紙の本
世界は事実の総体である
2009/09/29 14:09
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ソネアキラ - この投稿者のレビュー一覧を見る
ヴィトゲンシュタインの一生から、彼が「言語ゲーム」に辿り着くまでを書き、さらにプラスアルファと、新書でありながらかなり奥行きのある一冊。有名な『論理哲学論考』の冒頭の意味が、ようやくわかり、なんだかうるうるしてしまった。ここ。
「1 世界は成立していることがらの相対である。
1.1 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」
何度か読み返しているのに、まったく新鮮、驚きで受け止めてしまった。保坂和志や磯崎憲一郎の小説にも通じるものがある。
「ヴィトゲンシュタインが、言語ゲームのアイデアを通じて言いたかったのは、この世界の意味や価値は、権力などによらなくても、人びとのふるまいの一致によって、ちゃんと支えられているということだ」
第一次世界大戦の惨状を最前線で体験したヴィトゲンシュタインは、政治家の演説の修辞なぞは最も嫌うんだろうな。
「法のルール説は、国家権力に反対しない。そのかわりに、国家権力も、ルールに従うべきだとする。法や権力は、強制力(暴力)の裏付けがある」そしてそれは「人びとの承認にもとづく」と。
「人びとの承認」って闇金かなんかの金銭消費貸借契約証書をろくに読まないでハンコつくようなもんだ。「利息がベラボウじゃないかあ」と言うと、
「ほら、認めたじゃないっすか」ぺらぺら(証書をなびかせる音)
「ポストモダン思想は、「大きな物語は終わった」と宣言する」
すると、
「この世界(自由主義社会、資本主義経済)に、いやおうなしに閉じ込められている、という感覚になる」
仮想敵が喪失すると閉塞感を感じるのかも。で、作者のポストモダン思想批判。まんま「セカイ系」で括れちゃう。
「批判のやり方がどれだけ、目新しいか。-略-批判のやり方が、どれだけ洗練されているか。批判がファッションになったので、ポストモダン思想は、消費社会に受け入れられた」
いま思うと、ニューアカ以降こうだった。いまもか。おもしろ表現主義というのか。「コミット」することは、ダサイ、クサイって風潮が。作者はひょっとしていわゆるゼロ年代の批評あたりを批判していると思うのは、深読みし過ぎか。
「ヴィトゲンシュタインは、意味や価値の生まれる土台、言語ゲームを発見した」
フーコーの唱えたエピステーメーの土台、土台の土台。そう理解していいのだろうか。ヴィトゲンシュタインLoveを感じる。
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いくら「はじめての」とは言っても、簡単にしすぎじゃないか?
あと伝記的な部分が多いので、やや看板に偽りありなのではと。
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言語ゲームは、ルール(規則)に従う人々の「ふるまい」を観察するゲームです。
「ふるまい」という目に見えるものを観察することが言語ゲームの特徴であり、そのゲームに参加している人たちの「ふるまい」の一致や相違から意味や価値を探るということです。
あらゆるルールが言語ゲームということになりますが、言語ゲームを記述する言語ゲームも存在することになります。
つまり、いまだ言語化されていない状態の責務のルールを1次ルールと呼び、そのルールに言及するものが2次ルール(承認、裁定、変更)ということになります。
言語ゲームは、その法則性(ルール)、階層性(構造)、そして観察(フィールドワーク)という点からすると、構造主義の説明方法と相似がみられるのではないでしょうか。
構造主義とは、科学的説明方法の一種で、観察によって事柄に内在する法則と関係性という構造を言い当てるものとされています。
構造主義は、一元主義(普遍主義)ではなく、価値多元主義の立場をとることから、価値相対主義のようにみられることもありますが、多元的価値の構造(関係性)を説明するという立場であり、ポストモダンのように立ち位置をはっきりとさせず、思考を拡散させていくような価値相対主義ではないということです。
言語ゲームも、構造主義と同様に価値多元主義の立場ですが、価値相対主義ではないということがいえそうです。
つまり、誰しも自分の立ち位置というものがあって、なんらかの言語ゲームのルールに従い意味と価値を体現しているという立場です。
言語ゲームに参加している内部からの視点では、ルールに従った「ふるまい」の持つ意味と価値がその限界ということになります。
外部からの視点では、価値多元的に言語ゲーム(ルール)が数多く存在していることを知っておくことが、「ふるまい」の意味と価値の多様性に気付くということから重要となってきます。
確かに社会のあらゆる事象は、価値多元的であるとともに、価値相対的であるということになるのかもしれません。
言語ゲームは、そのゲームのルールがやがて変更されることになれば、そのルールに従った「ふるまい」の意味や価値もまた変わることになります。
あらゆる事象の持つ意味と価値は相対的(絶対的ではない)なものでしかないということになりますが、それでも今自分が参加している言語ゲームから逃避するのではなく、コミットしておくということが現実的な対処ということになり、希望につながる可能性を残すことになります。
従って、私たちがなんらかの言語ゲームにコミットしている以上は、その責任や義務から逃避した立場をとるということはできないということになります。
つまり、ルールに従った「ふるまい」の意味と価値に対応した役割と責任が求められることになるということです。
また、今の言語ゲーム以外の言語ゲームにコミットするという選択の自由については可能性としては開かれているということにもなります。
構造主義は対象の関係性を観察するという科学的(客観的)な手法に基づいた価値多元主義といえるものです。
言語ゲームとは現象学的(主観的)な手法に基づいた価値多元主義の立場に近いものではないでしょうか。
私は現象学の門外漢であるため、識者からこの類似点についてご教授をいただければ幸いと思います。
意味と価値という自然科学では扱えない「質」を実証的に研究する方法として、言語ゲームと構造主義は、広がりを持った「ものの見方」であると私は考えていますが、さて皆さんのご意見はいかがでしょうか。
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「言語ゲーム」についてわかりやすい説明書。
このゲームはやめられないけど、どんどん新しいルールを作ることは可能。
自分と周りと世界を取り巻くルールを見直して、改善すべし!
って気持ちになった。
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メモ
言語ゲーム:規則(ルール)に従った、人々の振る舞い
社会は言語ゲームの渦巻きである。言語ゲームは、私たちが言葉を持ち言うことを可能にし、私たちが住むこの世界を成り立たせていることがらそのものである。
社会は、言語ゲーム(の集まり)であること。
懐疑論(skepticism)は、規則があるか疑う。⇒ヴィトゲンシュタインは懐疑論に批判的。
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大阪から小田原に帰る電車の中で加賀鳶の友になった. しかし...
おもに基礎論に関して気になる細かい点がいくつかあった他に, 大きく次の点に違和感を覚えた.
まず「論哲論考」の例の「語りえぬことについては, 沈黙しなければならない」について. これを本書では禁止事項と理解するから, 論考全体が命令事項になってしまう (そしてそれが後述する本書の「哲学探求」理解にもつながる). これは単純に「語りえぬことが存在している」ことを述べている命題であるのに.
そして 「哲学探究」の言語ゲームに関して. 本書では言語ゲームを殆ど所与のルールの問題として語っている. ゲームのプレーではなく. 著者の社会学者としての視点にとってはそれが便利なのであろう (実際本書の後半はそれに費やされている). 言語ゲームは所与のルールなく, プレーによって成立するゲーム (ルール) が本質であるのに.
だから本書では「論哲論考」がルール集と解釈されてしまい, 言語ゲームはルールによる社会分析となる. というわけで, 本書は「もっともわかりやすい橋爪大三郎入門書!」という帯を着けると良いのではないだろうか?
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Wittgensteinの言語ゲーム.
初めて聞く名前だったし,概念すら知らなかった.
Wittgensteinの思考の流れとともに言語ゲームについて書かれている印象.
言語ゲームが哲学の諸問題を解決した.という記述が本書に見られるが,よくわからない.
応用可能範囲が広いとも書かれているが,どのように応用するのかさっぱり・・・
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言葉=ゲーム=ルール。非言語コミュニケーションについてはどうなのか?という疑問は残るが、非常に面白い。日本語は、言外の意とかが多いから、言語哲学とかは直感的に分かりにくいんだろうな、という気がする。この辺、空気論ともからんで来る話だと思う。いずれにせよ、言葉でしか物が考えられないのは、そうなんじゃないかと思う。
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哲学者ヴィトゲンシュタインの生い立ちから、前期『論理哲学論考』・後期「言語ゲーム」の思想、それらの思想を産み出した社会的背景などを一通り学ぶことができる。「言語ゲーム」の考え方を、資本主義・全体主義といった政治体制や、世界の宗教に応用して解説されている部分もある。
講義を聴いている感覚で、読みやすく書かれているのが良かった。前半の数学、論理学の部分は難しい印象を持ったが、肝心の「言語ゲーム」の解説部分はとても刺激的で面白かった。特に印象的だった部分を列挙すると、まず前期『論考』の最後はまるで「自動的に消去される」スパイ映画に出てくるテープのようであること(p.93)、「机」を分からせるためには色んな机を持ってこればいい、という言語ゲームのアイデア(p.107あたり)、クリプキのクワス(p.152)、相対主義(p.249)など。人々が「言語ゲーム」をすることで社会が成り立つという考え方がよく分かった。(10/04/13)
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本書は、社会学を専門とし、
東京工業大学教授である著者が、
ドイツの哲学者ウィトゲンシュタインと
彼が提唱した言語ゲーム論について紹介する著作です。
著者は、ウィトゲンシュタインの生涯を振り返り、
その思想や言語ゲーム論の要点をコンパクトに解説。
その上で、後の哲学者への影響や相違点を指摘。
さらに、キリスト教、仏教、宣長などを例にとって、
言語ゲーム論の射程の広さを論じます。
言語ゲーム論に基づく『ゴドーを待ちながら』の分析
トルストイの『要約福音書』の重要性など、
どの記述も興味深いのですが、
個人的には、クリプキとの相違や
H・L・A・ハートの議論との類似性など
なんとなくモヤモヤが残っていた事柄について
疑問がスッキリしたのが、とても嬉しかったです。
「わかりにくさ」の代名詞のようなウィトゲンシュタインについて
そのエッセンスを平易に解説するとともに、
実社会における応用の仕方をも示す本書。
言語ゲームに興味がある方はもちろん、
哲学に興味を持ち始めている方など、多くの方におススメしたい著作です☆
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橋爪大三郎さんの「はじめての構造主義」が分かりやすかったのでこちらも読んでみることにした。
現代思想を教養として知っておきたくて(だから特にウィトゲンシュタインについて知りたかったわけではない)、この本を読んだ。講談社現代新書は思想・哲学の分野の入門書に力を入れているようなので、色々読んでみたくて、まずこの本を手に取ったというわけだ。
といっても、ウィトゲンシュタインについて全く知らなかったわけではない。岩波文庫の「論理哲学論考」を手に取ったことがあるのだが、全く理解できなかったからだ。(始まりからしてわからなかった。)
しかし、そんな僕でもこの本を読めば大体理解出来た。(内容に関しては相変わらず分からないが。)
ウィトゲンシュタインの思想を大きく分けると、前期と後期に分けることができる。
前期:「論理哲学論考」。写像理論。
後期:「哲学探究」。言語ゲーム。
P.68
世界が壊れようとする今、この世界を成り立たせる価値や意味の根拠を、確認しないでどうしよう。それでも世界が、存在できることを、証明しないでどうしよう。ウィトゲンシュタインは、数学・論理を基礎づけようとする自分の仕事に、世界の価値と意味を論証するという大きなテーマを重ね合わせた。
P.74
「論理哲学論考」のエッセンス
(1)世界は、分析可能である。
(2)言語も、分析可能である。
(3)世界と言語とは、互いに写像関係にある
(4)以上(1)~(3)の他は、言表不能=思考不能である。
P.124
人間は誰でも、もう世界が始まっているところに、遅れてやってくる。はじめ、この世界がどんなルールに従っているのか、ちっとも理解できない。でも、それを見ているうちに、だんだんわかるようになる。
P.130
言語は、私的言語ではない。言語は、人々のあいだのふるまいの一致である。つまり、私の感覚を根拠に、私を中心に出来あがっているわけではない。この意味で、言語は公共のものである。
P.148
規則(ルール)に従ってふるまうかぎり、人間は人間である。
P.164
ウィトゲンシュタインは、それよりもっと根源的な「なにを懐疑するにせよ、懐疑するという言語ゲームを行っていることは決して疑えない」という原理を発見したのである。
P.178
ウィトゲンシュタインが、言語ゲームのアイデアを通じて言いたかったのは、この世界の意味や価値は、権力などに寄らなくても、人々のふるまいの一致によって、ちゃんと支えられているという事だ。
P.241
写像理論と、言語ゲームの違いはどこか。
写像理論は、「言語と世界は対応している」と、最初から想定する。誰が何と言おうと、言語と世界は無条件に対応しているのだ。
それに対して、言語ゲームの場合、言葉が世界を支持して意味を持つことが出来るのは、人々がそのようにふるまうから。人々がどうふるまうかは、事情による。したがって、言葉が意味を持つかどうかも、事情による。つまり、無条件ではなく、条件付きである。
P.255
そうした現代の課題を考えるのに役立つのが、言語ゲームである。
まずやるべきなのは、異なった伝統、異なった文明に属する人々がどうやって生きているか、そのアウトラインをきじゅつすることである。…ルールと記述し、ルールとルールの関係を記述していく。…次にやるべきなのは、異なった伝統、異なった文明に属する人々の従うゲームのルールを互いに比較することである。そして、矛盾や衝突が無いか、調べることである。
あるゲームが、ある文明から別の文明に移植されると、もととは違った性質を持つことがある。それは何故かも解明しなければならない。
その次にやるべきなのは、それらをより良く作り変えていく提案をすることだ。そして、実際に、人々が新しいゲームを生き始める事だ。
P.259
意味や価値を、言語ゲームを通じて研究すること。これは、ウィトゲンシュタインが我々に残してくれた、最大の贈物である。
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たまには、コムズカしい本でも読んでみようかと思ったのだけど・・・どうなんだろ。
昔、子供向けの哲学入門書で「人間の論理は言語の限界を超えることができない」みたいなことが、書いてあって、「ふーん」と感じたのを思い出して、読み始めたのでした。
この手の本では、比較的読みやすい本だけど、読み終わったあと・・「で、なんだったんだっけ」という感覚になってしまった。。読んでるときだけカシコい気分になったのだけど、いまいち身にならなかった。。
でも、こういう本は電車の中でブックカバーなしで読みたくなります
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ヴィトゲンシュタインの生涯とその思想を追い、後期の「哲学探究」に現れる言語ゲームを紹介する。言語はそれ自体だけでは存立し得ず、言語を使用する人間のふるまいと共に一元化された言語ゲームとなる。言語ゲームがメタシステムであるならば、言語ゲームを語ることもまた言語ゲームとなる。著者は社会学者なので、前著「はじめての構造主義」と同じく、言語ゲームを社会システム解読の方法論として捉えている。このアプローチは大変判り易いのだが、人間存在を超えた世界認識には至らないように思う。拡張する言語ゲームと云えば、山田正紀の「神狩り」をちょっと思い出した。
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[ 内容 ]
世界のあらゆるふるまいを説明しつくそうとしたヴィトゲンシュタインの言語ゲーム論は、いかに生まれ、どんな思想なのか?
きわめて平易で刺激的な哲学入門。
[ 目次 ]
第1章 ヴィトゲンシュタインのウィーン
第2章 数学の基礎
第3章 ケンブリッジの日々
第4章 『論理哲学論考』
第5章 放浪の果てに
第6章 言語ゲーム
第7章 ルール懐疑主義
第8章 1次ルールと2次ルール
第9章 覚りの言語ゲーム
第10章 本居宣長の言語ゲーム
第11章 これからの言語ゲーム
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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なぜ言語は「言語」としての一般受容性を備えているのか。
その疑問点を「言語は物事のふるまいをきじゅつするものである」という点によって解決したのがヴィトゲンシュタインの「言語ゲーム」という考え方である。
言語を使って◯◯が◯◯であると分かる、というごくごくありふれて感じ取ることができる事自体が言語ゲームであるということを身近な例を用いて説明している良書。
思想というものを少々敬遠していたが、本書はよき入門書となると信じている。