紙の本
もっとも難しいゲーム
2015/05/04 19:28
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投稿者:きらら - この投稿者のレビュー一覧を見る
登山はしないけれど、なぜか山の本は好きだ。
サッカーはしないけれどサッカー観戦が好き、などというのと似ているかもしれない。
「山での死は決して美しくない。でも山に死がなかったら、単なる娯楽になり、人生をかけるに値しない」
うーん、すごい言葉だね。そしてさらに、こんなのはどうだ。
「山登りはとても不思議で難しいゲームだ」
山の弱点を突き、山の裏をかき、自分のすべてをかけて攻略する。
カッコいい、という言葉ではうまく表せないけれども、カッコいい。
それでいて、ときには緊張し、おびえ、迷う、普通の人間なんだからますます魅了される。
彼の奥さんがまたすごい登山家で、もしかしてもっと肝は座っているのかも。
いやはや。すごい夫婦です。
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- ペルー、アンデスでの最高の旅から9ヶ月後、まるで駆け抜けるように彼はいなくなってしまったのです -
まちゃるが山で死んで半年。いや、もっと経つかね。
彼のペルーでの大登攀の記録の一部が紹介されています。泣いたり笑ったり、ビビったり、あいかわらず忙しいやつだ。
関係者は必読!
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自分が登山家になりたいとも思わないが、登山家だったら、間違いなくもう死んでいる。思いつきで行動し、確認はおろそか、著者とは真逆にいるのではと思う。また、著者の極限に挑戦しているからなのだろうか、年齢を積むことでの考え方の違いも見られる。若い時の登山から、指を失ってからの考え方の変化、それでも挑戦する心は失わず、できることを模索する。自分はそんな極限に挑戦する人生は歩んでおらず、でも挑戦することは忘れてはいけないのだと、年末最後の読書で思う。
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スゴすぎる。どうしてそこまでするんだろう…結局はまだ理解できなかった。ギャチュン・カンはさらりと書いてるが、下山後の写真は衝撃的。クマの話も恐怖。安全で楽しむだけの登山をしたいんだけど、それでも急登や長い下山道は苦しいんだよね。
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自分でもなぜだかよくわからないけど、冒険とか探検もの、クライミングもの、航海もの、秘境系などなど、極限へ挑戦する話とか遭難からの生還話が好き。なんだかんだで結構読んでると思う、もちろんノンフィクション。
本書は、栗城史多氏に関する本『デス・ゾーン』を読もうと思ったら図書館で予約待ちになり、それを待っている間に、大好きな角幡唯介氏が本書について書いた書評を、何かで目にして手にした。
山野井さんこそ「なんで生きているのか」なんて言われているくらい、結構向こう見ずな方らしい。ドキドキハラハラな生還ストーリーが読めるかも!と期待。
まあそれなりに、というか、クライマーからしたら結構無茶をする人らしいので(わかっている人からしたら、それこそ引くくらいのとんでもないことをやっちゃっているのだろうけれども、その辺は私は全くの無知な素人なので)、結構な目に遭っている。凍傷で手の指は全部で5本しかないとか、右足の指は一本もないとか、トレーニング中にクマに襲われて顔を70針縫った(鼻呼吸がうまくできないらしい)とか、まあ、結構な人なんだけれども。
登攀の記録は、専門用語満載。でもクライミングの知識皆無の私でもとても引き込まれる。
ほんの数ミリしかないところを手掛かりに垂直の岩壁を登るとか、つかむだけで崩れる脆い岩肌にロープを打ち込んで体を預けて登っていくとか、何十メートルも滑落するとか、手のひらくらいのスペースに、マイナス20度の気温の中、疲労困憊でけがをした体で座って休むとか、挙句に眼球が凍って見えなくなるとか???ありえない。おそろしや。と身震いしながら読み進む。でもこの感覚が、こういう作品を読む醍醐味だったりする。
仲間の登山家たちが、本当にたくさん亡くなっている中で、これだけの目に遭ってもまだ登り続けるその思いは、いったいどこから来るのだろう。きっとご本人も、説明がつくようなことではないのだろうな。
クライミング、登攀なんかを知っている人が読んだらもっと感じるところは大きいのでしょう。そこのところまでわかり切れない自分が残念。
残念ついでにもう一つ。途中でいくつか引用されている過去のインタビュー記事がちょっと。若気の至りというべきかなんというか、鼻につく感じ。あれはないほうがよかったかな。
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役に立つような種類の本ではないけど、無類におもしろい。一つの対象へ情熱を冷ますことなく持ち続けている作者に嫉妬。
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かつて「天国に一番近いクライマーと呼ばれていた山野井さんはなぜ死なずにいまも生き延びているのか?」について本人がかたった本。
以前、バフィン島遠征の直後の講演会で話をうかがったことがあるが、「もうやめたらいいのにといわれるけど、やめられないんですよね、こんな楽しい事」と朴訥にかたっていたのが印象的だった。
「僕は危険を好み、何度もそれを克服してきました。しかし吹雪の一の倉沢に出かけるような危険な領域には踏み込まないように注意はしてきたのです。破天荒の格好よさを少しは理解できますが、胸の奥に見え隠れする狂熱的な熱を抑えながら計算高く慎重に山を選び、状況を見極めてきたのです。限界のように思えていた一線を超えた瞬間は表現できないほどの喜びがありますが、大幅に限界を超えてまで生還できる甘い世界ではないことをしってるつもりです」132
ここに彼が危険のギリギリでクライミングをし続けながら生き延びてきた答えがある。
そして自分も含めた現代の登山状況への懸念の表明も。楽しむだけの登山が増え、タレントがショーのように山に登り。そういうのを非難するつもりはないが、それだけでいいのか?「どこまでやれるのか?」というアルピニズムは必要ではないか?
自分なりのアルピニズムに山の仕事も向かいあっていきたいと思われるアドレナリンがでる本。
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日本のトップクライマーが、指をほとんど失うに至る側から見ると無謀なクライミング人生を振り返り、多くの同業者が死んでいく中で何故自分が生き残ったのかを考察する。
自然に対峙する緊張感の中でのみ、生きている実感を味わえる性格のようで中学生の時より死んでもおかしくないような無理な事をしていて、それが今の今まで指をなくそうが続いている。が、著者自身は他の人よりも慎重だと言っている。本を読んだ限りではたまたま運が良かったようにも見えるが素人なのでよくわからない。
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沢木耕太郎の「凍」を読んでから何となく気になってる人。
ギャチュン・カンの登頂以降、
どうクライミングと取り組まれているのかが
少しでも知ることができてよかった。
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山は、死と隣り合わせにあることを改めて認識させられた。生きて帰ってきた人と、戻ってこられなかった人との違いは、いったい何なのだろう。この書で触れられた人たちはみんな経験があり、スキルを持ち、状況判断がきちんとできる人たちだ。油断とか不注意とか、ひとことではきっと語れない。山はなんて怖く、そしてなんて素晴らしいのか。
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読後は率直に「世の中にはすごい人がいるもんだなぁ…」という気持ちがわきました。
登山家の本を読んでみたいなーと思って検索したところ、「天国に一番近いクライマー」「世界最強のソロクライマー」と紹介されていた山野井泰史さん。
単独または少人数で、酸素ボンベを使用せずに難しいルートから挑戦し続ける世界的なクライマーです。
2002年、チベット高原ギャチュン・カン北壁登頂に成功した際に雪崩に巻き込まれ、凍傷で手足を計10本失います。
その北壁下降時の描写が極めて冷静なことに驚きました。
標高7,000m付近で雪崩に遭遇。眼球が凍り始めてしまい、視力を失ってしまう。次に手をかける場所を確認することができないーー。
そのような状況で生きて帰るための手段が、手袋を外し、手の感覚を頼りにピストンを打ち込んでいくことだったのです。手の指を失う結果になったのも、山野井さんにとってはその時取れる手段を冷静に選択した結果だったのです。
ほぼ日刊イトイ新聞でのインタビューを読むと、失っても日常生活に支障が少ない指はどれか…と、失う順番まで考えていたとのこと。
実際にはやはり生活に支障が出てしまったそうですが、極限状態で自分にとって現状で最も最適な手段を選びとる精神力は、一体どうやって身に着けるのだろうかと嘆息してしまいました。
自分が日常生活で日々追われている選択肢なんて、もっと気楽に構えてもよいのかも、と思える本。
成功しても指を失う、失敗したら死ーーそんな選択を突き付けられることはまず無いのですから。
その後、山野井さんは自宅近くの奥多摩からリハビリを始めて、2013年アンデスのプスカントゥルパ東峰南東壁の初登攀に成功しています。…すごい。
参考:http://www.1101.com/yamanoi/index.html
(ほぼ日刊イトイ新聞「ぼくは「想像」が得意 クライマー・山野井泰史さん、その発想」,2013.10.21-10.23)
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奥多摩に、有名なクライマーの山野井さんが暮らしているという話は何度も聞いていたけど、出会ったこともなくこの本で初めて彼の書いた文章に出会い、それもそのはずと得心したところがありました。アルピニズム、、奥多摩にはじめてきた人たちも楽しめるレンタサイクルツアーに照準を絞って活動していた自分と真逆のところに、自分の限界を知りたくて取り組む世界を最高に楽しんでいるこんな人もいる。その一冊が奥トレの読了本交換で手に入るってのもなにかの縁かもしれないですね。そういう楽しみ、忘れてたかもと思いました。
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「天国に一番近い男」山野井泰史氏の自伝。
後輩でもあり友人でもある野田賢氏の死をきっかけに、今までの経験をプロアマ関係なく後世に伝えることを目的に書かれた本。
自分の体験を当時のインタビュー記事や自分の記憶で振り返りながら語っていく。
その中で印象に残ったところを2つ。
1、2002年に凍傷でかなりのダメージを受けて指の力が入らなくなり、懸垂ができなくなる。
そんな状況で山野井氏は「一瞬で子供のような弱い体になってしまったので、一般の人が嘆く体の衰えを感じることがなく、徐々に進歩していると感じることができる人生を再び歩めているのは、もしかすると幸運なのかもしれません。」(要約)
ポジティブすぎて笑えてくる。
2、自宅近くの奥多摩湖のコースをトレーニング中にクマに襲われ大怪我(右手と顔合計90針)。三か月後にはオーストラリアでクライミング。
熊除けの鈴をうるさく鳴らしながら登る登山者をバカにすることをやめて、見通しの悪い森に足を踏み入れるときに警戒するようになるが、襲ってきたクマが子連れだったので、子熊が成長した姿をいつか見たいらしい。
クレイジーだね!
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「いつ死んでもおかしくない」ことをずっと続けていく気分って、具体的にどんなものか?
たぶんそれは、誰にもわからないことだろう。当の本人にとってももはや「それが好きだから」としか答えようのないことだから、外から分析をしようとするのが野暮というもの。唯一、主語が「自分」であれば、非言語的な無意識の領域でかろうじて理解できるかもしれない。
沢木耕太郎の「凍」を読んでから、山野井さんのことはずっと気になっている。なんべん死にかけても山に向かうモチベーションはなんなのだろう、と考えていた。
最近では奥多摩の自宅周辺をランニングしている時に熊に襲われて生還したのがニュースになったけれど、それでも、
「クマからすれば人間が襲ってきたと思ったのでしょう。経験したことのない恐怖を味わったけど、クマを恨む気持ちはない」
と言い切る心の持ちようは、おそらく襲われた本人にしか理解のできない境地だろう。もしかすると熊に襲われて亡くなった故・星野道夫さんも、そんなことを言ったのかもしれない。
朝日新聞:憎悪の母グマと格闘「意識飛ぶかと」 山野井さん生還記
http://www.asahi.com/eco/TKY200810150120.html
で、タイトルにもあるように、なぜ山野井氏が登り続けてこれたのか、ということにすこし触れておく。
「若いころから恐怖心が強く、常に注意深く、危険への感覚がマヒしてしまうことが一度もなかったことが理由のひとつかもしれません。
さらに自分の能力がどの程度しかないことを知っていたからだと思います。それは途切れることなく登り続けてきたことで把握できていたのでしょう。自分の肉体と脳が、憧れの山に適応できるかを慎重に見極め、山に入って行きました」p.184
つまり、何度山に登ろうと、それが経験値の範囲に収まる山業であったとしても、悪い意味での「慣れ(飽きる/過信して侮る)」がなかった、または好奇心を失わなかったということ。自分でもよくわからないけど「好き」「惹きつけられる」ということが巡り巡って生存条件となった、と。
結局は自分ごと、自分が好きでやることに自分できちんと責任を取る覚悟があるか?ということ。
さて、その覚悟を自分は持てているか……?
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TVで観たこの夫婦の生活は、驚愕であった。凍傷で僅かに残った指で料理をする妻。田舎の一軒家には、フリークライミングの部屋。残った指を使い、氷壁に挑む夫。山が好きで山が中心の人生。雑念だらけの私と真逆。静かな言葉に重みがある。