の著者 濱野智史はNHK NEWSWEBのコメンテーターなどを務める若手の社会学者である。要点をまとめるとこうだ。メンバーの前田敦子は最も人気があったがアンチも多く、匿名からの激しいバッシングと口汚い罵りに曝された。しかし彼女は、AKB総選挙で1位を獲ったにもかかわらず「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください!」とアンチに向かって懇願したのであった。
著者はこれを「自らを犠牲にしてでも利他性に生きようとする超越的行為である」と受け止め、ここにキリストを垣間見たと述べる。著者は「キリストが背負った原罪に比べれば前田敦子の方は人類史的に見てはるかに軽い」という前提で論じており、全体的にいうならば、題名のインパクトとは異なり冷静な分析をしているといえるだろう。
書名を見て眉をひそめる必要はない。Amazonの古本だと300円程度なので、興味があれば是非。筆者は250円で購入した。(C・M)
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AKB48の魅力とは何か? なぜ前田敦子はセンターだったのか?後に『不動のセンター』と称せられた前田敦子ちゃんを徹底的に分析することによってAKB48の持つ「宗教性」をあぶりだしていきます。
『前田敦子はキリストを超えた』
このセンセーショナルなタイトルは筆者の友人であり評論家の宇野常寛氏のツイートがきっかけとなっているのですが、時代と場所が違えば恐らくこれは轟々たる批判を浴びていたであろうなぁと思いながら本書を手にとって見ました。
内容はというと、自らもまたAKB48の『ヲタ』を自認する筆者があっちゃんこと前田敦子(性格には元メンバー)と筆者自身が『推しメン』として大ファンであるぱるること島崎遥香を中心にしてとしてのAKB48を新書一冊分丸々使って語りつくすと言うものです。それにしても『識者』と呼ばれる人間に思い入れ100%の本を何冊も書かせるAKBグループはいまや巨大な『モンスター』となってしまった感が否めません。
僕は半ば距離感を置いて本書を半分ほど読み終えた頃、好きな作家の佐藤優氏がラジオでここに書かれていることとほぼそのままの見解を話しているのを聞いて、やっぱりキリスト者(佐藤氏はプロテスタント神学)からAKB48を見ても、彼女たちにはそういった側面を持っているものだったんだなと思い、改めてここに書かれている内容を読み通してみたのでした。
「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」
前田敦子ちゃんが第三回選抜総選挙で1位を取った際、壇上で彼女が話したスピーチの内容は有名で、この中には『利他性』というものが存在すると筆者は説いております。この『利他性』というある種の『自己犠牲』はAKBメンバー1人1人の中に刻み込まれており、ついでにいうなれば第五回選抜総選挙で1位となった「さしこ」こと指原莉乃ちゃんの中にも確実にそれらが存在すると思うのです。
僕はこの辺のことをまったくわかっていないのですが、『アンチ』という存在がいて、1つはAKBそのものに対して否定的な、もしくはまったく興味の無い『AKBアンチ』もう1つはAKBの『ヲタ』のなかに存在する『AKBヲタ内アンチ』というものがあるそうで、これは昔日の会社の中にあった『派閥』のようなものだなと思っております。日ごろは『○○アンチ』や『××アンチ』といったようにメンバーやそのファンたちを非難していても、外から彼女たちの悪口を言われればガッチリと結束する。そういう風に捉えております。
しかし、彼ら彼女らがネット上に膨大な量で排出する匿名の批判。場合によっては誹謗中傷とも取れる発言の数々になぜああも耐えうることができるのか?その疑問に対しても筆者は、握手会や劇場公演などのナマで彼女たちを見る機会、さらに直接ファンとメンバーが直接交流できる機会を通じて、『ヲタ』が『メン』に大して語りかける励ましの言葉によってであるという分析は『あぁ、なるほどなぁ』と感じ入ってしまいました。
さらには、AKBグループ独特のシステムである『推し』について、第三章の『なぜ人は人を「推す」のか』で徹底的に語られており、AKBの運営は「偶然性」というものに���られているということや、「擬似恋愛」としての側面を挙げて、彼女たちへの『ヲタ』の想いは恋愛でも性愛でもなく『恋→政=愛』という形態をシステム化させたということや、古典的なロマンチックラブの甦り、さらには彼女たちが成長していくのを「見守る」という「喜び」そして「商品」でありながら人間でもあるというアイドルのある種不思議な存在にぱるること島崎遥香ちゃんの例を用いて解説されており、その『熱さ』に思わず打ちのめされそうになってしまいました。
最後になる第四章の『AKBは世界宗教たりうるか』では
「たかがアイドル、されどアイドル」
で本当に世界宗教になるのか否かということはさておいても、ここまでのシステムを「偶然」とはいえ作ってしまった秋元康氏とわずか7人という観客からスタートし、今やその一挙手一投足までもが衆人にさらされるようになり、その中でも『傷つきながら、夢を見る』彼女たちを『推し』たくなるという『ヲタ』たちの内在的論理や行動原理は少しだけわかったような気がいたしました。
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2021年4月27日、記入。
前田敦子さんと勝地涼さん、離婚を発表した、とのこと。
ウィキペディアでは、前田敦子さんは、次のように紹介されている。
前田 敦子(まえだ あつこ、1991年〈平成3年〉7月10日 - )は、日本の女優、歌手。愛称はあっちゃん。
元既婚者で1子の母。
女性アイドルグループ・AKB48の元メンバー。
千葉県市川市出身。
2020年12月31日まで太田プロダクションに在籍し、2021年1月1日より、フリーで活動中。
元夫は俳優の勝地涼。
●2023年7月13日、追記。
AKB48の第1期生として、2012年まで活動していたとのこと。
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作者のAKB好きがわかる1冊。というか、それ以外の感想はよくわからない。変に哲学的な表現が多くて、わざと難しく言っているのではないか?と思うほど。ただ作者が単純にAKBにはまっている。というのはよくわかる。
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こじつけだなんだという意見が多そうなのだけど、アイドルとキリスト教を並べて語って共通性を見出だしていくならば、文化レベルの違いからこじつけざるを得ないだろうと思う。
というかこの話題はどう書いてもこじつけと言われるんじゃないか?
個人的にAKBについては「まぁ知ってる」くらいのスタンスで読んだのだけれど、AKBがキリスト教を越える存在になるかどうかは別として、現代社会の新しい宗教として見てみるのは非常に面白いアプローチだった。
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この著者、AKBの追っかけしてるからじゃなく、
自著の想定読者に届く言葉かどうかを全く斟酌せずに専門用語を轟々と語りまくる、その一人よがりっぷりが
正真正銘の「オタク」なんだと思った。
AKBというシステムを宗教と対比させた視点は面白い。
資本主義社会の中では、こ~ゆ~カタチでしか純愛は成立しないのかも…とも考えた。
でも、これって決して新しいシステムでもなんでもなく、郭や茶屋の女たちだって、古くは白拍子だって、同じように「女」を売って―いや売られて、商売道具にされてたんだよね。
人気があれば着飾った絵姿なんかも出回った訳でしょ?
ぶっちゃけ水商売って普遍の商売なんだろぉな…。
ただ昔は買えたのは富がある者ってだけで。それが庶民まで下りてきたって事か。
貴賤貧富の差・男女の性差別が無くなった今、実際の性交渉が除外されたってだけだよね…とも思った。
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タイトルもすごいのですが、たとえば「はじめに」に、「AKBの不動のセンターであったあっちゃんこと前田敦子が、この現代社会において、いかにしてキリストを超える存在たりえたかについて分析する」という文があったりします。ちょっとこれほどの文は、なかなか見ることのできないのではないかと思います。
内容は、アイドル・グループとしてのAKBの特異性を、オタクの視点から熱く語った本です。吉本隆明の『マチウ書試論』やマルクスの『資本論』などになぞらえているところもありますが、自分の好きな対象と教養を結びつける、いかにもオタクらしい語りかただと思えば、まあ受け入れられるかな、と思います。
匿名掲示板をはじめとする「アンチ」の言説に取り巻かれながら、「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という語った前田敦子の「利他性」に、著者は宗教的な自己犠牲に比するべきものが見られると著者は述べます。その一方で彼女たちは、握手会や劇場公演では、どこまでもファンと同じ目線に立ち、一人ひとりの呼びかけにこたえてくれる存在でもあります。ここに著者は、徹底的に世俗的な次元において聖性を宿すことに成功したAKBというアイドル・グループの特異性を見ようとしています。
ファンに近いところにいて、自分たちの呼びかけにこたえることでますます輝いていくメンバーを見ることの興奮はよく伝わってきました。ただ、本書で語られるAKBというシステムの原理は、匿名掲示板などに溢れるアンチの言説が彼女たちに向けられるという現実と背中合わせになっているようにも感じます。
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タイトルからしてブッ飛んでいる本ですが、内容には一部共感できるのは、私がAKB好きだからかも知れません。
なので、この本をオススメする方の条件は、まずAKBを好きなこと。
そうでなければ、最後のページまで?だらけの苦行を強いられることになると思います。
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題名からして、トンデモ本であることは間違いなし。狂気の渦の中にいる人のナマの声を出版したものとしか言いようがない。
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このヲタぶり凄いとしかいいようがない。
アンチの存在が、スターを創るという考えは鋭い。そしてアンチに耐えられるのがヲタとメンの近接性にあるというのも納得できる。
それにしてもこの人をヲタを夢中にするシステムを考えた秋元氏の才能は恐るべし。
このシステムから外れた途端にこれまで神の存在だったものがまったく普通の人になることから考えてもシステムの巧妙さがわかる。
ヲタもメンバーもそのシステムの中で踊っているだけなのだが、両者とも幸せならばそれでよいというのがこのシステムの巧みなところ。
願わくば、システム内で踊らされる側よりもシステムを作る側になりたいものだ。
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この本が出たのは五年前。あまり深く考えずに手に取ったのですが、この時差がけっこう面白いかも。私はアイドル界のことはよく知りませんが、当時は的を射ていた分析も、年月が経つとまた違って感じられるかもね。前田敦子さんも結局は消費されていく芸能人の一人だったのかなあと思ったり、頂点を極めたらあとは落ちていくのが自然の理なのかなと思ったり、いろいろ感慨深かったです。
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前田敦子も卒業しているし、そのライバルの大島優子も卒業し、そのブームも一段落した現在、読むにしては完全に時期を逸したけれど読んだ。志向性を持った集団やムーブメントとしてAKB48を宗教として読み解くという試み。宗教者からは冗談じゃない。ということになるかもしれないけれど、当時の情報の中にいれば、こういう読み解きを有効にするだけの熱量があったようにも思う。あまりに難しく語りにくい事柄としての宗教をポップ・アイドルを使って客観的になぞらえて考えるのはきっかけとしては悪くない気がする。
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前田敦子はキリストを超えた・・・知らんけど、
「私の事は嫌いでも、AKBの事は嫌いにならないでください」
人類の罪を背負って磔刑に処せられたキリストにちなんで、
「ゴルゴタの丘のあっちゃん」という著者の的確な例えのセンスすごい。
AKB総選挙の始まりについてを知り、
とても興味深く、社会史との近似性を感じた。
秋元康独裁政権 → デモクラシー → 総選挙
これは学校教育に取り入れてもいいくらいの
社会学のモデルケースではなかろうか。
理屈っぽい語りによるオタ心理も読めておもしろかった。
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宗教というよりはリーダー論バージョンⅡって感じでしょうか...。プロダクトライフサイクルとロングテールの違いに改めて気づく...。
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2021年7月12日読了。「私のことは嫌いでも、AKBのことは嫌いにならないでください」という有名な前田敦子の、2011年総選挙でのスピーチに象徴されるAKBの「宗教性」・アイドルを超えた何かについて「近接性」「偶発性」のキーワードをもとに読み解こうとする本。「空虚な中心」ということ?圧倒的に優れたものがセンターになるわけではない運営が「アンチ」も取り込みうること、それぞれ異なる「推し」を持つファンもアンチも巻き込むシステムが「総選挙」であること、など…。ガチのAKBヲタが書いているだけあり、特に後半・ぱるる推しをカミングアウトしてからの章はキモくて読んでいられないが、筆者の主張自体は興味深く読んだ。現在の〇〇坂などのグループも、AKBシステムの発展形として考えてよいのだろうか?