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木村は、精神科医であり、思想家でもある人で、その豊かな臨床経験と、哲学の概念をうまく調合して、独自の生命観を記述している。
この本は木村は、生命一般の根拠というものを記述している。以下は、自分の簡単なまとめ。
コモンセンスは日本語では「常識」って訳すけど、これだと成文化が可能な何らかの知識だと思ってしまう。例えば事務マニュアルに載ってる諸規則は、これに該当する。なら、事務マニュアルを全て暗記することによって、初めてその仕事のコモンセンスを習得することができ、仕事が円滑に進むのかと言うと、そうでもない。第一、そんなこと不可能。一方、コモンセンスを直訳するとい「共通感覚」。哲学者ヴィーゴはコモンセンスを、ある集団が共有する、成文化が難しい「世界との実践的・行為的な関わりの感覚」として考えた。知識ではなく、本能的な感覚。それは「頭」で習得するよりも「身体」で習得するようなもの。これさえ習得してしまえば、どんな状況でも、「正解」を導き出せる。ただ、こうしたコモンセンスは、座学の研修だけでは習得できない。その世界へ滑り込み、今までの「自己」を殺して、新たに自己を誕生させていくという、「転機(Krise)」の連続によって取得していく。
木村は、生命現象を、転機として捉える。全ての有機体は、外部環境の働きかけに対して、こうした転機を繰り返すことによって、世界と関わっていると言う。これまでの自分を殺して、新しい自分を誕生させる。いわば、「不連続の連続」。こうして、その都度、世界との実践的・行為的な関わり方を更新して、その世界での「自然さ」を身に付けていく。(ちなみに、分裂症患者は、こうした「自然さ」を喪失した人たち。始終、急激な「転機」が要請される現代社会の犠牲者である。)
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やや難解でありながらも、こういった書物につい引き込まれてしまう。
ノエマ、ノエシスや西田幾多郎「行為的直観」概念と格闘しながら。
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木村臨床哲学の核心である「あいだ」。「生命一般の根拠」とのつながりはどう保たれるのか、正常(共通認識の枠内にある「形態」ととらえてみる)とは何かから新しいノエマを形成するための即興を考える契機がうまれる。
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よく繰り返し読んでいる本。
「我」や「汝」や「物」や「世界」に着目するのではなく、「我と物」、「我と汝」、「物と物」、「我と世界」の【あいだ】に注意を向ける話などなど。
我と汝の「あいだ」で生じる対話は、ペアプロ、ファシリテーション、ダイアローグに通じる。
仕事では、BDDやモックで出てくる「振る舞い」behaviorという言葉の意味がわからず妙に気になっていたが、「あいだ」が「振る舞い」を理解する補助線となった。
カメラでは、私と被写体と「あいだ」を色々考えさせられた。ゲーテ同様に僕の写真の撮り方に影響を与えた一冊
建築のパタンランゲージは、もの形の話をしているのだろうか?それとも人々が望む心の中を話をしているのだろうか?この本の座視ならどちらでもなく、人と建築、人と人の「あいだで繰り広げられる質」の話になるであろう。
そのほか、音楽の演奏の話、「言葉」と「こと」の話、
「自ら」と「自ずから」の源流である「自」の話などなど、興味深い。
音楽の演奏の話は、スクラムの自己組織化のイメージ像を豊かにしてくれるんじゃなかろうか。
まだ咀嚼しきれていないところが多数あるので、生きているあいだに、またいつか読むと思う。
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時間かけて途中まで読んだけど、まだ無理だ!
フッサールと西田幾多郎の知識つけてから再読します…
一応メモだけ残しときます…
・生きものを生きものとして規定している共通の根拠というものが存在すること
・有機物と環境(世界)が出会うこと時点において主体が成立すること
・主体は有機体と環境の出会いの根拠として働くもの
・環境の変化により主体が失われるが、知覚と運動の円環的なからみあいを通じて新たな主体が維持される(不連続の連続)
・主体には生命の根拠との関わり、世界との関わりの二面があるけどなんか一緒らしい
・5章はよくわからん!
・ノエシス→生命活動一般の動的な志向性
・ノエマ→ノエシス的な生命活動が意識面に送り込んだ表象
・ノエシスとノエマはよくわからないけど両方が両方を規定している感じ?