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僕がこの著者を知ったのは、テレビタックルというテレビ番組で、ホリエモンやひろゆきと意見をぶつけている姿を見た時で、この著者の発言がまったく意味が分からず、見た目も含めて気持ち悪いと思ってしまったが、逆に興味を持ってしまった。気持ち悪いけど、何か自分と近いものも持っている気持ち悪い人。同類相哀れむ。作品でリア充について語る様は気持ち悪い。研究と言いながら、資料は少なく、主観がほとんど。読むだけ時間の無駄なので、健康な人は読んじゃだめ。サブカル系の人でも、この本に時間を使うなら、他の本に時間使ったほうがいい。でもなんか、気持ち悪さが好きな本。
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意識高い系について話す本
まとめ方が下手すぎる。要素の選び方も下手で土着性などは作者が今コンプレックスに思っているだけでは。それを抽象化してまとめるべき。
このテーマで別の人が書いてほしい
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戦争や政治に対して意識が高い人を「意識高い系」と揶揄する風潮に疑問を感じていたので、タイトルから気になって読んでみた。本書ではきちんと「意識高い系」(系は「もどき」)と政治に対して「意識が高い人」を区別しており、やはり政治に対して関心を持つ人を「意識高い系」と揶揄する風潮は、政治に関心を持たない人々が「私意識高い系じゃないから(笑)」と自己を肯定し思考停止するための言葉として使われているのではないかと考えた。
抽象的で多幸的な言説を善とする意識高い系は、具体的でグロテスクな欲望を避けるために「高次の大義」を掲げがちであり、それはかつて戦争に突き進んでいった「高次の大義」(ex.「アーリア人の生活圏の拡大」「エチオピアの文明化」etc.)を思い出させるという筆者の指摘は私をゾッとさせるものであった。
「おわりに」でも筆者が書いていたように、この本全体からリア充への羨望とそれをはるかに上回る憎しみがふつふつと感じられ、筆者ほどではないもののリア充に劣等感を抱いてきた私は共感しながら楽しく読めた。
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「意識高い系」の人たちを嫌っているにもかかわらず、筆者は自分が「意識高い系」の特徴を有していることを認めている。
筆者の考える「意識高い系」の人たちの特徴や、あるいは、背景になることは以下の通りだ。
■「意識高い系」の人たちは、中学・高校時代に、スクールカーストの最上層に入れなかった人たちである。最下層というわけではなく、第二階層にいた人が多い
■スクールカーストの支配階級は、地元に根付いている人たちで、親にそれなりの経済的な余裕がある人たちである。社交性、また、何よりも容姿が優れていることが条件である。これを「リア充」と呼ぶ
■「意識高い系」の人たちは、スクールカーストに苦い経験を持っているが、支配階級を追い抜くことは出来ないと考えている。生まれや容姿は生まれつきのものだから
■地方の「意識高い系」の人たちにとっての希望は、大都市での「大学デビュー」である。ここでのリセットを夢見るが、現実は甘くない。大都市の大学にも、地元出身の「リア充」が大勢いるからだ
■「意識高い系」の人たちの何よりの望みは、他人の承認・称賛だ。だから、都会的な生活の見せびらかし等をSNSに投稿し、承認・称賛を得ようとする
■本来、学校で真面目に勉強するとか、仕事を頑張るとかの努力によって、世の中で認められる方法がオーソドックスなのであるが、「意識高い系」の人たちは、そういった地道な努力を怠っている
というのが、私が理解した本書の内容である。
今の若い人たちは、本当にこのような仕組みの中を生きているのだろうか。世代が違い過ぎて実際のところどうなのかは分からないのであるが、でも、もしこれが本当のことなのであれば、随分と生きにくい青春時代を送っているな、と同情する。
筆者は、自分も「意識高い系」の上記の特徴を持っていることを自覚しているが、「でも自分は努力をするのだ」ということを、本書の中で宣言している。
しかし、若い人が「努力をする」ということは、当たり前のことではないのか。わざわざ宣言しないと努力にたどり着かないというのも、かなり、しんどい話ではある。