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投稿者:Straight No Chaser - この投稿者のレビュー一覧を見る
「星条旗の聞こえない部屋」「ノベンバー」「仲間」の三篇は、Ben Isaacというアメリカ人少年が60年代後半、学生運動華やかなりし頃の「しんじゅく」で自らの生きる場所(仲間)を見つけるに至るまでを描いた、ひとつづきの(自伝的)青春小説である。
「Isaac」(アイザック)という名前は、信仰心篤い父アブラハムの手によって危うく神の犠牲にされかかったイサク(旧約聖書「創世記」)につながる、“ユダヤ系”の名前だ。
「獲物の中でめずらしい種を発見したという、昂奮した語調で、
『じゃ、あなたはシオニズムについてどう思いますか』と聞いた。
『どうも思っていません』ベンは実際、そんな問題について考えたことはなかった。
『でも、あなたはイスラエルを支持するでしょう』
(中略)
『ぼくはイスラエルの夢を持っていないユダヤ人です』」
……つまり、安易な読みはいけない、と。
横浜のアメリカ総領事館での家族との生活。W大学の日本語コースでの日本人たちとの時間。日本人の閉鎖性に諦めにも似た怒りをくすぶらせている父。“外人”である自分を「かざりもの」としてチヤホヤする日本人たち。
夜の領事館に響く「ゴーホーム」という呪術的・惰性的な日本人たちの声を聴きながら、少年は思う。
「しかしアメリカ人は、家を捨ててまたは家から追い払われたからアメリカ人なのだ。アメリカ人が、さらにそのアメリカにいたたまれなくなってアジアの港町に寄りすがったとき、『ゴーホーム』は、今まで逃亡してきた道を引返せ、ということだ。……特に、領事館の窓に集まった、アイザックという姓を負っている四人は、『ゴーホーム』と言われても、いったいどこへ行けばいいのか。ブルックリンなのか、上海なのか、それとも幻のエルサレムなのか。」
そして、少年は、自分は「戦争」からの「亡命者」だと語る。しかし理解されない。
「『戦争はあんたたちがやっているんじゃないの』
その『ぼくたち』から亡命しているんだ、とベンは言いたかったが、うまく言えなくて、黙った。」
少年が亡命しようとしている「ぼくたち」とはどんなものなのだろう?
「ノベンバー」のなかに印象的な一節がある。
「何年か後に、ベンは、ある詩人があの日について書いたことばを雑誌で読んだ。あの日、ノベンバーの最後の月曜日だったあの日は、アメリカ人が『公の涙(public tears)を流した最後の日だった』と。」
あの日とは1963年11月25日、月曜日。22日に亡くなった米国第35代大統領J・F・ケネディの国葬が行なわれた日である。(巻末の年譜によれば、13歳のリービ少年は、アーリントン墓地でその葬列を目の当たりにしたのだという。)しかし、べつにケネディ(若く強かった頃のアメリカ?)を礼賛しているとか、そういうことではない。彼がこだわるのは失われた「パブリック・ティアーズ」である。そして彼が目の当たりにした大統領夫人ジャクリーヌのかすかな「苦笑」と、そこに込めらているように思えたもの(「あなたたちはみんな共犯者でしょう。泣くのはよせば」)である。
(だから)彼は、いま日本で徹底的に他者に囲まれ、それでも決して寄り掛る心を許すことがない。そもそも言葉が通じないのだ。これぞ「青春小説」の王道である。
「単行本あとがき」のなかにリービ英雄は書いている。
「ぼくの日本語は、十六、七の頃の居候の中で生まれた。ベン・アイザックのように家出少年が生きのびるために町で拾ったものが、ぼくの日本語の出発点だった。日本語が十六歳の肥沃な内面に根を張り、日本語という膜に濾過されて十六歳の『世界』が何度も生まれ変った。」
日本(語)への越境の物語
2008/06/18 15:46
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投稿者:けんいち - この投稿者のレビュー一覧を見る
いま、ふつうに、「小説を書く」といったならば、その言明が日本語であることにも明らかなように、それは自動的に日本語を用いて、ということになるだろう。これは、日本─日本語に限らず、ある土地で「小説を書く」という時、その土地で慣用されている言語を用いるのが、ふつうだろう。そのことは、多文化主義が謳われ、在日作家の苦闘の後、水村美苗、多和田葉子、リービ英雄といった作家が「日本語文学」という旗印でもって「日本文学」を問い返す今日になってもなお、さほど変わらない。つまりは、相も変わらず、アメリカ人であるリービ英雄が「日本語で小説を書く」ことは、奇異にみえる。であるならば、本書に収められた連作3編が発表された当時、それがいかに「奇異」だったか、それは事件とでも呼ぶべき、常識の裏をかくような衝撃的なものだったと想像される。
本書に収められた3編は、自身の体験をもとにしたと思われる、アメリカ人青年の彷徨の物語である。第一に、それは父の元を離れて成長を遂げていく精神的彷徨であり、第二に横浜から新宿へと渡り歩いていく地理的な彷徨であり、そして何より第三に、アメリカ人として日本語を話すことと周囲の反応への戸惑いといった、出自を基盤とした言語的彷徨である。総じて本書は、主体形成の物語と読めるものだが、主人公が文字通りの「異邦人」として、そのナイーブな感受性とともに形象化されたことは特筆に値する。ここで「異邦人」とは、単に日本にいるアメリカ人というに留まらない。アメリカ人であり、明らかにそうした相貌を持ちながら、それでいて日本語を話す、そこにこそ「異邦人」の「奇異」さが浮き彫りにされている。それは主人公に、例えば次のような形で感受される。
「お前はどこから来たのか。/お前は何のためにここにいるのか。/お前は何で帰らないのか。」
しかも、こうしたまなざしは、日本人ばかりでなく、同国人である肉親の父親からも、明確な言葉として発せられるが、それはそのまま本書のキイ・ノートでもある。
「お前がやつらのことばをいくら喋れるようになったとしても、結局やつらの目には、ろくに喋れないし、喋ろうと思ったこともない私とまったく同じだ。たとえお前が皇居前広場へ行って、完璧な日本語で『天皇陛下万歳』と叫んでセップクをしたとしても、お前はやつらのひとりにはなれない」
それでもなお、「しんじゅく」へと、日本語をもって歩み続けていく本書の主人公は、三島由紀夫『金閣寺』を参照しながら、その主人公・溝口の「吃音」に自身の言語感覚をなぞらえながら、日本に、そして日本語に留まり続ける。ただしそれは決して停滞ではなく、排されようとするそこに留まり続けることは、著しい困難の超克を即座に意味する。
最後に考えておくべきことは、こうした人種/言語をめぐる葛藤が、単に小説の内容として描かれているというばかりでなく、リービ英雄という作家は、それを日本語を駆使して「書いた」ということである。それは、主人公の姿勢の延長線上にしか、達し得ない偉業といってよい。だから、本書は著者自ら言うように「日本への越境の物語」なのだが、それは正確には「日本(語)への越境の物語」であったはずなのだ。
星条旗の聞こえない部屋
2021/07/04 15:53
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
アメリカの外交官の子として生まれベン・アイザックは「母国」とされるアメリカに馴染めず、ユダヤ人コミュニティに拒絶され、帰るべき「ホーム」を持たないまま、父親のもとを離れて日本で家出をする。
父親に禁じられた土地「しんじゅく」を訪れたベンが、どうやって日本人の中にはいっていくのか。
どうしても日本人に受け入れられなかったベンが、生卵を盗み食いすることで受け入れられたにも拘わらず、その事に「恥ずかしさ」を感じるというのは、外国人の日本人の難しさを感じた。
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7点
半分ポーランドの系で半分ユダヤ系で幼いころは中国住んでいて英語を話す主人公が帰る家」に選んだのはアメリカでもイスラエルでもなく日本でした。「帰る家」のない主人公が「家」にしようと決めた日本での言葉の壁・文化の壁や父親との壁を乗り越えようとする主人公に思わずエールを送りたくなるような作品です。
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日本人じゃないけど日本語で書くリービさん。ただそれだけのこと。
なのに、「日本語が普通」なんて偉そうに思ってしまう自分もいる。
ヘレン・ケラーの「ウォーター」がはじめて分かった時のように日本語が分かったり
鏡を見て「あ、日本人じゃない」と日本語で思ってしまう主人公のアメリカ人青年。
なんとなく、分かる気がしなくもない。
舞台が60年代でなく、今の時代だったらこの話はどう変わるのだろう。
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万葉集で興味をもったひと。
ひとを先に知っているので変な感じだった。こころの内側にもぐりこんでいるようだ。ドスたんのあとだからかなあ。ちょっと内側すぎる。近い近ーい!!
細い、白い、階段を駆け下りる。不安だなあ。しかしすごいひとだ〜。窓いっぱいに星条旗がはためいているイン横浜っていうのはすごいイメージだ。
安藤さんかっこいい。異文化に取り込まれていくときの高揚感と、やっぱりだめだという孤独も。
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ゴー・ホーム。国って何だろう、と思ってしまいました。日本という国は目に見えない・実在しない観念上のもので、でもわたしたちは「日本人」として保障され縛られて生きている。ヘレン・ケラーが「ウォーター」という言葉を知ったように日本語を知った主人公。鏡に映った自分を見て「外人だ」と思ってしまう主人公。じゃあ、「日本」はどこにあるんだろう。
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日本人の血を一滴も持たない作者、リービ英雄が母語を離れ日本語で書いた小説。(リービ英雄は「万葉集」を英訳したことでも有名。)しかも「あとがき」によると、スタンフォード大学にいる時に書いたものだそう。
日本語以外を母語とする作家によって書かれた日本語の小説といえば、近年では第139回芥川賞を受賞した楊逸なんかが思い起こされる。その時に、私はいくらかの驚きと違和感をもってその事実をうけとめた気がする。こうした違和感は、私が(自身の読書経験を通して)無意識のうちに、「日本の小説は日本語を母語とする作家によって書かれるもの」という先入観を抱いていたという事実を暴露するものであった。
母語以外で小説が書かれることもあるという事実を私はそれまで知らなかったわけではない。カフカやコンラッドなど、そうした例を4、5人簡単に列挙することが私にはできる。だが、私はそうした先例を知りながらも、自分の母語である日本語においても同様のことがおこりえることに随分と無自覚だったのだ。
ところで、楊逸はごくごく最近のことだが、リービ英雄の『星条旗の聞こえない部屋』が「群像」に発表されたのは1987年3月、今からちょうど23年前のことで、しかもこの1987年3月とは私がこの世に生を受けた時である。23年前にも私のような奇妙な違和感を抱いた人物はいくらか存在したであろうし、そうした衝撃はきっと私が感じたもの以上に激しいものだっただろう。当時の文学界の雰囲気をこの身で感じとることは不可能だが、「異形」のものとして受け取られたであろうことはなんとなく察しがつく。
さて、最後にこの本を読み終えた後の感想を簡単に。この本を読んでいて私はソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』を想起した。「日本」というよく知る自分の母国の話を観て(読んで)いるにも関わらず、異国人の視点を通すことで、そうした自分のよく知る国のことが恐ろしく奇妙なものに感じられるという体験を、両者において同じように経験したというのがその理由。
是非、この本とあわせて、ソフィア・コッポラ監督の上記の映画も観ていただきたい。
ちなみに本書は野間文芸新人賞を受賞している。
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作者リービ英雄が自分を重ねて描いていると思われる17歳の主人公ベン・アイザックが、自分を囲う領事館の壁を越え、言葉の所有権を手放そうとしない「日本人」の壁を越えて、「しんじゅく」の街で日本語を獲得していく経験を、生き生きと、かつ細やかに綴った爽やかな印象の一冊。そのような経験をしてこそ、もう一つの言葉を手に入れることができるのだろう。それと対照的に、一つの言葉のなかに閉じ籠もる日本人の姿も興味深いが、吉本隆明を読んでいると思われる「ますむら」の描写がもう少し掘り下げられていれば、いっそう面白かったろう。今は失なわれた新宿の姿もここにはある。
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マイノリティの物語。そして、マジョリティとマイノリティそのものの物語。
おりちゃった、みんなといっしょにおりちゃった。
この一文はまるっきり初体験の告白だ。なんとも色っぽくて、赤面するような気持ちになった。
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"帰る場所のない"ベン・アイザックが、"あめりか"を抜け出し、日本語の飛び交う東京へと、そして「しんじゅく」へと迷い込む物語。日本語を母語としない作家による、初の日本文学である。
ぐいぐい引き込まれるのはなぜだろうと考えると、まるで自分が幽体離脱――ニホン語の空間を、ガイコク人の体から覗く――しているように感じたからだった。
どれだけニホン人の側に立っても、どれだけニホン人と同じ行動をとっても、どれだけニホン語を使っても、決して入れない「ニホン」という空間。「イングリッシュ・コンバセーション・クラブ」の大学生たちは、ベンに向かって英語で話し、決して日本語という殻を割らない。
それに対し、突如現れた安藤はこう言う。「日本に来て、どうして英語で喋べっておるんですか」。こう言う安藤に惹かれるように、ベンは"ニホン"に憧れ、のめりこんでゆく。
ここでえぐられるのは、いかにニホン人が"ニホン"を所有して手放さないかということ。
どうして「ガイコク人」には「ガイコク語」を使って話さなきゃならないと思っているのか。どうして「ガイコク人」が「ニホン語」を喋ると、その内実よりも上手い下手に心が行くのか。
ふだんは気づかないが、この両者はどちらもガイコク人には違和感のあることで、これは自分と相手の立場を置き換えてみれば良く分かる。
それと同時に、"ニホン語"という、ナショナル・アイデンティティの核の部分(とくに国家=民族=言語という等式がほとんどきれいに成立するゆえか)には決して触れられたくないという、ニホン人の日本/日本語に対する所有権の主張さえ感じるのである。
安藤の手助けを借りながら、少しずつベンは「しんじゅく」へ足を踏み入れていく。その時々で、自らのナショナル・アイデンティティの不在を語り、「どうしてニホンなのか」を、直接には語らない形で徐々に明かしていく。
しかし、結局ベンは"ニホン人"にはなれない。ラストに「生卵を飲む」というシーンがあるのだが(ゼミで聞いたところ、生卵を食べるのはアメリカなどではあまり一般的ではないとか)、このような「日本人になるための儀式」を象徴した行為を経てさえも、彼は決して日本人にはなりきれないのである。
自分としては、なかなか衝撃的な一冊であった。
ひとつは、先述したように「日本語の所有権」という気づかなかった事実を突き付けられたから。もうひとつは、外から見た日本とはこうなのか、という越境を感じられたからであろう。
一読した程度だが、まだまだいろいろな謎が残っている。
たとえば、どうして日本でも東京でもなく「しんじゅく」なのか(「日本語」の問題は執拗に描かれるが、「日本」という空間を意識的に描いているとはあまり思われなかった)、どうして「星条旗の『聞こえない』部屋」なのか(『見えない』ではなく?星条旗のはためく音でもなく、英語でも中国語でもなく、「星条旗の聞こえない部屋」=「日本語の聞こえる部屋(=安藤の部屋)」ということなのだろうか?)。
これらの謎は、時間を置いて何度も味わううちに分かってくるのだろうか。ベンが"ニホン"という空間に入り込んできたように、わたしがベンの空間に侵入していくうちに。
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言語を獲得するというのがどういう事であるのか、日本語の話者であるというのがどんなに幸せな事なのかを知らしめられるような感じ。
この本を読むたびに、切実さを持って日本語を使おうと思う。(そして、切実さを持って他言語を獲得しようとも思うけれど、それは中々実現していない。)
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アメリカで生まれ英語を母語としながらも日本語で創作を続ける著者の、私小説的作品。
在日米国大使館領事の息子、主人公のベン・アイザックが気づまりな父との関係から逃れ、
日本社会、日本語社会に「越境」を試みるという話。
「ガイコクジン」であるベンが日本社会に入るためにぶつかる、様々な壁が描かれているのはもちろん、
彼の違和感は、同じく「ガイコクジン」である父や、日本に来ている同年代の留学生に対しても向けられる。
そしてもちろん、自分自身にも。
つまりこれは「ガイコクジンの物語」では無く、究極の個人の物語、「内面の越境」の物語で、普遍性を持ったものだと思う。
ちなみに、リービ英雄はユダヤ系の父と、ポーランド系の母を持つ。
(いままで「ヒデオ」という名前から、日系人だと勝手に思い込んでいました…)
彼のように日本語以外を母語としながらも日本語で書いている作家には、
デビット・ソペディ、毛丹青、シリン・ネザマフィ、楊逸などがいるので、要チェックかな~
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日本人の血を一滴も持たない作者、リービ英雄が母語を離れ日本語で書いた小説。(リービ英雄は「万葉集」を英訳したことでも有名。)しかも「あとがき」によると、スタンフォード大学にいる時に書いたものだそう。
日本語以外を母語とする作家によって書かれた日本語の小説といえば、近年では第139回芥川賞を受賞した楊逸なんかが思い起こされる。その時に、私はいくらかの驚きと違和感をもってその事実をうけとめた気がする。こうした違和感は、私が(自身の読書経験を通して)無意識のうちに、「日本の小説は日本語を母語とする作家によって書かれるもの」という先入観を抱いていたという事実を暴露するものであった。
母語以外で小説が書かれることもあるという事実を私はそれまで知らなかったわけではない。カフカやコンラッドなど、そうした例を4、5人簡単に列挙することが私にはできる。だが、私はそうした先例を知りながらも、自分の母語である日本語においても同様のことがおこりえることに随分と無自覚だったのだ。
ところで、楊逸はごくごく最近のことだが、リービ英雄の『星条旗の聞こえない部屋』が「群像」に発表されたのは1987年3月、今からちょうど23年前のことで、しかもこの1987年3月とは私がこの世に生を受けた時である。23年前にも私のような奇妙な違和感を抱いた人物はいくらか存在したであろうし、そうした衝撃はきっと私が感じたもの以上に激しいものだっただろう。当時の文学界の雰囲気をこの身で感じとることは不可能だが、「異形」のものとして受け取られたであろうことはなんとなく察しがつく。
さて、最後にこの本を読み終えた後の感想を簡単に。この本を読んでいて私はソフィア・コッポラ監督の『ロスト・イン・トランスレーション』を想起した。「日本」というよく知る自分の母国の話を観て(読んで)いるにも関わらず、異国人の視点を通すことで、そうした自分のよく知る国のことが恐ろしく奇妙なものに感じられるという体験を、両者において同じように経験したというのがその理由。
是非、この本とあわせて、ソフィア・コッポラ監督の上記の映画も観ていただきたい。
ちなみに本書は野間文芸新人賞を受賞している。
いつものことながら、要領を得ないブックレビューでした。
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文学作品をまともに読むなんて、相当久しぶりでした。
先輩に誘われて参加している読書会という名の飲み会で、課題図書になっていたのに、会には間に合わず。そんで、ようやく読み終えました。
アメリカ人が日本語で書いた小説ということで話題になったそうです。
日本人でも使わないような語彙も繰り出していて、日本文学が「開国」を迫られた、みたいな。
しかし、ことはそう単純ではないようで、主人公=作者はアジアでの生活が長いユダヤ系アメリカ人だと。日本人の血は入っていないけど、生粋?のヤンキーでもない。
こういうのを「ディアスポラ」とかいうんでしたかね?
とにかく、どこに行っても居場所がない感じに溢れた小説です。