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初期作品を3篇収録。
『文字移植』は河出文庫版を持っているが、他2篇は初めて読んだ。
どれも多和田葉子らしい短篇で、初期からかなり明確な作風を持っていたことが伺える。
個人的には『三人関係』が一番好き。
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◆『犬婿入り』から多和田作品2冊目。
◆今回もディスコミュニケーション・意思疎通の欠如を強く感じる。主人公はいつも、「私」を含まない共同体や共通言語を妬み・軽蔑し、地団駄踏んで苦しみの声をあげる。ソフィストケートされることを拒み、言葉を解体し、言葉以前のものに戻ろうとし、あるいは過剰に連ね、駄々をこねる。◆それはまるで赤ん坊の泣き声(言葉への・世界へのラブコール)のよう。かつての子であり女であり母である私は、それを不快と思うこともできず、愛し子たる彼女を、目で耳で鼻で皮膚で子宮で全身で抱きしめたくなってしまう。
◆「翻訳」をテーマにした「文字移植」は、いつになく具体的で作者の核を見たようで興味深かった。多和田氏の訳すアンネ・ドゥーデンの「アルファベットの傷口」を一つの作品として読んでみたい。
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書籍結婚で違う国に行き、姿を見せない相手と結婚生活を送る、かかとを失くして
アルバイトの女性と作家と画家の旦那。その三人の関係を”作り出す”、三人関係
ここまでであまり読む気が起きず、文字移植は断念。
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これはかかとがない文学である。かかとがないとは?かかとがないと人はどうなってしまうのか。前のめりで、ふらふらとしていて、地に足がつかず、その地に足がついていないのが問題であり、地に足がついていないのが問題なのは、本当に問題なのか?と問い直す影あり。
現代社会が問われるのは、このへんのことなのではないでしょうか?地に足ががっつりついていた時代から、ふわふわと漂う、地に足がついていない時代へ。その時に求められる文学とは、今をきちんと見据えた文学とは、こういうものなのではないでしょうか。壮大な試み。
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これまで読んだ中でも、その独特な世界観は際立っている。
半分過ぎた辺りで本が行方不明に。
見つけ出す前に他の本を読み始める。
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読んだのは数年前図書館で、ですが
カフカ、安部公房の系譜に連なる不条理文学をより凝縮、洗練させた感じ。
アヴァンポップとよんでいいのかわかりませんが最後にオチまである所がユーモラスで楽しい。
不条理もの読んだことない人はおすすめです。
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三篇とも静かに底から不安感を煽られる作品。常識から少しズレた世界でズレた人々が暮らしている。
『かかとを失くして』
異国の見知らぬ人と結婚した主人公は、その異国にたどり着いても、夫に会えることはなく日々が過ぎる。そして…。
『三人関係』
有名人とファン。「夢小説」っていうジャンルを聞いたことがあるなと思い出しました。
『文字移植』
翻訳者の苦悩。読み解けてはいないけど三篇の中では一番好き。リズムがいい。ことばに対する信頼感がどんどん削がれていくような感覚になりました。
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行きつ戻りつしながら、ようやく読了。
いつものように、ぽん、と宙に放り出されて、本の世界からなかなか心が帰ってこない。
珍しく巻末に作者本人によるあとがきが載っていたので、それで少し現実との接地面積が広がる。
さらにその後の作品解説と年表を見て、ようやく意識が立て直される。
「かかとを失くして」というタイトルから、私はてっきり喪失体験から漂泊を余儀なくされる話なのかと思っていたけれど、違った。かかとを失くして、爪先立ちになって見れば、世界は絶えず異化されるという話だった。
これって、多和田葉子作品に通底するメッセージなんじゃないだろうか?
地に足をつけて、けれど、かかとを落とさず眺めてみれば、日常も異境に変わる。
デビュー作、読んでみる価値はあった。
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多和田葉子の日本語でのデビュー作「かかとを失くして」に始まり、「三人関係」「文字移植」の初期短編三作が入っている。一文、一段落が極めて長い「かかとを失くして」、また、翻訳者である視点人物の「わたし」が翻訳するアンネ・ドューデン「Der wunde Punkt im Alphabet(アルファベットの傷口)」の、ドイツ語の語順のまま書かれた読点の多い訳文と、逆に、一つも読点のない地の文が交互に現れて展開する「文字移植」は、その独特な文体で、慣れないとやや読みづらい。
「文字移植」は、自力で翻訳を完成させることができない女性の物語である。
視点人物の「わたし」は、過去にも翻訳をしてきたが、そのいずれも友人のエイさんの力を借りて完成させることができた。彼女が翻訳を完成させることができない理由は、「ゲオルク」と呼ばれる、彼女に翻訳をやめさせようとする誰かの存在で、「何もかもゲオルクが悪い。ゲオルクさえいなければわたしはもっと強い人間かもしれないのに」と、彼女は思っている。
元々「聖ゲオルク」は、ドラゴンを退治して、生贄にされた姫を助けたとされる伝説上の殉教者の名前であり、まさしく、「わたし」がドイツ語から翻訳しようとしている物語とは、この聖ゲオルク伝説だった。物語の最後、「わたし」は、ようやく翻訳を完成させるが、出来上がった原稿を送るため郵便局へ向かう途中、彼女は、彼女によって「聖ゲオルク」とされた少年やアイスクリーム売りなどの男たちによって、その道行きを阻まれる。
異国での生活、翻訳、女性など、比較的分かりやすく、多和田葉子的なモチーフが多かったように思う。また、水を吸い取るというバナナ園、土地を乾燥させる「ドラゴン風」に、サボテンや迫るバナナの木など、水と乾燥に関わって、いじれそうなモチーフもまだまだある。そうした意味で、「文字移植」は、特に、読みやすい作品だった。
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「犬婿入り」を読みこちらも読みたくなった。
「かかとを失くして」は、書類結婚で異国へ移動した異邦人の話。異物(異質なもの)として生きていくのは、つまさき立ちするよな不安定な状態なのかも。三作とも平衡感覚を失うような感覚を覚えた。
イカ、いか、烏賊・・・他は?
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「わかりたくて」この本を読んだら、本の方から「そういう人向けではないです」と言われてしまった…いや、言ってすらもらえなかった、というのが、率直な感想です。
そこが新たなスタートともいえる。少し寝かせて、また読んでみたいと思う。
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多和田葉子作品を読むこと。それはたぶんに語り手の世界認識の歪み(いまで言う「認知の歪み」)をどんなツッコミどころがあろうとそのまま呑み込み、突拍子もなく散乱するイメージ群を自らの中に受肉して消化することを意味するのかなと思う。いや、「なにかを読む」とはもともとそうした営みだろう。だが多和田作品の場合は語り手があまりにも受け身すぎていて(つまり、外部でカオスとして生起するできごとにいちいち翻弄されすぎていて)、したがってこちらもその迷宮世界をさまようことになる。それにしても、この迷宮世界はどこまで「天然」?