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・私はキリスト教とは無縁であるから、聖書といふものをほとんど知らない。これは新約も旧約も同じである。ただ、旧約は文語訳で創世記を少しばかり読んだことはあつた。こんなのではやはり聖書は知らないといふべきであらう。そんなところに「文語訳 旧約聖書 1 律法」(岩波文庫)で ある。全四巻の第一が文庫で出た。創世記、出エジプト記、レビ記、民数記略、申命記を収める。文語訳だから読む気になつた。とはいふものの、これを全部き ちんと読む気にはなれない。信仰としては重要かもしれないが、信仰の書と無縁の人間には退屈な記述も多い。そこは適宜とばしてである。
・読みつつ気づいた点の第一はワ行音の動詞が少ないといふことであつた。文語体、いや、それを含めた所謂歴史的仮名遣ひの文章では「ゐる」の使用が多い。 「ゐ」が目立つものである。ところがここには「ゐる」が見られない。「ゐ」が全く目につかない。皆無かどうかは分からないが、ほとんどないことは確かである。まだ「をり」の方が多い。漢字で「居り」と書かれてゐたりはするものの、こちらは稀に見える。比較的出てくる「用ゐる」は「用ふ」とハ行下二段動詞となつてゐる。それもあつて、「ゐ」がほとんど見られないのである。これは意外であつた。所謂歴史的仮名遣ひに「ゐ」はつきものと思つてゐた人間には本当に 意外であつた。この文語訳の文末は「なり」「り」「べし」が多い。冒頭の一文は「元始に神天地を創造たまへり。」(9頁)であり、以下、「覆ひたりき」 「光ありき」「分かちたまへり」「首の日なり」と続く。ここで「き」が2語あるのは珍しい。以下もこんな調子であるから、「ゐる」の出番がないのである。 稀に「ゐる」かと思へば「をり」であつたりする。本当に「ゐる」が使はれないのである。これは驚いた。意外だつた。かういふ文語文があつたのだ、読みながら感じた第一がこれであつた。第二は禁忌である。禁忌、タブーである。本書は旧約第一律法である。モーゼを通して神の意志が伝へられる。ああしなさい、かうしなさい、ああするな、かうするな……これらが事細かに(であるのかどうか)記されてゐる。しなさいの方は神への捧げ物等々が中心であらうか。捧げられるのは牛、羊、山羊である。その時々に応じたやり方でこれらが捧げられる。捧げるなといふのは、私からしてもこんなのはなと思へる生き物ばかりである。そ こでふと思ふ。この旧約世界に鯨がゐたらどうなるのか、鯨は捧げ物になりうるかどうか。それ次第で捕鯨に対する風当たりが相当に変はるのではないか。牛は聖書の捧げ物の代表である。捧げねばならぬ動物である。何があらうと食つて良いのである。ところが、鯨は触れられてゐない。捧げ物にするなとも言はれてゐ ない。つまり、食ふことも憎むこともしない存在である。そこが捕鯨につけいることのできるポイントではないか。思ひ入れたつぷりに鯨を殺すなと言へる所以ではないか。かつて鯨油を採るための捕鯨をしてゐたことは(たぶん)忘れて、現在の日本の捕鯨のみを残酷だとして指弾できるのも、食文化の問題といふよりは宗教的な問題ではないのか。その根底にあるのはこの律法ではないか。捧げ物のタブーとされる生き物を見ながらこ���なことを思ふのだが、これはいささか八 つ当たりの議論であらうか。キリスト教の根底にかういふ認識がある以上、鯨を食ひ物として認められないのも当然のことと思はれる。いづれにせよ、この律法 のタブーはおもしろい。こんなものがあるのだと思ふばかりである。旧約世界ではかういふものを持て余してゐたからこそ何度も繰り返すのであらう。なるほど律法である。