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「独りであること、未熟であること、これが私の二十歳の原点である」
1969年6月、立命館大学の学生であった高野悦子が自ら命を絶った。享年20歳。『二十歳の原点』は彼女が書き残した日記である。1969年1月2日、20歳の誕生日からそれは始まる。
立命館大学文学部に入学した後、彼女は読書やアルバイト、そして学生運動との狭間で、自己を確立しようと努める。考え、迷い、悩み、叫び、行動を起こす。喫茶店「シアンクレール」で思案にくれ、あるべき自分を模索し続ける日々。
時として、その終着点は「死」に向けられた。しかし多くの場合、彼女は「生」への強い想いを抱き続ける。明るさとせつなさを交錯させながら、強く生きることを切望する。
6月22日、彼女は長い長い日記を綴る。睡眠薬を大量に飲みつつも、それに打ち勝って眠らずにいられるかを試し、最後に一編の美しい詩をうたう。それが彼女の最後の日記となった。
20歳の日々。何を考え、どのように生きていただろうか。そんなことを考えさせられる本でした。
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たくさんのことを望みすぎなのだろうか?
それとも、もともと弱いのだろうか?
中身のない観念は無為だ
若いときにはこれからの人生のことを考える必要に相対する。しかし、その材料は自分たちの周りにいる大人、社会、メディアを通した認識、書物による把握...など。
そのどれもが知った気になれるし、枠さえも作ることができる(になる)。社会、世の中といったものすべてを知ることはできないが選択せねばならない。
なかば義務のようなものだ。
職業のみならず、その他一般の諸事さえもが
完全な理解の上に築かれていない、選択されていないことの認識は心板に刻みつけておく必要がある。
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『二十歳の原点』(新潮文庫)へと続くことになる、著者が高校3年生から大学3年生までのノートを収録しています。
人生に対して真摯な、そしてときに観念の空転に陥りがちな、内省の記録という印象です。言葉遣いの端々に、著者がコミットしている学生運動から借りてきた哲学的な考察が見られます。悲劇的なのは、本書の最後の方に記された、小林という男との不本意な関係についても、著者は観念的な言葉の助けを借りてしか記述することができなかったという事実です。自身の心と身体のもっとも深いところに突き立たれた暴力を、観念的な言葉に騙り取られてしまったところに、著者の苦しみの核心があったように思います。