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教育に関する議論の大枠が時系列で捉えられた。日本の教育論争にはデータに基づいた議論が欠如しているという指摘には大いに賛成。また今後広がっていくであろう教育行政に対する政策評価の話も興味深い。
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教育について論じるというと、えてして「ロマン主義」が入り込んでしまい、人材としての価値の付加、教育そのものにかかるコストなどを論じることを避けて、データをもとにしたまともな議論が成立しないと指摘するのは説得力あり。しかもその文科省が著者には望みようもない何億という費用をかけて大規模な調査をしながらそのデータを生かさず、官僚主義そのものの無謬性にとらわれて行き当たりばったりな弥縫策を重ねていく愚かしさ。責任者(寺脇研)出て来いっ。辞めたからって関係なくなったわけじゃないだろっ。
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観念論に終始しないためにも必読の一冊に入るのではないでしょうか。
非常に論理的に実証的に議論を行っています。
途中、自慢話っぽいところがあるのが残念ではありますが、それはインタビューの問題かも。
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[ 内容 ]
「ゆとり」か「詰め込み」か―いつまで二項対立の愚を繰り返すのか?
いつまで「左右対立」の図式に乗るのか?
観念論を排しデータに基づく政策科学を志す、まったく新しい教育論。
[ 目次 ]
序 教育の論じ方を変える
第1部 学力低下論争の次に来るもの(もう、学力論争は終わった 一九九九年風は「ゆとり教育」のほうに吹いていた ほか)
第2部 なぜ教育論争は不毛なのか―メディア篇(独立行政法人化報道に欠ける「そもそも論」 消費される「動機理解」の事件報道 ほか)
第3部 なぜ教育論争は不毛なのか―行政・政治篇(「学習指導要領」の方針大転換 教育改革国民会議を読み解く ほか)
終章 隠された「新しい対立軸」をあぶり出す(なぜ「階層化」が問題だったのか なぜ「子ども中心主義」教育が問題なのか ほか)
[ POP ]
[ おすすめ度 ]
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[ 関連図書 ]
[ 参考となる書評 ]
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こういう議論をもっと聞きたいと思える本でした。
思うところがたくさんあったので,後ほどまとめようかと思います。
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1990年代末からの教育論争(ゆとり→格差問題)を概観するのに良かったです。
もちろん、その論争に加わった一論者としての苅谷先生の立ち位置(ていうか苅谷先生の活動記録的な本だし)からのものでしかありませんが。
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教育を議論していく際に考えさせられる内容の一冊。
観念論や理想論、単純な二項対立に陥りやすいのが「教育」。
ただ、それに待ったをかけているのが著者。
これを読むと、今までの教育論争がいかに不毛なのかまさにわかる。
タイトル通り。
教育を扱った議論に違和感を感じたら読むといいかも。
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最初の方は面白いのだけど、途中から同じ事に繰り返しになるのが残念。本の性質上、仕方が無いのかもしれないけれど。
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中村忠一氏と違い戦後生まれの新進気鋭の教育学者。文科省のゆとり教育の問題点を指摘していますが、議論がなぜ不毛になってしまっているのか、ゆとり教育の誤りを反省していない文科省を批判しているのですが、タイトルの意味(なぜ不毛か?)ではやや分かりづらかったように思います。東大の教育学者が一番社会科学に関係深い人達が多く、従って教育を改革するべきであると問題意識がある、しかし、「東大」であるがゆえに、学力低下を言いづらいというパラドックスは確かにそのとおりで皮肉を感じました。
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教育論議に組み込まれず、教育の見方や論じ方を批判する本。実態把握と制度の評価によって教育理想が掲揚できる。
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2003年刊。
「階層化日本と教育危機」の著者を規準点とし、1999年頃から2003年くらいまでの教育界の変遷を叙述したものである。また、彼の教育時評も含んでいる。
個人的には著者の論考に共感を覚えることが多いのだが、その理由が判った。
著者は本書にて、自分の立脚点に関し、「『どうもおかしい』と感じつつ、明確に把握できない問題、予想できない結果を生みだす問題を見つけ出し、それに表現を与え、可及的に実証的な研究成果を用いて解明する」主旨で、説明を加えていく。
そして、ここでいう実証的成果とは、証拠・データに他ならないが、この姿勢に共感を感じるのだろう。
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刈谷先生の著書は教育問題を勉強する際に、何をおいても読むべきと考えている。
当時は、東大の教授をされており、文科省とは切っても切れない関係であったであろうことは想像に難くない。
しかし、例のゆとり教育論争では、文科省を正しい方向へ導く力にはあまりなれなかったようである。
学者らしく、きちんと論議を分けて展開しており、ロジカルでわかりやすい。
また、ごく当たり前の論理を冷静に記しており(たとえば歴史教科書問題など)、もっと教育行政に反映させるべき人物であると思われるが、文科省としては都合が悪いらしい。
最近、教育現場ではアクティブラーニングが大流行である。子供の学ぶ意欲も含めて違いがあるのに、一つの方法ですべてが解決するがごとくの言説は、ゆとり教育論争から変わっていない。この流行の兆しが見られる今だからこそ、読み直されるべき書物であろう。
最近の文科省の教育に対する考え方は、常軌を逸している年か思えない。
小学生から英語だ、プログラミングだと新規の科目を入れておいて、先生は増やさない授業時間も増やさないと来ている。私は情報教育にも関心があり、生徒や学生にも教えることがあるが、情報の教育がほぼ必修されてから、大学生がどうなったかといえば、恐ろしいほどのスキルの差を生み出しただけだった。今はエクセルだとかパワーポイントでお絵かきlevelであるので実害はないが、プログラミングであればアレルギーを大量に生み出す危険がある。そもそも教師自身のITスキルが、一般企業のサラリーマンに比べても恐ろしく低いことを文科省は把握していない。ピアノが弾けない人にピアノを弾く楽しさを教えられない、運動音痴の先生がスポーツの楽しさを教えられないのと一緒である。
これを読めば、教育の地盤沈下をさせているのは文科省とその取り巻きのえせ教育学者であることがよくわかると思います