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あまりにもむごい。むごすぎる。
閉め切った部屋で、気温がおそらく40度を超える日もあったろう、もちろん食事も与えず三歳と一歳の乳幼児は、汗もなめ、尿も飲み、便も食べていた形跡があったらしい。(本書には書かれていないが)そして寄り添うようにして変わり果てた姿で発見される…。
本書はなぜ、このような状況に陥っていったのかを、
この被告の立場が紐解いていくのである、けれども、
いくら、生育歴がとか、解離性人格障害だとか、一因はあるかもしれないけど、でも、犬や猫にも自分が産んだ小さくて弱いものを守る保護本能があるのに、
それ以下としか思えない。
結婚を機に立ち直るチャンスはあったのに、そのつかの間の幸せさえも、自らの浮気で壊してしまうのである。
果たしてこの被告は塀の中で、自分の犯した罪の重さを
、いまだ認識できていないのではないかと疑問になった。
(殺意はなかったと言ってるらしい。)
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いたたまれない気持ちで読んだ。女性は自分で身を守れないと被害者になりがち。まして、彼女のように居場所がない状態で育ったらなおさら。今の日本はこういう事例に対処できないかも。
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○ルポライターの杉山春氏の著作。
○2010年夏に起こった大阪二児置き去り死事件について、加害者である母及びその周囲へのインタビュー等を通じ、「なぜ防げなかったのか」「原因はそもそも何か」「周囲はどのようにすればよいのか」といった、数多発生する虐待事件への対応について、問題点を提起する作品。
○関係者へのインタビューや裁判記録等から、この事件の残酷さが、本文中からひしひしと伝わってくる。特に、インタービューの生々しさや児童の苦しみに関する描写は、不快に思うほどリアル。
○日々のニュースで、あまりにも多くの虐待事件が報道され、一部で麻痺してしまっている感もあるが、本書を読むと、その残虐性がよみがえってくる。
○加害者である母についても、やや同情すべき点はあるのかもしれないが、それを含めて、自分の身近にありつつ知らない世界を思い知った気がする。
○ぜひ、子どもを持つ親は読んでもらいたい。
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2010年に大阪で起きた2児置き去り事件のルポ。母親のとった行動は当然ゆるされるべきではないが、ルポを読み進めるうち、母親が誰にも頼らず、頼れない状態であったという側面も見え隠れする。周囲も結局2人の子供を助けられなかった。一見、特異な事件のようで実は身近に同様のことが起こりえる、そのリスクに気づかされる一冊。
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センセーショナルな「虐待死事件」の背景を丁寧に掘り下げることにより、貧困問題、社会的孤立問題など、現代社会を取り巻く諸問題を露わにするルポルタージュの力作。
深く潜っていて目に触れられず、そして誰しも目を向けたくない問題だと思う。しかし過去を振り返ると、私自身もこうした問題に関わりを持つ当事者の一人だということに気が付かされる。
ページをめくるのたびに気分が重くなる本だった。
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この事件はセンセーショナルだった。
同じく子を持つ親として、なぜこのような行動をとったのか?取らなければならない事情があったのか?気になり手にした。
14/02/03-10
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何故、あんな惨い事が起きたのか、
特別な事だったのか、誰にでも起こり得るのか
防ぐ事は出来なかったのか…。
参考になるルポ
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良書だと思います。
当たり前に考えたら、起こりえないことが起こった場合(この場合、母が子をこんな目に合わすなど、愛してるいたらあり得ない)こんな異常なことができる精神状態になってしまう経緯に興味があります。
もちろん、罪は果てしなく重い。
でも、鬼畜母、極刑、と叩いているだけじゃ、何も変わらないと思う。
罪のない子ども達が、今この瞬間も闇の中に飲み込まれようとしている。
私も4歳の娘がいます。
子を持ってしみじみ思うのは、親が幸せでなければ、子を幸せにすることはできないということです。
物心両面の基盤を失った母親が、なお変わらず子に愛を注ぎ守っていけるか...
自分だって同じ状況になれば、他人事ではないかもしれません。
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世間を大きく騒がせた大阪で起きた幼児の置き去り事件。
起きてしまった結果は悲惨極まりなく、当事者である母親がその罪を償わなければならないことは自明の理だ。だが、母親を責めるだけではこの事件の本質は決して解決しない。
母子家庭、貧困、虐待、児童相談所、行政の関わり、人と人との関わり、親子関係、生育環境、あらゆる事が少しずつ噛み合わない方へ噛み合わない方へと転がっていってしまった。もしかしたらどこかで救えていたのではないかと、今から見ればそう思えるが、その時はそこになかなか辿りつけなかった事が、この事件をここまで悲惨なものにしてしまった。
懲役30年が確定したというが、果たしてそれは妥当な量刑なのか。
彼女だけの責任なのだろうか。
判決には、虐待の負の病理の検証が不足しているように思えてならない。
行政であれ、家族や友人であれ、適切な援助で救える命がある。でも、家族や親子というごくごく個人的な関係下での事案なだけに、援助が難しくなる側面が確かにある。
困難を抱えた人をどうやったら救い出せるか、助けを求める余裕すらない、細い細い隙間へ落ち込んでしまった親子をどうしたら見つけ出せるか。
今この瞬間にも、ギリギリのところで持ち堪えている親子がいるかもしれない。
どうやったら彼らを救えるのか。
できうる限りの手立てを尽くし、なんとか助け出してほしい。
もう二度、こんな辛い事件は起きてほしくない。
「助けを必要とする人たちが孤立し、自分に向き合えず、助けを求められなくなることがネグレクトの本質だ」
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2010年、マンションの一室に二人の幼子を、真夏日に何日も閉じ込めたまま外出し餓死させた事件。このルポに書かれていることが本当なら、母親の周りには、誰一人として、幼い子供たちが現在どういう生活をしているか本気で心配する人がいなかったと思われます。人に頼れずに育った情緒不安定なこの母親は、何か得体の知れないやり切れなさから逃れようとするように、家出をしたり嘘をついたりを繰り返す。そのたびに家族は落胆し翻弄されます。「母親」「妻」「娘」としての期待を裏切った彼女に対して「こんなに面倒をみてやったのに」「こんなに親身になってやったのに」という被害者としての処罰感情を持った人ばかり。お前なんかもう知らん、子供を生んだからには母親なんだから子供の面倒をみるのが当たり前とでも言っているように、「しっかり母親をします」と念書まで書かせて、彼女と子供を大海に放してしまいました。裁判の証言で、家族からは「生活に困っていると言ってくれたら助けたのに」という受動的な発言ばかりで「あの時、自分にも何かできたかもしれない」という発言をする者がいないことに、この事件を知った時の数倍も強いショックを受けました。子供を一人では作れないのと同じで、けっして一人では育てられないです。よく言われる「女手一つで育て上げた」というのは誇張だと思います。なんらかの形で周りが助けてくれてたんですよ。どうかこの事件が、何かの導きをもたらせますようにと祈らずにはいられませんでした。
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3月の終わりに『永山則夫 封印された鑑定記録』を読んだとき、まだ読んでなかったけれど、『ルポ 虐待 大阪二児置き去り死事件』は、たぶん同じような本なのだと思った。そして、4月半ばに『ルポ 虐待』を読んだあと、もういちど『永山則夫』を読んだ。
二つの本は、やはり似ていた。
"母"の呪いにさいなまれるという点では、『ルポ 虐待』は、『障害のある子の親である私たち』にも似ている気がした。母はこうあらねばならない、親なのだからこうすべきだといった呪い、「やさしく愛情にみちたお母さん」という呪いが、母でもある女性をくるしめることがある。
2010年の夏、幼い2人の子どもの死体が大阪市内のマンションで発見された。2人の母親は「子どもを放置して男と遊び回っていた」とものすごい非難を受けていた(私はあとから頼まれてこの事件の発覚当時の新聞記事を図書館で集めたこともあって、よけいに印象に残っている)。
複数のメディアが、母親の芽衣さん(仮名)に拘置所で接見し「なぜ子どもたちを放置したのか、どんな気持ちだったのか」と尋ねている。そのひとつ、事件発覚から半年以上が経った時点でのインタビューで報じられた芽衣さんの「肉声」は「考えても考えても、自分がやったこととは思えない。なぜこうなってしまったのか、自分の中でもまだ整理ができていないんです」(『週刊現代』2011年3月5日号)というものだった。
「なぜ、わが子をネグレクトして亡くしたのか。答えを見出すには、自分自身に向き合う長く厳しい作業が必要だろう。治療の力を借りなければ、自分を取り戻すことはできないのではないか」(p.13)と著者は考え、芽衣さんに初めて会ったときに踏み込んだ話はしなかった。
著者と会った理由を「子どもたちの仏前にお菓子を供えてくださったと手紙にあったからです。お礼がいいたくて」(p.7)と語った芽衣さんとは、その後何度か拘置所を訪ねたものの面会はかなわなかったそうだ。著者がそれから芽衣さんの姿を見たのは一審の法廷。
大阪地裁でおこなわれた7日間の裁判員裁判(一審)で、芽衣さんは懲役30年の判決を受けた。芽衣さんは上告したが、二審判決は控訴棄却、「殺意はなかった」とさらに上告したものの、2013年の春に最高裁は上告を退ける決定をし、懲役30年の判決は確定した。児童虐待死事件としては例をみない年数である。
著者は、芽衣さんとは会えないまま、事件の経緯を追い、芽衣さんの人生をたどる。芽衣さんが夫と子ども2人と暮らした町を歩き、実父や元夫、近所の人たちや友人たちの話を聞き、裁判での証言をまじえて、芽衣さんの生育歴を記していく。
若い結婚をして、間もなく妊娠した芽衣さんは「早くママになりたかった」と心理鑑定で語ったという。芽衣さんは、離婚を考えてはいなかったが夫の親を交えた話し合いで離婚は決まってしまい、自分は育てられないという声をあげられないまま、芽衣さんが幼い2人の子を引き受けることになっていた。
ひとりでの子育ては、芽衣さんに「見捨てられた幼少期の自分」を強く感じさせたのだろう。まるでかつての自分を見る���うなわが子の姿から芽衣さんは目をそむけ、その姿から逃げるのに必死だった。「自分」を直視できず、夢の世界に逃げた。それが瞬く間に50日という放置の時間となった。
悲劇の真因は、芽衣さんが「よい母親であること」に強いこだわりを持っていたことだ、と著者は書く。
▼だめな母親でもいいと思えれば、助けは呼べただろう。「風俗嬢」の中には夜間の託児所にわが子を置き去りにして、児童相談所に通報される者がいる。立派な母親であり続けようとしなければ、そのようにして、あおいちゃんと環君が保護されることもあったのかもしれない。
だが、芽衣さんは母親であることから降りることができなかった。
自分が持つことができなかった立派な母親になり、あおいちゃんを育てることで、愛情に恵まれなかった自分自身を育てようとした。
だからこそ、孤独に泣き叫ぶ子どもに向き合うことができなかった。人目に晒すことは耐え難かった。母として不十分な自分を人に伝えられず、助けを呼べなかった。
結婚当初、芽衣さんの自尊心を支えたのは、家庭であり、夫の存在、健康に育つ子どもたちだった。不安で自信のない芽衣さんは、あらん限りの努力をしてその虚像を支えようとした。だが、頑張りは長くは続かない。理想の姿が崩れかけた時、それでも持ちこたえて、関係を持続することよりも、別の世界に飛んだ。それが芽衣さんが幼い時から長い時間をかけて習慣としてきた困難への対処方法だったからだ。(pp.255-256)
その芽衣さんの姿は、努力するものの空回りして疲れ切ってしまい果ては身ひとつで逃げ出す、というパターンを繰り返した永山則夫に重なってみえる。愛情や褒められることや尊重されること、そういった頑張れるエネルギー源となるものを芽衣さんも、ほとんど持てていなかった。
永山則夫が当初の鑑定では語らなかったことを、3、4年経ってからようやく石川医師の前で語ったように、時間をかけなければ芽衣さんの心にも、事件の真相にも迫ることはできないだろう。芽衣さんのケースは、一審の裁判はわずか7日間、事件発覚から3年足らずで判決が確定している。
永山則夫の鑑定で石川医師が全身全霊で永山の人生と向き合ったように、芽衣さん自身が自分の人生を振り返り、たどり直すことに伴走できる人がいれば、そして時間があったならと思う。
▼芽衣さんは最後まで、母親であり続けることを望み、殺意を否定した。
芽衣さんは、離婚の話し合いの場で、「私は一人では子どもは育てられない」と伝えることができれば、子どもたちは無惨に死なずにすんだ。その後も、あらゆる場所で、私は一人では子育てができないと語る力があれば、つまり、彼女が信じる「母なるもの」から降りることができれば、子どもたちは死なずにすんだのではないかと思う。そう、問うのは酷だろうか。だが、子どもの幸せを考える時、母親が子育てから降りられるということもまた、大切だ。少なくとも、母親だけが子育ての責任を負わなくていいということが当たり前になれば、大勢の子どもたちが幸せになる。(p.265)
芽衣さんは私と同じ誕生日だった。下に妹が2人というのも同じ。この本では妹さんたちの話は出てこなかった���れど、姉の起こした事件のことを、妹たちはどう思って見たのだろうと、ちょっと考えた。
(4/14了)
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2人の子を餓死させた母親が、誰にも助けを求められないと思い込んでいる孤立した状況にあって、そういった意味では被害者ともいえるような立場の人だったということがわかった。
でも、こちらから連絡をしても返事をしてくれない、助けを求めてくれない人やその子どもに対して、社会や行政はどうやって介入していったらいいんだろう。ここまで特殊な状況にある人をすくい上げるにはどれだけの時間と労力が必要なんだろうと思うと、今後こんな事件がまた起こらないとも限らないなと思ってしまう。
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虐待された子供に携わる人間の
誰一人として、リアリティがない。
子供や孫が、心配なら、
何故、子供が成長するために
現実的な援助をしなかったんだろう?
特に経済面で母親が苦労する=身内である子供が辛い思いをするとは想像しなかったのか?
安易に産んで(産ませて)安易に放棄する
エイズの心配から、性教育が早まったけど
家庭の在り方や、困った時の現実的な対処法とか
義務教育で教えていければいいのにと考えます。
身の回りで誰も助けてくれないなら、
行政に丸投げでもいいじゃない。
命を殺してしまうよりは。
生育歴から、彼女の選択が、
間違った方へ間違った方へと流されていく動きが、とても切なかった。
だからといって犯した罪の大きさは計り知れないけれど。
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親から虐待やネグレクトされた子どもが、親になって子どもに虐待、ネグレクトする。この負の連鎖をどこかで断ち切る仕組みが必要と思う。かつては、その役割を大家族制や地域社会が受け持っていたのだろう。しかし、そのような受け皿が無くなった現在では、やはりその役割は行政に頼るしかないと思う。
この事件が起きた当時は、母親の身勝手さに憤りを感じたように記憶しているが、「誕生日を知らない女の子」や本書を読むと、上記のように違った感想を覚える。
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どうすればこのような事件が防げるのか思いながら読んだ。母親一人の責任とするには余りに酷。実父がもっと包容的なら、実母がもっと便りがいがあれば、元夫家族がもっと寛容なら、児相が母親と会えていれば…など、こうだったらと思うことはきりがないが、母親はどの救済可能性にも引っ掛からなかった。どうすればいいと言うことは一言では言えないが、虐待、精神疾患、育児、家族等々、今後人として生きやすい世の中にしていくための課題が多いということだけは理解できた。