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恥ずかしながらマックスウェーバーの著書を読むのが初めて。だけど至るところで引用される社会学の父の考えをもっと知りたい。
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ウェーバーの講演。ドイツとアメリカの大学教師の待遇の差異からはじめ、学者としての適性(没個性的に専門に埋没せよ)が語られ、大学教員のキャリアが僥倖に支配されていることを指摘する。学問の使命として、「真理への道」「神への道」などが消滅したあと、責任ある行動をさせるように自ら考える人間を育てることだと説かれる。現代の大学にもタレント教員がおり、ザッヘに埋没していないことが却って持てはやされている場合があるが、こうした風潮に対しても示唆に富み、かつ教育論・学問論としても読めるものである。ただし、当時の学生が教師ではなく指導者をもとめ、事実のかわりに世界観をもとめているという指摘はなかなか分かりずらい時代の雰囲気というものであり、何か具体的な例があれば分かりやすかったであろう。もっともウェーバーは当時の学生を相手に講演しているのだから、書かなかったのもやむをえないのだが。
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「第一次大戦後の混迷のドイツ。青年たちは事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、教師のかわりに指導者を欲した。学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で、ウェーバーはこうした風潮を鍛えられるべき弱さだと批判し、『日々の仕事(ザッヘ)に帰れ』と彼らを叱咤する。それは聴衆に『脅かすような』印象を与えたという。」
全体的に戒め感が強いのは、やはり当時の世相と聴衆に拠っているのだろう。無骨なまでの一意専心を主張するあたりがドイツっぽい。
講演中では既に学問の高度専門化を話題としているが、その先にある学際性ということまでは出てこない。やはり専門性を極めてこその学際性ということなのだろうか。
神との関係において学問を論じているところは、イメージが掴めずよくわからなかった。
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ヴェーバーがこの講義をした時代背景というのが、この本を読む上でとても重要になってくる。時代病に流されるのではなく、指導者を探すのでもない。「日々の仕事に帰れ」というメッセージはわからないながらも胸に突き刺さった。
理想ばかりを追い求めていてもしょうがない、自分が今できることを精一杯やるべきである。
原文訳を読んだだけではさっぱりわからなかったというのが本音。「職業としての政治」よりもさらに難解にみえるようなっていた。なので、最後に書かれていた訳者あとがきや序のおかげでわたしはレビューを書けるのだと言ってもおかしくないです。それくらい読んでる最中はさっぱりだった。
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いみじくも学問を志そうと欲するものは、何かの理想を思い描いてる暇があればザッヘ(仕事)へ帰れ!
学問とは、この世の真理をつまびらかにしてくれるわけではない。なぜなら、この世が存在するに足るものかという前提において、学問は何らの解答も用意できないからである。ならば現在において、学問とはどのような意味を持っているのか。なんてことをね。トルストイの人生の解釈が大変興味深かった。
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著者の主張
?経済的意味の職業、生計を立てるための学問の現状。
?学問にたいして教師および研究者がとるべき心構えについて。
?教師の本分や義務。
この本は学問を職業とする教師や研究者についての記述である。僭越であるが大学で学問をしている一学生としてレビューを試みたい。
私がこの本を購入する際に期待していた「大学生として学問にどのように取り組むべきか」との問いへの直接的な見解は述べられていなかった。 しかし間接的ではあるが、学問への取り組み方への重要なヒントが得られた点で☆四つ分の評価をする。
確かに学生の視点から、?にある当時のドイツにおける私講師から教授への昇進方法、ドイツ、アメリカ間の昇進方法の比較などは学生の立場からは役に立つものではなかった。
しかし?での「学問に生きるものは、一人自己の専門に閉じこもることによってのみ、自分はここにのちのちまで残るような仕事を達成したという、おそらく生涯に二度とは味われぬであろうような深い喜びを感じることができる」といった細分化された研究領域における専門性の重要性。「一般に思いつきというものは、人が精出して仕事をしているときにかぎってあらわれる」その専門分野で一流になるために必要な「思いつき」を得る方法。これらの教授や研究者だけでなく学生にも共通する学問の方向性は非常に参考になる。
?での「およそいかなる人生問題についても『指導者』であることを許されていないということ、を忘れておられる」当時のドイツで多くの学生が求めた悪く言うと扇動的な教授への戒め。それに対する「この男は僕に彼の知識や方法を僕のお父さんのお金と引き換えに売っているのだ」という純粋に知識の享受のみを求める当時のアメリカ人学生の考え。これらの記述から現在授業を行っている教授を客観視し、主体的に知識や立場形成をしていく必要性を感じた。
以上学生として現状に活かされた点。
雄一
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学者になるために必要なのは、情熱と運です。
ということはともかくとして、前提がまっさらな状態では社会学の研究は進められません。
もちろん、自分の価値観をダイレクトに反映させてそれを押すのはどうかと思いますが
たとえ直接的に表現していなくても、研究者は必ず何らかのメッセージを有しているのです。
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マックス・ウェーバーが講演にて論じた、学問を職業として行う事、をまとめたもの。
学問を何のためにすべきか、それは学問自身のためである、と説く。そして、学者としての側面とともに教育者としての側面も必要とされてくる。
さらに、教育者としての側面は定量化できるものではない。
学問を職業とするには、並大抵のことではないのだ。
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2009年10月3日
学問→客観性の提示。事実的関連の自覚・認識。
それによる人類の合理性の追求の一助となること。
個人に対しては、事象や他者の行為を予測できる。物の考え方の訓練となる。
価値の判断、目的の評価はしない。
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「こんにちなにか実際に学問上の仕事を完成したという誇りは、ひとり自己の専門に閉じこもることによってのみ得られる」
てのはなるほどな、と思いましたヨ。
ドイツの学者さんのお話だけど、日本の学術界にもいえるんじゃなかろかな。
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今の状況にあてはめてどうかなというところはあるけど、おおむね今でも通用する職業倫理かなとは思ったし、学生側としても耳の痛い話はいくつかあったと思う。
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「もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、他の神には侮辱を与えることになる」
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彼の言いたいことはやはりシンプル
ただ、話し方は非常に複雑
それは役者も行っている通りなんだけど、読めば読むほどそう感じる
あえて、一番気になった部分は、
噛み砕くと、良い教授(研究者)と良い教師は別と言ってた箇所
大学の教授~~、もっと授業なんとかしてくれ~~~
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【内容】
第1次大戦後の混迷のドイツ。
青年たちは事実のかわりに世界観を、認識のかわりに体験を、教師のかわりに指導者を欲した。
学問と政策の峻別を説くこの名高い講演で、ウェーバー(1864‐1920)はこうした風潮を鍛えらるべき弱さだと批判し、「日々の仕事(ザッヘ)に帰れ」と彼らを叱咤する。
それは聴衆に「脅かすような」印象を与えたという。
(以上、アマゾンより引用)
【感想】
今でも問うべきところが多い本であることに、間違いはない。
学生はもちろんだが、中高で教師をやっている人も是非読んで欲しい本であろう。
教師は政治的指導者ではなく、学問を単純に教えるべき存在であり、自らの政治的意見や主観から自由でなければならないということは、今でこそ肝に銘じるべきではないだろうか。
またインターネットでも政治的に偏向した意見が散見されるが、もし彼らが学生であるならば、本来的に学生の本分に戻るべきであろう。
社会科学的事実は、道徳や政治的倫理的主観や価値から自由でなければならないということも説かれている。
学問とは本来的にそういうものであるということは、云うまでもないし、むしろそうあるべきである。
むやみな理想や世界観を描く前に、事実や現実を見据え、粛々と学問に携わるべきである、それが学生のあるべき姿だ。と、単純な主張で片付けることも出来るが、むしろ真っ当であるがゆえに、見落としていることもある。
だからこそ説得力を持つのであり、気づかされることもある。
マックス・ヴェーバーの著作は二つ目であるけども、「云われてみれば確かにそうだ。」と思わされることが多い。
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難しかった。けれども、生徒の前に立つ者としての公正な態度、学問そのものについて、が書かれてある。
わかりにくかった点もあり。