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解説があってよかった。また、訳者の言葉もあってよかった。なぜなら、ともにこの作品について思いをめぐらすことを促してくれたから。読みながらも、読み終わっても、一筋縄ではいかない作品であると感じた。スタイルもメッセージもわかりにくいのだ。
信頼できない語り手?いや、最後に婚約者にみせた「配慮」はいたって理性的だ。
植民地主義や狂気、好奇心、利己心などが扱われているが、それがメインテーマではない。
うねうねした、理解を超えた世界に生きる経験?その強烈さ?
なのに聞き手がいるという矛盾?
なるほど。強烈な経験をしたからこそ、本当は言えない。そこにフィクションという真実、真実はフィクションというメッセージが導かれるのでは?真実は誰かが誰かに配慮して語ることで、構成されていく。
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「地獄の黙示録」デジタルリマスター版を映画館で30数年ぶりに見た。30年ぶりに見たが殆どストーリーは覚えていた。それほど強烈な作品であった。やはりカーツとウィラードの対決の最後の「ホラー、ホラー」この表現が難解で、原案の「闇の奥」ではどういう解釈になるかと思い立ち読む。
再読するとますます「地獄の黙示録」は「闇の奥」を原作にしていることが判る
さて問題の「ホラー」とは日本語に訳すと恐怖、惨事、小説では地獄と訳されている。
マローウとクルツ、どこが地獄なのか?
まずは黒人奴隷の死の墓場の情景。奴隷として使えなくなった蛮人は河原に捨てられる。僅かな余命が蠢く地獄の入り口。まるでアウシュヴィッツの様。このイメージがコッポラに悲惨な戦争の印象を植付けたのだろう。
人外魔境の蛮人から矢と槍か飛んで来る。マローウの仲間は槍に裂かれて命を落とす。身近な死を体験する。
そしてクルツの館には生首が・・・
マローウの心理の変化。クルツと対峙するはずが、クルツを引き取る。やがてマローウはクルツの思いを理解してくる。自分と考え方が類似していることに気付く。外人魔境を冒険する海の男の共感?
冒険と任務と人外魔境での生活、奴隷を人とも思わぬ扱い、従わざる者には死を。生命の尊さを忘れてしまう当たり前の世界が狂気であり恐怖だったか?
この恐怖、マローウが体験する恐怖であってクルツではない。
コンラッドさん、クルツのフィアンセに対する最後の言葉を報告するマローウの物語のためにクルツに「恐怖」と言わせたんだね。マローウの嘘つき。
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もっと難解なものを想像していたが、物理的に近いところに住んでいるおかげか、情景を思い描くことも感情の追体験をすることも意外なほど難しくなかった。最も近いと言っても国も違うし、100年以上の月日の間にフラット化されてしまった世界、そして何よりマーロウよりはいくらか擦れてしまっている心のせいですべてが緩やかにしか感じられないが、マーロウが見たもののかすかな面影は私の日々の生活で、そこかしこに感じられる。白人(黒人目線ではアジア人含む)のコミカルでシニカルな様なんか今もほぼそのまま。別訳・原著も読みたい。
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難解な小説(英文学)として認識していた
この本ですが、新訳で非常に読みやすく、わかりやすかった
です。でも一部難解な部分が残っている感じです。
うまく書くことができないですが、落語にもにた
一人語りの部分で、物事のたとえが高度になっていて
その部分がわかりずらい部分を残したのではないかと思います。
内容的には、聖人であったと思われるやり手の英国紳士が
アフリカの奥地で暴虐・残忍な略奪を繰り返していく様が、
植民地支配や人種差別の奥を描き出しているような
内容です。
誰にでもある残虐性とそれに対して、人生の最後に
恐怖を感じてしまう人間性がよく出ていると思います。
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本国イギリスの影響が及ばない植民地時代のコンゴにおいて独自の権力を築き上げたクルツという男がいた。マーロウは彼を救出に向かう。クルツは最後に死にかけた状態で物語に現れるのみで、それまでの周囲の人間から彼を噂を聞くのみである。それでもこのクルツという人物の特異性やカリスマをうかがい知ることができるが、それをマーロウの目を通して見ることはできない。文明社会から隔絶された未開のジャングルで独自の地位を築き上げたクルツの人生を間接的に外側から描写する。
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で、結局のところクルツとは何だったのか。
地獄の黙示録の答え合わせをしたくて読んでみたが、とうとうわからず終いだった。
奥地へ向かう蒸気船の描写は濃密でワクワクしたけれど、帰還する道のりはすでに消化試合だった。「恐ろしい」もしくは「恐怖だ」という結論に異論はないのだけれど。
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辺鄙な場所に赴任したら、
空き家をタダで貸してもらえるとて、
一人暮らしには広すぎる田舎の一軒家で、
夜は虫の声を聞いて過ごす羽目になった人が言うには、
数日も経つと誰もいないはずの奥の部屋が
ざわめくことに気づいた、とか……。
もし、放り出されたのが電気も月明りもない、
真の闇の中だったら、どんな気分になっただろう。
そこにないはずのものが見えるような錯覚に陥ったり、
幻聴に怯えたりしなかったろうか。
これは19世紀末、ヨーロッパ帝国主義時代のアフリカで、
収奪に邁進した企業の
有能な社員が呑み込まれた暗黒についての話。
大変有名な映画(恥ずかしながらこれも未見)の
原案に採用された小説なので、
ストーリーは人口に膾炙しているが、
さて、実際はどんなものかと、
読みやすくて気に入っている古典新訳文庫版を
手に取ってみた。
船員マーロウは気心の知れた仲間たちと共に
遊覧ヨットに招かれ、一同に思い出を語った。
マーロウは、かつてベルギーの貿易会社に入って、
植民地であったコンゴ自由国へ向かい、
象牙の輸出に活躍する
クルツという名の責任者の噂を耳にして、
彼に強い関心を持ったという。
接触する者を激しく魅了するか、
または逆に――
仕事のやり方で意見が対立するためだが――
ひどい嫌悪感を抱かせるか、
両極端な反応を引き起こすクルツは、
得体の知れない深い闇に捕まり、
その色に染まってしまったらしい。
作者の経歴を反映したと思しきマーロウの、
育ちはいいが諸般の事情で荒くれ者に交じって働き、
時には喧嘩腰で事態を解決していく様が小気味よく、
彼のキャラクターに惹きつけられて
グイグイ読み進んでしまった。
マーロウはクルツが魅入られた深淵の正体を
恐れながら理解し、
囚われるも逃げ帰るも判断は紙一重だと考えた様子。
これは過去の忌まわしき時代の遠い地での物語だが、
彼らが覗いた闇の奥に潜む魔物は、
現代の我々の傍らにも蠢いているのかもしれない。
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ジョゼフ・コンラッドの代表作。原題はHeart of Darkness。
フランシス・コッポラの映画「地獄の黙示録」の原作としても知られる。
200ページそこそこと中編といってよい長さだが、なかなかの難解さである。比較的読みやすいという版にしてこれだと、他の版はどうなのか、むしろ興味がわくほどである。
コンラッドはそもそもロシアの生まれで、幼少期から青年期まで、ロシア語、ポーランド語、フランス語を使用した経験を持つ。長じて船乗りとなって英国船で航海をした際に英語を身に付け、この最後に学んだ英語で小説を書いたという。
もちろん、語学的な素養も才能も十分にあったのだろうが、もしかしたら英語のみを読み書きする人とは少し感覚が違ったのではないだろうか。彼が綴ったのは、先入観にしばられない、いささか個性的な英語なのではないか。
私自身は、1作のみを、しかも邦訳で読んだだけであり、憶測でしかないのだが、何となくそんなことも思わせる、ごつごつする「わかりにくさ」を感じる。
さてそうした筆致で描き出される物語だが、このストーリーがまたわかりにくい。
語り手であるマーロウは、コンラッド自身の若き日を投影した人物と思われる船乗りである。マーロウはかつて、アフリカの奥地の河を旅した経験を語る。それは縁故採用で雇われた貿易会社の任務だった。象牙売買に携わる社員クルツが病気になったため、助けに向かうことになっていた。ところがなかなか旅は先へと進まない。あれやこれやとおかしな出来事があり、困難が行く手を阻む。マーロウがようやく出会ったクルツとはどんな人物だったのか。
多義性を孕む物語である。多くの部分が読者に委ねられていると言ってもよい。そのためということかどうか、本作は高く評価する人もいれば、唾棄すべきと嫌う人もいる。
受け取りようによっては、これは、植民地支配の暗部を描いた物語であり、なるほど西洋から見た「未開地」の物語としても読めそうではある。
だが、個人的には、この物語でコンラッドが描こうとした主眼は、そこにはないように思った。微妙に白人至上主義があり(あるいは少なくとも否定はされず)、そもそも植民地貿易がなければ生まれなかった作品ではあろうけれども。
一番鮮烈な印象を残すのは、「魔境Darkness」そのものの底知れぬ闇である。
そこにあるのは、原初的な恐怖だ。
文明社会のすべての秩序、決まり事を取っ払った奥の奥にあるもの。
理性がもたらす因果関係による恐怖、例えば「殺されそうだから怖い」というようなものではない。ただもう声にならない叫びをあげて、それでも逃れられないような、裸の、ナマの恐怖。
クルツは、毀誉褒貶の激しい、得体の知れない人物として描かれているが、クルツ自身もある意味、この闇の「魔」に呑み込まれてしまった人物なのではないか。
西洋がアフリカと出会ったとき、確かに搾取はあっただろう。清廉潔白ではなかったろう。
けれども少なくとも前線にいた船乗りたちは、自らの理解しえないもの、現在だけでなく永劫にわかりえないであろうものとも出会ったのだ。
密林の奥のさらにずっと奥で。脈打つ心臓のようにぬめりとした魔物に。
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1ページ読んで、3ページ戻る。
どうなってんのか分からず、戻って読み直す、を繰り返し。気づけば、結局何がなんだかわからないまま読破。
コッポラ監督の『地獄の黙示録』の原作ということですが、映画よりも淡々と静けさが目立ち、かつ難解です。
しばらく本棚に寝かせて、5年後くらいにまた読んでみようかな。
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マーロウという老船乗りが若いときに体験したコンゴでのできごとを語る。
すごくオブラートに包んだ語り口で、そこに意味があるようなのだが、やはりよくわからなかった。
肝心のクルツが何をしてどのように変化したのか分かりにくい。
魔境の不気味さや迫力は感じられる。
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"「地獄の黙示録」という映画を見たことがあるだろうか?何度も見ている映画の一つ。より、その深淵を理解するにはこの本を読むべきだという使命感?から購入したもののなかなか読み始められなかった。コンゴ河をさかのぼっていく物語。読み応えのある一冊。モラル、価値、人間そのものを見つめ直す。岩波文庫の翻訳も読んでみたい。
この本も上記の映画同様、何度も読み返したくなる魅力がある。"
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英国の作家ジョセフ・コンラッドによって書かれた中編小説。20世紀における英語文学の傑作として知られる。仏国の貿易会社に雇われた船乗りマーロウが、アフリカの出張所を訪れるためにコンゴ川を遡行し、やがてクルツという名の代理人を求めて大陸の奥深くへ足を踏み入れるが……というストーリー。背景には当時のベルギー国王によるコンゴ自由国に対する苛烈な植民地支配が存在し、本作にはコンラッドの船員時代の経験が反映されている。
本作では語り手マーロウの出航から帰還までが作中作の形で展開し、プロットを辿れば物語の全体像は把握できるものの、作品を包み込む重厚なーーあたかも倫敦を覆う陰鬱な闇のような雰囲気が、テクストの表面的な読みを妨げている。通常の読書体験は《読者-語り手》という伝聞形態を取るが、本作では多重構造化によって《読者-私-語り手》という「又聞き」の形態を強いられる。我々は物語から一階層引き剥がされ、それゆえ出来事の意味が不明瞭に、闇の奥へと押しやられる形で抽象化されているように感じるのではないだろうか。つまり読者は小説からイベントの配列を読み取るだけでなく、その背後に潜む物事の意味を能動的に掴み取らなければならない。マーロウ自らが注意するように「生の感覚こそが、その経験の真実であり、意味でありーー捉えがたい深い本質」だとすれば、構造外から闇を覗き込んでいるにすぎない我々がその本質を捉えるのは難しいだろう。作中作の形式で書かれた物語は無数に存在するが、文明からの乖離を描いた『闇の奥』では構造化の効果が最大限に発揮されている。本作から「生の感覚」汲み取るためには、自身を取り巻く一切のコードを捨て去らなければならない。理性を失うことなく帰還したマーロウではなく、狂気と闇の深淵で死んでいったクルツのように。
『闇の奥』を帝国主義批判の書、あるいは人種差別的視点から描かれた啓蒙小説とする見方もあるようだが(訳者の黒原氏も述べておられるように)本書はそうした意図を持って書かれた作品と思えない。スウィフトにせよオーウェルにせよ社会批判を目的とするフィクションには特定の思想基盤に依拠する「現実から象徴」への寓話化プロセスが見られるものだが、本作ではあらゆるイデオロギーの上位に実存の不可解さが置かれている印象を受けた。知性による合理主義的な解釈を拒む語りは、むしろカフカの不条理さに通じるものがある。理由もなく毒虫に変身したザムザの姿は、やはり理由もなく近代的な人間性を剥ぎ取られたクルツの姿と被って見えてしまう。あとに残されるのは思想でも知性でもない、人間本来の混沌ーー闇だけである。
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ジョセフ・コンラッドがじつはヨセフコンラートで、ポーランドからの移民だったという事実が今いちばんアツイ。解説に書いてあった「東欧特有の多声楽(ポリフォニー)」で体に稲妻がはしった、クンデラ!!!ポーランド→イギリスのコンラッドとチェコ→フランスのクンデラ。共通点とかさがしたらめちゃたのしそう。あわせてロシア→アメリカのナボコフもやりたい…絶対やらないだろ、やれよ、やりたい、やるか…ウグ〜。
闇の奥、ぜんぜんおもしろくないと決めつけてたけど(なんで笑)ものすごかった。文章がものすごく読みづらくて、しかもずーっと文字がびっしり埋まってるから時間かかるのだけど、その分トランス状態に入ったときの没入感がはんぱなかった。私も蒸気船乗ってたきぶん、たぶん乾燥機つけたお風呂場で頭ボーとなりながら読んだせいもあるけれど。
『地獄の黙示録』がものすごい映画で、とても好きだから、なおさらどっちもすごい!となった。クルツはずっとマーロンブランドだし、マーロウはずっとマーティンシーンだった。デニホパはちょとイメージちがたけど。また映画みたいな〜と思ったらなんと明日からファイナルカット版が上映されるらしい。なんたるグッドタイミング。これはもう私のための上映会…(出不精のため見に行くかは謎)
コンラッド他のも読んでみたい!となりました。(フローベールもウェルベックも読まなきゃなのに、もう心はコンラッド、クンデラ方面)
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【琉球大学附属図書館OPACリンク】
https://opac.lib.u-ryukyu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BA91294531
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人間の心にはどんなものでも入る−−過去と未来のすべてがそこにあるんだから。あの原住民の心のなかには何があったのか。歓びか、恐怖か、悲しみか、献身か、勇気か、怒りか−−それはわからないが−−とにかく真実が−−時という外套を剥ぎ取られた真実が−−そこにあったのは間違いない。原理原則を持っているべきだ?原理原則なんか役に立たない。あとから身につけたもの、服−−服なんてただの小ぎれいなぼろだ−−そんなものは、最初の身震いで吹っ飛んでしまう。そうじゃなくて、必要なのは、考えぬいた上での信念だ。(p.91)
『彼が最期に口にした言葉は−−あなたのお名前でした』
小さな溜息が聴こえたと思うと、怖ろしいような響きの歓喜の声が、想像もできない勝利感と言いようのない苦悩の交じった声がほとばしって、俺の心臓は止まりそうになった。『私にはわかっていました−−きっとそうだと思ってました』・・彼女にはわかっていた。きっとそうだと思っていた。彼女はすすり泣きを漏らした。両手で顔を覆っていた。俺は逃げる暇もなく建物が崩れてくると思った。天が頭の上に落ちてくるような気がした。だが、何も起きなかった。この程度の嘘で天が落ちてくることはないのだ。(p.191)