紙の本
文藝賞を受賞した作家ユニット「大森兄弟」の傑作です!
2020/06/22 09:42
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、『まことの人々』、『わたしは妊婦』、『ウナノハテノガタ』などの興味深い作品を発表されている実の兄弟2人による作家ユニット大森兄弟の小説です。同作は文藝賞を受賞された作品でもあります。内容は、離婚した父親が残していった黒くて大きな犬と中学生の僕を中心としたストーリーです。ある日、僕は犬と秘密の場所に出かけます。そして驚いたことに、その茂みの奥には悪臭を放つ得体の知れない肉が埋まっていたのです。一体、何の肉なのでしょうか?この後、どうなるのでしょうか?続きは、ぜひ、同書をお読みください。
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ジャケ買い。父の連れてきた犬をいやいや育てる中学生。少し前に「僕はお父さんを訴えます」を読んでいたため、犬に過剰な暴力を与えるのではないかとひやひやしていた。不完全燃焼で読了後みんなのレビューを見てショックを受けるといういつものパターン。でも、本って買い損って気はあまりしたことないな。この小説も、著者が伏線をすべて回収してくれるわけではないとよくわかってるからあまりイラっとしないし。むしろ拍子抜けな感じ。友人母の言葉遣いは好きだったな。でも、きっとこの人たちの作品はもう読まないと思う。
共同作って初めて読んだけど、単身作?との違いが判らなかった。もうちょっと個性が強くてもよかった気がする。
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いつか読もうと思っていて、なかなか読めなかった本。イメージとは違っていたが、星3位おもしろかった。
大森兄弟で、一章ずつ交代で書いていたということだったが、どこで人が代わったのか、どの章とどの章が兄でどの章が弟なのか、わからなかった。
以前テレビで著者を見たことがあったが、穏やかなおとなしそうなふたりだったという印象がある。
家族関係についての内容なので、きっと兄弟が育った環境が同じというのが、話の筋におおきなブレが生じなかった理由だと思われる。
土の中にある肉の塊の正体はいったいなんだったのか。どうして肉は腐って土になっていかなかったのか、不明。そもそも肉じゃなくて臭いゴム?
そしておじいさんはなにもの?
わからないままのラスト。
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不気味 が適切な表現か…
私には、この本の解説をできる語彙力と経験が足りない。
読む前は犬はどんな時も側に居てくれて最高の理解者、最高の家族 みたいな話かと思ってたら、登場人物、出てくる犬、全てがサイコパス。
いや、サイコパスかは分からないけど、私に理解できない人間と犬しか出てこなかった
本自体は比較的薄めで、文章も読みやすい。
感受性の低くて素直が故に、残酷な少年の主人公。
彼と、空気を読めすぎる犬。
彼と、同級生。
彼と、同級生のお母さん。
彼と、お母さん、お父さん。
彼の気持ちが理解出来ないから常に驚きの展開です。
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少年が悪意に触れることで自己を確立する、逆説的成長譚。
「おまえも覚えておくといい、世間には、信じられないくらい意地悪な人間がいるんだよ。」
本書の冒頭で主人公に対して、父親が伝えた印象的な言葉である。
主人公は中学生で、少年から青年への過渡期にある。
少年期の意地悪は、悪意のない純粋無垢なものであることも多い。しかし、青年期へと足を踏み入れた10代半ばにもなると、意地悪は明確な悪意を孕んだものへと変化していく。
主人公もまた、鬱陶しい友人のサダの意地悪さにあてられるにつれ、徐々に悪意のある意地悪さを発露していく。
さて、犬は主人公の延長線上にある無意識的な存在として描かれている。そういった存在であるからこそ、気味が悪いほど主人公の考えがわかるのだ。
また、「広場の肉」は悪意で人を傷つけることの悦びの象徴のように思える。
無垢さの残る主人公は肉を臭くてたまらないものだと忌避しているが、主人公の無意識的な存在の犬は、薄暗い悦びに触れることで恍惚の表情を浮かべている。
悪意が最大限に発揮されるのが、父親から金を騙し取った後、家に帰って母親と話すシーンだ。
主人公は明確な悪意を持って、父親が新しい恋人と暮らしているという嘘や、悪口を言い続ける。
少年の無垢さは既に失われてしまったのだ。
だからこそ、この後はわき目も振らず、一直線に肉の広場を目指すのである。
さらに、最終場面で主人公がサダの頬のキズに興奮して手を伸ばすことはまさしく、主人公が悪意と人を傷つける悦びを実感していることを表している。
主人公は犬を通して「肉」を求めることをやめて、自己の意思として忌避することなく薄暗い欲望に触れようとしているからだ。
主人公は〝信じられないくらい意地悪な人間〟になってしまったともいえる。
しかし、それはある種の防衛手段でもある。鬱陶しい友人や、自分をいつか「なし」にするかもしれない親。
それらに対して、無垢な少年のまま立ち向かうことは難しい。悪意をもって人を傷つける悦びを自覚し、それを受け入れることは必要な成長であったのだ。
また、悦びを感じるかは別として、悪意を自覚しコントロールする術を身につけることは、誰しもが逃れることはできない青年期の課題のようなものである。
無垢なまま人を傷つけることも、悪意を爆発させることも許されない。
決して他人事ではないのだ。
犬はいつも足元にいるのである。