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私はまじめに読み始めたのですが、本当に笑ってしまいました。不思議なほどインスピレーションを与えてはくれる。
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1082夜
ドゥルーズの中では一番好きだなあ。
1976年くらいのことだとおもうのだが(『アンチ・オイディプス』は訳されていなかったし、『千のプラトー』はまだ原著も発表されていない)、ガタリをぼくのところに連れてきたのはアラン・ジュフロワで、それはぼくが主体性を嫌っているためだった。それ以前にジュフロワとそんな話をしたことがあって、それをおぼえていて「この男も主体性が嫌いなんだ」とガタリを紹介してくれた。
初対面の理屈屋のフランス人との会話をそんな話題から始めるなんて、まったくツイてないほどの最悪のコースだったけれど、ガタリが主体性そのものを嫌っているのではなく、20世紀の精神分析が勝手につくりあげたニセの主体性(そのくせ後生大事にされている主体性)を嫌っているんだということだけは、すぐわかった。「たとえば?」と尋ねると、「フロイトもユングも、それからラカンもね」と、眼鏡の奥でニコリと笑った。精神分析医のガタリがそんなことを言うのだからよほどのことだろうが、そのときはそれ以上の話はしていない。
ここに登場してきた、これまた奇妙な「器官なき身体」という概念は(ドゥルーズは概念を考えることが一番好きな哲学者なのだ)、アルトーが使っていた用語をそのまま流用したもので、ドゥルーズの説明では、ヨーロッパの歴史と社会の深層の危機を告げる拠点にあたるものだとされた。
そのイメージはアルトーの次の詩に暗示されている。
皮膚の下の体は過熱した工場である
そして外では病者が輝いている
彼はきらめくあらゆる毛穴を炸裂させて
まさに分裂症の渦巻く衝動を綴っている。ドゥルーズはしかし、この衝動を本物ととらえたのである。意識の本来の正体はこういうものだとピンときた。
そして、このような分裂症的な衝動(すなわち欲望)こそが思索の本来を貫くものとなり、さらには社会の滞留点をどんどんぶっこわしていくものになるのではないかと推理した。ただし、そこにニセの主体性やニセの精神分析による制御が加わらないかぎり――。
こうした内容をもつ『差異と反復』の発表のあと、1968年のおわり近く、ドゥルーズはガタリと初めて出会う。ガタリはまさに精神病を研究している現場の精神科医だった。
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とある方に一度は読んどけ、と数年前に薦められたのを思い出して読んでみた。
註釈が下巻に纏めてあるので上下巻2冊持って読まなきゃいけません。
それが面倒くさかったので星マイナス。
高尚な言葉で罵詈雑言書きまくってて面白いです。
頭悪い感想だな←
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はっきりいってほとんどわからない。精神分析にも資本主義にもたいして知識を持っていない自分にはわからない理論が多すぎるし、脱領土化、脱コード化というような重要単語も、どれだけ読み進めても今一つ意味が定かにならない。こういうことなのかなと自分なりに解釈して読み進めていくと、ぜんぜん違ってましたということもしばしば。
でも、わからないならわからないなりに読んでて面白い。わからないものが次々と繰り出されて、頭くらくらになるのが心地よいというか楽しいというか。蛇行してうねりながらものすごいスピードで展開する精神分析批判・資本主義批判を、振り落とされないようになんとついていく(完全に振り落とされているけど)。全体像なんて把握できないから、一体どこに連れて行かれるのかもわからない。現代美術の展覧会を観に行くときと似ているかもしれないけど、そういう感じはけっこう楽しい。
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-20080619
欲望が革命的なのは、それが荒々しいからではなく、意識によっては導かれない微細な未知の波動と流線そのものだからである。Globalizationと原理主義という相反するとみえる二つの傾向が、同じ一つの世界システムから出現することを、本書はすでに精密に解明し、警鐘を鳴らしていた、86年河出書房新社刊の新訳版、06年刊
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結構昔に読んだ初ドゥルーズ=ガタリ
下巻に比べるとだいぶ読みやすい
今の時代に読んでもまだ新鮮な所もあるんだけど、なんか純朴な時代だったのねと印象
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もう流行ったのは一昔前になるだろう。ドゥルーズ=ガタリのもっとも初期の著作、アンチ・オイディプス。
上巻は、「資本主義と分裂症」の後者、分裂症と精神分析、そしてオイディプスの三角形の批判が行われる一章と二章。そして、モルガン=エンゲルス的な唯物史観と絡めて論じる三章の前半だ。
多くの概念が、その内容を提示されないまま並べられ、論旨が進んでいくので、上巻だけでいろいろと読み込んでいくのは難しい。ただ、もう最初の方だけで「アンチ・オイディプス」という論の趣旨は十分に理解できる。とはいえ、この本の面白いところは「アンチ・オイディプス」の立論とは別にあるので、上巻はまだ前座といったところだ。
困ったことに、注と索引が下巻にまとめられてしまっており、上巻の注をみる時も下巻を開かねばならない。上下巻を1セットで買えという河出書房の指示なのだろうが、読む時に2冊を持ち歩かなければならないのは結構厄介である。
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[ 内容 ]
<上>
マグマのような苛烈な文体によって、唯物論哲学を大胆に書き変えた名著の新訳。
精神分析批判から資本主義と国家への根底的な批判へ向かい、そのための「分裂分析」をうち立てた革命的な思考はいまこそ「再発見」されなければならない。
欲望機械/器官なき身体とともに、最も危険でカオティックな思考の実験がはじまる。
<下>
無意職論、欲望論、精神病理論、身体論、家族論、国家論、世界史論、資本論、貨幣論、記号論、芸術論、権力論…のすべてであるとともに厳密な哲学の書でもある奇跡的な著作の新訳。
「器官なき身体」とともにあらゆる領域を横断しつつ、破壊と生産をうたう「分裂分析」は、来たるべき思考と実践の指標であり続けている。
[ 目次 ]
<上>
第1章 欲望機械(欲望的生産;器官なき身体;主体と享受 ほか)
第2章 精神分析と家族主義すなわち神聖家族(オイディプス帝国主義;フロイトの三つのテクスト;生産の接続的総合 ほか)
第3章 未開人、野蛮人、文明人(登記する社会体;原始大地機械;オイディプス問題 ほか)
<下>
第3章 未開人、野蛮人、文明人(承前)(“原国家”;文明資本主義機械;資本主義の表象;最後はオイディプス)
第4章 分裂分析への序章(社会野;分子的無意識;精神分析と資本主義;分裂分析の肯定的な第一の課題;第二の肯定的課題)
補遺 欲望機械のための総括とプログラム
[ 問題提起 ]
[ 結論 ]
[ コメント ]
[ 読了した日 ]
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歯が立たないだろうなと思いながら手にしてみたが、まったく何のことやらという部分と何となく判る部分がある。何となくなんていい加減なことを云うのは莫迦を告白しているということは重々承知のこと。
器官無き身体が資本だというのは納得。しかし、それ以外の器官無き身体は何か。欲望機械、資本機械と機械という用語も繰り返される。接続や断絶をする主体としてシステムや自動性がイメージとしてあるのかと思うが、専制君主機械、原始大地機械という用語もある。正直よく判らない。器官無き身体に機械が折り畳まれるなど、今一つ判りづらい表現も多数ある。
正直、参考書が欲しいと思い、松岡正剛さんの千夜千冊を覗いてみた。
http://1000ya.isis.ne.jp/1082.html
第2章はオイディプスを拠り所にする精神分析批判。門外漢にはオイディプスってそんなに大したものなのかと逆に思ってしまったが。
正直、面白くなってくるのは第3章から。レビィ・ストロースの云う女性の交換。つまり近親の女性は将来、他と交換する対象だから手を出さないというルールが近親相姦のタブーの源泉とする。オイディプスは根源的なものではない。しかし、一旦禁忌となると逆に欲望の裏返しのように認識される部分もある。構造は出自に関わるものなので、この禁忌は専制君主には無関係。
つまり、オイディプスは不完全な専制君主だった。古代ギリシャのアテナイとはそういうものだったということか。
専制君主の器官無き身体のという表記の後に専制君主の完全なる身体と云う表現があり、やっぱり判らない。
マルクスの再構築の論旨になり、生産性向上による労働価値の収奪の主張に関し、システム化も労働の収奪とあり、更に脱コード化をその収奪の論拠とする。これはマルクスのアウフヘーベンと同程度の誤魔化しではなかろうか?。この程度での考察では何の解決も齎さないと思う。
上巻でギブアップしようかと思ったが、下巻も読み始めている。この程度の莫迦な自分が読んでもしょうがないとも思ってもいるけれど。
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半ば学者の義務感で翻訳されたような旧訳ではなく、読み手を意識している新訳は、文章の意味が、わかりやすい。
一体全体、何の話かと思わせる旧訳と違って理解できることが、とても嬉しい。
が、それは、書からのメッセージを解読できるかという意味とは、別次元の話である。
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欲望を一定の方向に導くような秩序・規則はない。例えば、母を愛の対象とし、父親に打ち勝とうとする欲望(エディプス)は、家族という枠組み(秩序・規則)に限定されない。欲望の矛先は木の根っこのように色んな方向にごちゃごちゃになって向かう。遊牧民のように次から次へと住処を変え、一つの場所にとどまることはない。だから、異なるものを整理して、統一して、秩序だった体系を作るのではなく、異なるものを異なるものとして受け入れよう。▼同様に、価値観や「自分とは何者か」を体系化するのではなく、その時々で様々な価値観や「自分とは何者か」をこだわりなく受け入れよう。ジル・ドゥルーズ&フェリックス・ガタリ Deleuze & Guattari『アンチ・オイディプス』1972
白か黒かで考えるな。例えば、男女の境界線は明確に二つに分けることはできない。何かをかっちりと確定すれば、そこから排除される、消し去られるものが必ず出てくる。善vs悪。真vs偽。オリジナルvsコピー。内部vs外部。J・デリダ『エクリチュールと差異』1977
※レズ・ゲイ・バイ・トランス。すべての性的カテゴリーやアイデンティティは流動的で断片的なもの。境界線を明確に決めるな。クイア理論。
近代は主体の解放・資本蓄積の論理などが支配した時代だった。一方、今は社会全体で共有される価値観に対して人々は不信感を持っている。真実を求める理性は力を失いつつある。これからは複数の価値観の競合が重要になってくる。リオタール『ポストモダンの条件』1979
※近代の破壊・前近代への回帰にすぎないとの批判。
人びとは貧困国の子供たちに寄付することで、彼らの貧困の本当の原因を思い煩う必要がなくなる。お金と市場が、消費者の罪の意識を解消してくれる。▼オランダの同性愛者は国内のイスラム教徒から批判にさらされた後、アラブ系移民の停止を要求する右派政党を支持した。個人的な損害をこうむると分かれば、多文化主義や寛容は通用しなくなる。▼あるイタリア人司祭は同性愛者として、ヴァチカンから停職処分を受けた一方、何百人もいる小児(しょうに)性愛者の司祭たちは何らの処分を受けていない。重要なのは外見で実際どうであるかではない。スラヴォイ・ジジェク『終焉の時代に生きる』2010
✳︎マルクス純
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ドゥルーズガタリのオイディプスへの告訴文が個人的体験と結びついたこともあり、非常に好感度な読書体験へと昇華できた。
正直理解半分なとこも多々あり、参照すべき文献に全く当たれていないため時間をおいて再読する予定。
精神分析の広まりが薄い日本においては、ドゥルーズガタリの言説にどれほどの適用範囲を与えるべきか曖昧なところ。
要点は、フロイトの権威が確立されて以降の20世紀ヨーロッパ精神医学において、オイディプス的還元という絶対的神話が患者だけでなく、一般の人や知識人、芸術家等に多大な影響を与え、その余波は多くの分野に広がったということ。
そのせいでどこか世間一般の常識や始まりとして措定されるに至ったという大きな事実。
それら複雑多岐にわたる文脈を加味した上で、ドゥルーズガタリは強烈なカウンターとしての今作を生み出した。
「アンチ・オイディプス」というタイトルはニーチェの「アンチキリスト」を思い浮かべたが、まさに価値観の転倒をハンマーで持って成し遂げようとした偉大な先輩に対する敬意と、そのさらに先を行こうと欲する野心がチラチラと見える。
三角形的家族構成に絶対的価値をもたせることに対し疑義を抱き、強烈な批判をぶつけ、ひいては資本主義における欲望の生産について、器官なき身体、欲望機械、外延や内包など、独創的な言葉で持って、舌鋒鋭く事細かに論ずる二人の胆力ある文体には、哲学、社会、心理学の垣根を超えた言葉の芸術としての「文学性」すらも帯びていて、その衝撃のでかさを前巻とはいえ大きく痛感。
底なしのヤバさを食らう大著。
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ごめんなさい。私にはまだでした。
しかし、オイディプスということについてはわかった。それをアンチ的に様々語るということはわかった。
しかしそれを知識としてまだ使えない。
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https://ikedanobuo.livedoor.biz/archives/51292054.html