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2017/01/02 20:35
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投稿者:はるにゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
最初は、タイトルが、とても可愛らしくて、読んでいたのですが、花に興味が湧いて、夢中になっていました…!(*^^*)
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日本の花の流れを理解する必要があると思って、池坊の入門書を読んで見た。
やはり、池坊の基本は、「立華」だ。これは、日本の独特の型であり、そこから全てが始まっているような気がする。
本書は、「立華は、550年あまりむかしに始まった池坊の根幹をなす姿であり、かっては立花(たてはな)と言われていた。立華はいけばなとして理想の姿であり、日本文化の一つとして魅力的な様式である。立華は仏前の供華からはじまった。日本では、古来から自然の中にある草木には神が宿ると尊ばれており、仏様には花を供えることも、ごく自然な行為だった」という。
1460年代、室町時代半ば、六角堂執行池坊専慶が菊をいけたことから始まる。六角堂は生花発祥の地とされる。京都市三条にある紫雲山頂法寺の六角堂は、聖徳太子が如意輪観音を安置するために作った。池坊はその中の坊の一つだった。鎌倉時代には、親鸞が比叡山から六角堂へ100日参りをして、観音のお告げによって悟りを開き、浄土真宗を開いた。池坊の立華は、六角堂の代々の執行が観音信仰のもとに、公家や武士、町の人々の間に広めたもの。
『花王以来の花伝書』(1468年)が立華が成立する様子が書かれている。池坊専応による『専応口伝書』(1542年)は、池坊の精神を表すものとなり、池坊いけばな成立の書となっている。草木の一枝一葉を生かし、草木の自然、出生を生かそうとしている。一般に流布したものに『仙伝抄』がある。『仙伝抄』は、富阿弥が伝え、池坊専慈が相伝したもの。
初代池坊専好は、信長の時代から慶長の頃まで活躍する。秀吉が毛利邸へ招かれた時に、座敷飾りをした。二代目専好は、1615〜1658年の約40年間に、立華を完成した。徳川時代になっていて、後水尾帝の花会に専好が招かれた。その後立華は、脈々と続いている。
家元制を作るためには、ルールがいる。それは言葉が専門用語化される。
立華は、真の用い方で、直真、除真、砂の物があり、それぞれ真、行、草があり、九つの形になる。
伝承の立華の習物7ケ条。昇り胴大遣いの活用、下段大遣いの活用、すすき一葉、大内見越の活用、高請、二枚大葉の活用、谷草の活用。立華19ケ条は、モティーフを的確に表現するという。実に、具体的で細かい。枝の方向さえも決める。ちょっと、読みながら、息がつまりそうである。
技巧を感じさせず、草木の自然を演じると言いながら、植物の形を決めるので、その花材を探すのが大変だと思う。自然とは形が決まっていないものであるが、形にこだわる。それが、商売のタネにもなっている。門下生は、その言葉を覚えないといっていることがわからなくなる。
華道の古典では三木(さんぼく)がマツ、イブキ、ヒノキだった。それは入手が困難であり、草物主体となる。でも時代が大きく変わってきた。池坊の花を飾るとなると掛け軸のかかる床の間がいる。それがなくなった。花も和物から洋物が増えた。それに、池坊が対応せざるを得なくなってきている。現代の立華を活けるためには、モダンさ、風情、シンプル、新しい表現にチャレンジ、狭い空間を生かす、手早く活ける、というようになる。花瓶から立ち上がるところが、ピシッと決まっているのが美しく見え、空間をどう占拠するかなのだね。
まぁ。掲載されている画像を見て、美しくいけているが、説明が難しすぎる。池坊への道は遠いのである。