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読書と思索について、ショウペンハウエル先生のお説教ですが、意外と現在に通じるものがありとてもためになる。バカ出版社が悪書ばっか出してふざけんな!なんてことは、日本に限らずかつてのドイツにも言えたことなんだな、と思い知ったりもする。
ただし、ドイツ人は〜とか言葉を大事にせん輩は〜みたいな説教は勘弁。
本と関わる上の原則論として目を通しておきましょう。薄いのですぐに読みきれます。
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”読書は、他人にものを考えてもらうことである。本を読む我々は、他人の考えた過程を反復的にたどるにすぎない。”
”読書しているときは、われわれの脳はすでに自分の活動場所ではない。 それは他人の思想の戦場である。 "
”1日を多読に費やす勤勉な人間はしだいに自分でものを考える力を失ってゆく。 ”
”紙に書かれた思想は砂に残った歩行者の足跡以上のものではないのである。
歩行者のたどった道は見える。
だが歩行者がその途上で何を見たかを知るには、自分の目を用いなければならない。 ”
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ちょ〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜おもろい!!! この人おもろい!
彼はこう言ってる、「読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失っていく。」 ・・・どーよ? 「ものごとの真をちゃんと思索している人」とそうでない人の違いを上げ、そうでない人を徹底的にたたいている。苦笑
膨大な読書量をこなして調子に乗ってる人。ぜひ読んでください。苦笑
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「パレルガ・ウント・パラリーポメナ」の抄。辛辣だが鋭い分析。蔵書と知識の関係(P5)、著者の3タイプ論(P27)、著作の価値の基準(素材or形式)(P34)、文体論(P56)等々が出色。
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読書とは他人にものを考えてもらうことである。1日を多読に費やす勤勉な人間は次第に自分でものを考える力を失ってゆく。
表紙に書かれたこの文章がもう最高すぎていうことありません。読書を笑え。
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本を読むことについて考えさせる本。
1800年代に書かれた本ながら、言葉は本質をついており、本を読みすぎると自分でものを考えることができなくなることは共感。特に思索については、最も優れた論文だと思う。
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読むことに没頭したとき、そこにあるのは物である。物は提供される、すでにできあがった形で。そのとき、われわれは決して『物』を考えているわけではない。ただ物を見ているにすぎない。
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3月13日購入。3月15日読了
・読書とは結局他人の思考の道筋を辿り直しているだけである。・多読のしすぎは、自ら思考するということを阻む・世の中の大半の出版物は無駄なものである。・匿名による批判は人間として最低・夜のフクロウ(知の象徴)もびっくりして昼間に泣き叫ぶだろう(比喩)。読んだあとに考えないのは、食べても消化しないのと同じである。思索はいわば、風に操られる火である。学者とは書物を読破した人、思想家とは世界という書物を読破した人である。考えを書くことは重力に任せばよいが、書かれたものから読み取るのは難しい。考えがまとまっていればおのずと書ける、稚拙で劣悪、蒙昧難解な文を書くということは考えがない証左である。
若干、エリート主義っぽい筆致でしたが、先人の鋭利な寸言はとても含蓄があり味わい深い。美しくそれでいて毒めいた文章には畏怖の念を抱きます。岩波文庫を読むのはこれが始めてですが、比較的読みやすいのではないかと思います。何よりも、今から200年近く前の書物が現代の社会でも通用する考えをもっているということに驚嘆しました。やはり、こういう本こそが、ショウペンハウエルのいう読むべき本なのでしょう。
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読書は古書に限る、といったことを200年前からいっている。確かにそう思う。時間は限られているのだから、よく読み、よく考えたい。
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読書とは他人に物を考えてもらうことであり、熱心すぎる読書家は、思索家、本質的な意味での哲学者になり得ない、と説く。
東洋でいえば「学びて思わざれば」という所。
ショーペンハウアーにとって「大学の文献学者」が哲学者の系譜を名乗り、過去の思索を再解釈して並べなおしたものを彼らの哲学の成果とする事に、並々ならない嫌悪感を抱いており、そうした感覚から産まれた著作なのかもしれない。
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とりあえず著者は天才なるものを信じていて、かつつまらない本ばかりが出版されていることをとても怒ってらっしゃる。インターネットを使っている人間には、この本の中の、匿名で意見を書くことについての主張にはそこまで言わないでも、と思ってしまうかも。
曖昧で読者に深遠な解釈を求めさせるような文を書くなというのにはそうだなーと思った。でも全体的に昔の人の文章だと思う。「talented」という英語も一般的になってしまったし。
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”読書とは他人に考えてもらうことだ”とすることがテーマのようです。だから、読書ばかりに人生を費やしてはならず、自分の頭で考えることが大切であると。
だからといって、読書をしなくていいわけではありません。
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時折読み返したい、読書についての箴言集。時代は変わっても、紙が電子に変わっても、結局「情報」を吟味するのは人。著者は読書において、情報に振り回されることなく、いかに自分の思索を深められるかが重要だと説く。彼は19世紀ドイツの文章の乱れや、それについて問題意識のない著作家らを痛烈に批判する。かの国において多くの人が、身近な「売文屋」が垂れ流す文体、文法を無批判に受け入れる。「新刊」だけに飛びつき、古典には見向きもしない。その果てにあるものは思考、思想の脆弱だと。まるで自分の国について言われているようだ。「…怒りを欠く者は知性を欠く。知性は必ずある種の『鋭さ』を生む」(p.124)。いまの日本で、「怒っている」人はどれくらいいるだろうか。まずはわが身を省みることにしよう。
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多読は他人の思想を受け入れるばかりで、自分の思想が育たないので避けるべきだ。
最近の文章は、文法すら間違ったものが多い。と辛辣に批判。やたら紙面を割いているようにも読めますが。
ショウペンハウエルも多読してたんじゃない?
古人の良い本を読みましょう。最近の人が古人の文章の評論を読むのはアホみたいだ。
自分の本当の思想を書かれた書を読みましょう。お金儲けのために本を出すのは、読者をバカにしている。
ほぅほぅ
厭世論のショウペンハウエルが書かれたものでした。
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思わずはっとされられた本
ショウペンハウエルは読書とは他人にものを考えてもらうことだと言う。
本を読んでいる間は自分で考えると言うことをいなくなるため、
勤勉に読書を続けるものはいずれ自分でものを考える力を失っていく。
それよりも少なくてもいいから少量の本を読み、それについて自分なりの思索を重ねていくことのほうがより重要である。
ただし、彼はこうも言う。
真の意味で思索のできる人というのは限られている。また思索できる人でも泉のごとく思索が続けられるわけではない。そんな時には良書と呼ばれる本を読むべきだ。
そして、現在(彼の生きていた時代1788‐1860)には巷には悪書が良書を駆逐するかのように読まれていることに警鐘を鳴らす。
人はみな、新しいものばかりに眼が行き、本当によいとされるものを読まない。
これは現代にも言えることではないだろうか。
彼の鋭い視点には非常に驚かされる。
本を書く人に対する批判も鋭い
著作家には二つのタイプがある。事柄そのもののために書く者と、書くために書く者である。
『著作と文体』の中では匿名で批評する者へ卑劣漢と呼び批判している。
2ちゃんねるなどを見たらショウペンハウエルはなんと言って驚くだろうか。
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彼の格言
学者とは書物を読破したもの、思想家、天才とは人類の蒙をひらき、その全身を促す者で、世界という書物を読破したものである。
無知は富と結びついて始めて人間の品位を落とす。
良書を読むための条件は、悪書を読まないことである。人生は短く、時間と力には限りがあるからである。
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自分に当てはまる部分などを戒めたいと思った。
本が好きな人、本を書いてる人はぜひ一読あれ