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本当の「理系」とは、数学と哲学である。
なるほどなぁ。「理系」は真理を追い求めるが、それ以外はとりあえずどうすればどうなるか、を取り扱う学問だから「文系」ということか。工学や医学も原理は置いといてどう改良するか、どう治療するかに重きを置くからね。自分は農学だけど文系脳だなと思っていたが、それは間違いではなかったか。
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文系はデジタル思考で、理系はアナログ思考。
デジタル化が進み、世の中は理系を志す人が増えると思われたが、そうでもないかもしれない。それこそ、デジタル思考でしか考えら得れなくなったら、人間はAIの奴隷になりそう。
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タイトルは『文系の壁と』とやや刺激的なものだが、決して文系が悪いとかどうとかという内容ではない。誤解を避けるためにサブタイトルがついているのがよく分かる。変わらないと変わる、同じと違う、わかる分からない等、紙一重だと改めて思った。もちろん文系と理系もそうなのだろう。
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「理系の対話で人間社会をとらえ直す」と副題にあるように、各界でそれなりにとんがった理系の人たちと著者が対話をした内容をまとめた本。
いわゆる文系の常識的なものの見方をくつがえすということがテーマになっており、自分のテーマにも沿っている。
最近「知的複眼思考」などを通じて、多面的にものを見ることを意識しているが、よく考えたら誰かの常識をくつがえすというのは、別の視点を導入すればそれで済むことだ。自分の目からうろこを落とすことが何かとてつもなく難しいことのように思っていたが、実はそうでもない。
その意味では、いわゆる「文系的ものの見方」と「理系的ものの見方」をぶつけあわせ、常識的なものの見方を変更した例をこの書籍の中から拾ってくるのがこの本の読み方とするのがよいのではないか。
以下拾った内容。
・方法的には理科も文科もクソもなくなった。むしろ自然と直面するか、実験室にこもるか、その違いの方が大きい
・ディスレクシア(識字障害)
・言葉で考える vs 思考の大部分は映像? 読書をしながら数を数える vs おしゃべりしながら数を数える
・サヴァン症候群とレインマン
・「まず理念から」は理学部、文学部
・数学ができれば理系?
・ストレスを溜めない生き方
・一神教の信者は、神様から相当なストレスをかけられている
・文系は物事を言葉で割り切るからデジタル。理系の方がアナログ
・「言葉」ではなく「論理」で通じ合う
・「透明などんぶり」
・社会や人間など、あやふやでとらえようがないものを、文系の人はどうして理屈で解釈してわかったような気になれるのか不思議
・絶対的な安全
・説明責任。説明というのは後付けの理屈。物語の構造は文化によって異なる。「誰がやったのか」を明確にする。懺悔をしていると絶えず自分のことを考えるように。I が過剰に。私という主体の物語。日本は「空気」による。済んでしまったことは仕方ない。世間並。そういうものだと思っていました。
・わからないことの答えは、検索すればどこかにある。結局は選んでいるだけで自分がつくったわけではない。自分一人で楽しめないのは、工夫して自分で解決していないから
・お互いのことを知らないからこそドラマが生まれる。一つの事件には三通り以上の解釈があって当たり前
・言い訳がきちんとできないと、何を反省すればよいかもわかりません。
・「わからない」は「わかっているけど、賛成できない」
・社会性
・マチュピチュの静止画。自分がそこにいたような気になれる。そのあとで「もっと本当のものを見たい」という気持ちがわいてくる。
・社会脳。社会性を作り出す脳の働き。一回性と再現性。科学的な実験にとって必要な再現性は社会の研究においては不可能。これをSRシステムで行う
・みんな主観的に違う現実を生きている。世の中の理解の仕方って全員違う
・自分の世界はいつでも変わりうる。「人は変わる。バカさ加減は変わらない」どこかでコンシステントな(首尾一貫した)ものがあるということが、世界が崩れたときに大丈夫な人間には必要
・科学者はルールの上に成り立っている仕事。しかし、「前提を問う」ことこそ科学
・ルールは、本来は笑うためにある。「従っている俺たちってバカだよな、アハハ」
・人間は、「同じ」という能力をもってしまった。「同じにする」「概念」「言葉」「抽象」
・視覚と聴覚は等価交換。文字記号も音も、同じ日本語。
・レヴィ・ストロース「人類社会は交換から始まっている」交換の前に贈与がある。
・意識って何なのか。ヒトと動物はどこが違うか。「同じ」という能力
・違うの裏に同じがはりついている。感覚が「違う」と訴えている。「同じ」が壊れるとショック
・社会性の基本は我慢だ。基本的に社会は個人の邪魔をする。でも、個人は世界に適応しないといけない。だから、適応する部分と、しない部分を分けてしない部分はどこかに出口をつくるほうがいい
・突拍子もないことをたくさん思い浮かべ、それをつなげたらどんな価値が生まれるかということをずっと考えるのが「創造」。脳の中で新しい組み合わせをつくること。タネがないと生まれない。タネは感覚から入っている。集中
・原理が違うものをくっつけてもだめ。評価の軸が違う
・人の認識を変えるということは一番難しい。生きている途中で認識が変わったら困る。なので、別の認識があるってことを「あれ?この可能性があるのかな」みたいな感じで、知らないうちにすり込めたらなあと思うんです。「自分で気づいた」
・視点を自由に動かすということが一番大事
・科学って方法的な仕事。方法を相手にぶつけると、結果が勝手に出てくる。「応報」
・学問を研究対象ではなく、研究方法っで分けるようにすればそんなにバラバラにはなりません
・分人民主主義。神経科学の知見にあるように人間は本来分割可能な存在
・いかにして死票が出ないようにするか。株主総会
・あらゆる議題について自分だけで判断できる人はいない
・投票システムより行政システムの方が重要
・入力のセンサー系と出力のモーター系をきちんと循環させるという話は、幼児教育の基本でもある
・「ガバメント2.0」行政はだんだんと自動化、分散化して、減らしていくべきである
・クオリア問題
・身体性の思想とは、中秋神経系を特別なものとして扱わないということ
・生物学じゃなくてフィールドサイエンスにすべき
・「育種」
・ローカルの合理性は、社会という全体の合理性には必ずしも合わない
・思い込みは非常に抜けにくい。嘘学
・科学の実験って実は、感覚世界を重視する。それを「実証」という。頭の中と感覚。イエズス会とガリレオ。イグナチオ・ディ・ロヨラ教会のだまし絵とピサの斜塔の実験
・正しい目的のためならいくら嘘をついても差し支えない?
・僕の世代は昭和二十年八月十五日に世の中がひっくり返ったのを知っている
・間違えないというのは容易なことじゃない
・頭で考えると煮詰まるから、感覚を開かないといけない
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対談形式の本で個人的には楽しめた。
文系の壁というタイトルではあるが、文系と理系で人間が二分されるのではなく、個人が理解する範囲の差で性質の違った人間となるのかなと思った。
自分は工学の人間なので物事の前提を気にしなきゃいけないんだけどもこれがなかなか難しい。それに完全に再現性がなきゃいけないと思ってたけども、生物とか複雑なものを扱っていくにつれて100%ではなく80%の再現性にどうしてもなってしまうものもあるよなあ。その場合、前提に気をつけなきゃ次にその研究結果を利用するときにうまくいかなくなってしまう。
認識を正していくには、本書でも述べられている通り、フィールド系と実験系など新しい分け方が必要かも。
まあ、個人的に面白かったのはこの本の評価でさえ、色々なことを感じる人もいれば理解できない人もいるということ。考える力は人それぞれだねえ。
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最初の森博嗣との対話が興味深い。日本で理系とは、数学が出来る人という事になっている。しかし、数学が出来ない物理学者もいたと。マイケルファラデーやロバートフックなど。確かにそうかも知れないが、日本における共通認識として、やはり文系は数学が苦手、あるいは受験項目で物理や化学を避けた人、という意味合いが強い。興味が無かったのか、勉強が合わなかったのか。
一方で理系に対しても、就職を考えた打算的な現実主義者、または対人が苦手という偏見がある。この区別は、単に受験制度に最大の要因がある。何を意識して、自らを文系と理系に分けたのかだ。従い、その後のアカデミックな勉強内容よりも、その前の判断基準で文系理系を談じる方が適切であるはずであり、学問の違いよりも、人の特性に由来する。だから、理系だ文系だという分析は、いつも違和感がある。
もっと言うと、勉強習慣の有無も原因だ。理系科目は基本的に暗記を基礎として、公式を使いこなしたり、解法への慣れが求められる。これは、テストの制限時間ゆえに、そうなるのだが、故に、日々の勉強習慣が無ければ、点数が悲惨になる。しかし、文系科目は、勉強習慣がなくても、ある程度の点数が取れる。読解や歴史は、再現性を要する学問ではなく、推論で成立するケースがあるからだ。だから、勉強習慣がなく、文理テスト結果をその判断基準にする場合、じゃあ文系へ、という事になりがちだ。
本著はどちらかを否定するものでもなく、ステレオタイプな偏見を語るのも最初だけで、後は小保方さんの話とか、VRとか、話が広がる。もっと深く議論できても良かったかな。