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作家水上勉が一年間の旬の食材、季節の料理について、自身の経験や思い出とともに綴ったエッセイ。
自ら台所に立ち、自宅の庭や畑で採れた野菜などで料理をする。その様子も写真を交えて紹介しています。
少年期に禅宗寺院で身につけた精進料理が料理の、そして生き方の基本的なベースになっていることが伝わってくる。
裏表紙の紹介文には「日本人の食生活の荒廃を悲しむ、異色の味覚エッセー」なんて書いてあるけど、別にそういう感じはしなかった。
比較的淡々と、時に食材に対する愛をにじませつつ、自然体で書かれた文章はリラックスして楽しめるものになっています。
それにしても、季節のものを使って飾り気なく料理ができる男性っていうのかなりの高得点、なのであります。
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20140111 何年か経つとまた読みたくなる本がある。この本もその一つ。作者が書いた年齢に近づくほど感じるところも変わってくる。料理というよりはどう生きるかを教えてくれる本だと思う。
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9歳の時に京都のお寺へ出された著者が、
時にその時分を思い出しながら、
ただひたすら12ヶ月分の“食(精進料理)”について書いた本。
端々から食に対する想い、
そこに関わる様々な事象が見え隠れする。
確か、かの海原雄山先生が、
「現代で唯一読むに値する食の本」
的な発言をしていたはず。
さすがです。
裏書には「クッキング・ブック」と書いてあって、
確かに『食べてみたい!!』と思える料理は多いですし、
真似する価値もあるんでしょうが、
それよりも思想本的な意味合いが強いでしょうか。
精進料理なー。
個人的に気に入ったフレーズは、
「この世に山野が生むもので同一のあるいは普遍の食べ物はありはしない」P211
です。
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ときをためる暮らしにでてきて、気になって借りてみた本。買ってもいいかも。昭和57年て四半世紀以上前に書かれたなんてと思うほど新鮮でありつつ変わらない何かが記されている。
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これも長いあいだ積読でした。ようやくこれを読んで沁みる境地に自分がなってきたのかなあと。自分の今年のテーマのひとつが料理ということもあり、今読むべき本だったのだと思います。くわいや山芋の焼いたの、味噌、豆腐、梅干し、筍、木の実にきのこ。どれもおいしそうでたまりません。素材の味を楽しむにはやはり旬に食べるのが一番。スーパーマーケットの野菜は味気ないものなあ。
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はじめて 水上勉の本を読んだ。
食に対する ポリシーと言うか 信念が実に明確に打ち出されていた。
旬が 美味しいのである。
旬という言葉がある 日本の文化が 素晴らしいのだ。
それに対する 生でない 保存する という文化が 対置されている。
水上勉の生い立ちというか素性が 明らかにされて
大工である父親の 自然な食に対する 気持ち。
そして,9歳にして 寺に出され 精進料理につきあうことで
料理に対する 気構えが 実にしっかりしている。
食べようとするものに、無駄なものは 何もないのである。
ホウレンソウを 丸ごと食べるには それなりの処しかたがあるのだ。
根っこの持つ意味は 食べなきゃわからない。
いいねぇ。
大根にしても,ジャガイモにしても、皮とは剥くためにあるのだろうか。
栗の渋皮にしても。
クワイの皮さえも,剥くことで 美味しいと言えるのだろうか。
捨てることは,何かを捨てていないのだろうか。
水上勉の料理のすごさは 自分が楽しんでいることだ。
そして,自分の味への郷愁があることだ。
タケノコに対する想いが 何ともせつない。
目先のものを食べることで 精一杯だった 自分を振り返ってみた。
食べるのは 生きている限り 続けるものだとしたら
来年食べるものを 今作ってもいいだろう。
そう思える なにかが そこにはあった。
自分が生まれたときに つけられた 梅干しを
60歳の時になって 食べることができたとしたら
なんてすごいことなんだろう。
そこには、不変がある。熟成と豊饒がある。
おばあちゃんの作ってくれた料理が未だに 思い出にあるのはなぜだろうか。
こんにゃくのトンガラシ煮。フナのミソ煮。
不思議な味わい。美味しいとはいえなかったが、印象に残った。
でも、卵焼きやカレーやトンカツがおいしかった。
母親が来た時に フキの料理が思い出された。
なんでフキなんだろう。くすんで黒くて、見た目にぱっとしない。
それが,なぜ母親と結びついたのだろうか。
そして、突然 チーズの味となる。
オヤジは チキンラーメンから始まり,寿がきのラーメンに発展するのも
よくわからない。そして,突然に ヒレ肉トンカツに 変わるのだ。
味が 飛躍し 料理が飛躍する。
そして,豚足とホルモン焼きに たどり着き 土手鍋になる。
味は ますます濃厚になっていくのだ。
今やろうとしていたことが,クロスする。
豆腐が 面白そうだ。
ジーマミ豆腐を作ってみたくなった。
ゴマの皮をむく。
『すり鉢へ 適量のゴマを入れ、それに水をわずかにいれて、手で混ぜ,鉢の目にこすりつける。
そして、水を加えると 皮は水面にぷかぷか浮いてくる。それを静かに捨ててしまえばいい。』
ケチ という意味が
本当に 美味しいと理解してくれる ヒトが いるかどうかなんですね。
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20140608読了
禅宗寺院の庫裡で育った著者による精進料理12か月。素材をシンプルに味わう幸せを知っているっていうのは、飽食の時代において実はけっこう贅沢で難しいことなんじゃないかと思う。精進料理、もう少し深めて知りたいなぁと思った。いずれ蔵書にしたい本。
20161115購入
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著書名と著者名をみて、「水上勉が料理の本を書いている」と驚き、読んでみた。
読み始めてすぐに、何かが違う、と感じた。
子どものころ、京都のお寺に何年間か住み込み修行をしたことが書いてあるけれど、そんなの聞いたことがない。
南紀の、地縁血縁関係のなんだかどろどろしたところで生活してきたのでは?
ぼくは水上勉と中上健二を間違えていた。
けれど、内容はそこそこ面白かった。
月ごとに、畑で採れる野菜を中心にした精進料理を作り方や思い出とともに紹介していく。
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体に良くても、おいしくない料理が沢山紹介されてるかと思いきや…体に良くないかもしれない、でも凄くおいしそうだ!
http://www.ne.jp/asahi/behere/now/newpage204.htm
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こんなすごい本に出会えて幸せだと思う。
食することの深み、重みを十分に感じた。
自給自足を目指す私。
何回も再読することになると思う。
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軽井沢の自宅の畑で採れた野菜や近隣の山菜果実を精進料理にして食す1年間の記録であるこの本を、ファミレスとかチェーン定食屋で食事しながら読むという、あまり著者に喜ばれないであろう、というか怒られそうな読み方で読みました。
ごめんなさい
だけど、質素ながらも丁寧に素材を調理して食す著者の姿を読むことで、自分自身のいつもの食事、例えばチェーン店の天丼を食べている時も(てんやです。)、米のひと粒ひと粒や、付け合せの大根のお漬物に至るまで、それが土から生まれ様々な過程を通して今自分が食すことが出来るのだということに深く感謝することが出来、本当にいつもより美味しく感じることが出来ました。
全く不摂生な都市生活者の自分でさえ、土を食す感覚を得られる素晴らしい本です。
筍や梅干し、堪らないです。
涎が出ます。涙が出ます。
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美味しいお料理を丁寧に作るシーンが印象的な本を紹介して!とお願いして、オススメいただいた本。
口の中にじゅわっと味がする感じ。
旅行中に読んで、早く帰ってゴハン作りたくなった(*´∀`)
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少年時代を京都の禅寺で過ごした著者が、軽井沢の地で畑で育てた野菜を食べる日々を綴る。禅寺では食事自体が大きな意味を持ち、食べることだけでなく調理すること材料を調達すること全てが修行となる。そのため食材を大事に扱うことや味付けに至るまで現在の著者の食に対する考えの根源となっています。しかしそのことが窮屈な感じがせず、それどころかのびのびと食べること調理することを楽しんでいるように思えるのです。
畑で採れたものを食べるということは土を食べるのと同様のことであるということ。最近では「旨味=甘味」という公式がはびこっており、美味であることを表わす表現が全て「甘い」となっていることが気になります。しかしここで語られる土からの食物は甘味だけでない様々な味が渾然となり、そこを楽しむ妙味が描かれます。何より著者が食を楽しんでいる様子が素敵です。
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水上勉が幼少の頃の寺暮らしを回顧しつつ、軽井沢の仕事場で一年、ぬく飯と家の畑で取れる季節の野菜、山菜、木の実などを様々に調理して味わうエッセイ。精進料理ということで、肉、魚の類はまったく登場しないにもかかわらず、その読むだに滋味豊かな食事は、四季をそれぞれに楽しみ、美味しさに溢れている。この歳になると、本当の豊かさとは、ぬく飯と四季折々の素朴な汁菜のことだと気がつくものだ。随所に引かれる『典座教訓』も滋味深い。
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スーパーで食材を揃えるのではなく、自然からもらったものをひと工夫して食しているエッセイ。梅干し一つにしてもバラエティ豊かな調理法があるのだなぁと新たな発見。
丁寧に調理する事で、素材本来を引き出す食べ方をできるようになりたいと感じる。