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投稿者:Tucker - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトルの「自然」は「しぜん」ではなく「じねん」と読む仏教の用語。おおざっぱに言うと「あるがまま」「そのまま」といった意味で、「じねん」は「しぜん」を含んだ、より大きな概念となる。
玄侑宗久氏(復興構想会議のメンバーでもある)と釈徹宗氏(「街場のメディア論」の著者、内田樹氏との共著が多い)の2人の「縦と横」をテーマにした対談を収録したもの。
仏教についての話も出てくるが、メインの話ではないので、ついていけない、ということはない。
(仏教の用語には、大抵、注釈がついている。稀に分からない用語が出てくるが、気になるほどではない)
ここで言う「縦」とは統制・管理するための秩序や序列、といった事。本書の中では「馬の文化」とも言われる。
対して、「横」は同胞の連帯。ひとつの船では皆が仲良くするのが前提、という意味で「船の文化」という言葉でも使われる。
東日本では「縦」の考えたが根強く、西日本では「横」の考えが主流ではないか、という考え方は初めて聞いたので、新鮮な感じがする。
埼玉生まれの埼玉育ちで、それ以外を(肌で感じる感覚としては)知らないので、言われてみれば、そんな感じがする、というレベルでしかないが・・・・。
ただ、この「縦」と「横」はどちらかが他方より優れている、というものではなくて、両方あって、バランスが取れている事が大切だ、と言っている。
単純に「これからは”横”の時代だ」という話にならないあたりは、さすがは僧侶。
全国のお寺の組織の中の一部、としての立場と地域のコミュニティの一角としての立場を持つからこそ言えるのだろう。
「縦」と「横」のバランスを取るためには、一度、「縦」または「横」の一方に偏ってみなければ、その「中間」を取ることはできない、末端の方が左右にブレているからこそ、「芯」がブレない、という話が面白かった。
最近「ブレない」事を声高に言う業種の人が多いが、「ブレない」=「柔軟性に欠ける」ということになるので、大丈夫かな、と疑問に思うことの方が多かった。が、この2人も同様の考えで少し安心した。
両端を知らなければ「中間」など取ることができないから、「ブレる」事は、それほど悪い事でもない、という辺りは、なるほどと関心してしまった。
今のご時世、「縦」の考え方が蔓延しているように思える。「中間」を探すための過程の一つ、であることを願う。
また、面白いと感じたのが「閉じて、つながる」という点。
コミュニティ、仲間などのグループでは、ある程度、外に対して閉じていることで、その中は団結する、というもの。
何でもかんでも「開いて」しまうと、強者の色だけに染められて、「独自」のものはつぶされてしまうのではないだろうか。
ただ、今更「鎖国」などできるものではないし、「グローバルスタンダード」がなければ、困ってしまうことも多いのも事実。
ほどほどに「開いて」、ほどほどに「閉じる」のがいい、その「ほどほど」を探るために、「ブレる」のは悪いことではない、と言っている。
仏教について詳しい訳ではないが、背後に「調和」というキーワードが見え隠れする感じがした。
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剛速球の対話が最後までゆるみなく続く。なんだろう、話されている内容を「理解する」というよりは、すごい試合を観戦しているような気分になった。
縦と横を大きなテーマに据えながら、浄土真宗、禅宗、儒教と道教、神道からさらりと西洋哲学やキリスト教にも足を伸ばし、二人の会話はどんどん広がっていくと同時に緊密になっていく。
あとがきで釈先生が「酔っぱらったような気分になった」と書かれていたが、読者もしばしば酔っぱらう。私自身、酔っぱらってしまったクチだが、あえて「この本を誰に薦めたいか?」と聞かれたら、「宗教ってなんやろう、わけわからん」と思っている人に、と応えたい。
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なかなか不思議な順番で読んだ。。この前に祖師仏教を批判する呉智英さんの「つぎはぎ仏教入門」を読んだんだけど、変に影響を受け視野が狭くなることなく読めただろうか。さておき、真宗と臨済宗なお二人の対談です。玄侑さんはTVで何かの番組にでられたときの印象がよく、「禅的生活」なんぞを読んでいたりする。作家としての玄侑さんの作品は読んでいないけど・・。
関係性に自ずから巻き込まれることを「縁起の実践」とし、積極的にかかわりながらも関係性にはこだわらないとする「空の実践」との部分が今に響きました。関係性にこだわるあまりに巻き込まれることをしない自分がいるのは確かであり、またここがとにかくも頑なな部分でもあると分かっちゃいるのを改めてブスリとやられた格好です。
あらためて、今出会うべき本であったと思う。
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まず、表紙が良い。僧侶2人の写真。
中身については、福島の僧侶が震災前に語った話が、
震災後の福島や東北に生きる人にとって、大切なこと。
なんだか、めぐりあわせを感じます。
タテとヨコのつながりの話で進む。
http://ameblo.jp/shiro-0624/entry-11036065258.html
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2パーセントの笑と10パーセントの理解
すんごいことを言ってるなーって、思いつつ・・・
よくわかんないけど、おもしろかった。
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1320
玄侑宗久(げんゆう・そうきゅう)
福島県生まれ。慶應義塾大学卒。臨済宗妙心寺派福聚寺住職。
2001年『中陰の花』で芥川賞を受賞。他に『禅的生活』など。現在、政府の東日本大震災復興構想会議委員。
釈徹宗(しゃく・てっしゅう)
浄土真宗本願寺派如来寺住職。相愛大学人文学部教授。専門は宗教学、比較宗教思想。グループホーム「むつみ庵」などを運営するNPO法人理ライフ代表。
主な著書に、『ゼロからの宗教の授業』(東京書籍)、『現代霊性論』(内田樹との共著、講談社)など。
自然を生きる
by 玄侑宗久、釈徹宗
釈 ちょっと話が飛んじゃいますけど、僕ね、以前、アダルトビデオ(AV)監督の村西とおるさんと一緒にポッドキャストの番組に出演していたんです。彼はいつも「わたしはユニセフや国連よりも平和を望んでいる」と言っていました。なぜかというと、平和でないとAV産業って成り立たない。 玄侑 ああ、なるほど(笑)。 釈 そういう意味では、わたしほど平和を心から望んでいる者はいない、とのことです。それで、まあ、いろんなお話を聞きました。とにかく、日本のAVってすごいんですって。「世界中のAVを見たけれど、一回も負けたと思ったことはない」、「もう圧倒的で、どこのものも日本の足元にも及ばない」らしいんです。日本のAVは、イマジネーションの極致やと言うてました。中年のおばちゃんが、ずっと頭をシャンプーしているだけのAVとかあるらしいんです。その姿にものすごく欲情する人間がいて、そのためのAVがある。およそ人間が考えつくものは全部あると言ってました。 玄侑 やっぱりね、それも道教なんですよ(笑)。儒教だと性を抑圧するでしょう? 道教は基本的に男女和合なんですよ。「三一教」という言い方もありますけど、無が一を生み、一が二を生み、二が三を生み、三が万物を生む。その三というのは陰気と陽気と和気ですが、陰と陽が和するというのが道教の基本なんですね。『古事記』が 天御中主神 、 高御産巣日神 、 神産巣日神 の三神ではじまるでしょう? あれも完全に道教の影響だと思います。 釈 ほお、そうなんですか。 玄侑 国産みの話でも、生殖行為をほとんど聖なるまでに崇めていますよね。そういう考え方がほぼ手つかずで残り得たのは日本だけだと思います。そこに「男女七歳にして席を同じうせず」という儒教的なものがかぶさってきますが、ほかの国はもっと抑圧されていますからね。 釈 …
だけど一方で、そのダブルバインドが日本人の豊かさであるとも思うんです。『菊と刀』でルース・ベネディクトが日本人は菊というかそけき命を愛しながら、それを一刀両断にする刀も愛する。この矛盾はいったいどうしたことだと指摘した、あの着眼点は素晴らしいと思います。日本人にはそういう両行の部分がどうしてもあります
玄侑 ええ。まあ、そこでですね、ひとつぜひ論じ合いたいのが、日本人はなぜあのときに「イク」と言うのか(笑)。 釈 え、論点は そこ ですか。 玄侑 中国人は「ライラ、ライラ」で「来る」なんですよ。アメリカだって「カミング」でしょう。これ、日本人独特だと思うんです。いや、わたし���真面目に往生との関連を問いたいだけですよ(
こういうのがね、仏教の面白さでもあると思うんです。欲望を否定する一方で、肯定もしてしまうところが。 仏教は、およそ人間が考えつく思想をたぶん全部もっていると思います。それが地域や時代によってなにかが特化して発達すれば、逆に反対に引っ張るなにかが生まれる。たとえば中観 ( ※ 3 ) が発達すると、今度は唯識 ( ※ 4 ) が出てくる。上座部仏教が発達すれば、大乗仏教が異議申し立てをするというように、ある種、着地させてくれないといいます
性についていえば、カトリックなどは性行為イコール生殖行為でなければ認めません。だからマスターベーションも認めない。快感とか忘我の状態というのは、神を忘れているので、極めて不敬。 玄侑 愛撫も認めませんね。ただ、プロセスというものがあるはずで、性行為は愛撫抜きには考えられない。極めてそれは不自然です
玄侑 そう。だから有縁なのに無縁と思っているわけです。仏教のいう「有縁無縁」という言葉には、有縁も無縁も有縁なんだという認識がすでに込められていますよね。 釈 つまり、現代人は、縁起を感じる力が枯れている。人知れず死んでいく孤独死だって今にはじまったことではありません。それを無縁だと強烈に感じてしまうことのほうが問題やと思うんです。縁起を感じる力、縁起の場に身を置く力のなさ、縁起の場を活用する力
こういう、我が身を人に任せるという覚悟は、現代人はなかなかもてません。人にお世話にならない、迷惑をかけないことが大事だと思ってるわけですから。そういう人は結局お金を貯めて、ケアしてもらうサービスを購入しようするわけです。 玄侑 ほんとにそうですね。だいたい、人に迷惑かけないで死ねると思ってるのが大きな誤解ですよね。 釈 ええ。結局のところ、老いたときや死ぬときに他者へと我が身を任せる覚悟って、どこかでもたないといけないと思うんです
玄侑 そうした意味では、京都という街の在り方はいい方向にあると思うんです。あそこは昔から、伝統として守らないといけないものがあるからこそ、むしろ革新を生んできた街でしょう? 伝統と革新の両方がある場所なんです。あの極端な地元ひいきの閉じ方は、今こそ見習うべきです。 釈 たしかにあそこは閉じてますね。よく「百年住んで、やっと地域の人と認められる」なんて言います
今、どこの会社も苦しくてリストラを考えているなか、一切それをやっていないのは京セラとオムロンです。どちらもなぜか京都の会社です。リストラせずに、従業員に給料を少しずつ下げてもらって、みんなでなんとかやっていこうという在り方は、京都ならではだと思い
ほんとうですね。マクドナルドにしても、京都の看板だけはあの赤と黄色じゃありません。あなたを認めるけれど、ここにきたらこの土地に合わせてくれ、という「両行」がないといけないわけです
今、ブレないということをものすごく肯定的に使うでしょう? でも、ブレながらじゃないと中道は探っていけない。生きていればいろんな経験をするわけですから、原則はこうだけれど、この場合はどうだろうと柔軟に考えて対応する。わたしに言わせれば、ブレるというのは「揺らぎ」ですから、風流なことなんです。原則で押し通すブレない姿勢というのは、あまりにフレキシビリティがない。 釈 ブレないでおこうとしたら、逆に全体がどんどん偏向して、絶対に極端なほうに行く。でも、ブレるから真ん中にいることができるわけです
拝み屋さんは、基本的に女性が多いですよね。民間信仰の手法はとりあえず目の前の苦悩を取り除くことが第一なので、感性的に語る人のほうが向いているような気もします。 玄侑 卑弥呼もそうだし、宗教者も初めから女性が多いですよね。日本で最初のお坊さんは女性ですものね。 釈 そうです。日本の場合はご存じのとおりヒメ・ヒコ制と言いまして、霊能者的な女性と、それをうまく教義化したり運営したりする男性のコンビが多いです。 玄侑 卑弥呼も弟がそういう感じでした
都市生活者ってそもそも常にバリアを張って生きているでしょう? さまざまな情報が侵入してくるので、他者との境界を作るというか、遮断しないと生きていけない。感性が繊細だと都市生活は送れません。しょっちゅう傷ついてしまうことになる。だから、バリアを張って、わざとセンサーを鈍くして暮らしている。でも、そればかりでもだめで、どこかで思いっ切りバリアを下ろして、無防備になれる場所や時間が必要になる。そう考えると、パワースポットのような場所で無防備な自分をさらけ出しているのかなとも感じます
釈 キリスト教やイスラム教では、神への信仰なしには一歩も前に進まない。でも、仏教は信じてなくても活用できるというか、自分に取り入れることができる。これって、やはりユニークです。 玄侑 遅れてきたという感覚が信仰であると『現代霊性論』(内田樹・釈徹宗、講談社)にありましたが、遅れてきたどころか、すでに使っていた、というのが仏教なのかもしれません。 釈 養老孟司先生が、「日本人が物事を真面目に考えたら、どうしても仏教になってしまう」という意味のことをおっしゃっています。たしかに仏教用語を排除したら日本語は成り立たないし、生死について真剣に考えたら仏教にならざるを得ない。そんなDNAが日本人にはあるような感じがし
社会学者のエミーム・デュルケムは、社会の幸福度を自殺率で考えようとして『自殺論』を書いたわけですが、それによると圧倒的にプロテスタントよりカトリックの自殺率のほうが低いんです。わかる気がするんですね。プロテスタントは個人の信仰ですけれど、カトリックは家や地域の信仰として人と人がつながっているでしょう? そして、カトリックよりもっと自殺率が低いのがユダヤ教の人たちです。おそらく同じ行動様式を共有することで、共同体の絆がものすごく深まる。どこで暮らしていても、ユダヤ人はユダヤ人であり続けることができる。それはやっぱり、同じ行動様式を守っているからなん
玄侑 男同士、女同士の楽しい集まりですからね。きちんと横のつながりを作っていたんです。それを考えると、現代だって男女共学じゃない在り方があっていいんです。互いを渇望させるというか。今は学校が全部共学になってしまったでしょう? 釈 子どもが少ないんで、共学じゃないと学校が運営できないんです。でも、僕、日本の少子化問題を一気に解決する方法を知��てるんですよ。 玄侑 ほう。なんでしょうか? 釈 もうこれをやれば、今日からすぐに解決するんですけどね、それは、日本がイスラム国になったらいいんです。イスラムだと一二歳くらいで男女を明確に分けますから、くっつきたい欲望がすごくなる。だからすぐに結婚して、みんなが子どもをたくさん作る。男女の生活圏が重なれば重なるほど結婚は遅くなるし、子どもを作らなくなっちゃう。 玄侑 だからね、やはり渇望させるべきなんですよ。でも、割礼はちょっと怖いなぁ(
しばらくハワイ大学にいたことがあったんですが、ハワイやブラジルには真宗の人がたくさん移民で渡っていて、現地のおじいちゃんやおばあちゃんにずいぶんよくしてもらったんです。多くが広島か熊本の方でしたけどね。とくに、広島の安芸門徒は 間引き をしなかったので、みんな兄弟がたくさんいて、食べられなくてハワイやブラジルなどに移民したんですね。だから、ハワイではよく広島弁を耳にします。それにハワイには古い真宗文化が残っていたりする。臨終行儀なんか、日本より残っていると聞いたことがあり
人間って、ほんとうはなにかに縛られないと生きていけないんです。だから、こうしなさいとハッキリ言ってもらえる占いや風水を求めたりして