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投稿者:なつめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
出生前診断について、分かりやすく解説されていてよかったです。命の選別の問題など、多方面から考えたいです。
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著者の坂井律子さんの本は、15年前の『ルポルタージュ出生前診断』を、今も十分通じると思いながら昨年読んだ。リケジョがどうのという岩波ジュニア新書に、新型出生前診断のことがおざなりに(誤り含みで)書かれていたことのモヤモヤが晴れなかったときだ。
坂井さんのこの新著が出たのを知ったころから読もうと思い、図書館にもリクエストしながら、本屋で立ち読みしたという人から「背筋の凍る事実が書かれていた」と聞いて、読むのに気合いがいるなーと思い、借りてきた本を積んでいた。それで返却期限がきたので、返す前に読む。
『We』188号でまとめた、玉井邦夫さんのお話(「新型出生前診断をめぐる取り組みから見えるもの」)を、なぞるような内容だった。
▼…間もなくあまりにも多くの、あまりにも判断できないようなことを「どうぞ選べます」といって差し出される日が来る。そのような、簡単に選ぶことのできる道具が、本当に私たちの使いたいものかどうかわからないが、いま着々と準備されている。それを前提に、どうしたら病気や障害を持つ人への差別や偏見が強まらないか、女性が子どもを産むことがかけがえのない幸せな体験であり続けるにはどうしたらいいのか、真剣に考え続けなければならない。(p.260)
新たな技術を使うかどうかは「女性やカップルの選択」なのだという話と、この技術の使用は「障害者の生や尊厳」を損なうことにはならないのだという話とは、ほんとうに両立するものなのか。
出生前診断の技術によってイギリスではダウン症児の出生が「抑制されている」が、フランスでは明らかに「減っている」という。そのフランスでの取材で、坂井さんが最も驚いたことは、産科婦人科全国医師会の副会長である医師が「21トリソミーについては誰もが知っているので検査のときに説明しない」と言ったことだった。しかもこの副会長は「妊婦の自己決定」だというのだ。インフォームド・コンセント、情報提供に基づく自己決定は、どうなっているのか?
さらに坂井さんがびっくりするのは、NIPT(新型出生前診断)に反対を唱える医師たちのことを「彼らは少数派ですから気にしなくていい」とこの副会長が言うことだった。「あの人たちの意見は気にしなくていい」と公然と言う人がいる。そんなふうに、「実際には「ある」けれども「無い」と言われることの怖さを感じた」(p.265)ことが、坂井さんがこの本を書きたい、あったことを記録しておきたいと思った理由のひとつだ。
▼21トリソミーの人だけでなく、スクリーニングを批判する人たちに対してもまた「少数派」のレッテルが貼られ、批判、あるいは無視されていることに恐ろしさを感じる。(p.100)
「ふたりの医師」の話が、私にはぐーっと心に残った。
1999年、母体血清マーカーの技術が出てきた際に、厚生省が「出生前診断に関する専門委員会」を設けて、この技術について諮問したとき、議論の結果出された「母体血清マーカーに関する見解」は、日本で唯一といえる国レベルのガイドラインである。
このガイドラインが出るまでの議論に大きな影響を与えたふたりの医師、佐藤孝道と���松田一郎に、坂井さんはいまの状況をどう考えるかと話を聞いている。
1999年当時、佐藤は、ガイドラインの中で(妊婦に対しこの技術を)「知らせる必要はない」という一文を削除することに反対し署名を募った。松田は、「インフォームド・コンセントに基づく妊婦の選択」を強調し、この一文を削除することを主張した。
あれから14年、ふたりの答えは、どちらも坂井さんが予想していたものとは違っていた。簡単にはまとめにくいが、あえて整理すれば、佐藤は「子どもを産む、ということにポジティブになれる材料であれば、検査も使うべき」と考えており、松田は「多数の幸福のために何かを犠牲にするという功利主義の考えは日本にはそぐわない、「障害」を持った人がいる世の中が健全だ」と考えている。
坂井は、「現在の考えはそれぞれ1999年当時とは転換している…ふたりとも臨床現場の悩みのなかでこの問題を考え続けている」(p.236)と書く。
悩みながら考え続け、その後の経験や社会の変化のなかで、自分の考えは変わったと語るふたりの医師。私は昔の本を読むのも好きだけれど、このふたりの医師の話を読んで、「今」を追うこと、「今」を記録していくこと、そしてその「今」を読んでいくことも大事なことだなと思った。「このときに、こういう考えを持っていた人」が、未来永劫そのままであるわけではないのだ。
同時に、過去を振り返り、何があったかを確かめるときに、記録があることは大切で、坂井さんの仕事は有り難いものだと思う。
▼高度成長期に良質な労働力が必要とされたり、今日の先進諸国で少子高齢化が大問題になるなど、国が子どもの出生をコントロールしようとする契機は常に存在する。その結果、出生をめぐる様々な政策が実行されてきたのは歴史に見たとおりである。現代は、この「政治」に加えて「経済」が出生の現場を変え、女性に命の選択への道を用意している。(p.256)
利光さんの本『受精卵診断と出生前診断―その導入をめぐる争いの現代史』とあわせて、もう一度読みなおしたい。
(3/13了)
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技術の進歩に倫理や価値観や世の合意が追い付いていない出生前診断の話。
検査自体の正しい知識も、検査で見つかる障害についての知識も足りないまま、親たちは選択を迫られる。
そうやって、わからないまま混乱した状態で下した「自由な選択」は、優生思想のようにしか見えない。
この本はとても丁寧に、親たちが悪くならないように気をつけて書かれている。
私はあんまり親の人に優しくなれないから、やっぱり「子供が欲しい、でもこの子は要らない」って言えちゃう人に親なんかやって欲しくない。
障害児を生むのが怖いから子供を作らないというならわかるけど、作ってみて障害児ならおろすってのは理解できない。
でも、なんにも知らない状態でいきなり「障害児です。育てられるの?」って言われたら怯むよなあと思った。
障害のある暮らしがどのくらい大変でどのくらい大丈夫なのかってのは、チラっと見るだけじゃわからない。
ちゃんとつきあって知り合ってみないとわからない。
知らないまま殺させられてしまうのは「自由に選んだ」つもりの親にとっても不幸だ。
たくさんの関係者がこの人たちは殺されていいほど有害だったり不幸だったりするわけじゃないという姿を伝えようとしているのが印象的だった。
妊婦みんなが検査を受けられるフランスでは、ダウン症と診断された子の96%が堕胎されたという。
ここまで偏った結果が出るのは、障害児を育てる準備するために調べるという発想をできない社会ってことだ。
そして、ダウン症が標的にされるのは、障害が重篤だからではなく、生きるから。
生きられない子を生まずに済むための検査だったはずが、いつのまにか「生きやがる」障害者を見つけて捨てるために使われている。
フランスの医師会の人が、反対派を「あの人はガチガチのカトリックだから」とレッテルをはったり「少数派だから気にする必要はない」と切り捨てていたのが怖かった。
2010年にジュディス・バトラーがベルリン・パレードからの賞を拒否した時のスピーチ映像の中で、主催者側が「でもあなたは少数派だ」と言っていた(と思う)。
マイノリティの運動の場なのにそんな台詞が出てくることに衝撃を受けたことを思い出す。
少数派である障害者の命を、少数派は気にしなくていいと言い切る人が決めていく。
身近に障害者と接したことのない人が勝手に命の価値を決めて、身近に障害者と接したことがない親に恐怖を植え付けてる。
本人のいないところで命の価値が勝手に決められていることがものすごく恐ろしい。
「健康な子を望む」のと「病気や障害があったら産まない」は違うのではないかという著者の言葉に、「きのう何食べた?」を思い出した。
7巻だったか、思いがけず妊娠してしまった人が、妊娠したくない理由はたくさんあったけれど、それらはこの子をおろす理由にはならなかったと言うシーンがある。
考える余裕と、育てられる社会があったなら、同じ結論に至る人はもっとたくさんいるはずなんだ。
産まない人もいるだろうけど、こんなに偏るはずがない。
関連
『死の自己決定権のゆくえ』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4272360698
死ぬことも生まれることと同じように歪んでる。
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出生前診断の今後について、とても考えさせられる。フランスやイギリスの現状を見てみると、既に全妊婦が出生前診断対象とされ、その結果による堕胎も96%と報告されている。出生前診断の賛否を語る医者や関係者の言葉が、あまりにもストレートで辛く感じる部分もある。障害をもっていても安心して暮らせる福祉の充実が必要である。とは言えその為の財政は有限。個人が選択する方向が一致することによる新優生学は確実に進んでいる。フランスでの出生数が改善した事と全妊婦出生前診断には関連があるのでは?