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2018年18冊目。(再読)
〉2018年17冊目。
〉読み始めてすぐに心臓がばくばくし、読み終えてすぐに「もう一度読まねば」と急き立てられた。
の通り、初読の直後にもう一度読んだ。思うところが多すぎて、それでもまだうまくまとまらない。長く付き合うことになる一冊。
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2018年17冊目。
読み始めてすぐに心臓がばくばくし、読み終えてすぐに「もう一度読まねば」と急き立てられた。
近年悶々と考えていたことが、物凄い密度の言葉で語られていた。
言葉の力が強過ぎて、「陶酔して盲目にならぬよう、気をつけて読まねば」とも思うくらいに。
流入する難民、異なる人種、性的マイノリティ...
制度化・内面化された「基準」とは異質とみなされる者たちへの「憎しみ」は、どのように生まれるのか。
著者は、「憎しみ」は個人的で偶然の産物ではなく、集合的・歴史的に形成されてきたイデオロギーという下地の上に生まれるものだととらえている。
侮辱に用いられる概念や、レッテルを貼るのに用いられる知覚パターンは、歴史の中で繰り返され、固定化され、再生産されてきた。
だからこそ、憎しみに駆られた個人を断罪する以上に(それが必要な場面もあるが)、その裏にあるメカニズムを正確にとらえよう、と主張する。
第一部の「可視 - 不可視」では、マイノリティの立場にある者たちが排除されるプロセスを、
①一人ひとりの個性が見過ごされ(不可視化)
②過度に一般化した集団として作り上げられる(可視化)
と分析している。
続く第二部「均一 - 自然 - 純粋」では、差別をする側の立場の者たちが利用する3つのモチーフが語られる。
それぞれに共通するのは、ファナティスト(狂信者)たちが重要視するものは「一義性」だということ。
「異質」「敵」「虚偽」な者たちを想定し、それを排斥することを前提として、純化した共同体を作ろうとしていること。
純化された狂信的な教義に、別の純化された狂信的な教義で対抗してはいけない、と著者は語る。
こちらまで狭義的にならず、多様で不純なものを受け入れる姿勢を貫くこと。
その想いは、サブタイトルにも表れている。
...
「憎しみ」とは、一つの誘惑だと感じる。
「憎しみ」は、不明瞭な個人を明瞭に見ようとする労を省いてくれる。
単純化したレッテルを貼り、疎外すべき集団として単純化・明瞭化してくれる。
不明瞭な事態に対する忍耐力として「ネガティブ・ケイパビリティ」という概念がある。
決して分かりやすくはない多様なものを受け入れる力として、それがいま強く求められている気がする。
不正なことに対して、「それは不正だ」と反対の声をあげることはとても重要。
そして、それを信念を持って表現している著者への敬意を強く感じる。
同時に、その声のあげ方一つで、お互いの考える正義感の衝突が強まり、分断がより深くなってしまうこともあるのでは、という懸念もある。
そうした分断のしわ寄せは、まさに守りたかったはずの社会的弱者たちに押し寄せる。
マイノリティに対して憎しみを抱く側も、憎しみを抱く者たちに反対の声をあげる側も、ネガティブ・ケイパビリティを失わず、自分たちの見方に常に考慮の余地を持っておくことを忘れてはいけないと思う。
確かに「人権を守る」ということは普遍化してきた概念で譲歩できないことでもあるのだけど、相対している者たちとの接触の中では、「自分の考えは常に暫定的である」という自覚を持ち、お互いに想像を広げていく余地は持たなければ、建設的な対話は生まれないと感じる。
頑なな正義の押し付けが、必ずしも不正を正してくれるとは限らない。
ある意味で、正義感は常に不安定でなければならないのかもしれない。
「憎しみに抗う」気持ちが高じ過ぎて、「憎む者たちへの憎しみ」に陥らぬよう、安直な正義に頼りすぎず、分かりやすさに逃げず。
そんな自戒を持ちつつ、この本は繰り返し何度も読みたいし、読んでみて欲しい人たちが多い。
まだ日本で訳されていなかったこの著者の本を出版してくれたことに感謝。
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2016年にドイツで出版された本書。ドイツをはじめとして欧米で、ここ最近表向きに発せられるようになった、「懸念」や「憎しみ」に対する、理性的で力強い反論。
冒頭は詩的・抽象的に始まるが、中盤のクラウスニッツでの難民バス襲撃の事件や、アメリカでの警察官による黒人男性の暴行死の事件から、個人ではなく集団を憎しみさげずむ感情・行為に社会がうまく立ち向かえていないことを読者に痛烈に実感させる。
基本的に全て欧米の事例だけれど、今日の日本にも当てはまることがあまりにも多いと感じました。夫婦別姓であったり、LGBTであったり、生活保護であったり、外国人労働者であったり、それらへの日本社会の大きな不寛容。そういったいわば「少数者」の存在が自分の生活に何ら悪影響を及ぼすものではないにもかかわらず、懸念や憎しみを平気で表明する。訳者あとがきでもあるように、自分が少数派という立場になるまで、圧倒的に力のある多数派であることは自然には感じられないものなのかなぁと思います。それでも、自分がその少数派の立場であったら、という想像を働かせて、それぞれの人が窮屈さをできるだけ覚えずに暮らせるような思いやりのある社会にしていきたい、そのように感じることができました。
多くの方にぜひ読んでほしい、そして読んで感じたことを周りの人たちに共有してほしい、そんな1冊です。借りて読みましたが、家に一冊置いておきたいな。
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自分が傷つけられたことには意識的である。反対に人を傷つけたことには、気がついていないのだろう。多分、これまで、何気なく人を傷つけきたのだろう。
多数派である限り気がつくことができない。さまざまな人がいる。よく対話をすることなくして、安易な思い込みでの発言や、軽はずみな発言は控えなければならない。
自分が自分らしく自由にいられるためには、ひとが傷つかないように気遣う必要がある。
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世に蔓延る差別に対する指南書
多様性なんて言葉が流行りとして使われてるうちはダメなんだろうなぁ
そして皆にこの本をお勧めしたいが、まず読むのが(内容的にも)面倒くさいと感じるであろうと察するので、まずはその面倒くささを取っ払う活動しようっと
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主にドイツにおける移民への排外的・攻撃的な風潮を扱っており、それらに対して静かに、かつ断固とした批判を向けている。また、そうした風潮の背景にある要因や構造、人を「憎む」という行為はどのような行為なのかといった考察は刺激的で、日本の「右傾化」を考える際の示唆を得られる。訳者によるあとがきもよい。
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移民排斥運動、IS、黒人差別、性的マイノリティ差別等を題材に「憎しみ」の構造を解き明かす、という本なのだけど…。
「私たちの星で」の信仰の変容の話がまだ心にあって、もうちょっと追っていきたいと思って読んだのだがなんだか毛色が違った。
構造を解き明かす、その構造はともかくだ。本書のようにその構造をもって「差別主義者」を非難するというなら話はかなり変わる。
排斥される側の人間が、一人の人間として見られていない、その地位を回復したいというのなら、排斥する側の人間とて「構造」に押し込めて「差別主義者」「原理主義者」として糾弾するというのはやってはいけないでしょう。まさにそれは本書で解説されている人間性の排除、差別と排斥の構造なのだから。
まして、排斥する人間たちが感じているのは恐怖であり、攻撃されていると考えているのだから、実際に排斥される側から反撃されることでその信条がどうなるかというのは考えればわかりそうなものだ。反撃は正しいけれど、効果的ではない。反撃こそ、彼らの信条を石に変じてしまう。
こちらを人間として扱わせるためには、徹頭徹尾相手を人間として向き合わねばならぬのではと思う。行いによって糾弾すべきとエムケは言うが、私は逆だと思う。行いによって裁くのは法の論理であって、人間として向き合うための論理ではない。
「憎しみに立ち向かうただひとつの方法は、憎む者たちに欠けている姿勢をとることだ」と言うけれど、それは彼らを構造に当てはめるためではなく、非難するためでもなく、人間同士としてかれを理解するためであるべきだと思う。それこそが、一筋の疑いを持って憎しみを穿つすべなのでは。結局排斥される側からそうせねばならないのはあまりに過酷でむごいのだが…。反撃ではなく、表明、手を広げて見せること、相手の人間性を信じるという絶望的な戦い。「今日で終わりにしよう」と言って命を落としたガーナーの姿が多くの人々の心を打ったのは、そういう姿勢があったからなのではないか。
イスラームの基本的な教義に対する理解がないままISに言及してるのも気になる。入門みたいなのでいいから一冊くらい読んで書いて欲しい。そうであればこんなこと書かないだろうな、という文章だ。
「人権」、民主主義、政教分離、そういったものを普遍的法則とか真理と臆面なく言い放つのには驚きしかない。その反証がこの現状でしょう。
「文化的な習慣を維持する権利が人権に優先されることがあってはならない。」それって、どこで線引きをするの?誰が、どんな基準で?これはそんな簡単に言える問題なの?
全ての信仰や信条が共存すべきとうたいながら、エムケが「似非宗教的理想」「人種差別者」と書く時、驚くほど排斥的なのには気が付いているのだろうか。そういう人格を消し去られ「レッテルを張られた人々」は、どこへいくのか?
民主主義、共存社会は今こうした挑戦によって限界に突き当たっている。消し去れない排斥的な思考、宗教すら内包して成熟していくことはできるのかという課題。そいった視点なく、かれらを糾弾するだけでは決して解決しえない課題だ。
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マジョリティにとって「正しい」信仰や経歴、性。それらから逸脱するものは、正しさを掲げるものには耐え得ない。方向性を与えられていない思索を試みるべきだと著者は言う。
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ドイツクラウスニッツに到着した難民達のバス、アメリカニューヨーク州スタテンアイランドで脱税たばこを売っていたと疑われて警官に取り囲まれたエリックガーナー、共に一方的な他者の憎しみが描かれている。バスの中の難民一人一人の境遇があるにも関わらずな難民として不可視な存在として全てを排除しようとしているのである。かたや黒人というだけで常に恐怖の一旦として疑われ、警察に取り囲まれ命を落としてしまった彼は本当に言葉で言い表すことができない。
偏った見方をしてしまうアメリカ国内の歴史もあるのだと思うが、現代でまだ起こりうる、起こり続けているこれらの問題に対して個人個人がよく考えて行動をしていくしかないのかなと思いながら読みました。
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全体的に当たり前のことを書いているだけなんだけど、具体性と詳細さで細やかな部分まで主張を伝えてくる。当たり前のことに詳細に気づくことの難しさを感じるし、そういうことをきめ細やかに内省させてくれる。そして自分で気づき続けなくてはならないことを教えられる。のだが、こういう本を読む人にはたぶん少なからずその土壌がある。この本に手が伸びない人に、どうやって伝えていくかを考えると気が遠くなるとも思った。
イスラム教徒を差別することがISの理想(ある限られたイスラム教徒のみを認める過激な信条、ヨーロッパの二分化)を叶える方向に作用するという説明はなるほどと思った。
多様性のなかにいると落ち着く。それはつまり、他者(不純なもの)の個人が守られているということであり、自分にとって異質なものもまた、自分を安心させるものであるということ。文化的、宗教的なものと世俗的な社会との摩擦に普遍的な公式はなく、つど具体的に観察して慎重に考察する。という言葉にハッとした。
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やっと読めた。
半分くらいから、頭に入ってこなくてつらかった。
なぜだろう...
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憎しみに憎しみで返すのでなく、
なぜそうなっているのか前提や状況に知ろうとすること。
人種、マイノリティ差別がテーマだけど、
日々の周りの人への憎しみへの心構えとしても参考になるもの
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差別について、違う表現方法で同じことが繰り返し繰り返し書かれている。
ジャーナリストであり、同性愛者である作者。「駅で拍手をしたことが一度もなくても、私は軽蔑される人間たちのひとりなのである。私の愛し方ゆえに。考え方、書き方ゆえに」という一文が印象に残った。
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15… 憎しみの効果、「憎しみにさらされる人間をまずは苛立たせ、それから戸惑わせ、最後には信頼を奪う」。それに立ち向かう姿勢は、「正確に観察すること、差異を明確にし、自分を疑うのを決してやめないこと」