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本質を語っている本だと思う。本気で教えるということは、このくらいエネルギーを使うことなんだと教えてくれた。
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インタビューで少し流れがわかりにくいところもあるが,どういった価値観を大切にしているのかがよくわかる本。
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「自ら学ぶ」という現在の教育界のブームに流されず、教師の役割としての「教えること」を大切にしようという著書。
児童・生徒の学びの裏側には、教師の周到な準備を要することを大村はまの実践を踏まえながら主張する。
○キーワード
・徹底したリアリズム
・てびき
・なぜ教えるのですか?
・考えることを教える
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本当に、本当に、よい本に出会った。
ここまで心を揺さぶられたのは、どれくらいぶりだろう?
読み進めるたび、涙腺が緩むような感動があった。新しい冒険に向かう朝のような興奮があった。埋れていた大切な思い出をふと思い出したときのような発見があった。
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大学生の学習においても使えそうなことが多い。
教師を目指す者,すでに教師になった者が教えることを立ち止まって考え,その行為に没頭することから始まるのだろう。
手引きという言葉が印象的だった。
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大村はまと苅谷剛彦・夏子夫婦の対談を元に、苅谷剛彦が教育論を語った本。目新しいものは少なかった。
第一部は大村との対談。大村の教育観が著作の引用を元に取り上げられているので、彼女の教育観のまとめの本としては良いかもしれない。
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何を思いながら教師は教壇に立つのか
何を思いながら生徒は椅子に座るのか
生徒は受け身でもまだいい
しかし教師はそうはいかない。
何を教えたいのか
何を学ばせたいのか
どんな力を社会は必要とするのか
どんな力がこれからこの子を支えていくのか
考えない教師はきっといない
でも日々の業務に追われ
忘れる教師はきっと多い。
忘れたままにしないように
「教えたい」
という初心に戻るために
本書は有効となるだろう。
情熱だけでは教師になれない
時々で自分に対して
授業に対して
子どもに対して
「クール」な評価を下せる
そんな教師で溢れてほしいと願う。
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東大卒のご夫婦が、戦後の荒野から50年、国語教育に精力的に携わった恩師を訪ね、現在の国語教育を見直すという内容。
・貧乏な時代でも勉強には惜しまずお金を使う
(生徒の作文はきれいなリボンで結んだり)
・事前準備を徹底的にする。イメージし尽くす
(うまく行かなくてもやらないよりずっといい)
・何十年やっても余裕なんて生まれない
(日々全力。よりよい教育を模索する)
そんな内容が印象に残っています。
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http://www.chikumashobo.co.jp/product/9784480059994/
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いきつけの料理屋がある。使用されるのは大将自らが収穫した旬の野菜。大将はこちらが好きな料理を熟知してくれていて,新しいおすすめをさり気なく紹介してくれる。常に新しいメニューが登場し,頻繁に通っても飽きることがない。自然と饗されるその一皿に,人知れぬ苦労があることを大将の所作から感じられる。さらに,遠方から来店した客への心配りも忘れない。客に美味しい物を提供したいという大将の心が,痛いほど感じられる。
本書を読んで,そのように相手に心を尽くすことの共通点を感じられた。
「教えることの復権」と題された本書。教育社会学者である刈谷剛彦らが,国語教育の大家である大村はまの指導法と対談をもとに,教育力の低下をもたらした原因を探っていく。責任と学習を学ぶ側に放り投げた現在の教育には無い,教師がやるべきことが描かれる。
その内容を要約すれば「相手をよく知り,新鮮な教材を使用し,適切なタイミングで言葉がけをして,当人が知らぬ間に成長の実感を持たせる」とでもなるだろうか。
もちろんそのためには,膨大な準備がいる。しかし,教えることの魅力はそこにある。刈谷が言う「偶然の要素はあるにせよ,教える側が準備しなければ,ますます稀にしか訪れない魅力の時間」を楽しめている教育者は,はたして今何人いるのだろうか。そして,自分はそうなれていたのだろうか。
以上のようなことを考えていると,経営者の一方的な都合で客の状態を考えずに提供されるチェーン店やコンビニの料理を手に取る度に,そこに自分の顔があるような気がして反省させられる。そういう意味で,今後も自分の人生に影響を与えてしまう一冊であると言えるのだろう。
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大村はま先生をご存知だろうか。私は名前だけ知っていて、テレビで少し見ただけで、どんな取り組みをされていたのかほとんど知らなかった。たまたま教育社会学者の刈谷さんの本でも読んでみようと探していて出合った本だ。大村先生の実践されてきたことを読み、もうぶったまげた(こんなことばしか思い当たらない)。以前、林竹二先生の教育実践例も読んでびっくりしていたが、それは1年に1回だからできるのかな、などと失礼にも考えていた。しかし、大村先生は普通の中学の国語教師で、普通の生徒たちを相手に、日々新しい取り組みを実践されてきた。いろいろな教材を使って、同じことを2度繰り返さない(違う生徒に対しても)というのだからすごい。いつも新鮮な気持ちで授業に臨むためだという。100人の生徒に、100人違う文章を渡して、それについて考えさせる。それぞれに考える道筋の手引きを添える。それぞれの生徒のことを良く見ているからこそできる技だ。戦後間もないころは、荷物を包んでいた新聞紙の切り抜きも教材になったらしい。看板や標語、広告なども教材になる。身の回りのものすべてが教材だ。「総合的な学習の時間」を50年以上前から実践してこられたわけだ。最近の先生は、子供の自主性ということを尊重するあまり、大切なことを教えていないという。大村先生に対しては教えすぎとの批判もあったようだけど、教え込まず、教えすぎず、ほんの少し生徒の背中を押してあげる(ヒントをあげる=考える手引きを示す)、そして生徒はそのことに気づかない、自分でできたという達成感を味わえる。そんな教育ができたら素敵だなあと思う。もっと、大村先生の本が読みたくなった。最近、大村先生は100年近くの人生を終えられました。
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以下引用。
多分迫力の問題。迫力が伝わって、一度で聞きなさいって言えば一度で聞こうとしたし、素直になれた
はじめからこれをやるんだという堂々たる教師の姿勢
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2003年刊行。
日本が生み出した最高の国語教師の一人に数え上げられよう大村はま氏。
師の最晩年の教え子とその配偶者(「階層化日本と教育危機」の著者である東京大学教授)らが、時には対談、時には師の授業風景を回想、また、同じ教育者として論を交わすというごった煮のような書である。
大村氏はもちろんだが、苅谷教授も一教育者としての体験を誠実に語る点は好感を持てる。
そして、教えることの重要性は尤もで、何らの異論はない。が、疑問が残る点もある。著者たちは学校教育の中心は教科教育・学習と考えているが、学校運営においてそれでは不十分という実情だ。
また、考える授業(総合学習)を展開するにあたり、優秀かつ真摯な東大生を相手にする苅谷教授ですら、相当の事前準備をし、2人の院生の手助けを得た上で、わずか週2コマだけが実施できるだけである。
学びの構えができていない小中学生で、1人の教員が20人の生徒を相手にすら総合学習を実施しうるか。まして、30人なんてとても無理ではないか。
ごく一部の特別に優秀な教員はともかく、多くの教員は大村氏のごとき実践は不可能だろう。
先の生活指導の面も座視できない。結局、学校に関わる人的配分を増加させざるを得ない。だが、財政的にこのような方法論が採れるのか。
苅谷教授は少し触れているが、学校教育で重視されているのは、教科教育に止まっていない。むしろ、生活指導教育を、教科教育よりも一層重視(ただし、「否応なし」にという可能性も高い)している場面もあり得る。
かかる生活指導を教師が行わないという選択をとる場合、一方で、それを親がしない、あるいはできないことは明らかだ。少なくとも、学校内まで親が監督することは非現実的である。
そうなると、別の誰かが実行せざるを得ない。
学校に介入する人員をより増やす帰結となるだろう。
個人的には教科教員以外に、生活指導を主とする教員(俗に体育の先生)、心理的ケアを中心とする教員(保健の先生)、あるいはクラブや放課後授業の顧問を密に行う
教員がいてもいいし、そうあるべきだと思う。
が、現実には、文教予算の削減が取りざたされる今、そういう方向には向いていないだろう。果たして……
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教えることの専門職としての教師の役割についてはっとさせられた。自分がはっきり言葉にできないまま今まで来てしまったのを大村はま先生と刈谷夫妻が引き出してくれた。
「社会人でも勉強はできるが、学ぶことだけを専門にしている時間は生徒、学生でいる間だけ。学校という場があって、教える専門職の教師があって、その中で学ぶことのを専門としている時期の子どもがる。社会の中で特別な場である。」本当にそう思う。
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確かめておく必要があること。
①専門家としての教師は、授業づくりの手間暇を楽しむこ
とができる。
②「教える」ということは、=「説明すること」ではな
い。ここの誤解が解消されないと、一方的な講演型の授
業になってしまう。「教える」ことには、学習者を思考
に導くということが、含まれている。