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ショウペンハウエルについて
読書についての考え方がよくわかったが、なにか訳者によって変形されているような気がした
原著を読んでみたいと思った
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読書をすることで教養が深まると漠然と考えていた時期に見つけて購入した本。
ショウペンハウエルの読書論。
読書を食事にたとえて話していたところ面白かった。
読書とは他人に考えてもらっているということである。
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ショウペンハウエルは祖国がオランダ。オランダはスピノザやデカルトなどもいた。
たくさん読書すればするほど、それだけ読んだ内容が精神にあとをとどめることが少なくなる。実に多くの学者がこの例に当てはまる。彼らは読書をしてバカになってしまったのである。
書くための天賦の才能は読むだけで出てくることはない。書かないとダメ。
読書に費やすことのできる限られた時間をもっぱら、あらゆる時代と民族の医大な、他の人間からはるかに傑出した精神の生み出した作品に充てよ。
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【引用】
・読書とは、自分で考える代わりに他のだれかにものを考えてもらうことである
・大量に、またほとんど一日じゅう読書する人は、自分で考え能力をしだいに失ってゆく。
・反芻することによってのみ、人は読んだものを身につけることができる。
・もともと天分として本人に具わっていることが前提条件となる。それが、読書による人格形成によって作家になる唯一の方法である。
・図書館の書架には、過ぎ去ったいくつもの時代の誤った見解をあらわした書物が並べられ保管されている。
・書籍見本市の分厚いカタログを眺めて、十年後にはこれらすべての書物のうち一冊も生き残っていないであろうことを慮るとき、だれが涙せずにいられようか。
・著者・出版業者・批評家は強固に結託している。社交の場で話題とするために、いつもみなが同じもの、最新のものを読むように調教された。
・良書を読むための条件は、悪書を読まないことである。
・本物の文学は真摯に、静かに、そしてことのほかゆっくりとわが道を行く。うわべだけの文学は、あたふたと駆け抜けてゆく。
・書物を買うのは良いことだ。ただしそれを読むための時間もいっしょに買えるならば。だがたいていは書物を購入することで、その内容までわがものにしたと勘違いする。
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ショーペンハウエルさんの本から抜粋した内容を解説しているのかな。
渡部さんの個人的な見解が入っていたので、分かりやすくなったと思う。
しかし、サブタイトルの知力と精神力を高める本の読み方についてはよくわからなかった。
つまり色々読んでみろってことかな、と思いました。(これは渡部さんの意見)
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ショウペンハウエル「読書について」の渡部先生によるコメント集である。比較言語学が学問を押し進めるもの、構造言語学がそれに付随したくだらないもの(流行)、と言う指摘(150ページ)には驚いた。たしかに、私が大学時代、「音声言語が言語の本質」と言う前提は疑われることなく、信じられていた。今でもそうではないか。それを指摘した渡部先生のブリタニカの付録を読みたい。
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▲ショウペンハウエルの読書についての箴言集に渡部昇一先生のコメントがついている。▲「読書とは、自分で考える代わりに他のだれかにものを考えてもらうことである。」だから読書から安堵が得られるときがある。自分で考えることを避けたらいけない。▲ショウペンハウエルは古典を読めという。悪書を読まず良書を読めというが、渡部昇一先生は通俗小説からも学ぶことがあったという。どんな本からどういう人生のヒントが来るかわからない。本というのは読者によって変わることがあるものなのだ。
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新訳ショウペンハウエルの『読書について』ということで
新訳で読書についてという名著を読めると思って
買いましたが。。
全く意図の違う内容でして、訳者の渡部昇一氏の完全な
自作で、ショウペンハウエルの『読書について』は訳者
の言いたいことや書きたいこととこじつけた一文程度が
のせてあるだけ。。。
また訳者の言いたいこともあまりにも陳腐でほとんど
読むに値しないものになっているような気がします。
これって詐欺じゃないかと思ってしまいます。
これは本当にひどい内容であると思いました。
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なかなか面白かったです。
個人的には、ショウペンハウエルの言っていることはかなり納得して、理解できたのですが、解説の人があまり合いませんでした。
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サブタイトルの通り「知力と精神力を高める本の読み方」ということで、時間を無駄にしない系のお話がちらほら。
読み方のスタイルによって、意見の合う/合わないがすごくある本かなと思いました。
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漠然と「読書は勉強になる」と考えていると、読書は勉強にならない。この本は、そのような読書を痛烈に批判する。
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「読書とは、自分で考える代わりに他のだれかにものを考えてもらうこと」という痛烈な一節で有名な本書。「読書してるからそれでいいと考える人への警鐘本」だと奥様に薦められて図書館で借りた、ら。
渡部昇一の独壇場でした。
これ、「新訳」とはあるけれどまぎらわしいかも。読むとしたら、本家が先だと思う。途中で放棄。
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4
読書については本来2巻本の一部であり、これはさらにその断片を切り取り、致知で著名な渡部昇一が、訳と自身の異論を含む解説をつけた形式。以前の本を読む本でもあったが、解説・解釈があっているかは確認すべきだが、それなりに納得はできる解釈。原著の内容よりも訳者のエピソードが面白い。読書後に自分で考える・書く・伝える・自分の意見を述べるといったアウトプットをしないと意味がない。渡部は本に、妻は自宅に金をかけ教養と快適な暮らしを生前から享受。子供に金を使う話や自身の哲学にお金を使う話は非常に感銘を受けた。
父の自殺、母との相性が悪い、母や妹の小説の方が売れた、この辺りは彼の哲学を読む上での前提。
「読書とは自分で考える代わりに他の誰かにものを考えてもらう事」「大量に、また一日中読書する人は自分で考える能力を次第に失っていく。自分の思考への従事から離れて読書に移るとき安堵感を得られるのはそのため。」文章を書いたりアウトプットすることは自分で考えながらやらないとできない。読書ばかりしていても、それについて自分で考える・書く・伝える・自分の意見を述べるといったアウトプットをしないと意味がない。論語なら、学びて思わざれば則ちくらし思いて学ばざれば則ちあやうしの前半部分。
「反芻することによってのみ、人は読んだものを身につけることができる」これは哲学書的な一読で理解しづらいものだけではという感じ。訳者も異論を出し、全ての本でやる必要はないと説く。訳者は雑読・多読により取捨選択できるようになるとともに時期を空けて年を取ってから再読することで感じ方や得られるものが違うというスタンス。これは正しいと思う。
「読書に費やすことのできる限られた時間を、あらゆる時代と民族に偉大な、他の人間からはるかに傑出した精神の生み出した作品、評価のゆるがないこれらの作品にあてよ」いわゆる古典や名作と呼ばれるものだが、こればかりでは正直読書が嫌になる経験も。色々読むほうが結局続く気がする。
「良書を読むための条件は、悪書を読まないことである」訳者も否定的で、自分の母や娘が書いているような通俗的小説などを悪書といっているのかもしれないが、そもそも良書を見分けるための力は多読から生まれるものだと説く。また、哲学等については、身の程を知るべきであって、分かりもしないうちに分かった気になっても意味がない。分からないこともあるという方が本当だろう。
渡部は、ベストセラーはなるべく読むようにしているらしい。少なくともその時代の何かを反映していると思うから。時代を見るために、過去のベストセラーに関心があるとのこと。詩も意外に年をとっても読めるらしい。自分なりの解釈がしやすいからかも。
「頒布は習得の母と言われる。とにかく重要な書物は間を置かず二度読むべき。結末を知ることで冒頭を正しく理解できる」ある意味その通り。間を空けて読むのもあり。
渡部は、アメリカで客員教授をしていた一年で現地の通俗小説ばかり読むようにしたらしい。現地の人と同じぐらいに楽しめるようになりたいと思い始めたとのこと。中でも「エリザベス・アルプトン」が役に立���たと。子供が不良になり、親が金をかけてくれたらと言われる話だが、ここから、「子供というのは、必要なときに金を使ってならなければ駄目だ」と感じたらしい。そこで、渡部は、借金してでもと覚悟し3人の子供を望まれた音楽の道に勧めたらしい。弦楽器で留学もさせたらしい。貯めていたらちょっとした資産家になったかもしれないが、子供が年をとってからお金をもらっても意味がない。旅行など散財するくらいしか使い道がない。渡部は本に金をかけ、妻は自宅に金をかけるというスタンスらしい。教養と快適な暮らしを生前から享受できる。
子供に金を使う話や自身の哲学にお金を使う話は非常に感銘を受けた。特に、子供の話はこの通りにしなければと感じた。野村監督の座右の銘を思い出す。「金を残すは三流、名を残すは二流、人を残すは一流」。「財を残すは下、仕事・業を残すは中、人を残すは上」という後藤新平。
史記もよいがだらだら長いので十八史略がコンパクトでいいらしい。また、何が古典として残るかについて、アーノルドベネット曰く、少数の熱狂的な読者を持った作家のみが残るということであった。大衆小説の流行作家の本が消えていくことを思うと説得力がある。渡部曰く「自分にとっての古典とは、自分が繰り返し読む本」。
ショウペンハウエルの悲観の哲学。人間の根底にあるのは「生に対する盲目的意思」であり、人間は満足することなくこれに動かされ、終わることなき苦悩となる。この哲学が悲観と言われる所以。仏教にも影響を受けており、苦悩から逃れる方法として、解脱のようなことを説く。1つは、生に対する盲目的意思を捨てる。例えば、童貞・未婚・粗食など。もう1つは芸術に触れること。一時的ではあるが、芸術的な直観はあらゆる制約から脱して事物を直観的に感ずる。
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反芻することによってのみ、人は読んだものを身に付けることができる。
という指摘は鋭いと思った。
反復は習得の母らしいので実践したい。
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ショウペンハウエルの「読書について」を読もうと思って手に取ったら、右寄り爺さんの居酒屋噺だった。。
冒頭のデカンショのくだりでなにやら悪寒を感じたのだけど、つい撤退できずに読み切ってしまった。
ひょっとしたら「読書を盲信してこんなものを崇めるなよ」と、身をもって教えようとしたのかも。
いや、ないな。