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投稿者:ナナカマド - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトルから、
庶民の目で見た西南戦争について書かれた本だと思って購入。
実際は「西南戦争の頃」を起点とした、
庶民の近代史の本でした。
思っていた内容とは違いましたが、
とても良かったです。
もっと歴史を勉強したいし、
しなければならない、
という気持ちになりました。
聞き書き中心のこの本の中、
二作だけ創作が加えられていて、
その創作がまたとても良いのです。
高かったですが、
買って良かったです。
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【わし共(どま)、西郷戦争ちゅうぞ。十年戦争ともな(※明治十年/1877年)。一の谷の熊谷さんと敦盛さんの戦さは昔話にきいとったが、実地に見たのは西郷戦争が初めてじゃったげな。それからちゅうもん、ひっつけひっつけ戦があって、日清・日露・満州事変から、今度(こんだ)の戦争―。西郷戦争は、思えば世の中の展(ひら)くる初めになったなあ。わしゃ、西郷戦争の年、親たちが逃げとった山の穴で生まれたげなばい】(P7)
日本最後の内乱、西南戦争を知る地元の老人たちに聞いた聞き語り。
著者が話を聞いた相手は、
西南役からアメリカがアポロの打ち上げを行った時代まで生きた老人、亭主に嫁入りして八十年の老女、乞食非人出身のじょろり(浄瑠璃)御前。
(1877年(明治10年)西南役
1956年(昭和31年)水俣病公式確認
1969年(昭和44年)アポロ11号により史上初の月面着陸
…の時代を生きた)
そして彼らの語りや残された資料から辿る不知火地方の歴史。島原の乱から、「うまく踏めなければ子供さえ牢に繋がれた」踏絵の時代、そして一揆を起こして処刑、遠島にされた村人たち。
老人たちの方言での語りの合間に顔を出す著者の真摯な言葉。
【老百姓達が、支配権力を語る時、なぜこうも、民話ふうに語れるのか。】(P9)
【目に一丁字もない人間が、この世をどう見ているか、それが大切である。権威も肩書も地位もないただの人間がこの世の仕組みの最初のひとりであるから、と思えた。それを百年分くらい知りたい。それくらいあれば、一人の人間を軸とした家と村と都市と、その時代がわかる手がかりがつくだろう。そういう人間に百年前を思い出してもらうには、西南役が思い出しやすいだろう。始めたときそう思っていた。それは伝説の形であるだろう。たとえば天草の乱の底などに流れている「隠れ」の思想が現代ではどうなっているか。「伝説」から読み解けないであろうか。そのほの見える入口に立ったかと思う。】(P278)
老人たちの語る西南役では、戦に巻き込まれ、無理やり兵役に取られ、親家族と死に別れ…しかし彼らにとってこれが日常、生きるには強かさをも持ち合わせる。
【上が弱うなって貰わにゃ、百姓ん世はあけん。戦争しちゃ上が替り替りして、ほんによかった。今度(こんだ)の戦争じゃあんた、わが田になったで。おもいもせんことじゃった。】(P9)
戦争の地元を生きる農民たちの日常。
官軍から徴兵令が出たが、変わったばかりの天皇さんと言われてのピンと来ない、四十四艘の船に繋がれて官軍に合流するその途中で四十艘までが逃げ帰ってきた。
闘いの合間に、山に逃げたおかみさんたちが隠し持っていた食糧で弁当を作り、官軍に売りに行ったが、東京の巡査たちと九州の百姓たちのの貨幣価値が違い、たいそうな儲けとなった。ためしに山をくれと願ってみたら、案外叶ってしまって、しかし山の分け方には苦心した。
【椎山の側にある切り立った高獄から、追いつめられた賊軍が何十人と墜死した。いくさが済んだ後、『あんまり幽霊が出て困った』ので、村人たちは骨を拾い、寄墓を作ってやった。ながい間人も寄りつかぬまま、ラッパや、袖布らしのが、高獄の崖の枝に、雨晒しになったまま、老人達が、幼い頃まで引っかかっていた、高獄を今は妄霊嶽(もれだけ)とよんでいる】(P11)
【変わらんものは『剣付き鉄砲そうら豆』じゃ。ケンツキデッポウソウラマメとは、十年のいくさの時の亡霊の言葉でござす。はい、官と賊とが斬り合うて死んで、いくさの通った筋には、亡霊達が、夜さりになると迷うて出て、やっぱり官と賊とにわかれて泣きながら喧嘩する。賊の亡霊が、
『けんつきでっぽう―』
と恨むと、官の亡霊が、
『そうらまめえ―』
と馬鹿にして恨み返す。薩摩の方ではいくさの所帯が立たずに、鉛弾どころか、そら豆をば弾の替わりに使いよったそうなで。
ひとたび仇になりあえば九生までも仇のまんま、亡霊になってからも泣いて恨み申す】(P41)
【寿命で死ねば阿弥陀様が引き取ってやらすが、戦で死ねば未来に引き取り手もなかもんを。】(P44)
彼らには日本の政権の変更も噂程度でしか知らない。
西郷さんが新しい天皇さんに物申そうとしたらしい…。
熊本城の御一新の時の殿さまは知らんが、清正公は知っている。
【お前さまは、御一新ちゅうても知っとるかえ。
今じゃどこにゆこうがはいと言う言葉ひとつ持ってゆけば、上下なしに世の中を通られるが、十年のいくさの前頃までは、『はい』が通らん世の中でやしたで。
ただただこらえておるばっかりに、はいと言うても、それが通らん世でやした。侍の組共が、いざと言えば斬るぞ斬るぞと言う風で。】(P25)
【ここの村は、耶蘇教のいくさ(※島原の乱)にも遭わん村じゃったが、村中の働き手をさらってゆかれてみると、苗字のなか者の世がくるちゅうても、お上がくるちゅうても、お上と言うものがあるかぎり、取り立ててることばっかり。御一新とはどがな世が来ると心配しとったら、案のごとく人を奪(と)ってゆかいた。
(…)
侍衆のいくさなら、さむらい同士だけで片付けてよかりそうなもんを、罪とがもなか刀も持たん者共を、なぜ奪ってゆかいたろうかい】(P34)
そんな”御一新”の時代の変化で「侍も、名字のなか者共もひとしなみになる噂」があった。
しかし百姓たちが庄屋殿にご馳走に呼ばれてみれば、肥桶、肥柄杓をあらったもんに酒を入れたものを出され【お前ら平民共も、名字を名乗ってよかごとなるちゅうていばってみよるが、元はと言えばおまえどもはこの、肥柄杓や肥えタゴとおんなじ身分の、どん百姓ぞ、よかか、洗うても肥桶は肥桶ぞ】(P28)などと言われる。
そして不知火の生活は漁と共にある。
【畑仕事と漁師仕事を務め、だんだん船長の次の「表づり」になりやした。
表づりになるには漁の腕と、船頭と紀子たちとの間にもめごとが起き兄用に、舳に立って海のメントをらを見て、羅針盤より上の役目をつとめねばならん、表づりの目の行く方に船は従っていく、
(…)
ひとさまの命をば預かり申していて、それば見えずに嵐の中にでも連れ込めば、乗り組みぜんぶ死なせてしまうことになる】(P53~)
老人たちの語りはさらに時代をさかのぼる。
熊本の農民たちは、島原の乱により幕府直轄地となった百姓たちが土地替え令により移転して住み着いた。
島原の乱とは武士にとってはそれまでの武士足軽相手の戦という概念とは全く違うものだったのだ。武器すら碌に持たない女子供に百姓漁師たちを一人も余さず殲滅した勝ち戦では勝鬨をあげる気にはならなかったのだろう。
そして島原の乱の後幕府から遣わされた代官も、島民のあまりの惨状に心を打たれたか、命を懸けて幕府への年貢軽減を訴える。
【この島には、為政者たちのいわゆる徳政を促してやまぬものが具わっていたらしい】(P180)
作者は、処刑された一揆の首謀者の家はどうなったのか、遠島になったものたちはどう生きたのかの記録を探してゆく。
【犬養(※記者として同行した犬養毅)が、いや、もし生きて増田栄太郎がふたたび九重山系を巡って帰郷したならば、阿蘇連山に向かい合いながら二十の峠あたりから沸蓋山(わいた)、久住山をめぐって息を呑むほどに凄絶妖麗に、九州の春梁を成している大高原の秋をどのように見たことでしょう。敵方をして神色自若たりと云わしめて首打たれた青年は、その最後の姿においてこの大乱の風土を背景としつつ、色の深い詩藻をそこに創り出しています。
(…)
この山筋の人々が、なにかは知らねど馬上姿の増田を立派な人と見、水俣の百姓たちが、西郷生存を信じていたのは、なんのゆえであろうとわたしは考え始めるのです。「まあよしとしましょう」と云った増田の最後の言葉はそれが伝聞であるにしても事を起こそうとして焉ったものの、苦みを含んだ言葉にも聞こえます。それは何であったのか、南小国や筋湯の人たちの話を増田に聞かせ、その感想を聞きたい誘惑にかられます。】(P228)
島原の乱の後、天草は幕府直轄地になった、そして命令により別の地へ開拓のため移住する。
狭くても先祖の土地から離れた百姓たちは、また新たな土地の”土に惚れて”住み着く。
【きつかったともきつかったとも。百姓の体は苦労でしか成らんでや。そいでも地(じだ)に惚れてなあ、地に惚れたばっかいで、ここの地に居ついてしもうた】(P144)
【天草の親々の代には天下さまの勢いじゃった。ここの薩摩に来てみれば、薩摩の殿様の勢いじゃ。けれどもちらちらこの頃聞くところでは、その薩摩さまの天下も、この頃では天皇さまちゅうひとに降参しやったそうじゃ。殿さま同士は降参しやったが、家来に降参せん衆がおって、その旗頭がここの薩摩では、西郷どんというおひとじゃそうな。
(…)
さあなあ、薩摩の殿さまは薩摩で一番えらかおひとじゃ、天皇さまちゅうお人は日本の国でいちばんえらかおひとじゃちゅうても、日本の国というのはどういう国じゃやら、薩摩の国でさえ、生きておる間に廻りもこなさぬものを、日本がどこにあるやら、どのようになっておるやら、天下さまと天皇さまと入れ替わいやったというても、一向になあ、あたいどんの知り申さん、上々の話の事じゃ】(P74)
西南戦争の後を生きる者たち。
侍組の株を売り、娘を遊郭に売った家はその後没落した。売られた娘は遊郭で客に噛みつき暴れて追い出され、”色じんけい殿”(神経殿は精神を��ったもの)として村々をそして山々を彷徨う。
西南の役の最中に親と死に別れた娘は、親から教わった”河原じょろり(浄瑠璃)”で身を立て、のちに一緒になった亭主は獄門首を処理する家の出だった。
西南役に参加し、投獄され国に帰った後、日清戦争にも徴収され、そして静かに枯れて行った者もいる。
【ごく希に人は生涯のある時期、自分自身を充填して爆ぜねばならぬ時がある。それが発火したにもかかわらず、不発に終わったときはどうするか。そのようなとき、残余の生命が未だ死なない本能で秘かに何かを営むとする。その魂の内側と外側で、営みを促すのはなんであろうか。】(P270)
【死者と生者がむきあって、ふっと呼吸を躱すような気配の中に、あたしは引き入れられ、そのようにして引き継がれて行く時間の連続の中に、這入りこんだような気がした。】(P276)
老百姓たちの語りは、明治10年の西南役から明治27年(1894年)の日清戦争の時代へ。
西南役の調整を免れても、日清戦争では徴兵された息子を泣きながら見送る老人、そして地元の百姓の間では、西郷隆盛は城山では死なず、中国に渡り、日清・日露戦争の時に日本軍の参謀として出没して危機を救ったのだと信じていた。
さらに時を経て水俣に日本窒素が建ち、奇病が出る。
漁民たちが窒素の工場に船を並べて抗議に向かった姿は、昔の合戦を思わせるようだったという。
【ああたの生まれなはるちょっと前くらいには、この山の迫(さこ)にゃあ、ぞろんこぞろんこ、子連れ狐のおって、人間見ても逃げはしませんでしたよ。まあ、知り合いのようなもんで。あの衆(し)たちが居らん今は、味のなか世の中でございますなあ】(P286)
そういう者たちを残して世界は近代化してゆく。
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西郷好きの私はこのタイトルに惹かれて読み始めたが、思いがけない世界に深く引きずりこまれた。
宮本常一の「忘れられた日本人」に連なる我々の根っこに触れた感覚。
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天草四郎の乱
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弘化の一揆
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天草から北薩への移民
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西郷さんのいくさ
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太平洋戦争
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水俣事件
これらを一本の糸に縒り合せて現出させる、本作の野心は恐るべきもの。
小説の体裁としては「苦海浄土」が成し遂げたような、寸鉄を打ち込む隙も無い完璧さには至らないが、体裁が整わないが故の異様な迫力がある。
再読を己に課したい。
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石牟礼道子の代表作といえば苦海浄土だが、まだ読んだことがない。
実は彼女の最高傑作だと思っているのは、町田康の「告白」の解説である。
そんな邪な読者の私が実際に彼女の本を読んでみた。
うーん、ヌルい宮本常一かな。文学に流されすぎだ。最初からこれは文学だと言ってしまえばそうだけどさ。
だけれどもそれは水俣病に対してはどうなのさ。
どうなのさと言われれば、私はそれで良いと思う。
人間の悲惨さは、結局は文学に回収するしかない。
そう思ったとき、私が連想したのは莫言の蛙鳴である。「一人っ子政策」と簡単に言うが、そこにあったのは一人ひとりの人間と人生を押しつぶす経験である。月並みな言い方をすれば声なき声と言っても良い。
それは、文学でしか表現することができない。一人の経験を想像力を使って万人の経験に昇華するものが文学だろ。
だとすれば、石牟礼道子はマジックリアリズムかもしれない。かなりそんな感じだ。
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苦海浄土をまたぐようにして書き継がれたそう。島原の乱から西南戦争そして水俣病
これが我々の来し方かもしれないが、自分はそこからなんと遠いところに生きているのだろう。でも、こうして読んでいて感じるところがあるのだから縁が途切れてしまっているわけでもないのかな
天草はもう40年近く訪れていない。ただの海水浴でいいからまた行ってみたいものだ
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島原の乱について書かれた「春の城」がおもしろかった。それと似た感じかと思って読み始めたので、しばらくはついて行くのがつらかった。水俣病について書かれた「苦界浄土」に近いと言えるだろうか。聞き書きである。熊本のことばである。ところが次第にそれが心地良くなっていく。読める。「にき」(そば)ということばが何度か登場する。それで思い出した。「ねき」ということばを子どものころ使っていたと思う。まあ、親が使っていたのを聞いて知っていたというくらいか。すっかり忘れていた。こうして言葉は移ろっていく。1960年代に聞き書きをされている。当時、100歳に近いような老人から聞かれている。したがって、明治維新や西南の役が身近にあるわけだ。それが、親から聞かされた話というような形であったとしても。時代が変わっても、農民の暮らしがそんなに大きく変わるわけではない。将軍だろうが、天皇だろうが、どんな人かもまったく知らない。誰が上にいようと、自分たちの日々の暮らしはそうそう変わらない。そんな中で、いわゆる隠れキリシタンの人々の村で、村民がまるごと殺されている。その状況が克明に描写されている。「そうすると切り口から血柱の空に向けち、さあーっとふきあがって。」強烈な印象を受ける。刀を振り下ろすのは非人であった。(「血柱」と検索すると「血栓」と出て来る。バカにされている気がする。)遊郭に売られて神経を患って、しんけい殿になってしまったおえんしゃまと犬の五郎との話もなかなかいい。これは実はフィクションであったと「あとがき」に書かれている。
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侍も、苗字のなか者共もひとしなみになるちゅう噂は本当らしゅうもあった。どこらあたりの庄屋殿じゃったろうかな、こういう噂がながれてきた。一日、村の人間を集めてご馳走する、といわるげな。その庄屋殿の家のにわに、今まで使いよった肥桶と肥柄杓がきれいに洗いおさめてある。その洗い上げた肥桶になみなみと酒をいっぱい入れてあるちゅう。それから洗った肥柄杓で湯呑に酒をついで、「一統づれよう来て呉れた。今日はご馳走するぞ。何ば遠慮するか、さあ呑め」と配ってまわる。「呑まれんかのう。呑まれんじゃろうのう。やっぱりそうじゃろうとも。お前共平民も、苗字を名乗ってよかごとなるちゅうて威張ってみよるが、元はと言えばおまえどもはこの、肥柄杓や肥タゴと同じ身分の、どん百姓ぞ。よかか、洗うても肥桶は肥桶ぞ」